アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
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毒ガス兵器と細菌兵器の二重疑惑「大牟田爆発赤痢事件」の真相

2020年09月24日 | 戦争の被害と加害

    
 83年前、1937年9月25日午後6時ごろと12時ごろ、福岡県大牟田市の三井鉱山三池染料所で大規模な爆発が相次いで起きました。被災者は呼吸困難、下痢、嘔吐などの症状を呈し、712人が死亡しました。その後負傷者の総計は2万5000人以上にのぼりました。

 爆発直後、火災が発生したため地元の消防が工場内に入ろうとしましたが、工場側が「自分たちで消火する」として拒否しました。その時工場の人たちは防毒服を着ていたといいます。

 爆発の2日後、帝国陸軍(憲兵隊)と福岡衛生部が「赤痢禍調査団」を名乗って大牟田入りし、10万錠近い「赤痢予防錠」を市民に配布。同10月19日、内務省は「大牟田の事故は水道水が原因の集団赤痢」と発表しました。

 ところが、当時の大牟田市水道課長・塚本久光氏が戦後、水道氏が原因ではない確かな証拠を示した「塚本メモ」を公表。息子の塚本唯義氏が父の遺志を継ぎ、膨大な資料、証言を集め、真相究明を求めて国会議員にも働きかけました。

 これを受け、参議院では1973年、74年の2回「大牟田市9・25爆発赤痢事件に関する質問主意書」が提出されました。しかし、自民党政府の「答弁書」は当時の内務省発表を踏襲するものでした。

 以上が経過の概略です。では事件の真相はどうだったのでしょうか。在野の研究者・ジャーナリストの北宏一朗氏はかつて講演(2017年9月6日)でこう指摘しました。

 <三池染料は何をつくっていたのでしょうか。この事件が起こったのは盧溝橋事件の2カ月後です。陸軍が大久野島(広島県―引用者)で毒ガスを製造していました。日中全面戦争が広がり、毒ガスの需要が急増した時期です。三池染料は毒ガスの原料となる中間剤を生産し陸軍に納入していたのです。

 陸軍からの注文が増え、大牟田工場でも増産に次ぐ増産をしていました。そんな時に爆発事故が起こりました。毒ガスの爆発でたくさんの人が亡くなったのです。

 この事故を隠ぺいするため、軍、衛生局、三井は「集団赤痢」だと発表し、2日後に「赤痢予防剤」を配布しました。この「予防剤」はどうして手に入れたのでしょうか。

 当時陸軍軍医学校にいた石井四郎(「731部隊」長―引用者)が赤痢のワクチンを作ろうと計画していました。まだ効果が確認されていない「予防剤」を1936年までに24万人分つくっていました。そのうちの10万人分を大牟田市に配布したのです。これを飲んだ人が次々に赤痢に感染し、2万5000人が感染してしまいました。>
(化学兵器被害解決ネットワーク作成「北宏一朗講演集」2020年=写真右より。写真左は敗戦後遺棄された毒ガス=NHKETV特集より。写真中は大久野島毒ガス資料館の展示物)

 毒ガス兵器の原料を作っていた工場の爆発で多くの死亡者が出た。それを隠ぺいするため「赤痢」と偽り、細菌兵器用につくっていた薬剤を市民に配布して人体実験を行い、大量の感染者を出した。毒ガス兵器も細菌兵器も言うまでもなく国際法違反の非人道兵器です(兵器はすべて非人道ですが)。その二重の被害が、「大牟田爆発赤痢事件」の真相だという指摘です。

 この重大な事件はしかし、参院の質問主意書以後、本格的に追及された形跡がありません。事件そのものを知らない人も少なくないでしょう。いまだに隠ぺいされている日本の戦争犯罪、加害の歴史の1つです。絶対にあいまいにすることはできません。

 北氏とは講演会で何度か会ったことがあります。たいへん熱心で信頼のおける方でした。残念ながら昨年6月、がんで亡くなりました。74歳でした。

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