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アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
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差別を差別と認めない―「福山市」と「NHK広島」は同根

2020年09月22日 | 朝鮮半島・在日コリアン差別と日本

    

 福山市在住の在日朝鮮人女性が風しん検査受診時に差別を受けた問題(8月11日、9月3日のブログ参照)。その後の経過が、ジャーナリストの乗松聡子氏のブログ(http://peacephilosophy.blogspot.com/。9月11日付)に掲載されています。

 それによると、受診時(7月25日)に差別発言・対応を行った医師は、2回目の「謝罪文」(9月2日付)を福山市の担当課を通じて被害者Yさんに渡しました。
 その内容は、「深く反省している」「認識の甘さ」「発言の重大さ」「傷つけ苦しめた」などという言葉を並べ、「どうぞご容赦下さいますようお願い申し上げます」と結んでいます。

 これに対しYさんは、今回も医師が「頑として差別をしたことを認めていない」ことを指摘。にもかかわらず医師が「謝罪」を繰り返したり「ご容赦下さい」などと言うのは、「私を責めているようにさえ感じる。率直に言うと、加害者の被害者化ではないか」と苦しい胸の内を明かしています。

 Yさんの怒り、悲嘆は当然です。本質問題を回避し続ける医師の釈明、そしてそれを通過させた福山市担当課は、Yさんに対する差別を上塗りし、二重三重の被害を与えてしまったと言わねばなりません。

 問題の本質は、差別を差別とはっきり認めることです。しかし、医師および福山市の「謝罪」にはそれが一貫してありません。自分が言ったこと行ったことが在日朝鮮人に対する差別であるという認識がありません。

 それは医師の今回の「謝罪文」が、「気持ちに沿っていなかった」「気持ちに寄り添った診療を行う」という言葉を繰り返しているところに端的に表れています。問題は「気持ちに沿って」いたかどうかではありません。人権と尊厳を蹂躙した差別の問題です。その自覚・認識のない「謝罪」は謝罪ではありえず、再発防止も不可能です。

 ここで想起されるのが、NHK広島の差別ツイート問題です(8月25日、26日、9月12日のブログ参照)。両者には数々の共通点があります。

 第1に、本人は「差別したつもり(意識)はまったくなかった」といいながら差別発言・差別対応を行ったこと。
 第2に、そのことを被害者や支援者らから指摘されても頑として「差別」であったと認めないこと。
 第3に、したがって差別に対する償いを拒否していること(福山市の場合は本質問題の認識に立った謝罪の拒否、NHK広島の場合は被害者への謝罪すらない上に問題ツイートの削除を拒否)。
 そして第4に、差別の被害者がともに在日コリアンであることです。

 「福山市」と「NHK広島」の問題はまさに同根です。

 そしてこうした共通性は、福山市やNHK広島だけのことではなく、日本人ならだれでも当事者=加害者になる可能性がある問題ではないでしょうか。

 日本人は朝鮮半島を植民地支配(1910年~45年)したときから、いいえ、豊臣秀吉の朝鮮侵略(1592~98年)から、朝鮮人を蔑視し攻撃してきました。その差別の歴史をいまだに清算していません。歴史の事実を教育さえされていません。結果、今日の日本で在日コリアンに対する政治的社会的差別は再生産されています。

 こうした日本に生まれ育った私たち日本人は、差別に対し、とりわけ在日コリアンに対する差別に対し、あまりにも無知で鈍感です(朝鮮差別・侵略主義者の福沢諭吉を最高額紙幣の肖像としてあがめ続けている一事をとっても明白)。そのことを自覚しなければなりません。

 その上に立って、差別発言・行為を行ってしまった場合は、被害者の指摘・批判から学び、本質的な謝罪を行い、それを自らの差別性・差別体質を変える契機・教訓にしなければなりません。

 今回の「福山市」と「NHK広島」の問題は、日本人にとって死活的に重要なそのことを、改めて私たちに突き付けているのではないでしょうか。

 

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