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「ゆんたく」すると言うこと

2024-01-02 04:08:40 | 石垣島
水牛は行く

 沖縄には「ゆんたく」と風習風習がある。ながいながい楽しいおしゃべりのことである。江戸の長屋では、井戸端会議という言葉があるが、かーちゃん連が共同洗濯場で、あるいは炊事場で手を動かしながら、会話している姿を思い出す。水場が共同だった庶民の暮らしの一場面になる。

 ゆんたくがそれとは違うのは、どちらかと言えばやニィニィやオジーの無駄話のことが多い気がする。それくらい石垣のおやじ連は話し出すと長い。その長い無駄話を文化だとまで言うのだ。何故その長い無駄話が文化なのかというなかに、沖縄の歴史があり、必要なことだった。

 地域の暮らしが上手く回るためには、「ゆんたく」が重要なことだった。それだけ厳しい暮らしだったと言うこともある。そして、昼日中からおしゃべりに熱中している。文化なのだから、遠慮無くだらだらと続く。その中から本音が出てきたり、互いに関わる大切な調整が図られることになる。


水牛の働き者の「わかば」

 慌ただしい現代社会では、会社の打ち合わせは立って行い、5分以内。と言うようなことになる。そんなことではすまないことが地域社会にはある。あしがら農の会の月例会は最初の頃は、持ち回りでみんなの家を回った行っていた。すると夜中の0時を過ぎても終わらない。

 話しても話しても結論が出ないことばかりなのだ。大企業の部長をしていた人が加わったときに、この人が無駄話ばかりしていてこれでは会議にならない。終わりの時間の決まっている公共施設で定例会をしようと言うことになり、あの大切だった延々と続く話し合いが終わった。多分大切な物が希薄になった。

 今度の夏に行う、森での活動をどうすると言うことになると、実務だけ割り振りで、進めてしまえば効率も良い。しかし、森の活動の趣旨や方角が全員の中に共有化されることにはならない。それは機械整備をどうするかと言うことだって、同じことで、やればいいというのでは、機械を大事にする気持ちは育たない。

水牛のやさしい「さくら」

 今の暮らしは何やらいそがしい。何故、昔の暮らしはあんなに時間が有り余っていたのだろう。明治時代までは配達に出た丁稚が、お寺の木陰で昼寝をしているようなことが、当たり前だったそうだ。私の子供の頃の、お寺のお茶のみ話が延々と終わらないで、どんぶり山盛りの漬物がなくなるまで話している。

 どこの家でも、お茶請けの漬物は必需品だった。それくらい近所づきあいが頻繁だったのだ。地域社会というものは、こうした人付き合いがなければ回らない社会だったのだ。またそれを文化だと言いておかしくないものだったのだ。そこから生まれる意識があったのだ。

 のぼたん農園には7グループ現在があるが、「ゆんたくガーデン」という1グループが在る。そこの活動の中では、自然保護部という形で組み込まれているようだ。実は「ゆんたく」という言葉が使われる活動は石垣島には多分100はある気がする。それくらい使いやすい言葉なのだろう。

水牛の愛らしい「のぼたん」

 沖縄にはゆんたくのつく食堂が沢山ある。ゆんたくカフェなどというのもある。つまり名前の通り、食事が終わってから何時までもゆんタクしていても、怒らないですよー。と言うお店と解釈して良いのだろう。ゆんたくガーデンは確か何もしないでそこにいるというメニューもあった。

 実際のところ「ゆんたく食堂」を名乗ったとしても、昼食難民のことがある。難民がついているのは、クルーズ船が入ると、一気に昼時は入れる食堂が無くなり、店の前に食事を食べるために並ぶことを意味する。オーバーツーリズムという奴だ。何とも慌ただしい世の中だ。

 最近また観光客が戻ってきて、難民の列が見られるようになるかもしれない。難民が押し寄せてきているのに、何時までもゆんたくしているわけにも行かない。帰船の時間が迫っている。いつも時間に迫られている暮らし。終わり無い繰返しがゆんたく文化を生み出す基になる。

 日本で失われたものは時間のようだ。時間で監視された労働は人間本来の文化と言えるような労働ではない。労働を資本に販売するような、味気ない労働である。そんな労働にはゆん宅の時間は無い。これでは生きる事に不可欠な文化は生まれない。

 人間が生きると言うことは、限られた時間の中のことだ。私であれば、100年時代と言っても後25年のことだ。この限定された生きるという中で、無限の時間を見つけ出さなければならない。それは、掛け替えのない1瞬1瞬のことのはずだ。

 どれだけその時を味わうことが出来るかにかかっている。焦る必要も無いし、油断する必要も無い。それこそゆんたくしている無駄なような時間が一番尊い時間と言うこともある。その時を後悔無く、生きる事ができるかどうかなのだろう。

 沖縄暮らしには無限の時間が合った頃の暮らしが残っているのだ。忙しい食堂ですら、ゆんたくを名乗るのだ。のぼたん農園でもゆんたくを大切にしたいものだ。みんなでやる活動には、約束事を決めただけでは収まりきらないものばかりなのだ。

 のぼたん農園文化が生み出されるためには、時間制限なしでなければだめなのだろう。むしろ何もしない時間を味わうことに意味がある。そういう時間に追われない、無制限一本勝負が、のぼたん農園の自給活動なのかもしれない。

 いよいよ今週から田植えの準備だ。先ずは田んぼの水調整。そして苗取り、線引き、田植えと続く。慌ただしく作業をこなすのではなく。心を込めて、味わえる田植えをしたいものだ。急ぐ必要は無い。時間無制限の作業にしたい。
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