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アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

翁長知事は「辺野古の人たち」を見殺しにするのか

2015年01月17日 | 沖縄と差別

          

 前回の「日記」で、沖縄県の翁長雄志知事の「姿勢を問う」と書きましたが、その後の事態と翁長氏の言動を見れば、「問う」という段階ではすでになくなってきていると痛感せざるをえません。
 言い直します。翁長知事は辺野古で安倍政権の暴挙とたたかっている人たちを見殺しにするつもりなのか!

 翁長氏の姿勢・責任を問わねばならないこの間の言動を、3つ挙げます。

 
 ①翁長知事はなぜ県警の暴挙を止めないのか

 辺野古のキャンプシュワブゲート前では、政府の工事再開強行に反対する市民を沖縄県警が強制排除する事態が続いています。すでにけが人も出る事態になっています(写真右)。
 なのになぜ翁長氏は指をくわえて傍観しているのか。なぜ県警の暴挙をやめさせないのか。県知事にはその権限があるのです。

 警察法は、「都道府県知事の所轄の下に、都道府県公安委員会を置く」(第38条)とし、「都道府県公安委員会は、都道府県警察を管理する」(同上第3項)と明記しています。県警本部長の「懲戒又は罷免」についても、県公安委員会は国家公安委員会に対し、「必要な勧告をすることができる」(第50条第2項)のです。そしてその県公安委員は、「知事が任命」(第39条)するのです。

 つまり県知事は県公安委員会を通じて、県警を管理し、県警本部長を辞めさせることもできるのです。翁長氏はなぜこの権限を行使しないのか。というより、いま辺野古で県警が行っている暴挙の最高責任は翁長知事自身にあるのです。
 いやしくも市民の支持で当選した知事なら、市民(しかも自分の選挙の強力な支持者たち)の生命・安全を守るのは最低の義務・責任ではないでしょうか。

 ②翁長知事はなぜ政府の工事再開に厳しく抗議し、「承認取り消し・撤回」を含め「新基地建設反対」を強く表明しないのか

 政府による15日の工事再開強行に対し、翁長氏はこう言いました。
 「大変残念だ。もうちょっと意見交換をする中からこういったことは考えてもらいたい」(琉球新報16日付)
 「残念だ」「考えてもらいたい」とはどういうことでしょうか。「言語道断、県民無視の工事再開は直ちに中止せよ」となぜ言えないのでしょうか。

 翁長氏の弱腰、というより理解不能なほどの政府への迎合姿勢はこの日だけではありません。

 12月26日の山口俊一沖縄担当相との会談で、辺野古のへの字も口にしなかったことは前回書きました。
 その後3度目の上京の今月14日、翁長氏は杉田和博官房副長官と会談した際、「『・・・辺野古新基地は造らせないと公約して当選した私の立場もご理解いただきたい』と伝えた」(琉球新報15日付)と報じられました。なんという卑屈な態度でしょう。

 ところがさらに驚いたことに、翌15日の記者会見で菅義偉官房長官は、「米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設に反対する意向を伝えたとの翁長氏の説明を否定した。『米軍基地問題について具体的な話はなかったと報告を受けている』と述べた。・・・『あくまで(翁長氏の)就任あいさつだ』と強調した」(琉球新報16日付)。
 これに対し翁長氏は、「話はした。報道でニュアンスが違うところはあったが、話をしないわけがない」(琉球新報、同)と、報道のせいにして釈明しました。

 この問題の真相は17日の沖縄タイムスでどうやら判明しました。
 「翁長氏は官房長官の受け止めが異なることについて『反対だと強い意味では(伝えては)ない』とし、『振興策などのお礼も兼ねて、私が基地問題を訴えて当選した。ご理解よろしく』とあらためて説明。10分間の会談時間も挙げ『あの時間では公約を掲げて当選したという以上の時間はなかった』と時間の制約で強く訴えられなかったとした」

 強いも弱いもありません。要するに翁長氏は杉田官房副長官に「辺野古新基地建設反対」と面と向かっては言わなかったのです。
 「時間がなかった」というのはいまや翁長氏の常套句ですが、「辺野古新基地建設には断固反対」「工事再開は絶対許さない」と言うのにいったい何秒かかるというのでしょうか。

 さらに翁長氏は16日、なんと4度上京し、山口担当相と再会談しましたが、ここでは異論の出る余地もなく、辺野古のへの字も口にしませんでした。そもそも「10分間の会談」で政府に「予算の感謝」を伝えるために上京する必要がどこにあるのでしょう。その費用はいうまでもなく県民の税金なのです。

 基地問題に言及しなかった「理由」を聞いて、唖然としました。
 「翁長雄志知事は・・・基地関連では言及しなかった。翁長氏は会談後、『所要額を確保していただいたことに心から感謝を申し上げた』と説明。・・・会談で名護市辺野古の海上作業再開に触れなかったことについては『(会談の)要件が決まっている場合は話さない。10分間の会談で、帰り際に言うことは失礼だ』と述べた」(沖縄タイムス17日付)

 目を疑いました。「失礼だ」?!暴挙を働いている政府の担当相に抗議するのが「失礼」?!いたい何を考えているのでしょうか。辺野古でたたかっている人たちのことが少しでも頭にあれば、こんな言葉は出てこない(考えもしない)はずではないでしょうか。

 ③「検証チーム」発足でも工事中止を要求しないつもりなのか

 翁長氏が公約した「検証チーム」が19日やっと発足するといわれています。
 沖縄県議会与党の代表は15日上京し、日本政府や米大使館に新基地建設反対を申し入れました。その中で、「県議らは辺野古の海上作業再開について抗議し、翁長雄志知事が今後取り組む埋め立て承認の検証作業が終了するまでの作業中止」を求めました(琉球新報16日付)。当然の要求です。

 ところが翁長氏は同日、「検証チームの作業が終了するまで作業を見合わせるよう求めるかについては『チームの立ち上げを踏まえてこれから議論し、判断したい』と述べるにとどめた」(琉球新報、同)。
 いったい何を「判断」するというのでしょうか。何のための「検証」なのか。県議会与党が要求したように、少なくとも「検証中」は政府に工事中止を強く求めるのは当然です。翁長氏はなぜそう言えないのでしょうか。

