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石垣島の「水・土・光」

2023-10-21 04:03:59 | 石垣島

 写真は麦畑の準備である。ハンマーモアーで草を粉砕し、そこに石垣島の牛糞堆肥「よみがえり」を撒いた。ハンマーモアー作業がもう少しで終わるので、終わったならば、トラックターをロータリーに変えて耕耘をした。11月11日には麦を蒔こうかと考えている。

 石垣に引っ越したのは2019年11月だ。あれから4年が経過したことになる。田んぼを始めるつもりは無かったのだが、石垣島に来てまた田んぼをやっている。結局の所、田んぼが好きなのだ。暑いときはさすがに作業が辛かったが、動いても何とか耐えられるような季節になったら、また楽しく農作業をしている。

 やるのは草刈りばかりである。石垣島の農業は草との戦いである。小田原の雑草とは桁が違う。小田原で3ヶ月に一回ぐらいの草刈りで済ませているのが、溜め池の草刈りである。それが石垣ではほぼ毎月やらなければ歩けなくなる。そのやらなければならない草刈りが夏の間は暑すぎて遅れる。

 ハンマーモアーで出来るところは一気にやっている。やっとハンマーモアーが直ったのだ。そして、ハンマーモアーで出来ないところは、ロビンの草刈り機である。それでも作業はせいぜい一時間ぐらいのものである。草刈り機に満タンにした燃料が尽きたら終わりにしている。

 まだ働けるようなら、田んぼのコロガシをやるとか、堆肥撒きをするとか。外の作業をやることにしている。やることはいくらでもあるのだ。草刈り仕事はまだ1週間はやり続けなければメドがつかないほどある。あと7回の満タンぐらいだ。それが終わるとすでに次の草刈り場所がでてきている。

 別段、作業が嫌というわけでもない。やるのはいいのだが、雑草との戦いに追いつかないと言うことである。この雑草を腐食を増やすことに上手く利用できれば、良いと思う。今のところ刈った草を乾かしてから、堆肥を混ぜて漉き込むと言うことぐらいである。

 刈った草を集めて堆肥にするとか、方法はあるはずだが、まだ、しばらくはそこまでは出来ない。のぼたん農園ではやるべき事がまだやりきれていない状態である。本来であれば南側の下の方の畑に、サトウキビやパイナップルも植えなければならない。そこまではまだ進まない。

 やっと田んぼの整備が出来てきたので、来年は下の方の畑や、果樹園の整備なども手が付けられるだろう。「のぼたん農園」は10年計画である。慌てる事は無い。一歩ずつ土壌の改善を続けて行けば良い。去年に較べれば今年の方が大分状態が良くなっている。

 今一番の問題は溜め池である。溜め池の水が停滞して悪化した。死に水になった水が、二番田んぼに流れ込み、二番田んぼのひこばえが弱った。溜め池の水の改善をしなければならない。先ずは溜め池の水面がよく見えるように、全体の草刈りをしなければ始まらない。

 草刈りを続けていて、石垣島の草原を絵に出来るようになった気がしている。身体が覚えて、絵を描くと言うことは身体が石垣島の草のすさましさを覚え込まなければ、描くことが出来ないと言うことかもしれない。最近やっと目の前に見えている草原が見えてきたのかも知れない。

 石垣島の土も少しずつ見えてきたようだ。四年目でやっと土が見えてきた気がする。もちろんまだまだ不可解ではあるのだが、手に負えないとんでもない土だと言うことだけは分かってきたのだ。分からないなりに手応えは感じる土。分からないと言うことが分かったと言うことで、分からないとは描くことが出来る。

 人間が見ると言うことはなかなか奥が深い。目に映れば見えていると思うのは大きな間違いだ。見ると言うことには、観ると言うことである。視るもある。診るもある。目に写るだけのみるでは自分の絵は描けない。私絵画の絵を描く場合の「みる」は観ると言うことだろう。

 見て自分の哲学の理解と合致するところまで見切らなければならない。そうすると眼前に見えてみるものを、どのように描けば良いのかが見えてくる。絵という物をそのように考えている。本当のところがまだ見えているわけではない。見えればその当たりがはっきりするだろうと言うことが分かってきたと言うことだ。

 現状での私のみるは、空・海・草原そして土が同じものだと見て描いている。同じ視線で見る。地球上のものとして同じと言えば、物質として同じと言うことに成るわけだが、もう少し感じが違う。生きる自分の命の関わりとして同じというような感じだろうか。

 そういう自分の世界観がそのまま絵に出てくれば良い。そういう絵を描きたい。そこまで行かなければ、絵を描いてきた甲斐がない。もう一息の所まできているかもしれない。その自然を一つとしてみている見方の中に、自分の何かが反映してくる。自分が観ている世界がそこに現われる。

 何かしら見え始めている気がしている。前とは少し違う。いい絵を描くというようなことからは完全に切り離れた。絵を描く眼で自然が見えるようになってきた。それはこの土地を耕して、汗を流したことで獲得できた体験にもとづく物のようだ。

 風土と言うことかもしれない。風土という言葉も悪い言葉ではないが、農業をしていると、水土という方が相応しいと考えるようになった。風よりも水だろうと思う。風と言ったのは情緒的な文化人的思考である。農業者のような労働者には水と土と光である。

 水の重要性は計り知れない。水と土がなければ命は育まれることがない。石垣島が水のある島なので、豊かに人間が暮らすことが出来たのだ。その土地の水に身体がなじむと言うことがある。石垣島で暮らして4年が経ったと言うことだろう。

 何しろ日本で一番古い時代からこの島には日本人がいたのだ。島で田んぼをやる暮らしはいつも水のことを考えている。雨が降らないかといつも思う。雨が稲を育てていると言うことがよく分かる。雨は草も育てる。一雨ごとに群と草の量が増す。

 この石垣島の自然を観ている世界観がある。厳しい自然の世界だ。なかなか受け付けてくれないが、入り込めることが出来ればこれほど豊かなこの上のない世界だ。この世界観こそ絵にする物だと考えている。石垣島「空・海・草原・そして土」

 絵は光を描いている。光はすべての物に等しく降り注ぎ、すべての物を表してくれる。絵はその光を描く物だ。印象派が野外の光で描くと考えたのは当然のことだ。光で物を見ればすべてが同じ物である。「空・海・草・土」すべてが光として同じである。
 
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