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アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

岡村隆史発言の何が問題か

2020年05月04日 | 差別・人権

    

 漫才コンビ「ナインティナイン」の岡村隆史氏は、4月23日深夜のラジオレギュラー番組「オールナイトニッポン」で行った発言に対し、ネットを中心に批判が噴出したことから、29日に所属する吉本興行のサイトで「謝罪」するとともに、30日深夜の同番組でも「謝罪」しました。問題の本質はどこにあるでしょうか。

 <発端になった23日深夜の発言>

 岡村氏はリスナーからの「コロナの影響で、今後しばらく風俗には行けない」というメールを紹介し、こう述べました。
 「コロナが収束したら、もう絶対面白いことあるんです」
 「収束したら、なかなかのかわいい人が短期間ですけれども、お嬢(風俗嬢)やります」
 「短期間でお金を稼がないと苦しいですから。3カ月の間、集中的にかわいい子がそういうところでパッと働いてパッとやめます」
 「だから、今、我慢しましょう。我慢して、風俗に行くお金を貯めておき、その3カ月のために頑張って、今、歯を食いしばって踏ん張りましょう」(出典・4月26日「FLASH」。藤田孝典氏のサイトより)

 <29日および30日の「謝罪コメント」>

 「私の発言により不快な思いをされた方々に深くお詫び申し上げます。大変申し訳ございませんでした。世の中の状況を考えず、また苦しい立場におられる方に対して大変不適切な発言だったと深く反省しております」
 「コロナウイルスで緊急事態宣言が日本全国に出されている状況で、多くの人が不自由な生活、苦しい状況にある中で、大変失礼な発言をしてしまいました。今、コロナをはじめ、経済的な問題で生活が苦しくて、やむをえず風俗業に就く方がいらっしゃることへの理解や想像力を欠いた発言をしてしまいました」

 岡村氏の「謝罪」には2つの特徴があります。1つは、発端の発言を「不快」「不適切」「失礼」としか捉えられていないこと。もう1つは、コロナ禍の「今」の状況を考えなかったことが問題だったとしていることです。
 これでは謝罪になっていません。

 第1に、今回の発言は「不快」「不適切」「失礼」という種類の問題ではありません。女性(風俗業に就いている人に限らず)の尊厳を踏みにじり、人権を侵害した明確な差別発言です。岡村氏には一貫してその認識がありません。

 第2に、今回の発言は現在のコロナ禍に発せられたから問題なのではありません。「風俗業」に携わる女性に対する蔑視・差別が固定化されており、それを問題と考えないところに根本的問題があります。
 岡村氏は「風俗通い」すなわち買春自体は否定していません。「我慢して、風俗に行くお金を貯めて…」などと推奨したことは「謝罪」の対象になっていません。前掲の「FLASH」によれば、岡村氏は「風俗野郎A」を自称し、風俗通いをネタにしているといいます。今回の発言に限らないこうした「風俗」に対するとらえ方についての自己省察・反省はまったくありません。

 重要なのは、以上の2点は、岡村氏だけの問題ではないことです。岡村氏に限らず、ニッポン放送、吉本興行の「謝罪コメント」、さらにメディアの報道にも、こうした本質的指摘はありません。

 さらにより重大なのは、「風俗業」あるいは「水商売」に携わる女性に対する蔑視・差別は、政治・行政、国家によってつくられ、助長されていることです。

 今回のコロナ禍でもそれが表面化しました。厚労省は3月10日に発表した「新型コロナウイルス感染症による小学校休業等対応支援金支給要綱」で、「接待飲食等営業」「性風俗関連特殊営業」に従事する人々には支援金を支給しないと決めたのです(4月16日のブログ参照)。

 政府・厚労省のこの差別は、その後厳しい批判にあい、ひとまず撤回されたようですが、反対・批判の声が上がっていなければそのまま差別政策は実行されていました。

 しかし、たとえ今回の差別政策は撤回されても、それは現状が固定化されるだけで、問題の解決にはなりません。
 「ポルノ被害と性暴力を考える会」(「ぱっぷす」)は、4月5日、加藤勝信厚労相に「要望書」を提出し、今回の「支援金」をめぐる差別を撤回するよう強く求めるとともに、こう指摘しました。

 「性風俗営業の従事者がさらされている感染リスクは、この危機的状況下に限らず、平時より存在する望まぬ妊娠や性感染症のリスク、客や事業者からの暴力のリスクと切り離すことができません。
 こうした実態に即した支援策として、スウェーデンなどの先進国では、政府が性風俗営業の従事者の生活を保障した上で性風俗営業以外の職につくための支援を行っています
 「本来こうした公的支援を提供すべき」責任が政府にはある、という指摘です。

