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アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

「今年の漢字・言葉」ー「北」と「ミー・トゥー」の落差

2017年12月30日 | 差別・人権

     

 「今年の漢字」に選ばれた(投票多数)のは「北」でした。「九州北部豪雨」「大谷翔平選手の北海道日本ハム」などいろいろ要素があるようですが、「ミサイルなど北朝鮮の挑発・脅威」が主な理由だといわれています。

 一方、アメリカの「タイム」誌は、「今年の人」に沈黙を破って性被害を告発した女性たちを挙げました(写真中)。彼女たちに続いて、勇気をもって告発する人々の間で「Me Too」(私も)が合言葉になりました。

  「北朝鮮の脅威」を主な理由とする「北」と「ミー・トゥー」。日本とアメリカの「今年の漢字・言葉」は、きわめて対照的です。その意味するものには雲泥の差があると言わねばなりません。

 「ミー・トゥー」は、権力・権威をかさに着たセクハラ・性犯罪の加害者を被害者が勇気をもって告発するもので、「社会的強者」(権力・権威)に対する「弱者」の抵抗・自己主張・自立という意味があるでしょう。

  一方、「北」はどうでしょうか。

 「北朝鮮の挑発・ミサイル」といいますが、朝鮮民主主義人民共和国(以下、朝鮮)はアメリカに対し、朝鮮戦争の「休戦協定」を「平和協定」にするための対話・交渉を一貫して要求しています。しかしアメリカはこれを拒否し続け、一方で朝鮮が中止を求めている米韓軍事合同演習を繰り返し、日本もそれに加わるようになりました。挑発しているのはどちらでしょうか。

 アメリカや日本政府は、朝鮮に対して一方的に「核の放棄」を迫っていますが、アメリカも日本も核兵器禁止条約に背を向け続ける一方、イスラエルやインドの核兵器保有は容認しています(ストックホルム国際平和研究所の推計では、核兵器保有数は朝鮮が10~20に対し、イスラエル80、インド120~130、アメリカは6800)。これは明らかにダブルスタンダードではありませんか。

 安倍政権や日本のメディアは「北朝鮮のミサイルが日本を通過」と喧伝し、「Jアラート」で騒ぎ立てました。しかし、ミサイルが通過した宇宙空間に領空は存在しません。「日本を通過」は明らかなデマ宣伝ではなかったでしょうか。

 そもそも朝鮮半島の緊張状態を作り出している元凶は、戦前・戦中の日本の植民地支配と戦後のアメリカの東アジア戦略ではないでしょうか。

  「北朝鮮問題の根源は、1953年7月に結ばれた(朝鮮戦争―引用者)休戦協定を、米韓が破ってきたことにある。休戦協定では3カ月後に朝鮮半島から他国の軍隊は全て引き揚げると約束して署名したのに、アメリカと韓国は同時に(2カ月後に)米韓相互防衛条約(米韓軍事同盟)を締結して、「米軍は韓国に(無期限に)駐留する」という、完全に相反する条約にも署名した。…日本人には見たくない事実だろうが、これは客観的事実なので、直視するしかない」(遠藤誉東京福祉大学国際交流センター長、7月10日付「ニューズウィーク日本版」)

  こうした事実・経過をみれば、「北朝鮮の挑発・脅威」が米日両政府によって戦略的に作り出されたものであることは明白です。
 その狙いは、アメリカ製兵器の売り込みと、日本の大軍拡です。5兆1900億円にのぼる史上最大の来年度軍事予算、さらに1基1000億円の「イージス・アショア」の2基購入契約を見れば明らかです。

  こうした狙いをもつ米日両政府の「北朝鮮の挑発・脅威」論に無批判に乗せられ、思考停止し朝鮮に「憎悪」を抱く。その表れが、「今年の漢字『北』」ではないでしょうか。

  強調しなければならないのは、「北朝鮮の挑発・脅威」論に乗せられて朝鮮に「憎悪」を抱くことは、たんに米日政府の思うつぼであるばかりか、「日本国民」の人間性を蝕んでいるということです。

