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「楽観」を描く絵画

2021-08-30 04:31:09 | 水彩画


 絵を描く上で大事なことと思っているのは、何を描いているのかと言うことだ。それはバラを描くとか、向日葵を描くとか、そういう「何」ではない。風景画を描くとか、抽象画を描くとか、そ言う言う意味でも無い。何を表現しているのかと言う意味での何である。

 風景を描くことが大半である。そのほとんどが田んぼや畑の絵である。花の絵や静物の絵も少し描く。樹木の絵も描く。その意味では、海を描く、山を描くと言う対象となるものも、表現すべき「何」にも影響が無いわけではない。

 夕日と朝日では絵になるとよく似ていることになる。しかし、普段夕日を見ている心情と、朝日を見ている心情では大きく違う。それが絵となると、夕日だろうが朝日だろうが良いのだが、その大きな空の変化して行く色の中に「なに」を見るのかと言うことになる。その中を描こうとしているのだと思う。

 だから、写真ですむようなものをわざわざ絵に描く意味はまったくにないとおもっている。あの空にあるものを写真ではとうてい写すことが出来ないからだ。それは見ている私のかなにある、空に反映して始まっているものだからだ。

 朝日を見て表現すべき「何か」を気づき、それを絵に描いていることになる。言葉にしてみればそういうことになるのは確かなのだが、十分な意味では無い。その時気付いたものは具体的な言葉に出来るようなものでもない。何かしらの糸口ぐらいである。描いている内にはっきりするだろうと取り掛かって行く。

 リンゴの静物を描くときに、かじってガリッと美味しいリンゴを描けと、絵のなんたるかを語った先生がいる。いかにも立派な先生のようだが、まったく描くべき「なに」の問題から外れて行く。そういうことは写真に任せて、そのリンゴをきっかけにして表現すべき「なに」を発見する訓練をし無ければならない。

 中国ではその対象が石の塊だったそうだ。師が石を与えて写生を命ずる。そして、その石を描く中に、山水の雄大な世界が現われるまで描く。中国でも絵の素晴らしかった時代がある。いまは石をとことん見つめるような絵はない。大きく偉そうな絵が良いらしい。石を描くことで全宇宙を表現するような、内的な絵はない。

 ヨーロッパではその対象が人間である。人間を研究する一つの方法が、描くという方法だった。モナリザを見ていると、人間存在を直接見ている気がする。人間研究なのだ。だから、裸体画というような妙なものが後に登場した。

 絵における「何」はそれぞれの哲学から生じる。哲学は自分自身のものであると同時に、社会のものであり、その時代のものでもある。だから、江戸時代には絵がある。明治時代にも絵はある。せいぜい戦前ぐらいまでで、そして現代では絵が失われたのだろう。

 自分の生きる証のようなものを描く。この目の前にある絵にある自分で、自分を許せるのかと言うことになる。絵がそれくらい自分と密接なものになれば良いと考えている。ところがそれが絵から滑り抜けて行く。自分というものが、哲学と言えるような世界観を持てないからだと考える。

 接近はするときもあるような気がするのだが、もう一つ自分の何かを表現できたという感じからは離れている。自分の絵だなとは思うのだが、十全の自分では無い。それは自分のきれい事で、でっち上げた自分の絵になっているような事が多い。

 描いているときには絵画製造機のロボットのように絵を描いている。何か絵を描く自動運転が入力されていてかのようだ。その自動運転はその日その日で違っている。一つの方法に従って描くようなことも無い。まるでバラバラにその時々の絵である。後で何故このように描いたのかは、明確には分からない。

 それでも、これらの絵は何かに近づいているかもしれない。希望を観ずる絵と、まるで見当違いだという絵が現われる。見当違いの絵も必要で描いていると思っている。それでどうしたのと言うような、空しい絵はないと言える。出てきた以上何かへの道だと思える。

 表現主義的というか、苦悩をぶつけて描いたというようなことは無い。大きく言えば絵らしきものの範囲で描いている。絵を描くときは田んぼを耕作するときのように描く。田んぼをするときには絵を描く気持ちで田んぼの耕作をする。画耕一致と言っても大きくは間違えでは無い。

 無理矢理言葉にしてみれば「楽観」を描いている。風景の中の希望のようなものを描いている。この辺の不明確さが、絵の不明確さになっているのだと思う。「楽観を描く」と結論が出ていないのだ。自分というものが本当の楽観に至っていないからそうならざるえない。

 ある意味悲観の中でにいながら、楽観を描いている。見私が絵を見て楽観を知る。と言えるような絵が描きたいと言うことかもしれない。

 果たしてこんなことをしていて何になるのだろう。とは思うが、やりたくて、おもしろくて絵を描いている。表現した絵はこのまま廃棄されてしまうのだろう。そう観念している。生きると言うことは結局はそういうことだ。だからこそ、いま最もやりたいことをやり尽くそうと思う。

 つまり田んぼであれば、食べることの出来るお米の実りがある。だからやりがいもあるし、出来たお米で自分の命を繋ぐことも出来る。しかもその農業の方法は、確立できれば人の役にも立つ。絵はまるで無駄仕事である。無駄仕事であるから良いのだと言うことは、理解しているつもりだが、只管打坐の心境には至らず。

 乞食禅の中に生きている。それなら乞食禅のあくどさが絵に現われているならましである。絵は楽観のまねごとの域にある。最近絵が変わってきたというのは、こうした自覚が出来たと言うことにある。ここで言う楽観は、いわゆる楽天的というような、安易に見ているという楽観とは少し違う。

 勝手に使っている「楽観」かもしれないが、世界を良きものとしてみているという意味である。道元禅師が言われるところの、生をあきらめ、死をあきらめた、結果訪れる楽観である。生老病死というように、人間は生まれて、苦しい人生を歩み、世界の希望も見いだせず、死に至るというような前提の中で見いだす。楽観である。

 それでもなお生きると言うことの価値を見いだすと言うことだろう。世界観から生まれてくる、楽観というようなものが、絵にあって欲しい。別段そう願って絵を描いているわけでは無いが、そうなるに違いないと思っている。

 絵を描くと言うことは一人で出来ることである。誰にも見せないで描いていることも出来ないわけでは無い。だからこそ、それではいけないと思っている。常に人目にさらす努力を忘れてはいけないと思っている。人の評価を受ける必要がある。他者を意識することで、みっともない自分というものを自覚できる。そこでこのブログも書き、日曜展示も行う。
 
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