津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

丹後神森城

2008-10-04 13:55:48 | 歴史
 又荒木家の話である。荒木村重は天正七年有岡城から退去する時、幼子・善兵衛を明智光秀の陣所に伴い、光秀の斡旋により細川忠興の許に託された。「丹後國神森之御城内」に召し置かれたと、善兵衛家の先祖附は記す。この神森の城というのが分からないでいる。何方かご存知の方はご示教いただきたい。
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将軍の手首

2008-10-04 13:39:37 | 歴史
 綿孝輯録に将軍足利義昭の薨去の記述があり、細川家家臣槙嶋云庵(玄蕃頭昭光)が、葬送のことを秀吉から託されたことが、次のように記されている。

「慶長二年八月廿八日一二七月廿八日昌山公(足利義昭)薨、六十一歳、秀吉公より、其旧臣槙嶋玄蕃頭昭光に命し、等持院に御葬送(略)」                         (綿孝輯録・巻五)

 この事を侍帳に書き込んでいない事に気づき、慌てて書き込んだ。
この時期云庵はどういう境遇であったのか定かでない。

 云庵昭光は将軍家執権職を勤め宇治槙嶋城主であった。
「天正元年七月将軍義昭公、信長との和順破れ、宇治槙嶋城に楯籠給う。玄蕃頭昭光、後秀吉、秀頼につかへ大阪にても無二の士なり、虚名を蒙り候へとも無程御赦免有之、大阪落城已後忍て豊前に来候間、忠興公より家康公に御断有て無役の知行千石被下、剃髪の名言庵と云」  (綿考輯録・巻二)


 Yahooトピックスを眺めていたら、まったく偶然表記の記事が目に入った。(全文引用)
 【足利将軍家の菩提(ぼだい)寺として知られる臨済宗・等持院(京都市北区)で、江戸時代初期に造られた室町幕府歴代将軍の木像の手首部分や刀の柄(つか)が相次いで盗まれていたことが3日、わかった。京都府警は窃盗事件として捜査しており、同寺は「目的は分からないが、許せない行為」と憤慨している。
 同寺などによると、境内の霊光殿で9月上旬、初代から15代まで並んで安置されている歴代将軍の木像のうち、尊氏像の左手首部分が取れてなくなっているのを関係者が発見。数日後には、13代義晴像の左手首部分も盗まれているのが確認された。
 さらに3代義満や8代義政など5体の木像で、腰に差してある刀の柄(つか)がなくなっていることも判明。いずれも被害時期は不明だという。(以下略)】

                「罰当たり者めが・・・」

 ちなみに云庵・槙嶋玄蕃頭昭光は正保三年正月廿日に亡くなった。行年110余歳。
熊本市横手の禅定寺にお墓がある。綿孝輯録は136歳と記している。
コメント (1)
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