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アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

丸山議員に対する「辞職勧告決議案」は正当か

2019年05月18日 | 差別・人権

     

 野党6党派は16日、丸山穂高衆院議員に対する「議員辞職勧告決議案」を衆議院に提出しました。「国会全体の権威と品位を著しく汚した」「わが国の国是である平和主義に反し」た、という理由です。

 メディアも「平和国家・日本の国会議員として失格である。速やかに議員を辞職すべきだ」(15日付朝日新聞社説)、「議員として許容される範囲をあまりに逸脱した発言だ。もはや国会に籍を置くべきではなかろう」(15日付毎日新聞社説)などと、辞職を勧告しています。

 これに対し丸山氏はツイッターで、「言論府が自らの首を絞める行為に等しい」(16日付共同配信記事)とし、議員を続けると表明しています。

 丸山氏の「戦争しないとどうしようもなくないですか」(11日、国後島で元島民の訪問団長に)などの発言が、許すことのできない暴言であることは言うまでもありません。その責任は厳しく追及されなければなりません。

 しかし、そのことと、それを理由にした議員辞職勧告は別の問題です。明確に区別して考えねばなりません。

 辞職勧告に関しては、決議案を提出した6党派や「朝日」「毎日」などのメディアの論調よりも、丸山氏の主張の方に正当性があると言わざるをえません。なぜなら、今回の辞職勧告決議案は、国会議員の発言の内容を問題にし、それが議員として失格だと断じるものだからです。

 これまで国会に提出された「辞職勧告決議案」はいずれも、贈収賄や政治資金規正法違反などで逮捕・起訴されたり有罪判決が下された場合に提出されました。刑事事件にかかわる実際の行為がその理由だったのです。しかし今回は、そうした行為ではなく、議員の発言(言論)の内容で議員を辞職させようとするものです。
 これは議員の思想・信条の自由、言論の自由に対する重大な侵害であり弾圧です。戦後の憲政史上大きな汚点を残すものと言わねばなりません。

 「国会全体の権威と品位を著しく汚した」とは抽象的ですが、その意味するところを、日本共産党の志位和夫委員長は16日の記者会見でこう述べています。

 「志位氏は、丸山氏の発言は…戦争の放棄を定めた憲法9条と、閣僚や国会議員などの憲法擁護尊重義務を定めた憲法99条に反する『二重の憲法違反』の『最悪の発言』であり、『まったく国会議員の資格はない』と指摘しました」(17日付「しんぶん赤旗」

 丸山氏の発言の内容が「二重の憲法違反」だから「国会議員の資格はない」というのです。これはきわめて重大で危険な主張です。

 確かに丸山氏の発言は9条など憲法の「平和主義」に反しています。その低劣さ、荒唐無稽さは尋常ではありません。しかし、憲法の平和主義に反している国会議員は丸山氏だけではありません。

 日米安保条約、自衛隊はともに9条などの憲法の「平和主義」違反です。9条に反する発言をする議員は国会議員の資格がないというなら、日米安保・自衛隊を容認・賛美する発言を行う国会議員はみんな国会議員の資格がないということになり、国会に議員はいなくなります。

 憲法99条は確かに、「天皇または摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う」と規定しています。
 しかしその意味は、「権力行使者が憲法に違反する行為を行うときには、これに制裁を科するのは容易ではない。だからこそ、権力行使者の憲法尊重擁護義務を明文で宣言し、注意を喚起しておく必要があると考えられているのである」(高橋和之著『立憲主義と日本国憲法』有斐閣)と解されています。

 また、「立法の担い手である国会議員は、憲法を尊重擁護することを前提として各種の法律を策定しなければならない」(志田陽子著『表現者のための憲法入門』武蔵野美術大学出版局)。さらに、「国会議員など国政上の実質的判断権限を認められている者は、その判断権限の行使に際して憲法に従うことが要求される」(安西文雄九州大教授『憲法学読本』共著・有斐閣)などの指摘(解釈)も合わせると、99条の憲法尊重擁護義務は、あくまでも国会議員の立法活動という権限行使の行為について課せられているものであり、けっして議員の思想・信条、言論を縛るものではありません。

 仮に、国会議員の言論活動の内容がすべて憲法に沿うものでなければならないとするなら、「憲法改正」を毎年党大会で確認している自民党の国会議員は全員議員辞職すべきだということになります。

 また、2004年の党大会で綱領を変えるまで憲法(第1章)に反する「天皇制廃止・共和政」を掲げていた日本共産党の国会議員も、「国会議員の資格」はなかったということになるではありませんか。

 国会議員(政党)の思想・信条、言論活動を権力(「国会決議」もその一種)で縛ることはできません。縛ってはいけません。それはもちろん、現行憲法に対する批判、憲法改正の主張も含めてです。そうでなければ政治(憲法も含め)や社会の進歩・発展はありません。それが戦前・戦中の苦い教訓ではなかったでしょうか。
 議員や政党の主張、政策の是非は自由で活発な言論活動の中で判断され淘汰されていくべきです。

 繰り返しますが、丸山氏の暴言と、それを理由にした議員辞職勧告は別の問題です。暴言を吐いた人物だからといって、その正当な主張まで抹殺することは許されません。


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女性議員・候補を降ろして男性候補を立てる「民主」陣営

2019年05月11日 | 差別・人権

     

 現職の女性議員やすでに活動している新人女性予定候補を降ろして、男性候補を立てる動きが、「民主陣営」といわれている政党・グループで相次いでいます。

 1つは、参院沖縄選挙区をめぐる沖縄社大党・「オール沖縄」陣営です。

  社大党は昨年12月29日、今夏の参院選で再選を目指していた同党の糸数慶子参院議員を突然降ろし、「オール沖縄会議」代表委員で琉球大教授の高良鉄美氏を擁立することを決めました。