 翁長氏は政府に顔を向けて水面下で談合するのではなく、きっぱりと市民・県民の側に立って安倍政権の暴挙とたたかうべきです。
 そして選挙で翁長氏を擁立・支援した人たち、会派も、1日も早く「翁長タブー」を捨て、翁長氏の理不尽な言動を批判し、姿勢を正させるべきではないでしょうか。

 


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沖縄知事選から2カ月。安倍政権と翁長知事の姿勢を問う

2015年01月15日 | 沖縄と差別

          

 16日で沖縄知事選から2カ月になります。選挙で示された「辺野古新基地建設反対」の県民意思に背を向け続ける安倍政権の暴挙は絶対に許せません。
 同時に、この間の翁長雄志知事の言動にも多くの疑問を禁じえません。

 
 翁長知事は就任後、実に3度にわたって上京しました。この間会談した閣僚は山口俊一沖縄担当相1人(12月26日)です。安倍首相や菅官房長官が「嫌がらせ」で会わないのなら言語道断です。
 同時に、「(自民党県連)幹部は自民出身の翁長知事と長い間協力してきた経験を踏まえ『彼は老練な政治家で、上京して冷遇されるのは折り込み済みなはず。政府と対峙する知事として県内世論の支持を固め、あらためて政府と交渉するつもりだろう』と分析」(8日付沖縄タイムス)という報道もあります。
 政府の理不尽さを明確にするためにも、翁長知事(県)は3回の上京で、いつ、だれに、どのような面会の申し入れを行ったのか、それに対してどういう回答があったのか、事実経過を明らかにすべきです。

 14日決定した来年度政府予算案に対し、翁長知事は「本県の振興に配慮がなされた」「格段の配慮をいただいた」と、手放しで評価する「談話」を発表しました(15日付琉球新報)。これは「沖縄振興予算が減額されたことについて県議会与党からは『基地問題とのリンクだ』として安倍政権に対して厳しい声が上がった」(同)という県政与党(「革新」)の評価とは逆で、「所要額が確保された」(同)という自民党県連の評価と一致するものです。
 来年度予算案に対する翁長知事の評価は、選挙母体となった県政与党よりも、自民党県連と歩調が合ったものになっているのです。

 そもそも翁長知事は3回も上京する必要があったのでしょうか。
 仲井真前知事のように、政府に就任のあいさつに出かけたり、予算獲得のために上京する必要があるでしょうか。
 先の総選挙で「オール沖縄」として当選した仲里利信衆院議員は、「東京で閣僚が会おうとしないなら、知事は会わないでいい。・・・政府の強硬姿勢にあえて抵抗もしない。その代わり、やるべきことはちゃんとやる。(水面下の交渉などの)パイプ役は必要ないと思っている」(12日付沖縄タイムス)と述べています。
  まったくその通りです。県民をバックに当選した知事には、中央政府に対するそうした毅然とした態度こそ求められているのではないでしょうか。

 では、翁長知事が「ちゃんとやるべきこと」とは何でしょうか。言うまでもなく、辺野古新基地建設阻止です。その県民の意思を明確に政府に突き付けることです。
 ところが、3回の上京で唯一会談した山口担当相に対し、翁長知事はなんと「辺野古」のへの字も口にしなかったのです。

 「翁長氏は会談で、沖縄の米軍基地問題について『過重な負担がある』と述べたが、普天間の県内移設反対に関する発言はなかった。翁長氏は記者団に『短時間だったので、(山口氏が担当する)振興策に力点を置いた』と説明した」(12月27日付毎日新聞)

 いったい、翁長知事は何をしに東京へ行ったのでしょうか。

 山口氏との会談だけではありません。翁長氏は知事選後、辺野古埋め立て承認の「取り消し・撤回」を口にしなくなっています。「検証チーム」も「1月中旬には発足」としていたものの、いまだに人選が確定していません。

 そんな中で、辺野古は重大な事態を迎えています。14日未明の工事資材搬入(写真右)に続き、15日未明には沖縄県警による抗議市民の強制排除が強行されました。
 県民の度重なる意思表明を無視してあくまでも工事を強行しようとする安倍政権の暴挙は断じて許せません。
 同時に、この辺野古の事態に対し、翁長知事にはまったく責任がないと言えるでしょうか。

 県警による市民の強制排除は、県知事である翁長氏に事前になんの報告もなかったのでしょうか。もしもそうだとすれば、知事に無断で抗議市民を強制排除するという暴挙を行った県警本部長を、翁長知事は処分すべきです。

 なによりも、辺野古で繰り返されている重大な事態は、翁長知事が埋め立て承認を取り消せば、あるいは撤回すれば、とりあえず止まるのです。
 翁長知事は「検証チーム」に下駄をあずけて「結論」を「少なくとも数カ月」先に延ばすのではなく、直ちに「取り消し・撤回」を表明すべきです。どうしても「検証」するというなら、速やかに「検証チーム」を立ち上げ、早急に結論を出すべきです。

 これまでの自民党知事と同じように、政府・自民党に顔を向け、水面下で交渉をすすめるのか、それとも安倍政権の辺野古新基地強行と正面から対決するのか。その姿勢がきびしく問われています。


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豊濱さんの遺志継ぎ、「宮森小事件」から今学ぶこと

2015年01月13日 | 沖縄と差別

          

 13日の琉球新報で、沖縄の豊濱光輝さんが12日未明に亡くなられたことを知り、驚きました(享年79)。お元気そうだったのに。残念です。
 
 豊濱さんは旧石川市で発生した「宮森小事件」(1959年6月30日)の生き証人として、事件の継承に文字通り精力的に活動されてきました。私は一昨年11月16日に友人たちと宮森小を訪れました。そのとき渾身のガイドをしていただいたのが豊濱さんでした。半世紀以上たった今も、涙を流しながら語っておられたのが印象的でした。
 その時のことを記した「日記」(2013・11・18)を再録します。(写真は「なかよし地蔵」の前と資料館で説明される豊濱さん。右は事件直後の宮森小)