 岡村氏のように「風俗通い」(買春)を悪びれず吹聴する女性差別。それが問題にならない日本社会。その社会の実態が政府(国家)の差別政策を許し、その政府の差別政策が市民・社会の差別を助長する。この差別の連鎖を断ち切らなければならない。それが今回の「岡村発言」問題が提起していることではないでしょうか。


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コロナ対策協議から木村英子議員(れいわ)を排除した与野党

2020年03月23日 | 差別・人権

    
 20日の東京新聞に次のベタ記事がありました。全文転記します。

< 重度障害のあるれいわ新選組の木村英子参院議員は十九日、国会内で記者会見し、新型コロナウイルス対策に関する政府・与野党連絡協議会への参加を断られたと明らかにした。「障害者は感染すると重篤になる恐れがある。私も障害者の防御対策に意見を述べたい」と与野党に抗議した。
 立憲民主党に出席を要望し、立民が自民党と協議したが、れいわが少数政党であることを理由に合意に至らなかったという。
 木村氏は、感染拡大で障害者宅にヘルパーが派遣されないといった問題が起きていることに触れ「一番実行力がある協議会に要望しないと、当事者までケアが届かない」と語った。>(写真左は記者会見する木村議員。木村議員のオフィシャルサイトより)

 翌21日、琉球新報も次のベタ記事を載せました。全文転記します。

< れいわ新選組の木村英子参院議員は19日、国会内で記者会見し、新型コロナウイルス対策政府・与野党連絡協議会への参加を断られたと明らかにした。「理由が分からず、怒りを感じる。障害者差別と考えざるを得ない」と与野党を批判した。>

 毎日新聞ウエブサイト(19日)によると、木村議員から参加の要望を受けた立憲民主党の安住淳国対委員長は記者団に、「自民党にれいわの意向を伝えたが、『既成政党の中で話し合いを続けてきたので、れいわも新たに(加える)というのは難しい』とのことだった」と釈明した」。

 これはきわめて重大な問題です。

 第1に、コロナウイルス対策の協議から参加を希望する議員(政党)を排除することは、国会の存在意義を自ら否定する愚挙です。木村議員によれば、「協議会の設置にあたって、れいわ新選組には参加の呼びかけすらなかった」(オフィシャルサイト)といいます。

 第2に、自民党の言い分はまったく理由になっておらず、木村議員が指摘するように、障害者差別であると断ぜざるをえません。こうした差別が国会でまかり通っていることはきわめて異常です。コロナ対策はじめ災害対策において障害者が軽視・放置されているこの国の実態を象徴しています。

 第3に、「既成政党の中で…」という自民党の言い分は、少数政党の排除・差別にほかなりません。

 第4に、自民党の理不尽な「回答」を唯々諾々と受け入れた立憲民主党も自民と同罪です。国会運営を自民と立憲民主2党の国対委員長が協議(談合)して決めるきわめて不正常なことが常態化していますが、今回のことはその弊害・害悪の端的な表れです。

 第5に、自民、立憲2党だけの問題ではありません。協議会に参加したすべての政党の問題です。しかし木村議員が排除されたことについて、どの党からも異議・批判は出ていません。この問題に沈黙している党はすべて自民、立憲と同罪と言わねばなりません。

 第6に、メディアの鈍感さです。これはベタ記事で扱うような問題ではありません。それでも記事にした新聞はまだマシです。木村議員の会見を受けながら記事にしなかった新聞社・メディアはいったい何を考えているのでしょうか。その存在意義が改めて問われます。

 第7に、「新型コロナ対策」に乗じた「挙国一致」「ワンチーム」(安倍首相)の危険性については先に書きましたが(17日のブログ参照)、今回の問題は、与野党一体の翼賛体制が少数意見、マイノリティを排除・差別するものであることを白日の下にさらけ出したと言えるでしょう。

 コロナ対策の与野党協議会に木村議員を直ちに参加させるべきです。すべての政党はこの問題に対する見解を明らかにする必要があります。メディアは取材し直し、あらためて問題点を報道すべきです。

 


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災害時の性暴力を直視し根絶する社会へ

2020年03月03日 | 差別・人権

    
 「3・11」を追い続けているNHK番組「明日へ」で1日、「埋もれた声 25年の真実~災害時の性暴力~」が放送されました。大災害時に発生する被災女性に対する性暴力・性被害の実態にあらためて襲撃を受けるとともに、その根絶へ向けてたたかっている人びとの姿に深い感銘をうけました。