 「糸数氏の意向を踏まえずに新たな候補者を擁立した社大の手法に反発」(2018年12月30日付琉球新報)が起こったのは当然です。「『現職下ろし』の印象は拭えない」(同)、いや、印象ではなくそのものズバリです。

 糸数氏はこの党の動きを批判し、当初は無所属でも出馬する意向を示していました。しかし結局、出馬を断念し、「高良氏を応援」することになりました。「平和の一議席をなんとしても守りたい」(糸数氏)一念の苦渋の決断です。

  さる7日、糸数氏と高良氏の共同記者会見が那覇市内で行われ、「玉城デニー知事や県政与党の代表者らも出席し…『オール沖縄』陣営の結束をアピール」(8日付琉球新報、写真左)しました。

 しかし、問題は解決していません。糸数氏が当初説明を求め、市民(「県民の声100人委員会」など)も要求している「候補者選考過程」の説明がいまだに行われていないからです。なぜ糸数氏ではダメで高良氏なのか。なぜ現職女性議員を降ろして男性新人候補を立てるのか?

  もう1つは、4月21日投開票の衆院大阪12区補欠選挙における日本共産党の決定です。

 同選挙ではすでに同党の吉井よし子氏(新人)が公認予定候補として活動していましたが、告示(4月9日)直前の3月31日に突然、志位和夫委員長が記者会見し、吉井氏を降ろして同党の宮本岳志衆院議員(比例近畿ブロック、写真右)を無所属で擁立すると発表しました。

  会見で志位氏は、これは「宮本議員本人からの申し出」で、「党中央として…宮本さんの勇気ある決断を正面から受け止め」、「吉井さんとも相談し吉井さんからも大賛成という意思が表明され」たと述べました(4月1日付「しんぶん赤旗」、写真中)。しかし、これが「党中央」の判断・指示であったことは明らかです。

  「こうした判断をした最大の理由」として志位氏は、「市民と野党の共闘を成功させ、『安倍政権に退場』の審判を下すため」(同「しんぶん赤旗」)だと述べました。
 志位氏とともに会見した宮本氏も、「この大坂12区の補欠選挙で、安倍政権の悪政と真正面から対決できる候補は私しかおりません」(同「しんぶん赤旗」)と述べました。

 しかし宮本氏は「全野党統一候補」とはならず、結果は惨敗。宮本氏は次の衆院選で比例ブロックの候補者に返り咲くと先日発表されました。

 「市民と野党の共闘」のためになぜ吉井氏を降ろして宮本氏なのか、なぜ吉井氏では「安倍政権と正面から対決」できないのか。同党からの説明はありませんでした。

 沖縄の社大党・「オール沖縄」と、大阪の共産党のこうした経過には共通点があります。
 第1に、候補者の変更が突然であったこと。第2に、その経過・理由の明確な説明が行われていないこと。そして第3に、降ろされたのが女性で、替わって擁立されたのが男性だということです。

 第3の共通点ははたして偶然でしょうか。そこにジェンダーの問題がないと言い切れるでしょうか。
 ないと言い切るのなら、明確に説明すべきでしょう。なぜ糸数氏ではダメで高良氏なのか。なぜ吉井氏ではダメで宮本氏だったのか。

 ※お知らせ
 近日中に『「象徴天皇制」を考えるⅡ』を自費出版します。2017年11月に出した同Ⅰの続編です。前著以降、17年6月~直近までの「アリの一言」から「天皇制」に関するもの(110編)をピックアップし、前書きを付けたものです。発行部数のめどをつけるため、今回は事前予約を募集します。詳細は後日お知らせします。よろしくお願いいたします。


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セクハラ(性暴力)・パワハラと「平和・民主運動(組織)」

2019年04月18日 | 差別・人権

      

 写真誌「DAYS JAPAN」の発行人だった広河隆一氏の性暴力事件について、「週刊金曜日」が最新(4月12日)号で<広河隆一氏による性暴力・パワハラと『DAYS JAPAN』最終号を考える>という特集を組んでいます。

 その中で渡部睦美氏(編集部)が、「扱われなかったパワハラと劣悪な労働環境という問題」と題する論考で、「DAYS JAPAN」最終号(以下、最終号)がパワハラ問題に触れていないことについて、こう指摘しています。

 「『パワハラがベースにあったからこそ、被害者は長きにわたり黙らされてきた面もある。パワハラに触れないことは、性暴力の問題を矮小化することだ』など、(株)デイズジャパンの元スタッフたちからは批判の声が聞こえてくる」「今回の問題は性暴力の問題だけに留まらない。反権力の視点を謳ってきた同誌なのだから、自身の会社で見過ごされ擁護されてきた権力の行使の問題、それによるハラスメントの蔓延や劣悪な労働環境について、事実を明らかにし、会社の責任もつまびらかにして、しっかり問うていく必要がある」

  ここにはセクハラ(性暴力)とパワハラの密接な関係が指摘されています。広河氏の性暴力の加害性の無自覚(否定)とパワハラの隠ぺいは表裏一体です。

  それは広河氏・デイズジャパンだけの問題でしょうか?

