津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

「松江城秘録」から、立允死去後の八代の事

2008-10-28 08:47:33 | 歴史
 三齋が溺愛した四男・立允(立孝)は正保二年閏五月十一日に死去した。三十一歳。
細川忠利は立孝をして、八代六万石の立藩を考えていた事は、9/25のブログ『幻の「八代細川藩六万石」』でご紹介した。その忠利はすでにない。立允の死後凡そ半年後三齋も亡くなる訳だが、立允死去直後の本藩の意向が伺える文書が次のものである。

   太守へ用之儀にて飛脚を指下し申候間令啓上候 閏五月十三日之御状拝見
   仕候 今度中務殿御遠行跡之儀萬事堀田加賀守殿御談合之上事済、公儀少
   も御気遣なく相済候由目出度存候 八代之沙汰いか様ニ候との儀伊良子喜
   左衛門ニ坂崎内膳正常ニ申付置候間いよヽヽ八代之様子立聞を替候て早飛
   脚を以可申上之由被仰之通■届候 則内膳正ニ申渡候処ニ伊良子喜左衛門
   彼地ニ罷在色々立聞申候へとも替沙汰も無御座候 中務殿御死去以後両度
   其元へ御飛脚被遣之由申候 今迄ハ少も相替儀無御座候弥承届少成共替儀
   御座候ハヽ早々可申上候 御ろうもうニて只今被仰出候をも其まて御失念
   参中務殿の儀も煩いかヽなとヽ于今被仰候由申候 六月二日信長様之御志
   有之ニ付而金西堂被召寄被参候處ニ金西堂とハ何者ニて候哉と仰しばらく
   御しあんにて御前へ御よひ被成御振舞御座候由被申候 二日之朝ハ御長者
   ■■御ちいさ刀二て御寺へ御参被成ありヽヽ敷御セうこうあそはされ無残
   所御ようたい之由金西堂被申候 惣而中務殿御果候儀此以後申遣間敷由被
   仰出候ニ付金西堂も中務殿之儀者不申出之由被申候 金西堂八代より被罷
   帰佐渡守物語被仕候 今度中務殿御煩之由殊外御情出之由八代ニ而何もの
   取沙汰二而御座候由、伊良子申候 此節相替儀無御座候 此段太守へ可被
   仰候 恐惶謹言
       六月六日           沢村宇右衛門
                      長岡佐渡守
         阮西堂様
            以上
    猶々在郷被仕居候衆又ハ當分知行所へ参被居候衆候て被罷出御見廻可被
    申上候已上
コメント
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