  たとえば朝鮮に対する相次ぐ「制裁」。それが朝鮮市民の生活を圧迫し、健康・生命を脅かしていることは言うまでもありません。市民にとっては「無差別空爆」に匹敵すると言えるでしょう。
 ところが安倍首相は、石油を止める「追加制裁」は冬に向かう時期だからいっそう効果的だと言い放ちました。以前、谷本正憲石川県知事が「兵糧攻めで北朝鮮国民を餓死させねばならない」と暴言を吐いて問題になりましたが(6月21日)、安倍氏と谷本氏の間にどれほどの違いがあるでしょうか。
 しかし、そんな首相発言にも批判の声1つ上がらず、逆に「制裁の徹底」を求め続ける日本のメディアと「市民」。

 また、秋田県などに漂着する朝鮮の漁船。そこに遺体があっても、それを悼むどころか、まるで邪悪なものを見るような視線を向ける「日本国民」。それをあおる安倍政権(政府作製のポスターはその典型)。

  他人の苦境、生命の危機・喪失に対するこうした無関心・冷淡さが、人間性の衰退でなくてなんでしょうか。

 まして朝鮮は、日本が72年前まで植民地支配して苦しめ、戦後も差別・抑圧してきた国です。日本には、私たち日本人にはその加害責任があるのです。

 朝鮮は「3・11」に際し、けっして豊かではない経済状態の中から、いち早く60万㌦(日本赤十字社に10万㌦など)の義捐金を日本に寄せてくれました。その恩を仇(あだ)で返すようなことをしていいのでしょうか。

  政府の戦略的キャンペーンと大手メディアの偏向報道に乗せられ、「北朝鮮の脅威」を主な理由にして「北」を「今年の漢字」にするような思考停止から、脱却しようではありませんか。

 そして来年は、権力・権威、とりわけ国家権力に対して泣き寝入りせず、長いものにも巻かれず、自立的思考で、言うべきことを言う。そんな「ミー・トゥー」の年にしようではありませんか。

 ☆ 今年の「アリの一言」は今日で終わります。1年間ご愛読ありがとうございました。
 来年は1月1日から始めます(基本的に月、火、木、土)。小さな小さな「一言」が巨大な権力の「堤」にわずかでも「穴」を開けることをめざして。


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沖縄裁判・被告人の黙秘権行使に対する攻撃は許されない

2017年11月23日 | 差別・人権

     

 「米軍属女性暴行殺人事件」(2016年4月発生)はあす24日、那覇地裁で結審します(判決は12月1日の見通し)。重大な事件であり、裁判の行方が注目されるのは言うまでもありません。

 しかし、これまでの2度の公判(11月16日、17日)をめぐる報道、とりわけ地元沖縄の琉球新報と沖縄タイムスの報道にはきわめて大きな問題があると言わざるをえません。

  第1に、両紙の18日付1面トップは、申し合わせたように、被害者両親の言葉を白抜きで大きく並べています(写真)。ご両親の心中は察するに余りありますが、それを新聞がこういう形で取り上げることは、事実上、厳罰・極刑(死刑)判決を期待する世論を煽り、裁判員に対する暗黙の圧力になることは避けられません。

  第2に、両紙とも「被告再び黙秘」(琉球新報)、「元米兵、黙秘続ける」(沖縄タイムス)と見出しをとり、社説などで被告人が黙秘していることを批判・攻撃していることです。これは重大な誤りです。

  憲法38条第1項は「何人も、自己に不利益な供述を強要されない」と明記しています。これが黙秘権の憲法上の根拠です。さらにこの憲法規定に基づき刑事訴訟法は、「被告人は、終始沈黙し、または個々の質問に対し、供述を拒むことができる」(第311条第1項)と定めています。

