津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

うっかり孫右衛門

2008-10-30 20:06:04 | 歴史
 寛文12年12月13日、新坪井弐丁目の質屋・油屋藤兵衛の所に、細川左京殿足軽田尻庄兵衛の父親・孫左衛門が、自分の帯を質に入れた。年末のこととて物入りであったのだろう。処がこれが期日の内に請け出されず質流れと成った。職人町の惣右衛門という人が、これを買い取り、着物の襟にしようと帯をほどいたのだろうか、中を見ると「切支丹之事を書申たる反故(ほご)」が表れお届けに及ぶ。当然のことながら孫左衛門は捕らえられ、御吟味の上その「反故」とともに長崎へ送られた。

 これは「熊本藩の文書管理」の「坤御櫓入目録根帳」(p193)に登場する。
「其帯之がわと中ごに成候縞之きれと此文箱ニ入置由之文箱壱ツ」とある。
当然孫左衛門は罪を得たのだろうが、下手をすると死罪で有ったかもしれない。
職人町の惣右衛門さんの着物のエリはどうなったのだろう?

 細川左京殿とは忠利の三男・尚房のことであろう。新知二万石。松之介、左京、修理(亮)、尚良などと称した。室は松井寄之女・万である。息・尚方に継嗣がなく絶家となった。

 それにしても、こんな大事な物を忘れてしまうとは、うっかりは命取りである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

避難は水前寺へ

2008-10-30 16:58:50 | 歴史
 「熊本藩の文書管理」を読んでいると、それは色々な文書の所在を表す索引みたいなものだが、それだけでも中々興味深いものがある。

 花畑屋敷にお住まいの姫様方は、近所が火事になるとどうやら水前寺のお茶屋にお逃げになるらしい。(p167)
■御花畑御近所若火事之節 富姫様水前寺御茶屋江被遊 御退候節之御行列札渡之帳一冊
  但享保元年十二月と在之
 富姫とは細川宣紀の娘、「享保元年十月朔日熊本ニテ生ル。同三年四月十二日夭ス。年三。
  熊本西福寺ニ葬ル。臨泉院翠山珠光」細川宗孝の同母姉である

■右同 御末様右同断札渡之帳一冊
  但正徳四年十一月と在之
 これも年代からすると宣紀の娘だと考えられるが、何方なのか分からない。

 全く別のところには、次のようなものがある。上記二件は「若しも」の話だが、これは実際あった話らしい。(p82)
■享保六年 花姫様 ねね姫様并おきわ殿水前寺 御茶屋江御退被成候節之御行列札相渡候帳一冊
 花姫とはこれも宣紀の娘で後に松平讃岐守に嫁いだ。享保五年二月生まれである。
 ねね(彌々)とは同じく宣紀の娘で後に宗対馬守に嫁いだ。享保五年七月生まれである。
 おきわとは乳人でもあろうか。


 実は熊本の城下では、宝永四年・五年と続けて大火に見舞われている。
宝永四年三月五日花畑屋敷のすぐ近所の、住江家を火元として侍屋敷78軒、町屋1036軒、寺院18ヶ寺が焼失した。宝永五年は三月十日坪井竹屋町から出火、1200軒ほどを焼いたと云われる。草場丁、広丁、水道丁などの道が広げられたのは、この火事によるとされる。
享保六年の火事とは、如何なるもので有ったのか資料を持たない。
享保十四年にはいわゆる「薮の内火事」と呼ばれる、千葉城の煙硝所から出火、1430軒ほどが焼失、細川内膳家や朽木家などが被害に有ったとされる。
火事の際の避難については、「御預人」等についてもこまやかな配慮が見て取れる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

史料纂集古記録編 通兄公記

2008-10-30 13:38:48 | 書籍・読書
 続群書類従完成会が発行してきた貴重な翻刻資料は、現在八木書店出版部が事業を継続している。私達はこれらの翻刻資料に親しんで、続群書類従完成会の崇高な出版理念に敬意を表さなければ成らない。
    みつえ
 久我通兄は細川重賢室由婦姫の父親である。