  最終号は第2部で「性暴力を考える」として識者・関係者の論考・インタビューを掲載しています。これについて乗松聡子氏(ピース・フィロソフィ・センター代表)は、「広河氏の事件の検証にもなっていない検証委の記事とセットで…全体的に個別責任を拡散し、広河氏や株式会社デイズジャパンの責任逃れに加担した結果となったのではないか」(「金曜日」特集号)と指摘しています。

 この指摘は重要です。同時に、それを踏まえた上で、個々の論考には考えるべき問題提起が含まれていることも事実でしょう。

 その1つが、「何もできなかった私の償いとなればと思い執筆した」という白石草氏(OurPlanet- TV代表)の論考です。

 白石氏は、「真にオルタナティブ(大手メディアに代わる市民メディア―引用者)であるならば、組織のあり方こそ、マスメディアを反面教師にすべきだ」として、社会評論家・マイケル・アルバートが掲げる「オルタナティブメディア」の条件として、「意思決定には、組織で働くすべての人が参加すべきであり、可能な限り民主的に行い、権力者が決定するものは避けるべきだ」など5項目を紹介しています。これはけっして「オルタナティブメディア」だけの問題ではないでしょう。

 また最終号第2部には、広河事件とは直接関係のない性暴力被害の実例が12編掲載されています。これにも「証言者にここまでの心理的負担を負わせてまで、必要な特集だったのだろうか」(乗松氏、同前)という問題があります。同時に、その性暴力の複数が「平和・民主運動(団体)」の中で行われたものであることは注目されます。

 「平和・民主運動(団体・政党)」の中でのパワハラは私自身、経験してきたことです。それが原因で退職を余儀なくされた友人(女性)もいます。しかし、「ここは“闘う”組織だ」という建前(口実)で、その問題が正面から問われることはなかった(ない)のではないでしょうか。

 これらの組織において、パワハラと表裏一体のセクハラ(性暴力)はどのような実態になっているのでしょうか。

 広河事件は、「広河氏の被害者たちの『声なき声』こそ隠さず拾い集めた上で『検証』を行い、加害者の責任追及をすること」(乗松氏、同前)が本質的問題です。
 同時に、「この問題を、広河氏ひとりの問題とは感じていない。理想を掲げて『闘う』人間が、身近なコミュニティにおいて、どれほどの振る舞いをしているか」(白石氏、同前)という視点も重要です。

 広河事件の真相究明・加害責任の追及を、個別責任を拡散させることなく行うことと並行して、「平和・民主運動(団体・政党)」の個人・組織の実態にメスを入れ、長年のウミを出すことが求められているのではないでしょうか。


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広河隆一性暴力事件「検証委員会」はなぜ被害者の声を聴かないのか

2019年03月30日 | 差別・人権

     

 写真誌「DAYS JAPAN」の発行・編集人だった広河隆一氏の性暴力事件について、同誌最終号(同誌は休刊)に「広河隆一性暴力報道を受けて 検証委員会報告」が掲載されました。当初の予定(約束)を1カ月延ばしての発行ですが、その内容には根本的な問題があると言わざるをえません。

 そもそも、今回の「報告」は検証委員会としての「最終報告」ではなく、「中間報告」ですらありません。
 冒頭、最終号発行人兼編集人・川島進氏は、「最終報告に至るまでの十分な時間を確保できなかった」ので今回の「報告」は「経過報告」にすぎず、「検証終了後の最終報告は…DAYSJAPAN誌上では行うことはできない」「最終報告はホームページ上で公表していく予定」だとしています。
 「報告」で検証委員会(金子雅臣委員長)も、「諸々勘案の上、本誌面上で、正式な意味での『検証委員会としての中間報告』という形式をとることは控えざるを得なかった」と述べています。

 しかし、「週刊文春」で報道されてからでも3カ月、当初の予定を1カ月延ばしてまで発行した最終号が、「最終報告」はおろか「中間報告」ですらないとは、いったいこれまで何をしてきたのでしょうか。

 しかも「最終報告」はいつになるかもわからず(その予定すら述べられておらず)、その公表も誌面ではなくホームページ上とは。同社は今回の事件の重大性を本当に認識しているのでしょうか。

 同社および検証委員会の認識を疑わせるのはそれだけではありません。

 今回の「報告」のタイトルは冒頭書いたように、「広河隆一性暴力報道を受けて」です。「性暴力事件を受けて」ではありません。これでは問題は広河氏の性暴力自体ではなくその「報道」だということになります。
 これは広河氏が一貫して被害者を被害者と言わず、「告発した人」「取材を受けた人」などと称して自らの加害性を隠ぺいしようとしていることと通底するのではないでしょうか。

 さらに、決定的で根本的な問題は、検証委員会が肝心の被害女性らの声をまったく聴取していないことです。結果、「報告」には被害者の証言は皆無です。

 「報告」にあるのは広河氏に対する「ヒアリング」とそれに対する調査担当者のコメントだけです。これでは、いくら調査担当者のコメントをつけようと、「報告」が広河氏の弁明の場になっていることは否めません。

 第2部(性暴力を考える)の編集を担当した林美子氏(元朝日新聞記者・「メディアで働く女性ネットワーク」代表世話人)は同誌で、「取材者としては、広河氏から被害を受けた方にも、その内容を記事にするかどうかはともかく直接話をうかがいたいと強く思った。被害者の思いをすべての出発点にする必要があると感じていた」と述べていますが、これが当然の感覚ではないでしょうか。

 林氏は、「人を介して数人の方にお願いしたが、残念ながら実現しなかった」とし、「長年、広河氏と事実上一体だった企業及び雑誌としてのDAYSJAPANへの不信感と、突然現れた最終号の編集体制を信頼できない思いがあることが推察された」と述べています。 

 林氏の「推察」が正当かどうかは別にして、検証委員会の「報告」には被害者からの聴取を試みたという記述はまったくありません。
 というより、検証委員会は始めから被害者の声を聴くつもりはなかったのではないでしょうか。
 委員長の金子氏は、広河事件についての雑誌の対談で、こう述べています。 

