津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

サイクリング

2008-10-02 21:42:59 | 徒然
 昨日の図書館行きで、どうやら自転車の遠出に自信がついて、今日は早速本妙寺近くまでサイクリング。片道約45分、涼しい風が気持ち良い。県道河内線は急な坂道である。用心して300mほどは自転車を押して上る。目的地で写真撮影やら測量めいた事をして終了。帰りは楽ちんちんである。九州新幹線工事や、熊本城監物台櫓(?)などの進捗状況などをチェックしながら帰路につく。往復14~5㌔といった所だろうか、まずは快適にご帰還と相成った。
 腰のほうはといえば、車の運転や、姿勢を悪くしてのタイピング作業などが、どうも宜しくない。腰折れ爺様は願い下げだから、大いに運動をして爽やかな秋を満喫したいものだ。次は鶴屋デパートで催されている、「古書籍即売展」(10/1~10/7)に出かけなければ成らない。
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荒木・細田系図-- 3

2008-10-02 17:56:55 | 歴史
 私が以外に思っているのは、「細田政之允儀実者田中文左衛門子ニ而御座候栖隠養子ニ仕候文左衛門ハ右荒木十次郎甥ニ而 御座候母方之名字ニ改申候文左衛門母者吉田三位 兼治公之御姫ニ而御座候」という部分である。
 
 実は細川家には近江水口五万石城主・長束(水口)大蔵大輔正家を祖とする田中家がある。長束正家は豊臣家五奉行の一人、関原において西軍につき自刃した。その初代が半左衛門である。
 我が「新・細川家侍帳」では、次のように紹介している。
【水口在城の折り細川藤孝の孫(徳雲院)を娶る。のちその故をもって忠興に召抱えられ知行五百石。室・徳雲院は藤孝女伊也の女。伊也ははじめ一色義有に嫁ぎ、義有歿後吉田兼治に嫁ぐ。徳雲院は兼治の女、半左衛門は兼治の婿。】

 荒木文左衛門の父・克之は、系図の書き込みによると、後田中半左衛門と名乗ったとある。長束氏・田中家に養子として入ったという事だろうか。そのような記載はないが間違いないのではないか。荒木村重の孫・栖隠こと七蔵(左馬之介)は、思いがけない養母の罪に連座して不遇をかこつ事になるが、一族は婚姻を通じて細川家に繋がっている。
 谷内蔵允の養子となった三郎についても、「君命」によるとされている。
別流荒木善兵衛と共に、細川家の荒木氏に対する「御懇意」振りが見て取れる。



 
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荒木・細田系図-- 2

2008-10-02 11:53:59 | 歴史
  【細田家先祖附】
            百五拾石 細田七蔵
一、先祖荒木攝津守初之名者源助与申候 河内國之
   城主ニ而塩川主膳妹婿ニ而御座候 秀吉公
   播州尼崎御出陣之節罷越於彼地病死仕候
一、高祖父荒木十次郎攝津守嫡子ニ而御座候攝津守
   病死以後浪人ニ而京都ニ居申候内御家御代々
   御懇意被仰付候由
一、曽祖父荒木七蔵儀
   妙解院様以御懇意被仰立
   大猷院様御代被召出以其節細田左馬助与
   御改被成候其以後様子御座候而御奉公御断申上候処
   御家御懇意之筋目ニ而御合力五拾人扶持被為
   拝領置後ニ細田栖隠与相改於江戸病死仕候
一、初代
   祖父細田政之允儀実者田中文左衛門子ニ而御座候
   栖隠養子ニ仕候文左衛門ハ右荒木十次郎甥ニ而
   御座候母方之名字ニ改申候文左衛門母者吉田三位
   兼治公之御姫ニ而御座候政之允儀延宝七年十月
   御児故障ニ被召出天和二年前髪御執被成御小姓役
   被召加元禄四年新知弐百石被為拝領同十三年
   御小姓之組脇役被仰付御役料百石被為拝領同
   十四年六月座配御鉄炮弐拾挺頭被仰付御役料
   御加増被置被拝領候