<再録>  「宮森小事件」にみる教師の良心

 16日の「平和ガイド学習」で高江に続いて、宮森小学校(旧石川市、現うるま市)を初めて訪れました。あのジェット機墜落事件(1959年6月30日)の宮森小です。現地でNPO法人石川・宮森630会の豊濱光輝会長に、亡くなった児童・市民を悼む「なかよし地蔵」の前で当時の生々しいお話をうかがいました。そのあと、資料館でさらに詳しい話を聴くことができました。

 事件はあの日の午前10時半ごろ発生。米軍嘉手納基地のF100D戦闘機が訓練飛行中、旧石川市6区の住宅地に墜落。さらに宮森小に激突・炎上し、児童11人、住民6人が死亡、210人が重軽傷。パイロットはいち早くパラシュートで脱出して無事。米軍は2日後に「不可抗力」と発表しました。映画「ひまわり」で本土でも知られるようになりました。

 当時巡回教員だった豊濱さんは爆音と同時に近くの事務所から学校へ駆けつけ、そのあと遺体引き渡しという辛い仕事を担当しました。当時の宮森小の児童数は1316人。我が子の無事を確認したい父母ら約2000人が詰めかけ、学校内は大パニックに。米軍MPが20~30人駆けつけ、新聞記者らが撮った写真フィルムを抜き取りました。丸焦げになった我が子を我が子と知りながら認めようとしなかった母親・・・。ジェット機は住宅地に墜落し約150㍍ジャンプして宮森小に突っ込んだことも初めて知りました。

 その後、父母も教師も事件を語ろうとしませんでした。父母はあまりの悲しさのため。教師は「なぜ子どもたちを救えなかったのか」という自責の念のため。それが変わるのはなんと40年後の1999年。琉球朝日放送(QAB)がアメリカの公文書から「事故原因は米軍の整備不良」との真相を突き止め報道してからでした。
 これを境に教師たちは、「先生はなにもしてくれなかった」という一部の声を、政治・社会に対する教師の責任に対する指摘と受け止め、基地撤去・安保廃棄などの発言・運動へと転換していったのです。

 それでもまだ、「子どもを救えなかった」という自責の念は消えていませんでした。豊濱さんは当時亡くなった子どもの親族から「先生は生きているじゃないか」と言われたことを振り返り、「あの時は悲しかった。これがジェット機事故です」と言って背を向け、号泣されました。私はその姿に、教師の良心を見る思いでした。

 教師経験のない私は正直なところ、先生たちはそこまで自分を責めなくていいのではないか、あの惨状の中、自分も負傷しながら、子どもたちを救い出すことは無理だったと思っていました。今もそう思います。でも当事者の先生たちの気持ちはそうではない、そんなに割り切れるものではないのだと、豊濱さんの姿に教えられました。

 そしてもしQABが真相を突き止めなかったら、歴史の真実は隠されたままで、父母や教師の悲しみ、苦しみは救われることはなかったでしょう。怒りを日米政府に向けることもなかったでしょう。メディアの責務を痛感します。そしてだからこそ秘密保護法は絶対に通してはならないのです。
 父母、教師の悲しみ、怒りとともに、「宮森小事件」はまだ終わっていません。風化させてはなりません。校門横のひまわりが、そう訴えているようでした。<以上>

 「630会」の久高政治事務局長は、「一つ一つの活動に自身の全存在を懸けて取り組んでいた。人間の価値は生き方にあるということを教えてくれた」と、追悼文を寄せています(13日付琉球新報)

 9日の琉球新報は米軍が嘉手納基地にF16戦闘12機、兵員250人を暫定配備し、さらに周辺地域の危険性を強めようとしていることを1面トップで大きく報じました。
 同紙によれば、2013年度の嘉手納基地の航空機離着陸回数は前年度を1万回も上回る4万7078回。そのうち外来機の発着回数は1万2342回で前年度比24%増となっています。

 宮森小の子どもたち、地域の人たちの命を奪った米軍嘉手納基地は、今も基地機能が強化され、住民の危険は増大し続けているのです。
 沖縄の基地問題はけっして普天間・辺野古だけではありません。

 嘉手納基地をはじめ沖縄からすべての軍事基地を撤去すること。
 それこそが今、「宮森小事件」と豊濱さんの「生き方」から学ばねばならないことではないでしょうか。
 ご冥福をお祈りいたします。

 


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沖縄知事選で置き去りにされた「高江」の人々

2015年01月08日 | 沖縄と差別

          

 沖縄で平和と民主主義を愛する人々に広く読まれている季刊誌「けーし風」(返し風)の最新号(85号)が送られてきました(定期購読)。特集は「2014沖縄の選択―県知事選をふり返る」です。
 興味深い座談会や論稿が並ぶ中、とりわけ注目したのが、「高江公約要請アクションを振り返る」というインタビューです。

 語っているのは、東村・高江でオスプレイのヘリパッド建設に反対している「『ヘリパッドいらない』住民の会」の石原理絵さん(聞き手は阿部小涼琉大教員)。先の知事選で、石原さんたちが翁長雄志氏に「高江」を公約に入れてもらうよう、いかに涙ぐましい努力をしたかがリアルに語られています(写真左は高江での住民の座り込み)。

 「高江のことを認識してくれる人に知事になってもらわないと、さらにゴリ押しの四年間が続く」という危機感から、石原さんらは昨年(2014年)早々の3月20日、候補者選考委員会(県民ネット、社大党、社民党、共産党、生活の党)に対し、「『高江のヘリパッド建設反対』を県知事選の公約に入れてください、という要請文書」を提出しました。
 しかし、「手応えはあまり記憶に残っていません」という結果に終わりました。

 続いて8月21日、「翁長氏に出馬要請をするために結集した女性たちの集会」に参加した石原さんは、大きな衝撃を受けました。
 「会場は非常に盛り上がっていて、『辺野古に基地を作らせない候補を』と皆さんがお話をされていたのに、一二〇名くらいの女性たちの誰からも、高江の発言がない。これから始まる知事選の現実、高江の位置付けをまざまざと思い知らされました。これでは二〇一二年の『オスプレイ反対県民大会』の時のように、また高江は置いてけぼりを喰う