 「日本の場合、とにかく加害者に語らせないですよね。それどころか、告発者探しをして、被害者にマイクを突き付けてしまう。…男性に語らせないといけない。なぜこんなことをしたのか語らせる状況にきてはじめて、この人を訴えてもよいのだということが女性に伝わるんです」(「世界」3月号)

 これはきわめて奇異で重大な発言です。問題は言うまでもなく、性暴力(同意なき性交渉)があったかどうかの事実です。その事実があれば被害者が加害者を訴えるのは当然です。ところが金子氏は、男が「なぜこんなことをしたのか語らせる状況にきてはじめて」被害者が加害者を「訴えてもよい」のだと言います。本末転倒も甚だしいと言わねばなりません。

 しかも、広河事件の場合、被害者はすでに週刊誌上で告発をしています。「告発者探し」「マイクを突きつける」云々も該当しません。

 このような考えを持つ金子氏が委員長になった検証委員会の「報告」が被害者抜きになったのは当然かもしれません。逆に、被害者抜きの「報告」にするために、金子氏を検証委員会の委員長に据えたと言えるかもしれません。

 同誌にコラムを連載している斎藤美奈子氏(文芸評論家)は、「広河事件の背後に見えるもうひとつの闇」と題した最終号のコラム(写真右)で、「謝罪文と検証予告が載った前号の後」、当時の編集長と2人の編集部員が「最終号で徹底検証、徹底報告すべき」と主張したにもかかわらず「会社側が了承せず」、3人は「やむなく退社に至ったと聞く」「早々に検証に乗り出した弁護士の解任も不信の念を抱かせる」と述べています。そして、こう結んでいます。「この期に及んで事実の解明と公表を、まさか経営陣が拒んでいるのか」。

 「検証」のはずの最終号「検証委員会報告」は、「広河事件」の”闇“をいっそう深めるものになったと言わざるをえません。


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「盗骨」にみる植民地主義と“京大関係者”の責任

2019年03月23日 | 差別・人権

     

 21日付の琉球新報(社会面トップ)は、「台湾大の遺骨返還」の見出しで、「昭和初期に旧帝国大学の人類学者らによって沖縄から持ち出された遺骨63体が20日までに、保管されていた台湾の国立台湾大学から沖縄側に返還された」と報じました。

 同時にその横で、前田朗東京造形大教授が19日、国連人権理事会の本会議で、日本の旧帝大がいまだに沖縄に遺骨を返還していない問題を報告し、「琉球の人々は(日本人から)差別の対象とされてきた」と指摘したニュースを載せました。「琉球人骨問題が国連人権理事会本会議で報告されたのは初めて」(同琉球新報)です。

  アイヌ民族の人骨が掘り返され、北海道大学、大阪大学などに研究資料として持ち去られた問題は以前から知っていました。しかし、琉球民族も同様の被害に遭い、しかも返還に関してはアイヌの場合よりも苦しい状態に置かれていることを知ったのは一昨年くらいからで、さらにそのことの重大な意味が分かったのはつい最近です。不明を恥じねばなりません。

  問題の重大な意味を教えてくれたのは、『大学による盗骨―研究利用され続ける琉球人・アイヌ遺骨』(松島泰勝・木村朗編著、耕文社・2019年2月)です。

 「盗骨」した旧帝大の中でも、最も責任が重く悪質なのが京都大学(写真中)です。

  発端は今からちょうど90年前の1929年、京大医学部の足立文太郎教授が金関丈夫助教授に「琉球人骨の採集」を命じ、金関が今帰仁村の百按司(むむじゃな)墓から遺骨を持ち出した(盗んだ)ことに始まります。

  しかし、これは遠い過去の話ではありません。京大は盗んだ琉球人骨を返還しないだけでなく、松島泰勝氏(龍谷大教授)らの再三の返還要求を一蹴したばかりか、保管に関する情報の公開もせず、何度も京大に足を運んだ松島氏らと会おうともせずに門前払いし続けたのです。

 松島氏らはやむをえず「琉球人遺骨の返還を求めて」京大を提訴し(2018年12月4日、京都地裁)、今月8日に第1回口頭弁論が行われました。京大は「違法性はない」とする答弁書を提出し、「全面的に争う姿勢」(6日付琉球新報)です。

 これはたんに遺骨が盗まれたという窃盗事件ではありません。

 「遺骨返還問題は、日本植民地主義の『学問』によるレイシズムを浮き彫りにした。…第二次大戦後、日本国憲法の下で自らの植民地主義を清算することなく、継承した経済学や人類学。返還要求を前に、先住民の声を圧殺しようとする現在の学問の権威主義。日本の学問にはレイシズムが貫かれている。そのことを自覚できないレイシズムである」(前田朗氏、前掲『大学による盗骨』)

  問題の根は広く深いのですが、ここで問いたいのは、京大、そして京大に関係する人々・組織の責任です。

  京大大学院教育学研究科教授の駒込武氏は、前掲書の書評で、こう述べています。
 「評者(駒込氏)自身、松島氏らによる遺骨返還要求を何度もはねつけてきた京都大学に籍を置く『研究者』である。心と体の大半を『狂っている』世界の側に置いている。…決して他人事ではない。だからこそ京都大学の中にあって京都大学執行部の責任を問わねばならないと痛感させられた。
 本書の読者のネットワークが京都大学を取り囲み、内部からの動きがこれに呼応して植民地主義的な無責任の厚い壁を突き崩す事態を夢見たい」(10日付琉球新報)

  私は1973年4月から78年3月まで文学部の学生として京大に在籍していました。そして、差別や国家権力とたたかう(としている)グループ・組織にも入っていました。しかし、恥ずかしながら、京大の「盗骨」問題はまったく知りませんでした。このことの責任を自覚しなければならないと思っています。

