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水彩人、相模原展

2024-06-26 04:26:58 | 水彩画




   

 水彩人展では6月27日午後から7月2日17時まで相模原で展覧会を行う。相模原の駅ビルの4階である。梅雨時ではありますが、駅から雨に濡れない場所なので、お近くの方はぜひ見にいらしてください。6月に描いた中盤全紙の作品2点を出品する。

 できるだけ会場には行くつもりですが、28日と30日は今のところ確実にゆきます。このブログのコメント欄から連絡をいただければ、会場にいるつもりです。本来であれば、きちっと案内はがきを皆さんに出せればいいのですが、なかなかそこまで手が回らないことになっている。

 少しでも時間があれば、絵を描きたい。いつも描きかけの絵があり、その絵の続きが早く描きたいという気分でいる。昔絵は描きたいときだけ描くべきものだと決めて、半年ぐらいまったく描かないで居るときがあった。今思えば何故描かないでいられたかと思う。

 絵を描くことを除けば、のぼたん農園の作業以外は、石垣にいるときは何もしていない。海に行くとか、散歩をするとか、どこかのレストランに食事に行くとか、三線を弾くとか、そいうことが全くない単調な繰返しの暮らしになっている。

 歳を取り新しいことや、外界に対して好奇心が持てなくなっているのかもしれない。そういえば、あんなに楽しみだったコンサートにもだいぶ行っていない。大体6時には寝てしまうのだから、夜の7時から始まるというものに出かけることは無理になった。

 今日は小田原に行く日だ。飛行機の中で、林芙美子の台湾紀行を読むのを楽しみにしている。明日は展覧会の準備、展示を27日の午前中に行う。初日は午後から開催になるので、ちょっと気をつけてもらいたい。私は展示が終わればすぐ行かなければならないところがありぬける。

 小田原では絵を描きたいと思っている。その時間も少しでも取りたい。出来れば雨のまだ新緑の箱根が描きたい。濡れた若葉の色が懐かしい気がしている。あんな木々の微妙な色合いは石垣島にはないのだ。石垣島の色彩を確認する意味でも、箱根を描いてみたい。

 自分が以前惹きつけられていた色に、石垣島の色になった自分が、どう反応するかに興味がある。篠窪に行って描ければそれでもいい。篠窪はたぶんもう夏の色だ。やはり、箱根に行くのが良いのだろう。箱根はまだ春が残っているはずだ。

 もう5年石垣で暮らしている。その前3年くらいは写生に来ていた。石垣の色になるのに、8年はかかったことになる。早いのか遅いのかはわからないが、2拠点生活はその意味では意味があったと思う。自分の立ち位置が、場を変えることで、行き来する都度に確認することができた。

 自分が何かを探しているのだから、絵に自然に無意識に表れているものが重要だと思っている。色彩はその一つだと思う。色彩に反応しているという自分がいる。そこにある意味を考えている。絵が絵空事にならないということだ。自分の真実に食い込んで描く。

 絵空事ととか。絵にも描けないとか。絵に描いた餅とか。絵というものを日本では真実を表すものとは考えないで、嘘とか空想とか理想像とかとつなげて考えてきた。そのきれいごとを拭い去り、どうやってありったけの自分内部を反映した絵が描けるかである。

 またそれが無理なことだとしても、自分というものに向かって、絵という画像を通して、探り続けるという行為が、生きる手ごたえを深めて行く行為になる。生まれてきたということは、生きることを十全に成し遂げることが最終目的である。そこまで行き着きたい一途だ。

 自分が生きるということを深めるために、絵を描くということが役立ちそうだということで、絵を描いている。目的は絵のようであるが、人間の方だ。それが私絵画であり、AI革命後の絵画だといいたい。実は相模原展でも、できれば絵を語る会をやりたいと考えている。その時話したいことを書いてみた。

 自分の絵を語ってくださいということになると、多くの人がどんな紙に、どんな技法で描いた、と絵の説明をしてくれる。あるいはどこをどんな風に描いた。そういうことを普通に説明を語る。なぜ自分がその絵を描いたかということを語れる人は少ない。

 結局の所、絵空事の絵を真似て描いている。誰かの絵をまねて描いているであり、自分の絵を描いているわけではないからだ。自分のスタイルを作ろうとしている人も多い。それは無理矢理作り出したやはり人まねのスタイルだ。

 自分と言う人間のスタイルを作り上げられるような人は、極めて少ない。そういう人が本当の絵描きなのだろう。私は残念ながらそういう所まで至っていない。スタイルを捜したことは無い。スタイルは産まれるもののはずだからだ。

 スタイルをあるかのように模している絵というものは、卑しい絵だと見える。商品絵画の世界はおおよそそれ風の絵とは言えないようなものだ。私絵画であれば、そんなグロテスクな絵を描くのは恥ずかしくて出来ない。絵を操作するようなことはやりたくない。

  

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