 「どうしたらいいんだろうって焦燥感だけが高まった」石原さんたちは、高江の座り込みに関わる友人たちと名護で会議をもち、「知事選に向けて何が出来るのか」を話し合いました。その中で翁長氏に「公開質問状」を提出することも検討しました(最終的に「公開質問状」には至らず)。
 こうした石原さんたちに対し、「『オール沖縄』でまとまったところに、高江が単独で要請を上乗せするというのはどうなのか」という圧力がかかりました。「仲間内と思う人から『もう(やめておいたほうが)いいんじゃないか』と。『ちょっとやり過ぎじゃないか』と言われた人もあったようです」

 そんな「仲間内」からの圧力にもめげず、石原さんたちは9月17日、「翁長さん!高江を公約に!知事選みんなで要請アクション」と題したチラシ(写真右)を作成し、ブログにアップしました。

 チラシ(公約要請アクション)は好評で、支持の輪が広がりました。しかし、翁長選対本部にその思いは届きませんでした。「要は『後でね』ということでしょう。公約については保守側との摺り合わせがある、暗に無理というニュアンスを感じました」
 石原さんは、「自主規制しろと言外に同調圧力的なものを感じた」と言います。

 それでも石原さんたちは屈せず、9月26日、「住民の会」として「公約に関する要請書」を翁長選対事務所に提出しました。要請書の内容はこうです。
 「翁長県知事候補にお願いがあります。ヘリパッド建設計画に反対することを公約に明記してください。『辺野古新基地建設反対』ではなく『辺野古と高江新基地建設反対』を公約として明確に掲げてください
 10月15日には翁長氏に「直談判」も試みました(集会の人波に押されて話はできなかったもよう)。

 こうした石原さんたちの切なる願いもむなしく、結局、翁長氏は公式の選挙公約に「高江」を盛り込むことはしませんでした。「住民の会」の度重なる要請行動は踏みにじられたのです。

 ただ、10月21日の政策発表記者会見で、「高江のヘリパッド建設については?」と記者が質問したのに対し、翁長氏は、「『建白書』でオスプレイ配備撤回を求めていく中で、連動して反対することになると思う」と、婉曲な形で初めて「高江」に触れたのでした。
 こんな不十分な「言明」でも、石原さんは「びっくりしたというか。すごく嬉しかったですね。公約はもう無理、難しいと思っていたので」と素直に喜びました。
 「翁長当選」の選挙結果に対し石原さんは、「最悪の事態は避けられたというか。これ以上、悪くはならないという意味で。助かった、少しはましかも、という感じです」。
 12月7日に行われたインタビューはここで終わっています。

 それから5日後の12月12日、県議会で行われた翁長新知事初の「所信表明」には、「高江」のタの字もありませんでした。
 さらに4日後の12月16日、県議会の答弁で翁長知事は、「高江の米軍ヘリパッド建設問題については『環境、住民生活への影響をめぐってさまざまな意見がある。地元の意見を聞き、検討したい』と述べた」(琉球新報12月17日付)のです。記者会見の「反対することになると思う」から「検討する」への明確な転換(後退)です。
 今月5日の「知事年頭あいさつ」でも、「高江」は(もちろん)一言も触れられませんでした。

 選挙後のこの現実を、石原さんら高江の「住民の会」の人たちは、どんな思いで見つめているのでしょうか。 


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もう1つの「1995年から20年」

2015年01月03日 | 沖縄と差別

          

 今年は言うまでもなく「敗戦70年」。同時に、「1995年から20年」でもあります。
 この「20年」にはさまざまな意味があります。

 まず、「阪神大震災(1995年1月17日)から20年」です。
 6434人の犠牲者を悼むとともに、この国の地震・災害対策、被害者救援のあり方を改めて検証する必要があります。
 1月に予定されている「追悼集会」に、天皇・皇后が10年ぶりに出席するのも注目されます。

 もう1つは、「村山総理談話(1995年8月15日)から20年」です。
 「村山談話」は、「国策を誤り・・・植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。・・・この歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表」すと明言しました。
 安倍首相は今年、「戦後70年」の「安倍談話」を発表します。「植民地支配と侵略」という「歴史の事実」にどう触れるのか。歴史の隠ぺい・改ざんを許さない「目」が必要です。

 「1995年から20年」は、これだけではありません。「1995年」は沖縄にとって特別な年でした。
 新崎盛暉沖縄大名誉教授は、沖縄の民衆運動・民衆意識において、「『一九九五年』というのが大きな分岐点」であり、蓄積されていた「構造的沖縄差別に対する怒りが爆発したのが一九九五年秋である」(『沖縄の自立と日本』)と指摘しています。

 第1に、「3人の米兵による少女暴行事件(1995年9月4日)から20年」です。
 その怒りは日米地位協定の改定要求へ向かい、8万5000の県民が結集した「米軍による少女暴行事件を糾弾し、日米地位協定の見直しを要求する沖縄県民総決起大会(1995年10月21日)から20年」なのです。
 県民大会で高校生の代表はこう訴えました。「私たちに静かな沖縄を返してください。軍隊のない、悲劇のない、平和な島を返してください」

 1995年の沖縄の闘いはこれだけではありませんでした。「大田昌秀知事(当時=写真中)による代理署名拒否表1995年9月28日)から20年」です。

 米軍用地強制使用更新手続きの一環である「代理署名」を、大田氏は拒否しました。それは「10・21県民大会」へ向けた大きな力になりました。
 これに対し政府(橋本内閣)は福岡高裁に職務執行命令訴訟を起こし、同高裁は知事に「職務執行」を命じました。しかし大田知事はこれに従わず、最高裁に上告。結局橋本首相が代理署名を行うという事態に発展しました。