 「ウィメンズネット・こうべ」代表の正井禮子さん(写真中)らが災害時性暴力に対して声を上げる必要性を痛感したのは、25年前の阪神淡路大震災でした。プライバシーがまったく保たれない避難所生活の中で(写真左)、同じ被災者の男たち、あるいはボランティアによる性暴力被害が多発したのです。

 正井さんたちの告発に対し、週刊誌などは「虚報」だと逆に攻撃を加えました。そのため一時活動は抑えられましたが、10年後に起きたスマトラ沖大地震で、現地の女性団体が避難所内のセクハラを告発した新聞記事に接し、正井さんたちは再び立ち上がりました。

 そして9年前の東日本大震災。今度こそ誰も否定できない具体的事実を示そうと、37項目、1年におよぶ調査活動を行い、いつ、どこで、どのような性暴力があったかを明らかにし、具体的な提言を行いました。

 それを受けて、仙台市内の避難所では、「女性の人権を守るとりで」として女性専用スペースが初めてつくられました(写真右)。

 さらに正井さんらの調査・活動は政府(内閣府)をも動かし、「男女共同参画の視点からの防災・復興の取組指針」(2013年5月)の作成に至りました。それはその後の熊本地震などの災害時に生かされています。

 正井さんは、「調査をやってよかった。調査は大切。ずっと言い続けていると、どこかで誰かに届いて次の動きにつながる」と振り返ります。

 避難所で性暴力が発生しやすいのは、プライバシーが保たれないからだけではありません。避難所の運営が男たちによって決定・執行される場合が多く、女性が声を上げづらい状況に置かれているからです。それでなくても弱い立場の女性被災者は、さらに弱い立場に追い込められます。性被害を受けながら泣き寝入りせざるをえなかった女性の言葉が胸に刺さります。「ここでしか生きていけないのに、だれに言えというの」

 ウィメンズネット・こうべは東日本大震災の直後、「女性の視点からの緊急時・復興への提言」(2011年3月20日)を発表しました。その中で、「すぐに行うべきこと」として、次の点を挙げています。

 避難所・被災世帯において、安全・安心・快適な空間を確保し、特に女性のプライバシーを守ること。そのために―
 1、避難所には次の部屋を確保する―授乳室、保育室、男女別更衣室・洗濯物干し場
 2、単身の女性などを対象に女性専用の部屋を設ける
 3、トイレは男女別とし、男女トイレの比率は1:3とする
 4、避難所内のトイレを安全な場所に設置するなど、女性や子どもを性被害から守る
 5、トイレ周辺は24時間照明する
 6、避難所で調理室や洗濯場などが生活の場として利用できるよう配慮する
 7、避難所における掲示物などに、多言語または絵文字など誰でもわかる表現方法を使用する

そして、「上記のことが確実に実行されるために、以上のような知識をもった女性が避難所の運営委員に加わる」ことを強調しています。

 災害は社会の欠陥・弱点を浮き彫りにします。避難所は、男尊女卑・女性の人権侵害が蔓延している日本社会の実態を精鋭化します。だから性暴力・性被害が多発し、隠ぺいされます。
 避難所から性暴力・性被害をなくすることは、この社会全体から性暴力・性被害を一掃し、女性・マイノリティの人権が守られる社会をつくることに直結します。


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「8・6広島デモ音量規制」は「妥協」の問題か

2020年02月13日 | 差別・人権

   

 広島市(松井一実市長=写真右)が8月6日の平和記念式典の時間に平和公園周辺で行われるデモの音量を規制する条例を制定しようとしている問題(2019年8月5日、同26日のブログ参照)は、「今年の式典までの制定を見送る公算が大きくなった」(1月22日付中国新聞)といわれています。

 今年の式典までに規制条例が制定されないのはいいことですが、広島市は条例の制定を断念したわけではありません。「先送り」しただけです。しかも、先送りにあたって「市とデモ団体の双方に妥協点を見いだす努力が求められる」(同中国新聞)とする論調があります。また、被爆者団体も「話し合いでの解決を要請」(同)しているといいます。

 「話し合い」は大切です。しかしこれは、「話し合い」で「妥協」を見いだすような問題でしょうか。

 広島弁護士会は1月31日、今井光会長名で「声明」を発表しました。それは、「言うまでもなく、デモによる意見の表明は、憲法21条1項の表現の自由の保障が及ぶもの」としたうえで、こう指摘しています。

 「条例が制定され、規制の実施のためにデモ行進の経路に沿って多数の警察官や職員が配置され測定器党が設置されることとなれば、デモ行為それ自体を萎縮させるものとなる。まして、特定のデモ実施団体についてのみ測定の対象とするようなことがあれば、広島市の意に沿わない意見表明等を行う団体に対してのみ圧力をかけることも可能となるおそれがある」

