奄美大島で、防除事業が続けられていた特定外来生物マングースの根絶宣言が発表された。これまでの捕獲数は3万匹を超えたという。すごい繁殖能力であり、すさまじい殺戮である。間違いなく、これ以上にない動物虐待だろう。人間の悪行を恥、善行のように考えてはならない。
マングースはハブを減少するために導入されたものである。ハブの被害は今でも続いている。奄美ではアマミノクロウサギがマングースによって殺されてきた。沖縄県では年間60件弱のハブの咬症被害 があるが、死亡者は近年いない。年間6000匹程度のハブが捕獲されている。これは、マングース以上の殺戮である。どう考えればいいのだろうか。
石垣島でも年間5,6件程度咬まれる人がいる。サキシマハブが生息していて、毒性はかなりひくいものである。咬まれたからと言って、必ず血清を使う必要はないようだ。死者はいない。マムシに咬まれて死ぬ人は日本全体で5人程度だそうだ。この程度の数が多いのか少ないのかはよくわからない。
最近知人で咬まれた人がいて、ポイズンリムーバー という吸引機で毒を吸引して、病院に行った人がいる。結果として病院では特に治療をせずに、返されたそうだが、問題がなかった。その人がすごいのはすぐにスマホで噛んだ先島ハブの写真を撮ったというところだ。蛇の種類の確認のために、できればした方がいいそうだ。
ハブは確かにいるのだが、減少しているような気がする。理由は人間の捕獲もあるだろう。私が捕まえたハブは、ハブの肝を食べたいという方がいて、その方がさばいてすぐに食べてしまった。本来なら環境課に届け出をしなければいけなかったのだが、食べた方が届けてくれたかもしれない。
石垣島にはマングースは放たれたが定着できなかった。ハブを食べる可能性が高いものは孔雀ではないかと思う。これはあまり指摘されていないことなので、素人考えであるが、孔雀は蛇を食べる大型な鳥である。毒蛇を食べて、影響がない鳥だ。それで神の鳥とされている。鶏も蛇は大好物であるが、小さなものしか食べれない。
石垣島の孔雀がかなりの勢いで増加している。バンナ岳周辺が一番密度が濃い。名蔵で田んぼを1年耕作していた。田んぼの環境は蛇が大いはずなのだが、蛇はいそうなところを探してみたのだが、ほとんど見つからなかった。お会いする農作業の人にも良く聞いたが、最近見ないと言われていた。特にバンナ岳付近ではハブは少ないのではないか。
孔雀はたくさんいて、田んぼにも侵入してお米を食べていた。あれだけの数が生息すれば、どんなものでも食べるはずだ。特に孔雀は爬虫類は好きなはずだから、蛇はかなり食べていると思われる。たぶん1000羽は超えているのではないだろうか。一羽が年一匹ということはないだろうから、石垣のハブは孔雀によって減少傾向にあると考えてもいいのではないか。
餌が不足する時期もあるだろうから、そうした時期にはハブを積極的に狙って食べていると思われる。ハブの動きの速さはあまり早くはないので、やはり動作の鈍い孔雀であっても、十分捕獲できるのではないかと思う。孔雀が実際に食べているところはみたことがないので、断言できないところが残念。
石垣島ではハブが減少しているのではないかと思ったのだが、崎枝で田んぼをするようになったならば、崎枝にはハブがいる。のぼたん農園で今まで、2度見た。しかし、昨年までは崎枝には孔雀はいなかった。孔雀は独特の猫のような鳴き方をするので、いればすぐにわかる。
ところがのぼたん農園では今年になって孔雀が来るようになった。歩いているのも一度だけ見た。まだ少ないのだが、崎枝にも増えてきていることは確かだ。一度侵入すれば生息地を広げるだろう。孔雀が現れて、蛇が減るかどうかである。ハブが減るのは歓迎だが、孔雀が増えるのも困る。
結局すべては人間の都合である。マングースも孔雀も人間が持ち込んでしまったものだ。そして今度は排除しようとして殺している。殺すならば、せめて食べてあげる必要があるのではないか。ただ殺しているのでは、あまりにも無残だ。
ついでに書いておけば、マングースは孔雀を食べるとある。確かにマングースであれば、孔雀なら簡単に補食するだろう。しかし石垣島にはマングースはいないのだ。一度はマングースも放たれたが、定着しなかったとみられる。見たという話も聞いたことがない。
さらに厄介な生き物が毒蛇である。果たして駆除すべきなのか、難しいところがある。暮らしを守るためにはいない方がいい生き物も確かにいる。それは蚊やブヨなどもいない方がいい。病原菌やウイルスもいない方がいい。人間の暮らしを守るためにはいない方が良い生き物もいる。
結局自然保護と暮らしとの妥協線を探すということなのだろう。ヨーロッパオオカミのことがある。ヨーロッパでは狼男まで存在する怖い存在である。盛んに狩猟がされてきた。オオカミは赤ずきんを食べてしまうことになっている。
それは、人へのオオカミの攻撃でひどい目に合った民族的歴史があるからだ。家畜を経済とする地域では、オオカミの襲撃が死活問題であった。開発や農耕による適当な生息地や餌動物の減少と重なって、ヨーロッパではオオカミの保護と復活を望む自然保護と、過去の歴史を踏まえた狩猟文化との軋轢がある。
アメリカ狼も同様である。オオカミを絶滅危惧種のリストから外す手続きを始めた。個体数は6000匹ほどで「45年以上にわたり絶滅危惧種としてオオカミを保護をしてきた結果、回復のためのすべての目標を達成したとした。」としている。
ところが自然保護派の運動家はまだオオカミの生息数は不十分として、オオカミ保護の訴訟を繰り返している。もちろんどちらが正しいかではないが、双方が互いの意見を聞き、妥協点を見つけることが大切なのだろう。そもそも人間の暮らしをどうするかが問題なのだ。
オオカミは日本でも絶滅をした。日本ではオオカミは大神である。神聖な動物であった。それほど強く脅威となる動物であったのだろう。そして日本の自然を管理していると感じていたのだろう。日本でもオオカミをもう一度日本の自然に放てば、熊や鹿や猪が街まで出てくることはないと主張する人たちもいる。
そうした主張をする人が、都会のタワーマンションの冷房の部屋で暮らしていて、日本の自然保護問題を議論していることが、あまりに不自然なのだ。マングースのように連れてこられて、あたらしい場所で生息域を広げて、そして淘汰されてしまう。これほど理不尽な話はないだろう。
自然保護とは何が目的なのか、生物多様性と人間にとって害の方が多い生き物との関係をどうするか。もう少し議論をする必要がある。特定外来生物に指定して、悪者扱いにする。何故悪者にしなければならないかをもう少しち密に議論しなければならないだろう。