 そして翌96年、日米特別行動委員会(SACO)で、「普天間基地返還」が、「県内移設」を条件に合意され、今日の辺野古新基地問題へとつながっていきます。

 こうした1995年の沖縄の闘いを、新崎氏は翌96年の論文(「現代日本社会における構造的沖縄差別としての日米安保」)でこう総括しています。
 「沖縄の大衆運動は、明確に日米安保体制、すなわち現代日本の構造的沖縄差別の見直しを求めて動き出している。それは戦後の日米関係、軍事力に依拠する安全保障観の見直しをも意味している」

 歴史は繰り返す。
 翁長雄志知事(写真右)は大田氏の「代理署名拒否」にならい、直ちに辺野古埋め立て承認を「取り消し・撤回」すべきです。

 本土の私たちは、20年前の沖縄のたたかいに学び、安倍政権が「安保国会」を豪語している今年こそ、構造的沖縄差別の根源でもある日米安保体制を抜本的に見直さなければなりません。

 


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菅原文太さんと村上春樹さんの言葉

2015年01月01日 | 沖縄と差別

             

 2015年1月1日。今年もよろしくお願いいたします。

 年頭にあたり、昨年から心に残っている2人の人物の「言葉」をあらためてかみしめたいと思います。

 1人は、菅原文太さん(11月28日死去)です。

 沖縄知事選の応援演説(11月1日)での言葉―「沖縄の風土も、日本の風土も、海も、山も、空気も、風も、すべて、国家のものではありません。そこに住んでいる人たちのものです」はよく知られており、おそらく歴史に残る言葉となるでしょう。

 その4日後、菅原さんは日本労働者協同組合(ワーカーズコープ)連合会の3時間におよぶインタビューを受け、その中でこう語っていました。

 「もうひとつの日本をつくる・・・そのためにはこれからどういう時代になるかわからないけど、人を欺いたり裏切ったりだけはすまい、というような、自分自身の信念のようなものを持つ、ということが大事だよね。
 頭の中のエンジンを止めないで、自分がどう生きたらいいかということを本当に本気で考える。自分の頭で考えて自分で選択しないと。ひどい悔いを残さないようにね」(「日本労協新聞」1月5日号)

 何を「本気で考える」か。その示唆を与えてくれたのが、村上春樹さんでした。

 「来年は戦後70年。作中で近代日本の戦争を描くこともあった作家は何を思うか」との質問に、こう答えました。

 「僕は日本の抱える問題に、共通して『自己責任の回避』があると感じます。45年の終戦に関しても2011年の福島第1原発事故に関しても、誰も本当には責任を取っていない。そういう気がするんです。
 例えば、終戦後は結局、誰も悪くないということになってしまった。悪かったのは軍閥で、天皇もいいように利用され、国民もみんなだまされて、ひどい目に遭ったと。犠牲者に、被害者になってしまっています。それでは中国の人も、韓国・朝鮮の人も怒りますよね。日本人には自分たちが加害者でもあったという発想が基本的に希薄だし、その傾向はますます強くなっているように思います。
 原発の問題にしても、誰が加害者であるかということが真剣に追及されていない。・・・このままいけば『地震と津波が最大の加害者で、あとはみんな被害者だった』みたいなことで収まってしまいかねない。それが一番心配なことです」(毎日新聞11月3日付単独インタビュー)

 村上氏のいう「自己責任」が、以前政府・自民党などから喧伝されたそれとはまったく異質の意味であることは言うまでもありません。
 
 村上氏の言葉を思い起こしながら、元日の新聞(中国新聞)を見ていると、天皇の「新年の感想」が目に飛び込んできました。天皇はこう述べています。

 「本年は終戦から70年という節目の年に当たります。・・・この機会に、満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分学び、今後の日本の在り方を考えていくことが、今、極めて大切なことだと思っています」

 宮内庁のHPで確認すると、近年はもちろん、5年前、10年前の「節目の年」にもこうした発言はありませんでした。
 「満州事変に始まる戦争の歴史」を学べば、大日本帝国(天皇制国家)の侵略の歴史、加害責任に行きつかざるをえません。明仁天皇はそのことを念頭にこのコメントを発したのでしょうか。

 「敗戦70年」。今年日本人が「本当に本気で考える」必要があるのは、日本の戦争責任、加害責任であり、その歴史と今に続く犠牲の現実から何を学び、今何をすべきかではないでしょうか。問い返すべきは、原発問題も含めた日本人の「責任回避」、「無責任体質」ではないでしょうか。
 それはもちろん、「自分がどう生きたらいいか」ということにほかなりません。人生に「ひどい悔いを残さない」ために。

 
 ※年頭にあたり、ブログのタイトルを「私の沖縄日記―広島編」から、「私の沖縄・広島日記」に変えました。


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沖縄・基地・歴史・人間・・・今年の3冊

2014年12月30日 | 沖縄と差別

          

 今年読んだ(出版された)沖縄関連の本から、3冊をピックアップし、特に感銘を受けた言葉を振り返ります。

◎『オリバー・ストーンが語る日米史の真実 よし、戦争について話をしよう。戦争の本質について話をしようじゃないか!』(オリバー・ストーン、ピーター・カズニック、乗松聡子著、金曜日)

 (知らされない歴史)
 「日本の人々は戦争の被害者であることに甘んじていないで、戦争を始めたのは誰なのか、そして戦時の日本軍によるアジア太平洋全域での加害行為や連合軍捕虜の虐待について子どもたちにしっかり教えるべきです。1931年に満州侵攻によって戦争を始めたのは日本なのです。日本の人々が自分の国の歴史を知っているのか大変疑わしく思います。日本の人々は、自らの政府によって歴史を否定されてきたようです。米国人も自らの歴史を否定されてきたのと同じように」(オリバー・ストーン)

 (日米同盟と沖縄)
 「米国は日本をパートナーとしては見ておらず、同盟諸国の一部にすぎず、とりわけ米軍基地費用のほとんどを払ってくれる都合のいい国です。そしてそれらの米軍基地の大半は沖縄にあります。・・・沖縄ではまだ戦争が終わっていないことを実感しました」(同)