 「市民や国民の中には、式典のあり方や政治情勢、核兵器廃絶に関するわが国の対応などについて、多様な意見があるのは当然のことであり、その多様な意見の表明の機会もまた、自由な市民社会が許容し、共有しなければならないものである」(広島弁護士会HPより)

 まったくその通りです。「あいちトリエンナーレ」を引くまでもなく、自民党・安倍政権のよって「言論・表現の自由」が危機的状況を迎えている中、こうした原則を確認することはきわめて重要です。

 ところが、そう指摘する県弁護士会「声明」の結論も、「広島市に対し、多種多様な市民の在り方を認め、平和記念式典中の静粛の確保については、条例による規制ではなく話し合いによる解決を図るよう求める」というものです。

 憲法の基本的人権は「侵すことのできない永久の権利」(憲法11条)であり、それは「公共の福祉に反しない」(同13条)限り規制されることはありません。「公共の福祉」とは何かは、市民の自発的・自主的意思、意見交換によって検討されるべきものです。

 法規制(条例制定)の意図を背景にした政治権力との「話し合い」「妥協」は、「市民の声」や「世論」という美名に隠れた政治的圧迫であり、「言論・集会・表現の自由」の譲歩=自主規制を迫るものにほかなりません。

 式典中のデモの音量(「静粛」)は、あくまでもデモ実施団体の自主的判断にゆだねるべき問題です。「式典が静粛な環境の中で執り行われることは、それが式典参加者や周囲の自発的な意思の下でなされる限りにおいては、尊重されるべきもの」(県弁護士会声明)です。

 「デモ音量規制条例」は無条件で断念しなければなりません。音量を含むデモのやり方は、市民(デモ実施団体)が自主的な良識的判断で決めるべきです。


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「子どもの貧困」―“見せない貧困”と大人の使命

2020年01月14日 | 差別・人権

      

 日米軍事同盟(安保条約)廃棄、天皇制廃止、地球温暖化対策など、直面している重要課題はたくさんありますが、中でも差し迫って重大な問題は、「子どもの貧困」ではないでしょうか。

 ユニセフは昨年、「世界の子どもの5人に1人に当たる約3億8500万人が1日1・9㌦(約210円)未満の極貧状態で生活している」という報告書を発表しました(2019年2月5日)。
 「ユニセフ高官は『貧困は子どもに最もひどい打撃となり、その影響は生涯続く恐れもある』と指摘、各国は子どもを最優先とし、全ての子どもを貧困から保護できるようすべきだと強調」(19年2月7日付共同配信)しています。(写真左は国連WFPのニュースレターより、給食で命をつないでいるアフリカの子供たち)

 日本も例外ではありません。いいえ、「日本は先進国の中でも子どもの貧困率が高い水準とされ、政府の貧困対策には不十分との批判がある」(同)のです。
 厚労省の発表でも、日本では17歳以下の子どもの7人に1人、約270万人が貧困状態にあります。

 この実態に驚いた児童文学作家の中島信子さん(72)は昨年、「子どもの貧困」をテーマに20年ぶりに執筆しました。それが『八月のひかり』(汐文社)です。

 母子家庭の小学5年生・美貴が、小2の弟・勇希とともに、母を助けながら、給食のない夏休みに、キャベツ1個を工夫して何度も料理し空腹に耐え、明るく、たくましく生きる姿を描いています。
 中島さんは執筆にあたり、東京・狛江市のフードバンクNPOの総会に参加し、実態を取材しました。美貴たちの生活はけっしてフィクションではありません。

 同書の最後に、テレビの特番でおばあさんが戦後食べ物のなかった時代を語る場面があります。そのことに触れて中島さんはこう語っています。

 「戦後はみんなが貧しかった。でも今は、おもちも食べられない家庭がある一方、何万円もするおせち料理が捨てられている。それが日本の現状です。見えない貧困という言葉がありますが、日本は“見せない貧困”です。『助けて』という声が挙げられない国です。“見せない貧困”をどう超えていくか―」(2019年12月27日NHKラジオ深夜便)

 作家の赤川次郎氏は『八月のひかり』に寄せてこう記しています。

 「人は、家を選んで生まれてくるわけではない。だから、あなたがこの物語の子供たちのように、食べたいものが食べられず、給食のない夏休みになると、毎日お腹を空かしているという生活をしないですんでいるとしたら、それはあなたが幸運なのだ。でも、これが『今日のあなた』でないとしても、『明日のあなた』ではないとは限らないのだ。
 今の日本には、美貴や勇希が大勢いる。色んなつらさに耐えて頑張っているこの家族に、誰もが感動するだろうが、私たちは同時に、怒らなければならない。こんな世の中は間違っている、と。
 誰がこんな子供たちを放置して平気でいるのか。美貴や勇希の代わりに怒るのが、私たちの使命である」(汐文社のHPより)

