津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

進捗率25%

2008-10-03 17:41:48 | 徒然
 「旧陪臣代数及原禄根帳」について、進捗状況のお尋ねがありあわてて取り掛かったが、約110ページほどをタイピングしなければならないので、遅々として進まない。一つは腰痛が原因であることを、言い訳として言っておかなければならない。本当のことを言うと、単なる名前の羅列だから面白い作業でないことがある。(文章だと良いのだが)自分が好きでやり出した事だから、泣き言も言えない。そろそろ出来上がった分だけでもUPしようかと思っている。今月一杯には何とか完了させたいと思っているのだが・・・
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細川家家臣・谷氏 -2

2008-10-03 17:09:07 | 歴史
 細川家家臣谷氏の祖は谷衝友である。
【永禄六年美濃國に生る。豊臣秀吉に仕へ。天正十六年従五位下出羽守。慶長五年、石田三成の催促に應じ丹後田邊城を攻む。ひそかに城内に内應し、戦後、幽齋父子の言上により本領を安堵され、丹波山家一萬六千石。寛永四年十二月二拾三日歿。年六五。】

 忠興は衝友と大変親しく、五男衝長を細川家に召し出すとともに、衝友亡き後の谷家の将来に付いて何かと心配りをしている。

 初代・内蔵之允・衝長
     (1)「源」頭衆 千五百石  (於豊前小倉御侍帳)
     (2)千五百石  (肥後御入国宿割帳)
     (3)人持衆、番頭并組外衆 千五百石 寛永九年~寛文二年閏四月 番頭
     (4)千五百石  (真源院様御代御侍免撫帳)

   ■消息:寛永七年二月十六日書状(大日本近世史料・細川家史料 9-355)
       忠利→三齋(貴田権内)宛書状抜粋
     尚々、恵光院(三淵好重室)娘縁之儀、船中にて被仰聞候つる、右馬助
    (三淵重政)・頼母(有吉立道)夫婦相談仕、申上(候脱)へと申候へハ、
     谷出羽(衝友)子内蔵丞(衝長)望申候間、則申渡候、已上

   ■消息:寛永七年四月廿七日「日帳」 (福岡県史・近世資料編 細川小倉藩・二)
     谷内蔵丞殿へ、左馬助(三渕重政)殿御妹子、今夜祝言有之事
                
 二代・権右衛門(養子 実・細田清印子) 
      御番頭・備前組 千五百石 (御侍帳・元禄五年比カ)
        寛文十一年~延宝元年 中小姓頭
        延宝元年十二月~元禄二年十二月 小姓頭
        元禄二年十二月~元禄十年 番頭
        元禄十年 ~宝永二年十二月 佐敷番頭

 二代権右衛門は、荒木系細田氏の家系図によると荒木村重の孫とされる。細田本家栖隠(左馬之助)に養育され養子となったが、「厳命」により谷家の養子となったとされる。
またその父親は、克之(村重息・村勝の嫡男・・権右衛門)であるが、先のブログに書いたように、長束正家を祖とする田中平左衛門であると系図に書かれているが、未だ真偽の程は定かでない。関係資料の更なる読み込みをしなければ成らない。

 「細川家家臣-谷氏」については、2008/2/24に書いている。あわててタイトルに(-2)を入れた。10/4追記
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