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水彩画、見ることの意味

2024-06-18 04:09:23 | 水彩画

 1番田んぼの2回目のひこばえの稲刈り1週間目の様子。毎日田んぼの脇に椅子を置いて、観察している。あれこれやらなければならないことも見えてくるが、新しい発見もある。がっかりする発見も多いいが、これならばと言うこともある。観察がすべてである。

 人は見ることで外界を認識をする。見ることに判断を加えたときに、言葉になる。赤い花を見て、薔薇だというような言葉にして認識を自分のものにする。薔薇を確認すると言うことは、それを見ている自分というものを意識すると言うことになる。

 見ると言うことは、認識する始まりである。認識するとは、認識する主体である自分の存在を反映として認識していると言うことでもある。その見ると言うことを赤い薔薇だな。と言うような言葉化する前の状態というものがある。見て判断しない前の何か分らないものがある。その目に映った状態があるはずだ。

 目に映る状態を言葉で認識し判断する途端に、意味を生じる。その意味を伴わない映像を、絵に描こうとしている。のだと思う。それが多くの場合半具象画と言われている。ものに意味はあるのだが、意味を伴う前の状態でとらえる画像のあれこれを描くと言うことになる。

 何故そのようなややこしいことを通して、あえて絵で行うのかと言えば、結論から書けば、それが自己確認だからである。自分の原初的なところに到達出来るのでは無いかという確認および表現行為である。赤い薔薇と言葉化する認識をすることで、ものは一般化する。いわゆる薔薇という認識に標準化される。

 赤い薔薇を、赤い点として意味を取り去って目に映っている状態を探ろうとする。これが絵を描くと言うことの、私の行為なのだと思う。外界をそうした意味を伴わないものとしてみる訓練を繰り返すと、意味の伴う世界では、見えていなかったものが、意味を失うことで見え始めるものがある。

 それは絵を描くと言うことで、初めて触れることが出来る世界だと思う。赤い点として、描かれたものが、絵を見る人の多くは赤い薔薇なのではないかと意味を求める。絵を見る人の多くは薔薇としての説明を求める人も多い。花を描くなら、品種名まで分るように期待する人さえ居る。

 そういうボタニカルアートのような装飾絵が大半で、絵は美術品と考えているのだから、仕方がないこととは思う。私が描いているものは外界の説明ではないのだ。あえて言えば、自分の内部世界を説明をしているのだ。表現としての絵画とはそ言うもののはずだ。

 自分を突き詰めなければ居られないという病のようなものだろう。自分病である。自分とは何か。産まれてきた以上、このことを確認しなければ居られないという、強い欲求である。そんなものは生きることにいらないという人にしてみれば馬鹿馬鹿しいことだろうが、自分病という病なのだから仕方がない。

 道元禅師は正に自分病の人だ。日々生きて行く上で自己確認などどうでも良いという健全な人ではないのだ。生きている意味を確認しないではいられないという人も居るのだ。哲学者などと言う人はそれを言葉でやる人のことだろう。詩人もそうかも知れない。

 芸術家と言われる人は様々な方法でそれをやっているのだと思う。そして、その表現方法に、ぶつかり衝撃を受ける人も居る。何のことだと気にもとめない人も居る。それぞれの持っているものの違いなのだろう。あえて、教養の違いとは言わないでおく。

 絵は学ばなければ理解できない藝術分野のものだと思う。哲学が言葉に対しての前提条件を、言葉の意味の確定をしていなければ、理解できないことに似ている。言葉を違う意味でとらえていたのでは、またその言葉を厳密に認識できなければ、語られる哲学を認識することが出来ない。

 絵もただ見れば見れるものだが、見る側に見る能力がなければ見る事ができない。絵は感じれば良いというような、短絡的なことではやはり、絵の全貌には到底到達できない。絵は見て意味の解釈が出来なければ理解が出来ないものでもある。

 分るように説明して欲しいという人も居る。しかし、高等数学や難解な哲学を分るように言葉で説明することは、実は前提となる教養が共通で無ければ、出来ないことなのだ。絵も同じで、言葉では表現できない世界を描いているのだから、言葉で説明できると考えること自体に無理がある。

 では絵画は感性で感じるものと考えて良いかと言えば、それも違う。言葉化して説明してくれと言う方が十分ではないとしてもまだ誤解が少ない。感じて受け止める絵の見方では、感性の違う領域の絵画は「嫌い」というような間隔判断になるだけだ。

 絵は感性のものだから、感じれば良いというのは、さらに誤解を深める言い方になる。絵は意味を伴わないみるという状態のものだとすれば、感性も伴わないものでもある。美しいとか、感動したというようなことも、赤い薔薇だと言うような解釈と同じで、絵の本来的意味の部分を切り取った解釈になる。

 美しいという感性で感じたときに見失うものがある。何の前提もなく、平明にみるの出なければ、見えてこないものがある。人間は居間まで見てきた記憶に影響されて、ただ見ると言うことが難しいのだ。感性で絵は見ては半分しか見えない。意味で解釈しても半分しか絵は見えない。

 ここで初めて絵を描く上での見ると言うことが、以下にやっかいなことであるかは分って貰えるのではないかと思う。そんなややこしいことはどうでも良いと言うことになるのだろうが、このどうでも良いような面倒くさい話が、絵に於いて最も重要な発見なのだ。

 本来こういうややこしいことは、美術評論家というような人が行うべき事なのだと思うが、美術評論家が絵画芸術論をどこで語っているのかと思う。太鼓持ちのような、美術感想文はあるが、芸術論は読んだことがない。それは現代美術分野でも少しも変らない。

 金沢に行ったときに、21世紀美術館の図書室で、一日評論を捜したが、発見できなかった。私の探し方が悪いのかも知れない。どなたか美術評論をご存じの方がおられたら教えて貰いたいものだ。美学などと言う学問もあるわけだから、この行き詰まった時代における絵画の意味を考えている人は必ず居るはずだろう。

 
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