 『八月のひかり』は「2019年を代表する児童文学」と評価され、書店やアマゾンでも入手に時間がかかるほど読まれています。それは今の日本社会にあってまさに一筋の光と思えます。

 しかし、ただ感動しているだけでは同書を本当に読んだことにはならないでしょう。感動を怒りに、政府・国に対する怒りにつなげなければなりません。
 何の罪もない子どもたちが空腹にあえいでいる。その子どもたちに変わって、怒り、日本の“見せない貧困”をなくしていかねばなりません。世界の貧困をなくしていかねばなりません。それがこの時代に生きている私たち大人の使命ではないでしょうか。


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「川崎ヘイト罰則条例」と「表現の責任」

2019年12月16日 | 差別・人権

    

 ヘイトスピーチに初めて罰則を科すことを定めた川崎市の差別禁止条例(12日成立)は、ヘイトスピーチが犯罪であることを明確にした画期的な条例です。

 これに対し、その意義は認めつつも憲法の「表現の自由」が制限されるという危惧を示す論調があります。たとえば山田健太専修大教授(言論法)はこう述べています。

 「運用には注意が必要だ。表現の自由に例外を設けていない憲法原則の変更につながってはならない。…差別根絶は大切な理念だが、ヘイトスピーチを一切なくそうとすれば厳しく規制せざるを得ない。その結果、社会全体の表現行為が窮屈になり、自由度が過度に失われかねない」(13日付沖縄タイムス)
 山田氏はまた、行政の判断には「どうしても恣意性が含まれる」(13日付東京新聞)とし、「市の運用に対して監視の目を持ち続けることが必要だ」(同)とも述べています。

 行政判断の「恣意性」の危険性に対して「監視の目を持ち続ける」ことは必要でしょう。しかし、ヘイトスピーチの規制で「社会全体の表現行為が窮屈」になるとする見解には同意できません。山田氏の主張の根底にあるのは、「表現の自由に例外を設けていない」のが「憲法原則」だとする考えですが、果たしてそうでしょうか。

 前田朗東京造形大教授(刑事人権論)は、「表現の自由には表現の責任が伴う。このことを見失った表現の自由論やメディア論が少なくないので、注意を要する」(『メディアと市民』彩流社)として、こう述べています。

 「日本国憲法12条は『この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ』とする。ここには『責任』が明示されている。憲法21条の表現の自由を論じる際、つねに憲法12条の責任が想起されなければならない」(同)

 前田氏はさらに、国際人権規約が、表現の自由に「一定の制限を課すことができる」場合として、①他の者の権利又は信用の尊重②国の安全、公の秩序又は公衆の健康若しくは道徳の保護、の2つを例示していることを挙げ、「表現の自由には『特別の義務と責任』が伴うという当たり前のことが、国際人権法においても明らかにされている」(前掲書)としています。

 憲法12条の「公共の福祉」、あるいは国際人権規約が例示しているという「国の安全、公の秩序」「道徳」は、きわめてあいまいな言葉で、それこそ国家権力の乱用を招く恐れがあります。それを盾に表現の自由が「制限」されることには注意が必要です。

 しかし、国際人権規約が例示している①の場合、すなわち「他の者の権利又は信用の尊重」のためには表現の自由に一定の制限を課すことができるというのは妥当だ考えではないでしょうか。憲法12条が「濫用してはならない」としているのも、この点においてだと解すべきでしょう。その意味で、憲法は表現の自由に「例外をもうけていない」とはいえないでしょう。「表現の自由には表現の責任が伴う」という前田氏の指摘は重要です。

 ヘイトスピーチはまさに「他の者の権利又は信用の尊重」を踏みにじる最たるものです。根絶へ向けて厳しく規制するのは当然です。何がヘイトスピーチにあたるか(川崎の条例では「外国出身を理由とした排除、危害の扇動、著しい侮辱」と定義されています)など、運用にあたっては慎重な検討・監視が必要ですが、原理的に、ヘイトスピーチの規制が「憲法原則」に抵触することはなく、「社会全体の表現行為が窮屈」になることもないはずです。

 「表現の自由」とともに「表現の責任」をつねに念頭に置きながら、川崎モデルを全国に広げ、ヘイトスピーチの根絶へ向かう必要があります。


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外国籍児童生徒の不就学問題の本質は何か

2019年10月08日 | 差別・人権

     