 「被告人は、憲法上、自己に不利益なことがらについて黙秘権を持つだけでなく、訴訟法によれば、およそ供述するかどうかが、全くその任意に委ねられている。したがって被告人をその意思に反して証人として喚問し、供述を強要することができないのは勿論である」(平野龍一著『法律学全集43 刑事訴訟法』有斐閣)

 このように黙秘権が被告人にとってきわめて重要な権利だからこそ、刑訴法は裁判官に対し、公判の冒頭で被告人に黙秘権の存在を告知しなければならないと定めています(第291条第2項)。

  ところが琉球新報は社説(17日付)で、「被告の権利とはいえ、黙秘権行使は許し難い」「被告は黙秘権を行使した。少なくとも被害女性、遺族に謝罪すべきである。…被告は反省していないと断じるしかない」「被告の順法精神と人権意識の欠如の延長線上に、黙秘権の行使があるのではないか」「そのようなこと(「殺意があると判断されなければ殺人罪に問われない」)を考えて殺意を否認し、黙秘したならば、言語道断である」と、繰り返し「黙秘権の行使」を批判・攻撃しています。

 こうした主張は、憲法、刑事訴訟法の精神を真っ向から否定するものと言わねばなりません。「謝罪」も「反省」も黙秘とはまったく関係ありません。そもそも黙秘権は「自己に不利益な供述を強要されない」権利なのですから、不利になる(殺人罪に問われる)と思うことを述べないのは「言語道断」どころか当然のことです。逆に、黙秘権の行使こそ「順法精神と人権意識」に基づくものです。

  被告人に対し「真実を述べてもらいたい」(17日付沖縄タイムス社説)というのは、素朴な感情でしょう。しかしだからといって黙秘を批判・攻撃することは許されません。

  「犯罪事件がおこると、たいていの場合、逮捕され起訴された人間は「真犯人」にちがいない、という調子で報道される。実際、黙秘権ひとつをとっても、「本人のやったことは本人がいちばん知っているはずだ」「犯人の権利より被害者の人権の救済こそ大事ではないか」という反応は、世間でむしろ一般的である。
 しかしまた私たちは、正式の裁判で最高裁まで行って死刑の確定した事件が、当事者たちのなみなみならぬ労苦の末ようやく再審の扉が開かれて、何十年もあとになって無罪とされる、という例も、ひとつならず知っている」
 「人身の自由に属する諸権利は、これまでの人類の痛みに充ちた体験のつみ重ねのなかから生み出された智恵の結晶なのであるが、しかし、黙秘権の例にも見られるように、「世間の常識」からは理解されにくいという側面も持っている。…「えん罪からの人権」という最低限度の人権を確保するためには、「世間の常識」をぬけ出て、「九十九人の真犯人をとり逃がすことがあっても、一人の無実の者を罪にしてはならない」という意識を確立させることが、不可欠なのである」(樋口陽一著『憲法入門』勁草書房)

  「自己ざんげ(被告人の供述―引用者)は、道徳律の世界では、むしろ崇高な善として勧奨されこそすれ、禁圧されるいわれはないであろう。しかし、近代以降、法の世界では、もっとも忌むべきものであるはずの犯罪について、開示(供述―引用者)を拒むことができるとされたのである。これは、ある意味で、常識の逆転現象ともいえる。なぜ、このような逆転現象が生じたのであろうか。それは、近代以前の苛烈な糾問が人間の尊厳の抑圧という耐えがたい不正義―道徳律への不従順という不正義以上の―をもたらしたからであり、人類がその歴史の教訓に学んだからにほかならない」(田宮裕著『刑事訴訟法{新版}』有斐閣)

  「事件の真相を知りたい」「被告人は真相を話すべきだ」…そんな「世間の常識」から抜け出して、黙秘権は尊重されなければなりません。なぜなら、それは、人類が、自白の強要、拷問、冤罪という国家権力による「人間の尊厳の抑圧という耐えがた不正義」とたたかい、その「歴史の教訓に学ん」でかちとった大切な権利だからです。