  京大には職員組合も、共産党の組織もあります。それらの組織がこの問題に取り組んでいる(取り組んだことがある)ということも聞いたことがありません。それらのいわゆる「民主的組織」の責任も免れません。

  このブログを読んでいただいている方の中には、私の友人知人も含め、京大の卒業生・関係者が少なからずいらっしゃると思います。どうかまず、『大学による盗骨』を一読してみてください。
 そして、「厚い壁を突き崩す」ために何をすべきか、一緒に考えませんか。


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「広河隆一手記」を反面教師にして

2019年03月12日 | 差別・人権

     

 性暴力事件で告発を受けた広河隆一氏(「DAYS JAPAN」元発行人)が月刊誌「創」(4月号)に「手記」を寄せています。
 「『性暴力』について謝罪し30年遅れで学ぶ」というタイトルですが、「謝罪」という言葉とは裏腹に、いまだに加害者としての自覚がなく、自己弁護に終始しているものです。
  「広河事件」は広河氏だけの特殊な問題ではありません(1月10日のブログ参照)。今回の「手記」を反面教師にして、あらためて問題の所在を考えたいと思います(以下、広河氏の発言は同「手記」より)。

 「手記」は次の文章から始まります。
 「私は、『性暴力』というものを理解していなかった。身体的な暴力をふるっていないこと、相手と合意があったことを理由に、『性暴力』は自分には関係がないと考えていた。拒否されずに受け入れられたとしても、自分の行為が『性暴力』と評価されうるのだ、ということを指摘されるまで全く理解していなかったのだ。そのことを今ようやくわかろうとする過程にあると思うようになった」

  この文章は「手記」の全体を、そして広河氏の現在の認識・姿勢を象徴的に表しているといえるでしょう。
 一見、反省しているようにみえますが、注意深く読むと、実際は逆です。広河氏はここで、「私は…身体的な暴力をふるっていない」「相手と合意があった」「拒否されずに受け入れられた」と繰り返しているのです。
 そして「今ようやくわかろうとする過程にある」のは、自身の行為自体の意味ではなく、「自分の行為が『性暴力』と評価されうるのだ」とう「評価」の問題、「評価」への恐れです。

  一見”反省“しているように見せながら、実は自己弁護に終始し、自己保身を図る。これは被害者に対する新たな加害行為に他ならないのではないでしょうか。

  「性暴力」とは何でしょうか。
  社会的に「上位」にある者がその「地位」を利用し(背景にし)、性交を強要することが「脅迫的な非身体的暴力」であることは広河氏も認めています(認めざるをえない)。
 しかし、それだけでしょうか。望まない(合意のない)性交を強いることは、精神的な暴力であると同時に、直接身体にダメージを与える「身体的暴力」でもあるのではないでしょうか。「身体的な暴力をふるっていない」と言い切ることは、加害者の身勝手な解釈ではないでしょうか。

  関連して問題は、広河氏が「合意があった」「拒否されずに受け入れられた」と繰り返し言っていることです。

  最高裁はこのほど、専門家の講演録などから「研修資料」を作成し、全国の裁判所に配布しました。その中で、「被害者側は『恐怖から反射的に動けなくなることが多いのに、抵抗しなかったのは暴行、脅迫がなかったためだと認定する判決がある』として、被害者の心理を理解していないと訴えている」(2月18日付中国新聞=共同配信)といいます。
  「研修資料」の情報源の1人である小西聖子武蔵野大教授(精神科医)は講演で、「多くのケースで自分より体の大きい加害者に直面すると、被害者は恐怖で体が凍り付く。強いショックから感情や感覚がまひし、被害状況を記憶できないケースもある」(同)と強調しています。

 これが、広河氏が「拒否されず受け入れられた」と言っていることの実態です。「合意」などといえるものでないことは明白です。

 広河氏は「『不本意な合意』などという言葉があることを知った」と言っていますが、その意味を本当に理解しているなら、「合意があった」とは間違っても口にできないのではないでしょうか。

 広河氏が「暴力」「合意」についての誤った認識に固執し、自らの「性暴力」に対して根本的な反省をまったく行っていないことは、被害女性を「取材に応じた女性」「取材を受けた方たち」と呼び、けっして「被害者・被害女性」とは言っていない、言おうとしないことに端的に表れています。
 それは最初の「謝罪文」(2018年12月26日)で「取材に応じられた方々」と称して以来、広河氏の一貫した姿勢です。

 被害者を被害者と言わないのは、自らを加害者と認識しない、すなわち加害責任を自覚していないことと同義です。それどころか、「どこに行っても軽蔑の目にさらされているように思え…」などと自分をまるで被害者のように描くのは言語道断です。

 自らの行為の加害性・加害責任を明確に認識し、それを自らの言葉で表明し、真摯に反省する。それが加害者が被害者に対して行うべきことの第1歩ではないでしょうか。
 そして、加害者の更生の道も、そこからしか開かれないのではないでしょうか。


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「広河隆一事件」は他人事だろうか

2019年01月10日 | 差別・人権

 「フォトジャーナリスト」で雑誌「DAYS JAPAN」の発行人だった広河隆一氏が地位を利用して複数の女性に性的関係を迫った「性暴力事件」を告発した「週刊文春」(1月3・10日号)の記事が波紋を広げています。