 外国籍児童生徒の就学状況について、文科省の初の実態調査が9月27日発表されました。それによれば、小中学校に通う年齢にもかかわらず不就学の外国籍の子どもは全国に1万9654人、調査対象とした子どもの15・8%にのぼります(9月28日付各紙=共同、調査は今年5~6月)。
 日本政府は外国人労働者を確保するため4月に入管法を「改正」しました。今後外国籍の子どが増えるにつれて不就学児童生徒もさらに増加するのは必至でしょう。この問題をどうとらえればいいでしょうか。

 不就学の理由について愛知淑徳大の小島祥美准教授は、「保護者が仕事をする間にきょうだいの世話を任されるとか、自ら外で働くとかで、学校に通えない…一度は学校とつながっても、日本語がうまく使えず学力が低いとみなされたり、保護者が日本語を分からず学用品を準備できなかったりして、ドロップアウトするケースも少なくない」(同共同配信)と指摘しています。

  外国籍児童生徒の不就学の背景に、親・家族(外国人労働者)の重労働・生活苦があることは明らかです。子どもの不就学問題は外国人労働者の就労・生活・権利保障問題の一環です。

  言葉の障壁も大きな要因です。そのため「国際教室」などの名前で日本語指導教室を設けている学校やNPO法人があります。問題は、「不就学の子どもに対する公的支援はほとんどない。その隙間を埋めているのはNPO法人などの民間団体」(月刊「イオ」10月号。写真も)だということです。

  ではなぜ日本政府は外国籍の子どもたちに対して「公的支援」をしないのでしょうか。

  日本国憲法は第26条で、「すべて国民は…教育を受ける権利を有する」と定めています。この「国民」の中に外国籍の子どもは含まれないというのが日本政府の見解です。その結果、外国籍の子どもたちから教育を受ける権利が剥奪されています。これが国際人権規約、こどもの権利条約などに照らして許されないことは明白です。
 「義務教育年齢にたまたま日本という国に滞在していたという理由で『教育を受ける権利』が保障されないのはおかしい」(小島祥美准教授、月刊「イオ」同)のです。

 日本政府は、外国籍の子どもも日本の学校に通うなら授業料や教科書は無料になるから差別ではないとしています。そう言いながら、外国人学校に通う児童生徒にはこの権利を認めていません。

 田中宏一橋大名誉教授は、こう指摘します。
 「日本の教育を受けたいなら小学校でも中学校でも授業料はいりません、教科書も無償で差し上げます、来たければ来てください、ただし、民族教育は認めない。これは植民地時代と何も変わっていない」(月刊「イオ」同)
 「植民地時代と変わらない」とは、民族の言語の使用を禁止し、日本の教科書で日本に従順な人間・「天皇の赤子」をつくる「教育」=「同化教育・同化政策」と変わっていないということです。

 外国人労働者を奴隷的無権利状態で酷使・搾取していることは、場所を日本国内に移し替えた今日版「植民地政策」にほかなりません。
 そしてその子どもたちは、「植民地時代と何も変わっていない」今日版「同化教育・同化政策」の下に置かれている。ここにこの問題の本質があると言えるでしょう。


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アイヌ「二風谷ダム判決」と辺野古・宮古・石垣

2019年09月19日 | 差別・人権

     

 15日の琉球新報に、「捨て身で先住権問う アイヌ男性の伝統サケ漁」という見出しの記事が載りました(共同配信)。記事の概要はこうです。 

 アイヌ民族の畠山敏さん(77)が北海道紋別市の川で、伝統漁法により網でサケを捕獲したところ、道は無許可の漁は規則違反だとして北海道警に告発(9月1日)。道警は畠山さんを取り調べるとともに、倉庫などを家宅捜索し、網やかごを押収した。
 明治政府はアイヌを日本人に組み込む同化政策で主食の1つだったサケ漁を一方的に禁じた。アイヌ施策推進法(今年4月成立)はアイヌを「先住民族」と明記しながら先住権は認めていない。
 畠山さんは、「生活の権利を奪っておいて法律違反とは勝手じゃないか」「土足で踏み込んできた和人(日本人)に左右されるつもりはない」。裁判になれば法廷で訴えたいとの思いがある。(写真左は畠山さん=同記事より)

 アイヌ民族や学者らでつくる「アイヌ政策検討市民会議」は9日、畠山さんの取り調べに抗議し、規則の改正を求める意見書を提出しました。
 意見書は、「先住民族の権利は国際人権規約や人種差別撤廃条約などで保障され、漁も文化享有権として認められていると指摘。『国は奪われたアイヌの権利回復について議論すらしていない』と批判」(10日付琉球新報=共同電)しています。