  黙秘権を尊重することこそ、軍事基地があるがゆえの犯罪・人権侵害とのたたかい、基地撤去のたたかいと通じるのではないでしょうか。


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「任意聴取の女性自殺」、「共謀罪」・警察国家への警鐘

2017年05月06日 | 差別・人権

     

 今治の「親子殺傷事件」で「参考人」として「任意の事情聴取」を受けていた女性が自殺(5日)した問題は、私たちとけっして無関係ではありません。安倍政権が強行しようとしている「共謀罪」法案、監視社会・警察国家への道に大きな警鐘を鳴らすものです(写真はすべてNHKから)。

 女性は4日今治署で午後1時ごろから午後10時半ごろまで10時間近く聴取され、11時ごろやっと帰宅を許されましたが、翌朝9時ごろ自殺が発見されました。多くの問題があります。

 女性には逮捕状も請求されておらず、あくまでも「参考人」としての「任意の聴取」だったにもかかわらず、実際は長時間の拘束・聴取が強制された。

 女性は「遺書」を遺しているが、警察がこれを公表しようとしていない。

 警察は捜査や聴取の経過、状況を一切説明しようとしていない。

 諸澤英道元常磐大学長(刑法、写真中)は「警察は経過を明らかにする必要がある」(NHK)と指摘していますが、まったくその通りです。(念のために言えば、女性が「真犯人」かどうかはまったく関係ありません。裁判をへず、メディアや私たちが「容疑者」-この女性の場合は「容疑者」でもありませんがーを「犯人」視することの方が問題です)

 今回のことは、永年の課題である「取り調べ全経過の録音・可視化」の必要性を改めて示しています。
 同時にここには、メディアが一貫してスルーしている、重要な問題があります。それは「監視(防犯)カメラ」です。

 自殺した女性が「参考人」とされたのは、捜査本部が「事件があった時間帯に現場付近の防犯カメラに写っていた女性に着目」(6日付共同配信)した結果です。「防犯カメラ」という名の「監視カメラ」が犯罪捜査で「有力な証拠」として利用され、また「犯罪抑止」として自治体、町内会、商店街などで「カメラ」を設置(増設)する動きが強まっています。「刑事ドラマ」や映画でも頻繁に登場し、テレビニュースでも「カメラ」の映像が何のためらいもなく流されています(これがメディアが「カメラ」に無批判な1つの理由です)。

 しかし、こうした状況(社会現象)はきわめて危険であることを、私たちははっきり認識する必要があります。それはもちろん、「市民の自由・プライバシー侵害」の問題ですが、同時に、見逃せないのが、警察・検察による「見込み捜査・逮捕・起訴」による冤罪事件を生む恐れが大きいことです。

 その実例が最近明らかになりました。
 元中国放送アナウンサーの煙石博さん(70)は5年前、自宅近くの銀行で客がテーブルの上に置き忘れた封筒入りの現金を盗んだとして逮捕・起訴され、1審、2審で有罪になりましたが、去る3月10日、最高裁で逆転無罪が確定しました(写真右)。
 煙石さんは一貫して無実を主張していましたが、警察・検察は銀行の「防犯カメラ」を唯一の「証拠」とし、地裁、高裁もそれを認定しました。しかし最高裁は、「重大な事実誤認がある」として「カメラ」の信ぴょう性を否定しました。ニュースで放映された「防犯カメラ」の映像を見ると、画像の不鮮明さは一目瞭然です。

 このことは、「防犯カメラ」の映像は不確かであり、それを「証拠」にした逮捕・起訴はきわめて危険であることを示しています。しかし、「防犯カメラ」に対して無批判、というより「必要性」を強調する社会状況では、煙石さんのような冤罪被害は増えることはあっても減ることはないでしょう。煙石さんのように最後まで不屈にたたかうことができず、警察・検察に屈服する人も増えるでしょう。
 「監視カメラ」は、警察・検察はじめ国家権力の「目」であることを銘記する必要があります。