            以下略

   【様子御座候而】
 荒木左馬助ハ攝津守村重の孫ニて、父ハ新五郎と申候、左馬助幼少にて親ニ離れ、浅野但馬守殿江罷在候へ共、御直参を願ニ而京都に居住、烏丸光広卿前廉村重と御入魂の訳を以江戸に被召連、光尚君へ被仰談候、則忠利君より被仰立、公儀江被召出候、其比御城女中あらきと申人子無之ゆへ左馬助を養子可仕旨上意有之、親類ニ而も無之候へとも上意ゆへ親子のむすひいたし候、然処右之女中故有て今度流罪被仰付候間、左馬助も其儘被差置かたく御預ニ成、後熊本ニて果候           (綿孝輯録)

  (寛永廿一年)五月十日御老中より之奉書)
 一筆申入候、荒木左馬助事、母不届有之付、其方へ被成御預候間、其国可被指置候、扶持方等之儀委細留守居之者迄可相達候、恐々謹言
     五月十日               阿部対馬守
                          阿部豊後守
   細川肥後守殿              松平伊豆守
                                     (綿考輯録・巻六十一)

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荒木・細田系図-- 1

2008-10-02 10:03:03 | 歴史
 宮村典太の「雑撰禄」にある荒木攝津守村重を祖とする、荒木家(善兵衛系)細田家の系図を眺めていたら、以外な事が分かってきた。特に細田家系図が面白い。予備知識として「細川家家臣--細田(荒木)氏」を御覧いただきたいが、荒木家は村重の子・善兵衛を初代とし、細田家は村重の孫・七蔵(左馬助)の子・政之允(歿後養子)を初代とする。二家の系図はいささか内容を異にしている。

【荒木家系図】
  荒木村重---+--村正
          |
          +--新五郎---+--又兵衛---弥助
          |        |
          |        +--左馬助
          |
          +--善兵衛・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→(肥後・荒木家)

【細田家系図】
                       十次郎・左馬介(細田姓)
  荒木村重---+--十次郎---+--村完(梄隠)===(三郎)===政之允・・・・・→(肥後・細田家)
          |        |                   養子:田中文左衛門子梶之介
          |        +--弥助
          |
          +--村勝-----+--克之--+--女子(梄隠妻)
                    |      |
                    |      +--村長(田中文左衛門)---梶之介(為栖隠養子)
                    |      |
                    |      +--彌平
                    |      |
                    |      +--三郎(谷内蔵允養子・権右衛門)
                    +--女子
                    |
                    +--玄春
                    |
                    +--忠次郎

 小さな字で書き込まれていて一部判読不明だが、大変興味深い記述がある。
克之:権右衛門■室ハ吉田三位左兵衛佐兼治卿ノ娘實長束三郎助信郷娘也 信郷後改田中半左衛門ト号ス 信郷室ハ吉田兼治ノ女 兼治ノ室ハ幽齋公第六ノ姫御名伊也 始メ一色左兵衛義有ニ嫁セラレ後為吉田兼治ノ室 克之幼少板倉重勝侯ニ仕又有馬玄蕃頭殿ニ仕立退其後忠利公ニ奉仕重勝侯之■■■之以故御家ヲ退キ隠遁
            意味不明であるが、何度読んでも読みに間違いはない。
三郎:幼名ノ■ヨリ細田栖隠ニ養育セラレ後栖隠ノ為養子細田ノ名蹟ヲ継 明暦三年児小姓ニ被召出其後依君命谷内蔵允為養子家名ヲ継 今又■ヲ捨谷氏ノ養子タランコトヲ堅リ奉辞■■■栖隠養子ハ同氏文左衛門一子梶之介ヲ以テ可被立旨厳命重キニ因テ遂ニ三郎谷氏之為養子谷■谷権右衛門ト改栖隠ハ尚先規之御合力被下置延宝三年六月病死■■■延宝七年十月梶之介ヲ児小姓ニ召出再栖隠名跡ヲ被立下細田政之允村賢ト改 

  
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