  畠山さんの行動・主張、また市民会議の「意見書」の指摘はまったく正当です。畠山さんの勇気ある告発を私たちは真摯に受け止めなければなりません。

  さらに、市民会議の「意見書」には注目すべき指摘がありました。
 「(意見書は)アイヌの文化享有権が『個人の尊重』をうたう憲法13条で保障されると認めた1997年の二風谷ダム訴訟判決などに照らし、男性(畠山さん)を規則違反とすることは人権侵害で、規則を改正し、許可を不要にして漁業権を保障するよう求めた」(10日付琉球新報)

 「二風谷(にぶたに)ダム訴訟判決」(1997年3月)。それはどういうものだったのでしょうか。

 「二風谷ダムは、苫小牧市東部の大規模工業団地に向けた電源開発のために1980年代に企画、建設がはじまったダムでした。しかし二風谷はアイヌ民族の人口密度の高い集落で、建設に向けた土地収用が始まると、萱野茂、貝澤正の二人のアイヌ地権者が、先住民族の権利を主張して土地買収に応じず、強制収用が行われました。これに対し二人が札幌地裁に提訴したのが「二風谷ダム裁判」です。
 判決は、国際人権法を援用してアイヌ民族は先住民族であり、日本の統治がはじまる以前に独自の社会や文化を築いていたこと、日本の統治によってそれが解体させられたことを、司法として初めて認めました。つまり、アイヌ民族が先住民族であることと同時に、日本政府が行ったアイヌ・モシリ(領地)の植民地支配を認めたのです。そして、その視点から政府の土地収用手続きが違法であったと認定しました」(上村英明著『アイヌ民族一問一答』解放出版社)

 重要なのは、これが確定判決だということです。判決がすでに完成していたダムの存在を容認したため、日本政府は控訴しなかったのです。
 アイヌは先住民族であり、その先住権は憲法上守られなければならない。アイヌの土地・文化を奪ったのは日本の植民地支配である。これが日本の司法が確定した判決です。この重要性はあらためて強調される必要があります。

 沖縄(琉球)はアイヌと同じく、日本(明治政府)によって武力で植民地化(併合)された土地です。琉球民族は先住民族であり、先住権があります。
 沖縄の人々の意思に反してその土地を強制的に奪い、軍事利用することは許されない。辺野古の新基地(写真中)、宮古(写真右)・石垣など離島への自衛隊基地建設・増強は、先住権を奪うものであり、憲法違反である。
 それが「二風谷ダム訴訟」の確定判決が教えるところではないでしょうか。


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「8・6広島」のデモ・集会規制は重大問題

2019年08月05日 | 差別・人権

     

 広島県に住んでいる人でなければあまりご存じないかもしれませんが、「8・6」の広島に重大な問題が起こっています。広島市(松井一実市長=写真中)が、「静粛の確保」を理由に、「平和式典」中に会場(「平和公園」)周辺で行われるデモ・集会の音を条例で規制しようとしているのです。

 松井市長は記者会見(5月24日)で、「スケジュール的に今年の式典までに条例制定は困難」として条例による規制は来年にし、今年は「条例によらない静粛の確保策」をとると表明しました(5月25日付中国新聞)。

 それが実行に移されたのが7月19日。「会場周辺でデモを予定している市民団体『8・6ヒロシマ大行動実行委員会』に拡声器の使用を控えるか、音量を下げるよう文書で要請した」(7月20日付中国新聞)のです。「市は2014年から毎年、同様の内容を口頭で申し入れてきたが、文書による要請は初めて」(同)です。

 平和の実現をめざす同実行委の集会・デモを、「静粛の確保」を理由に規制することが、「集会・結社及び言論・出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」とした憲法(第21条)に違反することは明白です。

 同実行委の大江照己共同代表は、「改憲で戦争ができる国にしようとする安倍首相に被爆地から抗議するのは当然。デモは首相に声を届ける正当な行為だ」(6月26日付中国新聞)と広島市の規制の動きを厳しく批判しています。

 広島市のこの動きは、たんなる「表現の自由」の侵害にとどまらない重大な意味があります。

 第1に、市主催の「式典」を政権批判の声(音)のない「静粛」の中で行うことは、「8・6平和式典」自体の官製化・国家権力への従順化をいっそうすすめることになります。

 核兵器廃絶に背を向け、憲法9条を改悪して公然と戦争への道を進もうとしている安倍政権を批判することなしに、非核・平和を実現することができないことは明白です。そのデモ・集会を広島市が規制するとは、自縄自縛以外のなにものでもありません。