 (沖縄知事選・辺野古)
 「11月の知事選で選ばれる人は前知事による埋め立て承認を撤回しなければならない。この基地は作ってはいけない基地なので、我々も作らせないために行動していくことが、米国人、日本人として、そして地球市民としての責任である」(ピーター・カズニック、乗松聡子)

 (安倍政権の軍拡・改憲策動に対し)
 「このようなことがどうしてまかり通ってしまうのかというと、根底には日本の日米関係至上主義のようなものがあるように思えてならない。・・・日本の人々はこのような見方を乗り越えて、アジアの一員として周辺諸国と平和的信頼に基づいた関係を築く必要がある。・・・それには何よりも隣国との確執の根源にある歴史認識問題に誠実に取り組む必要がある。日本の人々は自国の過去を正視し、否定はやめなければいけない。・・・『語られない日本史』は、日本の人々自身が語らなければいけないのである」(同)

◎『暴力と差別としての米軍基地 沖縄と植民地―基地形成史の共通性』(林博史著、かもがわ出版)

 
 (すでに日本は海外に軍事基地を設置している!)
 「二〇〇九年四月に日本政府と(東アフリカ―引用者)ジブチ政府の間で『自衛隊等の地位に関する』交換公文が交わされ、陸海空の三軍の自衛隊が派遣された。・・・日本政府は『活動拠点』という言い方をしているが、正真正銘の基地である。日本が戦後初めて海外に基地を建設したことを意味している。また交換公文の第八項により・・・派遣国が全面的に刑事裁判権を持つという植民地主義そのものの規定を日本が得たことになる。刑事裁判権の問題(「日米地位協定」-引用者)で米兵の犯罪を日本が裁くことができないという大きな問題を抱えている日本が、今度は他国にその矛盾を押し付ける立場になったのである」

 (日米同盟とは)
 「多くの国々への武力介入と侵略を繰り返してきて、それへの反省のない米国と、戦争責任・植民地支配への反省のない日本との同盟が日米同盟である。もし自らが過去におかした加害とおぞましい行為の数々の事実を直視し、二度と繰り返さないと決意して行動しようとするならば、今日のような日米軍事同盟はたちまちのうちに崩れ去るだろう」

◎『生きること、それがぼくの仕事 沖縄・暮らしのノート』(野本三吉=本名・加藤彰彦前沖縄大学学長著、社会評論社)

 (「六十歳で沖縄へ移り、沖縄大学の教員になった動機」は)
 「六十歳でぼくは大学(横浜市立大―引用者)もやめ、一人の市民に戻るつもりでいたのだが、その時に世界貿易センターの爆破事件が起こった。これまで人類が次々とつくりあげてきた近代文明が崩れていくような予感の中で、もう一度、生きものの原点、人類史の原点に戻って自分の生き方を問い直さなければいけない、そうぼくは直感したのだった」

 (「人間の能力」とは)
 「人間には共に生きる、あるいは支え合うということを通してはじめて真に生きることができるという叡智があるように思える。それが『人間の能力』だと考えている。これまでの長い歴史を人類が生きぬいてこれたのは、この支え合いの能力、共に生きる能力のためだとぼくは思う」

 「自分の暮らし、自分の場から考えることしかできないぼくら人間は、そうした自分の発想を絶対化し固定化して行動する。そうした限界を打ち破り、現実を知るためには、自分の世界から離れてもう一つの現実の中に身を置くことが必要である。・・・人間にとって『能力』とは何よりも生きぬく力であり、そのためには支え合う力、そして相手の立場を思う(感じる)力ではないかと思う」

 ☆今年の「日記」はきょうで終わります。次は1月1日に書きます。
 「敗戦70年」の来年はさまざまな意味できわめて厳しい年になりますが、今年よりも少しでもいい社会になるよう、「人間の能力」を信じて、生きてゆきたいと思います。
 1年間、ありがとうございました。


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早くも「後退」した初議会答弁、翁長知事は説明責任を

2014年12月20日 | 沖縄と差別

                                       

  沖縄県の翁長雄志知事が、県議会で「所信表明」(12日)を行うとともに、代表質問(16日)と一般質問(17日)で答弁に立ちました。就任後初の県議会で、その発言内容が注目されましたが、辺野古新基地建設などをめぐって、早くも見逃せない発言が相次ぎました。

 辺野古埋め立て「承認撤回」が消えた所信表明

 翁長氏は所信表明で、「3つの施策」を示しましたが、選挙の最大争点だった辺野古問題は3番目の「平和創造プラン」の中でやっと言及。しかもその内容は、「この問題につきましては、埋め立て承認の過程に法律的な瑕疵がないか専門家の意見を踏まえ検証いたします。法的瑕疵があった場合は承認の『取り消し』を検討してまいります」(13日付琉球新報、沖縄タイムス)と、いまだに「検証・検討」の域を出ませんでした。

 そのうえ重大なのは、所信表明で承認の「撤回」にまったく触れなかったことです。
 そのことについて翁長氏は記者団に、「時間の関係上、割愛した」(13日付琉球新報)と述べました。「21世紀ビジョン」の焼き直しは延々と語りながら、最大焦点のこの問題を時間がなくて「割愛した」とは、信じられない言葉です。

 「撤回」でなく「話し合い」で日本政府に期待?

 一般質問への答弁で翁長氏は、承認「撤回」について、「撤回までいかなくても、日本政府との話し合いで、場合によっては(建設を)やめてくれるかもしれない。順序だててやりたい」(18日付沖縄タイムス)との述べ、安倍政権への「期待感を示した」(同)。
 できれば「撤回」したくない、「話し合い」で政府が「やめてくれる」(なんと卑屈な言葉でしょう)のを期待する。それが翁長氏の本音でしょうか。なぜ「取り消しないし撤回でやめさせる」と言えないのでしょうか。

 「県内移設容認」の「確認書」は「何の意味もない」?

 昨年1月の「建白書」作成時に、翁長氏は中山義隆石垣市長と、普天間飛行場の「県内移設」を容認する「確認書」を交わしていました。これについては11月13日付のこのブログでも書きました。
http://blog.goo.ne.jp/satoru-kihara/d/20141113
  翁長氏は代表質問答弁で、「反対する人もいたが、市長会で説得し、全員が了解してサインをした」と「確認書」の存在を公式に認めました。

 沖縄県紙はなぜかこの答弁を重視しませんでしたが、共同通信は同日、「翁長氏は11月の知事選で普天間の県内移設は『絶対に許されない』と繰り返しており、これまでの発言との整合性が問われそうだ」と配信しました。そして翌日の中国新聞は2面で、「翁長氏 県内移設否定せず 昨年1月に確認書」の見出しで大きく報じました。
 共同通信によれば、答弁後翁長氏は記者団に、「(確認書は)水面下の話で、何の意味もない」と語ったといいます。一方、「中山氏は共同通信の取材に『辺野古を含め県内移設を残すべきという趣旨で確認書を取り交わした。意味がないものではない』と反発した」(共同)。
 「何の意味もない」とほうかむりするのではなく、県民にその事実、真意を自ら説明する必要があるのではないでしょうか。

 基地建設阻止は「任期中」は無理?

 翁長氏は一般質問で、「基地建設阻止が実現する時期については『早く実現したいと思うが、必ず(任期の)4年間でそうなるとは言えない。一歩一歩前進させて近づけていくことになる』と述べた」(18日付琉球新報)。
 驚きました。任期中に辺野古の新基地建設は阻止できないかもしれないとは!いったいどういうつもりでしょうか。「基地建設阻止が実現する」とは何を意味しているのか明らかにする必要があります。もちろん承認の「取り消し」や「撤回」をしてもそれですべて解決するわけではありません。政府はおそらく訴訟に持ち込むでしょう。しかし、「取り消し」ないし「撤回」すれば、少なくともその時点で工事は止まります。それが「建設阻止」の始まりであり、そこから建設断念に持ち込むたたかいが続くのです。その「建設阻止」が任期中は無理かもしれないとはどういうことでしょうか。

 「高江ヘリパッド」は「反対」から「検討」へ

 代表質問答弁で翁長氏は、「東村高江の米軍ヘリパッド建設問題については『環境、住居生活への影響をめぐってさまざまな意見がある。地元の意見を聞き、検討したい』と述べた」(17日付琉球新報)。
 しかし翁長氏は知事選では、「オスプレイの専用的なヘリパッドになっている点もあり、『建白書』でオスプレイ配備撤回を求めていく中で、連動して反対することになる」(10月21日の政策発表記者会見。10月22日付しんぶん赤旗)と公約したのです。
 「反対」から「検討」へ。これは明白な後退(変質)ではないのですか。

 以上の検証は、琉球新報や沖縄タイムスなど新聞報道をもとにしたものです。記事では不十分さや不正確さがある可能性も否定できません。
 重要なのは、翁長氏が自ら、これらの「後退姿勢」について、その真意を県民と国民に明確に説明することです。翁長氏にはその説明責任があるのではないでしょうか。

 さらに、辺野古や高江の新基地建設阻止を願って、知事選で翁長氏を支持・応援した人たち・グループは、翁長氏に直接会い、その真意を確かめる必要があるのではないでしょうか。
 そして、翁長氏との意見交換の場(市民懇談会)を定期的に開催し、政策の実行を求める。翁長氏を擁立した人たちにはその権利と責務があるのではないでしょうか
 


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沖縄選挙区「自民全敗」と「オール沖縄」

2014年12月18日 | 沖縄と差別

        

 今回の総選挙で特筆すべきは、本土の小選挙区で222議席を獲得した安倍・自民党が、沖縄の4つの選挙区で全敗したことです。

 その最大の要因は、直前の知事選から継続して、「辺野古新基地建設」の賛否が争点として明確だったことでしょう。新基地建設反対を公約した翁長雄志氏を支持する、いわゆる「建白書」派(あるいは「オール沖縄」派)が4選挙区で自民党に勝った意味はきわめて重く、安倍政権は直ちに辺野古新基地建設を断念すべきです。

 同時に、「建白書」派も、今回の選挙結果をけっして過大評価することはできません。

 沖縄の4選挙区で、「建白書」派の4候補の合計得票率は53・4%。一方、自民党候補と1区の下地幹郎候補を合わせた「非建白書」派の合計得票率は46・6%。その差はわずか6・8㌽です。1区に限れば、自民党の国場幸之助氏と下地氏の合計が「建白書」派の共産党・赤嶺政賢氏を約20㌽上回りました。それでも4対0という結果が出るのが、小選挙区制の特徴です。

 さらに比例区で全県の合計得票率を見ると、「建白書」派の共産党、社民党、生活の党の3党合わせて34・1%。これに対し、安倍政権与党の自民党(25・4%)と公明党(15・9%)は合わせて41・3%。これに「辺野古推進」の民主党を加えると50・2%にのぼります。

 つまり、「辺野古新基地建設反対」という「沖縄の民意」は強固で揺るがないけれど、政党に対する支持では、「非建白書」派が「建白書」派を引き続き大きく上回っているのです。

 「建白書」派は「オール沖縄」を旗印に選挙を行ってきました。しかし、この選挙結果は、沖縄の「民意」はけっして「オール沖縄」という言葉ではくくれない複雑な様相を示しているということではないでしょうか。

 「建白書」派は、この総選挙が「知事選で共同したすべての政党と会派が協力したたたかいになっている」(共産党・志位和夫委員長、12月8日)と、「知事選の枠組み」は変わっていないと強調しました。しかし事実はそうではありませんでした。
 知事選で「自主投票」とし事実上翁長氏を支持した公明党沖縄県本部は、総選挙では自民党と共闘しました。連合も、2~4区では「建白書」派候補を「支持支援」しましたが、1区では「知事選の枠組みを尊重」というだけで「支持支援」はしませんでした。翁長氏の強力な支持グループであった新風会(元自民党那覇市議団)も、1区で「赤嶺支持」に1本化できず「自主投票」になりました。新風会はその後分裂状態です。