【右大臣従一位久我通兄(一七〇九-一七六一)の、享保九年(一七二四)から歿年に至るまでの日記を宮内庁書陵部所蔵の自筆原本によって翻刻する。通兄は通誠の孫にあたり、朝廷は中御門・桜町・桃園天皇の治世、幕府の将軍は吉宗・家重の時代にあたり、朝幕関係の良好な時期であった。通兄は議奏や武家伝奏として枢機に参画しており、記事には見るべきものが多いのが特色。】

通兄公記 8
〔収録範囲〕 1746〔延享3〕~1747〔延享4〕
○天皇御脱〓(尸+徙)の思召あり
○天皇譲位の叡慮を関白等に内々仰せらる、通兄等諌止し奉るも聞入れ給わず
○和歌当座御会通兄詠進す
○男俊通の石清水放生会進退につき一門の公卿と談じ教訓を加う
○通兄武家伝奏を辞せんとす、近年病身による
○天皇より武家伝奏辞退を慰諭せらる
○武家伝奏より御譲位御受禅の叡慮を所司代に伝う
○幕府御延引あるべしと奉答
○更めて来年立太子の上御譲位の事を仰せらる
○回峯千日行者大僧都正〓(行人偏+扁)参内拝謁御加持を奉仕す
○千日回峯行満願により綸旨を賜わる御礼参内
○通兄千日行者正〓(行人偏+扁)を招き女子を加持せしむ
○一族の宴に盲目法師を召し琵琶を弾ぜしむ
○天皇頃日御不予今日平常に復せしめ給う
○一昨年よりの江家次第会読終功につき饗宴を催す
○立太子節会
○飛鳥井家と不和の事天聴に達し和解せしめらる
○盲目法師を召し平家物語を謡わしむ
○多年懈怠なく勤仕神妙に思食す旨上皇より御書を以て通兄に仰下さる

通兄公記 9
〔収録範囲〕 1748〔延享5〕~1749〔寛延2〕
○通兄烏丸光栄に歌道入門す
○女子と細川重賢と婚姻の事を願申す
○三男忠丸の東久世家養子の事勅許
○勧進和歌の事により諸家を訪う
○久我惟通薨去
○上皇水左記以下の日記中不所持分を注進せしめらる
○内宮外宮の別宮山口祭等日時定
○地蔵像を板に彫り上皇手自ら摺らしめ給い希望者に頒ち賜う
○今春出生の女子を岩倉恒具の子となす
○冷泉両家近代不和の処和解
○下冷泉宗家上冷泉為村の弟子となる
○父惟通一周忌により今明両日清泉寺に於て法事を修す
○新御茶壷口切酒饌を賜わる
○通兄等年頭勅使として関東下向仰出さる
○女節子江戸下向のため発輿、熊本藩主細川重賢に嫁する迄の間その養母に引取らるるによる
○院住吉社御法楽和歌の添削を風早実績に請う
○村上天皇宸翰延喜式一巻を見せらる
○天皇に皇子降誕なき時は直仁親王継統の仰あり
○故院平常皇太后に継体に関し御物語の内容
○桜町院御葬送の儀
○通兄武家伝奏を免ぜらる

通兄公記 10
〔収録範囲〕 1750〔寛延3〕~1753〔宝暦3〕
○当道座来邸
○一条富子を女御となす御内意仰下さる
○二条城天守焼亡
○幕府女院(青綺門院)御領千石を増献
○徳禅寺に後醍醐帝乗御の輿を見る
○前将軍徳川吉宗重病につき内侍所御神楽を行わる
○吉宗を東叡山に葬送
○道元五百回遠忌法事執行
○久我晴通以来の墳墓は大徳寺中にあるもそれ以前は不明
○貞建親王発駕、将軍代替以後の儀
○菅原道真八百年忌により北野社万灯供あり
○報恩寺什宝虎の絵を見る、世に鳴虎と称す
○家伝の安摩面の辛櫃を開き拝見
○官本諸家伝書続のため延享以来の昇進の注進を求めらる
○久我長通四百回忌法会を清泉寺に修す
○京極阿弥陀寺三万日回向の間の怪異
○中院通枝危篤、嗣子なきにより通兄次男惟孝を養子にせんとす
○領所河内産の水仙花を献上
○上冷泉為村より曩祖俊成卿五百五十回忌勧進和歌を所望せらる
○定家卿自筆公卿補任は具定卿の母は俊成卿女に非ず
○今度大歌の儀再興



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする