津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

忠興の隠居と中津入り

2008-10-06 16:16:18 | 歴史
 元和六年閏十二月、「以之外ニ御煩被成候」忠興は、忠利に家督させ隠居する。定かな記録がないようだが、諸資料から閏十二月であると綿孝輯録編者・小野武次郎は断定している。忠利は七年正月七日「御家督之為御礼」登城している。
 元和七年四月十日吉田に在った三齋は、長岡式部少輔(興長)、小笠原民部少輔(長之カ)に宛て、中津城本丸・二の丸の間の堀を埋めて「家を立候ハんとおもひ候」として、種々の手配をしている。自分の居所がないからと、(志水)伯耆の家を明けさせ、伯耆に対しては小倉の屋敷に妻子を連れて引っ越すように、同様(志水)宗加の家も明けて、小倉の雅楽の元家に入るよう頼んでいる。
                     (綿孝輯録・第三巻-忠興公・下- p106~107)
 忠利が小倉に入城したのは、元和七年六月廿三日とされる。
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しばらくの我慢

2008-10-06 11:59:32 | 徒然
 最近我が家の周辺がうるさい。お隣のスーパーが店終いして数ヶ月が経過、マンションでも建つのかと心配していたら、某社が又スーパー経営をするらしい。ご丁寧なご挨拶があり工事が始まったのだが、鉄骨を残して裸にするように内外装が取り壊されていく。コンクリートの土間も一部はぎ起こされて、その作業で家が地震状態である。12月オープンの予定らしいが、二分で走りこめる所にこういうお店があることは、段々爺ばば度が加速する我々にとってはありがたいの一言である。ちょっとうるさいが、暫くの我慢である。
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江戸証人の始まり

2008-10-06 11:30:10 | 歴史
 徳川家に証人(人質)を差し出すようになったきっかけは、加賀前田利長の謀反の疑いに端を発している。慶長四年九月下旬、家康は石田三成が画策した「利長謀反」の噂をきびしく詰問した。当然細川家にも類が及び(嫡子忠隆室が利長妹)、種々弁明、十月廿四日付、幽齋玄旨、興元、松井康之が連名で誓詞を入れた。この節、「松井康之よりも証人松井与次郎光次を江戸江差上申候」としたことが、綿孝輯録で紹介されている。(巻十二--忠興公・一 p182)

 「家康公御喜悦被成、弥無二被思召候、尤向後加賀と御縁者振被成間敷仰候、御三男光千代君御証人として江戸へ被遣へきに極り候也」 前田家に対しても同様の措置がとられ、前田家からは忠隆に対して「御縁者振被成間敷」旨が伝えられた。又細川家同様、利長の母・芳春院が人質となって江戸に下る事になる。(同p183)

 石田三成の謀略を逆手にとっての、まさに家康の狸ぶりを髣髴とさせる事件である。
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