 「知事選の枠組み」は明らかに変わってきています。反共産党色が早くも表面化してきています。
 変わって浮上してきたのが、自民党を含めた「オール沖縄」です。
 あれほど県民が落としたかった自民党4議員が比例で復活したことに対し、翁長氏が「少し輪が広がった」と歓迎し、彼らに「オール沖縄の結束を呼び掛けた」(16日付琉球新報)のはその典型的な表れです。翁長氏はさらに、今後の辺野古問題に関し、「自民県連が知恵をつくってくれるかもしれない」(16日付沖縄タイムス)と自民党への「期待」を公言しています。

 いったい「オール沖縄」とは何でしょうか。

 共産党は1区の選挙で「共産党」の名前の連呼を封じ、赤嶺氏のたすきにも「共産党」ではなく「オール沖縄」と書くことまでして選挙に臨みました(写真右)。赤嶺氏は選挙後こう語っています。
 「建白書という一致点であらゆる問題に対処していくような共闘を尊重して進めていきたい」(16日付琉球新報)

 結局、「オール沖縄」とは「建白書」以外にないのです。
 しかしその「建白書」には、オスプレイ配備反対と普天間の県内移設反対はあっても、「高江のヘリパッド反対」も「嘉手納基地縮小・撤去」も、「自衛隊配備強化反対」もありません。もちろん、日米安保にはまったく触れていません。
 「建白書」はきわめて限定的なものです。その一致点だけで「あらゆる問題に対処」するのは不可能です。

 とすれば、沖縄はこれから、「オール沖縄」という抽象的なスローガンではなく、具体的な政策問題で、翁長県政の「枠組み」が問われることになります。沖縄は知事選と衆院選をへて、今大きな岐路に立っているといえます。

 沖縄県民が選挙区選挙で「辺野古新基地反対」を重ねて明確に示したことは、「犠牲強要を拒む意思表示」(16日付琉球新報)であり、それは、「『見たくない現実』から目をそらし・・・米軍が身近にあるのは困る、置くなら沖縄で、と無意識に考えている」(同)本土の日本人に対する厳しい抗議です。私たちはこれを真正面から受け止め、本土でも辺野古新基地反対の世論を高めなければなりません。

 目をそらしてならないのは、「辺野古問題」だけではないでしょう。沖縄が置かれている現実、直面している課題、岐路に立つ沖縄の進路。それは本土の自分たちとどうかかわるのか、自分は何をすべきなのかを考え続けることが、選挙で示された「沖縄の民意」に応えるわれわれの責務ではないでしょうか。


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沖縄知事「押し逃げ承認」、問われる本土有権者

2014年12月06日 | 沖縄と差別

       

 「悔しくて、怒りでいっぱい!」
 5日夕方、沖縄の友人からメールが届きました。仲井真弘多知事が、辺野古新基地建設のため防衛局から提出されていた承認申請2件にハンコを押した直後です。
 前日の4日には、雨の中、2200人の県民が県庁を取り囲み、仲井真知事に「民意はNO!」「絶対承認するな!」と声を上げたばかりでした。

 仲井真氏は先月16日の知事選で大敗し、9日に退陣します。知事選直後は自ら「レイムダックだ」と、「死に体」であることを認めていました。その舌の根も乾かぬうちの「駆け込み承認」、いや「死に体知事」の印「押し逃げ承認」。あまりにも破廉恥な暴挙です。
 
 仲井真氏の暴挙は、もちろん防衛省との連携プレー。というより安倍政権の要請・指示に基づくものです。仲井真氏や安倍首相の頭の中には、「民意」という文字はひとかけらもないことが改めて浮き彫りになりました。

 翁長雄志次期知事はこの暴挙に対し、「正確な情報含め、これからの在り方やどのようにするかも確認し、知事就任後はしっかりと対応する」(6日付沖縄タイムス)と言っていますが、事態はすでに明白です。仲井真氏の「押し逃げ」自体が「承認」の「瑕疵」にほかなりません。これから翁長氏が判断することになる2件の承認事項とともに、「私は新基地建設にかかわる承認は一切行わない。仲井間知事が行った承認も取り消す」と、今こそ言明すべきです。

 この問題で沖縄では怒りが沸騰していますが、本土は相変わらず冷めたままです。私が見る限り、NHKはまったく報じていません。新聞の扱いも地味です(「朝日」が3面3段。「読売」にいたっては4面ベタ、わずか18行)。その論調も、あくまでも沖縄県の問題だというスタンスです。

 しかし、今回のことで一番問われているのは、われわれ本土の有権者ではないでしょうか。

 そもそも沖縄に米軍基地が集中する「構造的差別」は、日米安保=軍事同盟の犠牲を沖縄に集中的に押し付けているからです。それを許しているのは、本土の「日本国民」です。

 さらに今回はそれだけに留まりません。選挙で大敗した知事に、辞める直前に、選挙の争点だった問題で、民意に反することをさせるという、前代未聞の民主主義破壊の暴挙を行って恥じない人物を、われわれは「日本の首相」にしているということです。
 さらに加えて、あろうことかその安倍・自民党が、この総選挙で「300議席を上回る大勝利」を収めるという予測が出ているのです。

 本土の人間に「沖縄への差別をどう思うか」と聞けば、おそらくほとんどすべての人が「良くない」と答えるでしょう。しかし同時に、その「沖縄差別」の責任が自分にもあると考える人は少ないでしょう。
 しかし、もしもこの総選挙で、予測通り安倍・自民が勝つなら、本土の有権者は、選挙の直前に沖縄に対して暴挙をはたらいた安倍政権を支持した、ということが鮮明になるのです。「自分はそのつもりはない」と思っても、沖縄への暴挙を許し、構造的差別を助長することに加担したことになるのです。その責任は免れようがありません。

  「私たちはこの問題を衆院選の最大の争点にするよう、すべての候補者と有権者に呼びかけたい」(6日付沖縄タイムス社説)という沖縄の声を、われわれ本土の人間は真正面から受け止めなければなりません。

 沖縄差別に反対なら、あらゆる差別を憎むなら、そして民主主義を愛するなら、今度の選挙で絶対に安倍・自民党を勝たせてはいけない。
 いま問われているのは、われわれ本土の有権者の、「人の道」です。 
 


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