 とは言うものの、「カメラ」に犯罪の抑止や捜査を期待することも一概に否定できません。ではどうするか。
 諸澤英道氏は煙石さんの無罪が確定した際、テレビで「現在、防犯カメラにはなんの規制もない。法的ルールを定めることが必要」(言葉通りではありません)と述べていました。その通りです。「監視カメラ」を野放しにすることは許されません。設置・利用(報道も含め)のルールを決めることが急務です。

 「共謀罪」は市民の「内心の自由」を国家権力が監視・取り締まり、警察の権限をさらに強大にする警察国家をつくるのが狙いです。それは、朝鮮半島情勢を口実にした日米軍事同盟の強化、自衛隊(軍隊)のさらなる増強と一体不可分です。
 犯罪捜査を含め、市民の自由・人権を守ることは、戦争への道を食い止めることと直結しています。


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「万引きビデオ」の公開と「共謀罪法案」

2017年02月20日 | 差別・人権

     

 先日、都内の眼鏡店が監視カメラに写った「万引き犯」の姿(モザイク)をホームページで公開して話題になりました。
 その前にも複数のコンビニ店が、はやり「万引き犯」の写った監視カメラをプリントアウトして店に張り出すということがありました。

 いずれも公開した店側に対する批判は少なく、むしろ拍手を送る風潮さえ感じられました。これはきわめて重大なことです。

 そもそも店(私人・私企業)がある人物を「犯人」と特定し、その映像(写真)を公開することは、法的に許されません。
 憲法第31条(適正手続きの保障)は、「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命もしくは自由を奪われ、またはその他の刑罰を科せられない」と規定し、適正な法的手続きによらないリンチを禁止しています。店による「万引き犯」の画像の公開は、この規定に抵触する人権侵害と言わねばなりません。

 問題はそれだけではありません。監視カメラ自体の問題を見過ごすことはできません。

 「防犯」や「テロ対策」を口実に、いまや町中に監視カメラがあふれています。しかし、通行人を無差別に撮影し記録すること自体、プライバシーの侵害であると捉える必要があります。
 その上でさらに問題なのは、監視カメラの映像の「利用」については、法的規定・規制が現在まったくないことです。「万引き犯」の公開はその不備を示したものです。
 法的規定・規制がないのは「一般市民」だけではありません。メディアや警察(国家権力)も同じです。監視カメラを何にどう利用するかは警察のやりたい放題になっているのです。これは直ちに改められなければなりません。

 しかし、監視カメラを肯定する風潮は社会に蔓延しています。「刑事ドラマ」やメディアのニュース報道がそれを助長しています。「万引き犯画像」への反応もその帰結です。これはきわめて危険な状況です。

 安倍政権はいま、「テロ対策」を口実に「共謀罪法案」の制定を目論んでいます。
 「共謀罪法案の本質的危険性は、犯罪が成立する要件のレベルを大幅に引き下げ、国家が市民の心の中まで眼を光らせる監視社会をもたらすところにある」(海渡雄一弁護士、18日付中国新聞=共同配信)のです。
 「また、共謀罪は人と人との意思の合致によって成立する。その捜査は会話、電話、メールなど日常的に市民のプライバシーに立ち入って監視する捜査が不可欠となる。…警察が市民生活のすべてを監視する事態は目の前に来ている」(同)

 監視カメラの生活への浸透、その利用への無意識・無抵抗・容認は、その「監視社会」に直結するものです。

 「共謀罪法」は「現代の治安維持法」だと言われます。天皇制国家権力が侵略戦争遂行のため市民の目、耳、口をふさぎ、抵抗者を弾圧した最大の武器が治安維持法(1925年制定)でした。その稀代の悪法を支えたのが、「隣組」による市民同士の「監視社会」であったことを忘れることはできません。


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「新幹線放火事件」の教訓は、それでいいのか

2015年07月07日 | 差別・人権

         