 デイズジャパン社は12月26日に「声明」を出し、独自に広河氏から聴取した結果、同氏を12月25日付で代表取締役、取締役から解任したと発表しました。

 さらに同社は12月31日の2回目の「声明」で、広河氏からの「聞き取りを通じて、記事で取材に応じられた方々以外にも、同種の件があったことを確認」し、「今回報じられたような『性暴力』とは別に、社員や協力スタッフに対するパワーハラスメントと評されるべき事態が複数回」あったことも明らかにしました。
 同社はさらに調査をすすめ、「広河氏個人の過去の言動による被害実態」や、同社の体質について、休刊前の最終号で明らかにするとしています。

  当の広河氏は私が知る限り、「文春」報道以降、公に発言したのはデイズジャパンのHPに載った12月26日付の「コメント」だけです。

 この中で広河氏は、「取材に応じられた方々の気持ちに気付づくことができず、傷つけたという認識に欠けていました。私の向き合い方が不実であったため、このように傷つけることになった方々に対して、心からお詫びいたします」と述べています。これだけです。

  被害者を「取材に応じられた方々」と第三者的に称し、自らの行為を「向き合い方が不実」だったとするなど、問題の本質をとらえた謝罪とはとうてい言えません。
 広河氏は、事実と向き合い、被害者の声を真摯に聴き、自らの言動の意味を熟考し、文字通り心からの反省と謝罪を表明すべきです。

  そしていま、考えねばならないのは、今回表面化した「広河事件」は、広河氏だけの問題だろうか、ということです。

  ジャーナリストの乗松聡子氏(「アジア太平洋ジャーナル・ジャパンフォーカス」エディター)は、12月30日付琉球新報の連載コラム(「乗松聡子の眼」)で、<広河隆一氏の性暴力 女性差別抜け落ちた「人権」>と題してこの問題を取り上げ、「性暴力」の重大な犯罪性を指弾するとともに、こう指摘しています。

  「社会的正義を訴え、弱者を救済する仕事で尊敬を集めていた人物が、傍らでは女性の権利侵害の常習犯だったということは、衝撃をもって受け止められているが、これは氷山の一角ではないだろうか。
 私から見ると、いわゆる『平和』『人権重視』を自認する個人や団体の行動に、その守るべき人権やなくすべき差別から『女性』がすっぽりと抜け落ちていると感じることは少なくない。
 『正しいこと』をしているが故に、セクハラやパワハラが起こっても、被害者がより声を上げにくくなっているような状況を何度も目撃してきた。
 今回明るみになった広河氏の事件を社会全体で重く受け止め、真相究明、責任追及、被害者の支援・救済、加害者の更生に真剣に取り組むことこそが、将来にわたって泣き寝入りする被害者を一人でも減らすための道である信ずる」(改行は引用者)(https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190104-00000008-ryu-oki

  外では「民主的」なことを言っていても、家では「亭主関白(男尊女卑)」、という話は昔から珍しくありません。あるいは、「女性の人権」が一般論にとどまり、肝心な身近な「女性」、家庭や職場の女性に及ばない。まさに「守るべき人権やなくすべき差別から『女性』がすっぽりと抜け落ちている」のです。

  「平和・人権」団体だけではありません。「ジャーナリズム」(メディア)の世界もこの傾向が強い社会です。
 そこは、自らの仕事・活動は「平和・人権・民主主義」を守っているのだという不遜な自負が蔓延し、さらに「先輩・後輩」、「師匠・弟子」の上下関係がはびこっているムラ社会です。広河事件の加害と被害の関係がそれを端的に示しています。伊藤詩織さんに対する元TBSの山口敬之氏の事件も同じです。

  私自身、男性として、かつて「平和と民主主義」を標榜する団体に身を置いていた者として、そして今も「ジャーナリスト」を自称している者として、自らの過去と現在を振り返り、乗松氏の指摘を他人事ととらえることはできません。

  広河氏や山口氏のように極端で表面化しなくても、それに類するような、あるいはそれに行きつくような言動は身近にあるのではないでしょうか。
 「平和・民主団体・組織」「メディア社会」であるのに、いや、あればこそ、表面化しない、しにくいという実態があるのではないでしょうか。

  「Me too」は性被害を受けた(受ける)被害者・女性の運動と思いがちですが、加害者あるいは加害者になる可能性が大きい男性にとっても、とりわけ「平和・人権・民主」団体・組織、ジャーナリズム(メディア)に身を置く男性にとって必要なのではないでしょうか。


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「優生手術被害者」と「戦時性奴隷(慰安婦)」

2018年12月08日 | 差別・人権

     

 旧優生保護法(1948~96年)によって強制的に不妊手術された被害者・家族が4日、「優生手術被害者・家族の会」を結成しました。この日参院議員会館で行われた集会で、共同代表の男性(東京都、75歳)が、会の「声明」を読み上げました。

 「国は悪かったことを認め謝ってほしい。私たちの気持ちを尊重し、納得できる(被害回復の)法律をつくってください」(5日付沖縄タイムス)

 もう1人の共同代表の女性(宮城県、70代)も訴えました。「多くの被害者が高齢。一日でも早く解決してください」(同)

 「被害者救済法」については、与党(自民・公明)と超党派議員連盟がそれぞれ「法案骨子」をつくっていますが、いずれも重大な問題を含んでいます。

 「二つの法案の骨子には『反省』『おわび』の言葉はあるものの、旧法(旧優生保護法―引用者)の違憲性や明確な責任主体には触れていない。明記した『心身への苦痛』は、何を根拠に誰の責任でもたらされたと考えているのか判然としない」
 「被害認定の第三者機関を厚労省内に置く案への反発も根強い。背景にあるのは国への不信感だ。旧法改正から20年以上も被害回復の対応をとらず、国家賠償請求では『違憲性への認否』を示さず争う姿勢を示している。被害者らの不満は鬱積し『不祥事を起こした組織に認定業務を監督させるなどあり得ない』との声も聞かれる」(共同通信・阿部拓朗記者、11月24日付中国新聞=共同)

