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植樹 明星登山道

2010-11-14 05:07:25 | 地域
長年の夢の一つが始まった。山に三つ葉つつじを戻してゆくことである。うつくしい久野里地里山協議会の活動である。久野舟原に小田原植木さんの圃場の一つがある。そこで山つつじとミツバツツジの苗を、3000本育ててきた。これを春秋に山に戻してゆくことになっている。もう15年は前になる、まだ久野に越してくる前の山北の山の奥に住んでいたころだ。久野に庭林の会というものが始まった。農の会と同様に、これも山田純さんが企画したものである。久野の里山を自分の庭と考えて行こう。こういう発想の会だった。市民が里山をどのように利用し、かかわって行くかということを模索していた。本来薪を取っていた里の近くの裏山まで、杉檜の植林に変わってしまった。これをどのように自然林の山に戻してゆけるかを模索した。

業としての林業が成り立たないのであれば、市民が山とどうかかわれるか。市民が実践を通して模索する必要があるというのが、発想の原点だった。森林インストラクターをされている方が数名加わっていた。造園をされていた方なども加わり、色々やっては見たが、この時は結局活動は停滞し終わった。舟原に越してきてからは、日々、明星山を眺めて暮らしている。昔はあの山の至る所にミツバツツジがあったらしい。それがただの1本も無くなってしまった。山の植林が進んで無くなってしまった。昭和30年代までは、杉檜の山は豊かな山の象徴ではあった。ただの雑木の山は家庭からかまどが消えて、無駄な山になってしまっていた。プロパンガスの普及である。昭和40年までは山梨の山村では薪生活が普通であった。そのころは山にはつつじは幾らでも生えていた。同じく無くなったのが、じじばばと呼ばれていた春蘭である。いたるところにあったものが、一つもないというのがすごい。

もう一度、子供の頃の山に戻せないか。もう杉檜の山は豊かさではない。都市近郊の豊かな山は自然林の山である。市民が歩いて楽しいと感じるような山に戻してゆく。建築用材は採算の合う一部の地域に限定する。たとえば、川の両岸10メートルは杉檜の植林はやめる。コンクリート護岸にして、川のギリギリまで植林するようなことは、無駄なことである。自然の破壊だけでなく、自然の循環を断つことになっている。自然な渓流をどう確保して行くかを考えれば、川から一定の幅で自然状態を維持することで、山から里から海までの豊かさが格段と変わってくる。防災的にも受容する力が高まるはずである。洪水や土砂崩れにつながる山の荒廃は、植林された山の管理放棄されることに原因する。真っ暗で下草も生えない状態では、山は単一化してしまい生き物も住めないようなところになる。

縁があって舟原に暮らすようになり、明星山麓につつじを戻すことが出来るようになった。第1歩である。昨日は50人ほど集まった。一般からの募集が30名。里地里山のメンバーが20名ほどだった。参加費のほかにつつじを植樹する費用ということで寄付をもらった。寄付はまたつつじを購入して行くことに使わせてもらうことになっている。つつじは100本戻した。小さな子どもも参加してくれた。この子供たちが大きくなるころにはと、一面のつつじ山になることをみんなが口々に話していた。参加者は団塊の世代が多い。30年先、50年先の山の話は自分が見られる山のことではない。でもどこかに転換点があるはずだと思う。こうした活動には問題点もあるだろう。でもみんなの気持ちが一つになり、「山を何とかしたい。」という気持ちが膨らんだはずだ。
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