 「新幹線放火事件」(6月30日)は、言語道断の身勝手な犯罪です。
 しかし同時に、事件から引き出すべき教訓があることも確かです。ところがメディアが主張する「教訓」は、きわめて一面的であるばかりか、危険な要素さえ含んでいます。

 事件についての、主要紙の社説を見てみましょう。
 「安全対策見直す契機に  駅や車内の警戒をこれまで以上に強め、疑わしい荷物は念入りに中身を確かめる。そうした日常の警備できめ細かく目を光らせるのが現実的だろう」(朝日新聞、2日付)
 「『安全の死角』総点検を  現在も行われている監視カメラでの不審者の点検や、車掌らによる見回りをより強化するのがまずは現実的だ」(毎日新聞、2日付)
 「新幹線火災・引き出すべき教訓は  駅構内の監視カメラの運用や警察官の車内巡回を強化し、不審者の発見や危険物、凶器の持ち込みを極力排除してほしい」(東京新聞、1日付)

 ①「防犯カメラ」・国民監視強化を手放しで肯定していいのか

 メディアが強調する「事件の教訓」は例外なく(私が見た限り)、「監視・取り締まりの強化」です。しかもまた例外なく、「監視カメラ」の設置を無条件に肯定し、その強化を求めるものです。こうした論調に呼応するように、JR東海は6日、新幹線1台あたりの「防犯カメラ」を60台から105台に増やし、デッキだけでなく客室にも設置すると発表しました。
 不審物・者の警戒はもちろん必要です。しかし、「防犯カメラ」という名の「国民監視カメラ」の設置には慎重でなければなりません。それは市民のプライバシーを侵害し、国家権力の市民監視・支配に直結するからです。少なくとも「カメラ」の運用基準等をルール化する必要があります。もちろん新幹線だけではありません。「監視社会」の強化につながる「防犯カメラ」の手放しの肯定は危険です。

 ②事件の背景にある貧困・社会保障切り捨て政策を放置していいのか

 容疑者(71)の主要な犯行動機は、「年金額への不満」、さらに年金の減額分が戻らないという制度上の疑問・不信だったといわれています。また容疑者は職を求めてハローワークに通ったけれど、年齢を理由に断られたともいいます。これは自民党政府がすすめる新自由主義政策による福祉切り捨て、格差拡大の現れにほかなりません。
 こうした事件の背景を照射し、高齢化社会の社会保障の在り方を問題提起した社説は、見た限り、ありません。わずかに「報道ステーション」(2日)が、「高齢者の貧困率」の国際比較から、日本の社会保障制度の遅れを問題にしていたのが注目されました(写真中)。
 もちろんどのような理由があろうと、犯罪が許されるわけではありません。しかし、事件から教訓を引き出すためには、その動機に正面から目を向けることが不可欠です。なぜなら、犯行は社会の病理の氷山の一角だからです。

 ③根源は「議会制民主主義」の制度疲労・空洞化

 容疑者は犯行前に、周囲や実姉に「年金事務所で首でもつろうか」「国会の前で死のうか」と話していたといいます。また、年金のことなどを区議会議員に相談していたともいいます。政治・社会への不満をどこへぶつけていいのか苦悩していた容疑者の姿が想像されます。苦悶の末、最悪の選択をしてしまったわけです。
 政治・社会への不満をどこへぶつければいいのか。高い壁の前でたじろぎ、無力感にさいなまれるのは、この容疑者だけではないでしょう。減ったとはいえ年間3万人近い自殺者が出る日本です。
 ここには「主権在民」が名ばかりの実態があります。1人ひとりが主権者であるといいながら、その声が生かされない、政治に届かない。議会制民主主義の制度疲労、憲法の空洞化です。「辺野古問題」もけっして無関係ではありません。この状況を打開して民主主義に血を通わせる。それこそがこの事件から引き出すべき最大の教訓ではないでしょうか。