 こうした「被害者救済法案(骨子)」の問題をみると、すぐに気づくことがあります。それは戦時性奴隷(日本軍慰安婦)についての「日韓合意」(2015年12月28日)ときわめてよく似ていることです。

 「日韓合意」は「慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり、かかる観点から、日本政府は責任を痛感している」としています。これは、「関与」を認めるが「軍(政府)」は責任の主体ではないということです。ここでも、「明確な責任主体には触れていない」、主体としての国の加害責任を回避しているのです。

 さらに「日韓合意」は、「元慰安婦の方々の心を癒す措置を講じる」として、「和解・癒やし財団」へ「10億円」を拠出しました。これは被害者に対する国家賠償を回避する代わりに、”恩恵“として「癒し」事業を行うというものです。岸田文雄外相(当時)は「合意」直後に、「10億円」は「国家賠償ではない」と明言しました。「国家賠償」を拒否する。これも共通点です。

 「おわび」や「謝罪」の言葉は使うものの、国の責任は回避し、恩恵的に「救済措置」をとる。これが日本政府の共通した姿勢です。
 被害者・家族らが求めているのは、国が主体責任を認め、謝罪し、それを国家賠償という形で表すことです。それをあくまでも回避・拒否しようとする国(日本政府)に対し、被害者・家族が怒りの声を上げるのは当然です。

 2つの問題にはさらに共通点があります。それはいずれも根底に日本(政府・国民)の差別(政策・意識)があることです。
 旧優生保護法による強制的不妊手術は、「優生思想」という、「障害者」らに対する差別よって強行されたものです。「戦時性奴隷」も、女性差別はもちろん、朝鮮人女性らに対する民族差別が生み出したものです。

 いずれも国の差別思想・政策によってもたらされた2つの歴史的犯罪に対し、日本政府がその責任を認めようとしないことは、この国が差別に対していかに無反省な国であるかを示すものです。

 「多くの被害者が高齢。一日でも早く解決」しなければならないことも共通しています。

  さらに重要な共通点は、問題は政府だけではないことです。

 「優生手術救済法案(骨子)」の欠陥は、前述の通り、与党案だけでなく、超党派議員連盟の案にも共通しています。「日韓合意」についても、政府・与党だけでなく全ての野党が基本的に賛同・評価しています。
 歴史的な差別政策に対する無反省は、政府だけでなく、強弱の差はあっても日本のすべての政党に共通しているのです。
 これが敗戦後73年の日本の現実であることを凝視する必要があります。


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長期収容・病死・自殺・・・放置できない”入管地獄“

2018年10月11日 | 差別・人権

     

 ※「自衛隊と「旭日旗」<下>」は後日書きます。

  「外国人収容者と共にありて」と題し、大村入国管理センター(長崎県、写真左)に収容されている外国人たちに寄り添い、人権擁護に尽力している柚之原寛史牧師の活動が、先日テレビで放送されました(9月30日のNHK・Eテレ「こころの時代」)。

  柚之原さんが面会したイラン人の男性は、反政府活動で弾圧され、来日して難民申請しました。しかし日本政府はこれを認めず、「不法滞在」として大村入管に収容しました。施設内で横行している人権侵害を男性は「手紙」に書いて柚之原さんに手渡しました(写真中、右が柚之原さん)。

 「24 じかん 365 にち…カメラで かんしされている…せいしんてきに いじめられて います…」

 手渡しながら訴えました。「私は入管の本当の状況を、今ここで教え、お話しをしたので、これから何をされるかわかりません。この状況を外の人たちに伝えて、私たちを助けてください

  大村だけではありません。「脱衣所にも監視カメラ 外国人収容 茨城の入管施設 プライバシー抵触も」の見出しで、東日本入国管理センター(茨城県牛久市)の実態を、中国新聞(共同配信、9月24日付)が報じました。

 「6月以降、センターは複数のシャワー施設の通路や脱衣所にビデオカメラを設置。収容者のシャワーブースへの出入りを撮影し始めた。…今回のカメラ設置の判断に収容者の性別は無関係で、女性の場合であっても検討するとしている」

  これらはほんの氷山の一角です。入管施設では「プライバシー侵害」どころか、命にかかわる状況が続いています。
 その実態を月刊「イオ」(朝鮮新報社発行)が今年5月号から3回にわたって「緊急ルポ・入管の収容問題を追って」と題して連載しました(写真右)。その中から―。

  「収容されることが決まった時に携帯電話で妻に連絡を取ろうとしたら、急に顔から床に叩きつけられて数人がかりで腕をねじ上げられ、『息ができない』と言ってもしばらくやめてもらえなかった」(クルド人男性)

 「1年半前くらいにつかまって、ずっと胸が痛いって言っていたのに、病院に連れて行ってくれなかった。2月6日に初めて外の病院に行った。マンモグラフしたら乳がんだった」アフリカ人女性)

 「ビザがないだけ。でも難民申請している。泥棒もしていない、人だましていない、殺していない。日本のやり方100%悪い。保険もない。わたし死んじゃって関係ない?」(クルド人男性)

  そもそも「収容されるかどうか、仮放免になるのかどうか、特別残留許可がおりるのかどうか…など、すべてにおいて基準がなく、入管側の恣意的な判断で決まる。そして理由を明かさない」(「イオ」5月号)。

  事実、大村でも「今までは1年くらいで仮放免されてきたが、昨年から許可されなくなった。なぜなのか理由は示されていない」(柚之原氏)。
 大村入管の被収容者たちが今年はじめ提出した「要望書」によると、「収容者120人中収容期間が1年を超えている者は大半を占めており、2年から3年の者は40人以上もいるという異常事態」(「イオ」7月号)です。
 仮放免されても、その期間中は労働が禁止されているため、家族の生活は危機に瀕します。