 第2に、安倍政権下で進行している「表現の自由」侵害をいっそう助長することになります。

 この1カ月だけをとっても、札幌での安倍首相演説に対して「辞めろ、帰れ」と叫んだ男性や「増税反対」の声を上げた女性を警察が強制的・暴力的に排除した事件(7月15日)、そして安倍首相が敵意をむき出しにする元「慰安婦」(戦時性奴隷)をモチーフにした「少女像」が展示されていた「表現の不自由展・その後」(「あいちトリエンナーレ2019」)が一方的に中止された事件(8月3日)など、「表現の自由」侵害事件が相次いでいます。

  これは安倍首相が長期に政権を握っていることと決して無関係ではないでしょう。安倍改憲の動きとも連動しています。広島市が集会・デモの音を規制し始めた2014年は第2次安倍政権誕生から約1年半後であり、今回の条例による規制の動きも安倍改憲が動き出そうとしているときに起こっていることは、けっして偶然ではないでしょう。 

 言論・集会の規制・弾圧、「表現の自由」の侵害は、戦争の前夜です。それは「8・6」の痛切な教訓の1つではなかったでしょうか。その「8・6」の広島におけるデモ・集会規制は絶対に容認できません。


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「京アニ」事件報道の見過ごせない危うさ

2019年07月29日 | 差別・人権

     

 京都アニメーション放火事件(18日)は、被害の大きさ、犯行手口の残忍さ、「京アニ」の影響力など、特筆される事件です。事件の動機・背景は徹底的に究明される必要があります。

  一方、その陰で、事件をめぐる報道には重大な問題があります。しかしそれは不問に付され、見過ごされようとしています。

 1つは、「容疑者」の実名報道です。

 京都府警は事件の翌日(19日)、「容疑者」とされる男の実名を公表しました。それを受けてテレビは同日から、新聞は20日付からいっせいに「容疑者」を実名で報じました。しかし、この時点では男には逮捕状すら出ていません。それを警察は「容疑者」として実名を公表し、メディアはそれに追従して実名報道を始めたのです。これは事件報道のルール(内規)反する異例の措置であり、人権上きわめて問題です。

 そのことについて毎日新聞は20日付1面に次のような「おことわり」を載せました。
 「おことわり 京都アニメーション放火事件で、京都府警が名前を発表した男は逮捕されていませんが事件の重大性、目撃情報があること、さらに府警の調べに『自分が火を放った』と認めていることなどを総合的に判断し、実名・容疑者呼称で報じることとします」(太字は引用者)
 中国新聞も20日付1面に、「お断り 京都府警が名前を発表した男は逮捕されていませんが事件の重大性に加え、けががなければ現行犯逮捕される事件であることを考慮し、実名で容疑者呼称とします」と載せました。
 朝日新聞、読売新聞はなんの断りもなく「容疑者」として実名報道を始めました。

 「事件の重大性」とはきわめてあいまいな概念です。そもそも、事件の「重大性」の軽重によってルールや人権問題が恣意的に判断され変更されていいはずはありません。その他の「理由」も同じです。

 もう1つの問題は、「容疑者」の監視(防犯)カメラ映像が次々公開・報道されていることです。こうした映像は、いったい誰がどういう基準で公表しているのでしょうか。

 朝日新聞が25日付1面で報じた「容疑者」のカメラ映像は、「住民提供」とされています(写真右)。また、数日前からテレビで流されている映像は某不動産会社の「提供」となっています。いずれも捜査当局が発表したものではなく、「一般市民」がメディアに「提供」したものとされています。

 これはきわめて危険なことです。
 監視カメラの問題についてはこれまでも述べてきましたが、基本的に公衆の場所で通行人を撮影することは肖像権やプライバシーに抵触します。そのうえ、それが何にどう使われるかによって、国家権力による国民支配のツールになります。その危険性を前提とし、その上で、防犯上必要だとするなら、その使用(撮影・公表)は明確にルール化される必要があります。

 しかし日本の監視カメラにはそうしたルールがなく、野放し状態です。これまでは警察がそれを利用し恣意的に流す問題がありましたが、今回の特徴はそれが「一般市民」にまで広がっていることです。これは「市民」同士の相互監視、あるいは「私刑(リンチ)」にも通じる重大な問題です。

 上記の2つの問題は関連しています。「重大事件」だからといって人権擁護が軽視・無視されていいはずはありません。
 事件が重大であるほど、「容疑者」に対する憎悪が増し、それを助長する感情的報道があふれ、人権や報道ルールを軽視・無視しても許されるような空気が作られていくなら、この社会はきわめて危険は方向へ向かいます。それは事件の真相究明・再発防止にも逆行します。


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