 ①と②と③は密接に結びついて、私たち1人ひとりに問い掛けていると思います。


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監視カメラの日常化に無頓着でいいのか

2015年02月26日 | 差別・人権

         

 22日の東京マラソンで、警視庁の「ランニングポリス」なるものが初めて登場しました。
 64人の警察官が監視カメラを帽子に装着し(写真左)、リレーしながら周囲の映像・音声をリアルタイムで警視庁本部へ送るのです。警視庁は「テロ警戒のために効果的だった」として、運用を広げる考えです。

 多くのメディアはこれを「テロ対策の新兵器」として、疑問もなく好意的に報道しました。果たしてそれでいいのでしょうか。
 市民マラソンで警察官がランナーに交じり、参加者や周囲の映像と音声を逐一警視庁に送るというのは、異常な光景ではないでしょうか。
 「テロ対策」という「錦の御旗」があれば、何でも許されるのでしょうか。

 最近のテレビニュース番組では、「防犯カメラ」が頻繁に登場します。
 殺人事件などで「容疑者逮捕の決め手」として、「防犯カメラ」の映像が、警察が流すままに放送されます。
 中には「防犯カメラ」の映像を見ながら、番組で「犯人探し」をすることさえあります。
 写真右は25日の報道ステーションですが、同番組ですら、「防犯カメラの映像を独自に入手した」と誇らしげに報じました。

 いまや「防犯カメラ」は町中にあふれ、日常生活に浸透しているかのようです。市民はそれを批判するどころかむしろ歓迎する状況がつくられています。それでいいのでしょうか。

 「防犯カメラ」というのも言葉のマジックで、要は「監視カメラ」です。

 カメラが「容疑者逮捕」に一定の効果をもっていることは確かだとしても、逆に不鮮明な映像が「誤認逮捕」の原因になることもありますが、そんな負の面はほとんど表には出ません。
 カメラは当然のことながら、けっして「テロ」や犯罪だけを「監視」しているわけではありません。カメラが24時間監視しているのは、一般市民です。市民の日常生活です。

 ジャーナリストの斎藤貴男氏によれば、安倍首相は第1次安倍政権の時に「イノベーション25戦略会議」を設置し、その報告書に、全国の町に「防犯カメラ」や集音マイク、しぐさ・顔認識を設置することを盛り込みました。斎藤氏はこう指摘します。
 「顔データベースとか、あるいは声紋登録とか、しぐさ、要するに行動パターンの登録をデータ化しておけば、いつ、誰が、どこで、誰と、何を、どういう表情で、どういう会話をしていたかという情報が、すべて警察のほしいままになるわけです」(『グローバル・ファシズム』)

 「監視カメラ」だけではありません。
 重大なのは、安倍政権がこの通常国会で、「盗聴法」の大改悪を図ろうとしていることです。

 現在の盗聴法は、警察による盗聴の対象を組織的殺人・麻薬・銃器関係に限定しています。安倍政権はそれを詐欺、窃盗など市民の日常生活にかかわる犯罪にまで拡大を図ります。
 また、盗聴は通信事業者の施設で、その立会の下で行われなければならないという制限を撤廃し、警察が警察内部で自由に盗聴できるようにしようとしています。

 監視カメラを町の隅々まで設置し、盗聴法を改悪することによって、警察(国家権力)が市民の生活を24時間、監視下に置くことになるのです。

 これは、「秘密保護法」の強行成立・施行、さらに今秋の共通番号制による市民番号(国民総背番号)制の強行とも無関係ではありません。

 日米軍事同盟に基づく集団的自衛権行使、自衛隊の無制限海外派兵という「戦争をする国」づくりと、市民に対する「監視社会」の強化はまさに表裏一体です。

 「9・11」以降アメリカで市民社会の監視・管理が強化されたように、「テロ対策」の口実で私たちの日常生活の自由と人権が奪われようとしていることに、無頓着・無警戒であってはならないと思います。 


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