 収容期間の長期化にともない、「自殺や自殺未遂が相次いでいる」(前出中国新聞)という深刻な状況になっています。先の牛久入管では、「2010年に日系ブラジル人と韓国人の2人が自殺、14年3月にはイラン人とカメルーン人が相次いで病死、17年3月にもベトナム人が病死」(「イオ」6月号)しています。

  「入管施設の収容期間は法的な上限がない。法務省のまとめでは7月末時点で全国17の入管施設に拘束中の1309人のうち709人(54%)が半年以上の収容で、過去5年で最高の割合。5年以上の収容者もいる」(同中国新聞)

  「そもそも入管の収容問題の根本的な原因は、日本の難民受け入れ政策(受け入れ拒否―引用者)と外国人労働者政策にある…国益のために(外国人を労働力として―同)利用しながら、不都合になると突き放す。日本政府によるダブルスタンダードは根底の部分で、戦後の在日朝鮮人政策につながっている。在日朝鮮人の収容と強制送還を目的として1950年から機能し続けてきた大村収容所の跡地で、現在もなお外国人に対する人権侵害が横行していることも、もちろん偶然ではない」(「イオ」7月号・黄理愛記者)

  私たちのすぐ近くで、いまこの瞬間にも、無法状態の入管施設内で外国人に対する人権侵害が横行し、被収容者の体と命が危険にさらされ、家族の生活が危機に瀕しています。この現実を直視し、絶対に許してはいけません。


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辛淑玉さんの「亡命」の危機は絶対に傍観できない

2018年03月05日 | 差別・人権

   東京MXテレビが「ニュース女子」で沖縄の基地反対運動をまったくのデマで中傷・攻撃した問題で、「扇動する黒幕」などと名指しされ右翼から標的にされている辛淑玉(シンスゴ)さん(在日コリアン3世、人権団体「のりこえねっと」共同代表)が、ヘイトクライムから身を守るため、ドイツに事実上亡命せざるをえなくなっていることが、4日の沖縄タイムスの報道(写真)で分かりました。

 同番組に対しては、辛さんがBPO(放送倫理・番組向上機構)放送人権委員会に人権侵害を申し立て(2017年1月27日)、同放送倫理検証委員会が「重大な放送倫理違反があった」と断定(同12月14日)、MXは謝罪も訂正もしないまま「ニュース女子」を今月末で終了すると発表(1日)しました。どちらに正義があるかは明々白々に決着がついています。

 しかし、問題はこれで終わったわけではありません。

 辛さんが沖縄タイムスに寄せた手記(全文)を同紙(4日付)から紹介します(太字は引用者)。

 < この間のMXの対応はひどいものでした。彼らは、一度として私に謝罪をすることも、ありませんでした。放送事業者としての責任を全く理解していないからです。これは番組を制作したDHCグループの問題ではありません。

 日本で進行している在日に対する迫害は現在、言論やメディアによる段階から、特定のターゲットに対する物理的なテロの段階へと移りつつあります。2月23日には、朝鮮総連に対する極右の銃撃事件が発生しました。

 私がドイツに逃れたのは、極右テロからの自衛であり、事実上の「亡命」です。旧大日本帝国は父祖の地を奪い、MXは私のふるさとを奪いました。帰れるところは無いのです。

 虚偽報道でその原因を作ったMXは1年以上もたって、DHCに逃げられ、番組中止を発表する。どれほどズレているのか、と言わざるを得ません。

 極右テロは、メディアがまずターゲットを指さし、極右のならず者が引き金を引く形で連携的に起こるのです。組織的でなくても、観念の連携があればテロは起こります。IS(イスラミックステート)の宣伝サイトをみて共鳴した人物がテロを起こすのと同じです。

 さらに、問題が深刻であるのは、メディアがターゲットを指さしたとき、テロを実行するならず者たちは、その情報の真偽をほとんど確かめないことです。こうして、フェイク情報がテロを誘発する。

 だから、たとえBPOがこの番組をフェイクで、辛淑玉に対する人権侵害だと指摘してくれても、極右のならず者たちがテロを思いとどまるという保障はない。まして、このフェイク映像は、この時点でもまだネットに垂れ流されている。きわめて危険な状態なのだと思います。

 「まさか自分は大丈夫。今回のできごとは辛淑玉という特別で例外的なケースに起こっていることだから」。そういう認識をもっている人はまだまだ多いように思います。
 
その壁もあっという間に超えると思います。>

 辛さんの恐怖・怒りはいかばかりでしょう。
 辛さんの指摘の通り、フェイク情報とテロの関係はけっしてひとごとではありません。「ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった。私は共産主義者ではなかったから…社会民主主義者…労働組合員…そして、彼らが私を攻撃したとき、声を上げる者は誰も残っていなかった」というニーメラー牧師(ドイツ)の言葉を思い出します。最初に標的にされるのは、先頭に立ってたたかっている人びとです。

 在日朝鮮人などに対するヘイトスピーチ、ヘイトクライムと私たちの関係はもっと深刻です。なぜなら、ヘイト(民族憎悪)を生んでいる土壌は他民族・マイノリティーを差別する日本社会にあり、私たちはその主権者だからです。

 私たちは、右翼テロや国家権力による言論弾圧・思想信条の自由侵害を受ける被害の側の一員であると同時に、帝国主義・植民地支配の歴史を反省し教訓化することができていない加害の国の主権者として、辛さんの苦境・危機を絶対に傍観することはできません。


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