元和六年閏十二月、「以之外ニ御煩被成候」忠興は、忠利に家督させ隠居する。定かな記録がないようだが、諸資料から閏十二月であると綿孝輯録編者・小野武次郎は断定している。忠利は七年正月七日「御家督之為御礼」登城している。
元和七年四月十日吉田に在った三齋は、長岡式部少輔(興長)、小笠原民部少輔(長之カ)に宛て、中津城本丸・二の丸の間の堀を埋めて「家を立候ハんとおもひ候」として、種々の手配をしている。自分の居所がないからと、(志水)伯耆の家を明けさせ、伯耆に対しては小倉の屋敷に妻子を連れて引っ越すように、同様(志水)宗加の家も明けて、小倉の雅楽の元家に入るよう頼んでいる。
(綿孝輯録・第三巻-忠興公・下- p106~107)
忠利が小倉に入城したのは、元和七年六月廿三日とされる。
元和七年四月十日吉田に在った三齋は、長岡式部少輔(興長)、小笠原民部少輔(長之カ)に宛て、中津城本丸・二の丸の間の堀を埋めて「家を立候ハんとおもひ候」として、種々の手配をしている。自分の居所がないからと、(志水)伯耆の家を明けさせ、伯耆に対しては小倉の屋敷に妻子を連れて引っ越すように、同様(志水)宗加の家も明けて、小倉の雅楽の元家に入るよう頼んでいる。
(綿孝輯録・第三巻-忠興公・下- p106~107)
忠利が小倉に入城したのは、元和七年六月廿三日とされる。