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オリンピックの感動がまだある

2024-08-13 04:20:44 | 暮らし

 この田んぼは40mの風が2日吹き荒れたがやられなかった。畦に刈り残してある雑草が守ってくれたのだと思う。

 オリンピックに釘付けだった。素晴らしい試合が続いた。これほど水準の高い競技を見られることはかつて無いことだったのではないか。初めてメダルをとった国も多かったように思う。サンマリノやバーミューダーのことが報道されていた。

 世界中のスポーツ選手のレベルが上がっているのだろう。どの種目も前回よりも選手層が厚いのではないか。スポーツクライミングを見ていて、前回よりも競技レベルが高くなっている。登坂する壁の設定も女子のボーダー以外は前より工夫されていた。世界中の選手に競争に魅了されてしまった。

 登って行く技がそれぞれ選手によって違い、コースの取り方に選手の持ち味の違いがでる。ここに驚きと面白ろさがある。出場選手に登坂する壁が初めて示される。それを出場選手がぞろぞろと、双眼鏡を片手に下見をする。何やら攻略方法を意見交換している選手もいる。全員が控え室に戻り競技が始まる。

 出場選手は一人づつ登場してきて、他の選手の攻略方法を見ることは出来ない。それぞれが思い描いた方法で、オーバーハングの壁を攻略して行く。この壁がまた良く出来ていて、決勝のボーダーと呼ばれる4つの壁は8人が挑戦して、頂点まで行ける選手が1人ぐらいに設定されている。

 難易度の作られかたが世界選手権より、優れていた。素晴らしいレベル設定の技術である。ただ、女子選手の結晶の壁では、小さい選手にはそもそも無理な設定の壁もあり、逆に言えば大きい半分の人にはたやすい壁になった。ボーダーという競技の面白さをそこなうことになりそうだ。壁の難しさと、身体の大きさが反映しない壁の方が技術の使い方が面白い。

 2つの種目があり、もう一つはリードである。こちらの壁は誰も頂点までは行けない壁に設定されていた。しかし、強い選手はあと一歩まで登った。この登り方が素晴らしいのだ。見ているものも一緒に登坂しているような醍醐味を味わった。完全にスポーツクライミングのファーンになった。一度実際に試合を見に行きたいと思う。

 日本選手を応援していることが多い。生放送は怖くて見ていられないので、勝ったと言うことが分ってからみたことも多かった。日本の代表に成りオリンピックに出ることが大変だったのだ。できればオリンピックで最高の力を発揮して貰いたいと思う。あまりに力が入ってしまうから、ドキドキしてまともに見ていられないと言うことになる。

 きっと勝つだろうと思っていた選手やチームが負けたときには、何か喪失感がある。しかし、よく考えてみれば、勝ち負けがあるのがオリンピックではあるが、勝って得るものもあれば、負けて得るものもある。ここに至るまで多分限界まで訓練を続けた人ばかりだろう。その練習がその人の何かになっているにちがいない。

 そのひたすらの訓練は勝ち負けで変るものではない。確かに選手は負けたときの挫折感は大きいことだろう。支えてくれていた人達への申し訳のなさも大きいものあるだろう。心から応援する人であれば、勝ち負けよりもよく頑張ってくれたと受け止めるに違いない。

 オリンピックを見る度に、人間の努力の素晴らしさを感じる。すごい努力をやり切る人が居る。そしてその努力を出し尽くす人が居る。これを見せて貰うと、人間というものの可能性に心底感動をする。そして、学ばせて貰う。その意味で今回のオリンピックは、新しい時代が来ていると感じた。

 オリンピック直前になって、喫煙と飲酒をした未成年の体操の女子選手が、オリンピック出場を辞退させられた。これは残念なことだった。ストレスがたまって、飲酒し喫煙をしたという。確かに問題であるが、出場辞退は間違っていた。

 スポーツ選手の喫煙はまずい。間違いなく肺の機能を低下させるのだから、競技者として自己管理を間違えている。しかし、人間は間違うものだ。若者が間違った場合、大切なことは、正しい道に戻ることだ。簡単には戻れないだろうが、正しい方角を教えることが取るべき道だ。

 そのためには出場辞退の強制は間違った方法であった。良い結果にならないきがする。この喫煙と飲酒を公表するのはいい。今後このようなことは間違ってもしないと言うことを誓い誓約書を書いて貰う。そしてコーチと体操協会が責任をとり、謝罪をする。どの競技団体でも、競技者でない人間を入れるべきなのだ。

 競技が始まると、柔道で日本選手がやはり強かった。しかし強かったとは言え、各国の選手の強さも目を見張るものがあり、素晴らしい試合が続出した。どの選手の戦い方も柔道なのである。当たり前の事だが、以前は柔道のルールを曲解したような不思議な形の選手が多かった。

 結局、加納治五郎氏が集大成した柔道という武道の合理性に集約されたと言うことなのだろう。正しく柔道技が出てくる。柔道には100もの技がある。例えば風車という技がある。日本の大会では余り見なかったのだが、今回のオリンピックでは肩車が良く出てきた。漫画の技だと思っていた。

 フランスが柔道団体戦2連勝で日本より強かった。フランスは日本の4倍の柔道人口がある。小さな町にも柔道場がある。大学の体育の授業に柔道があった。学校教育にも取り入れている。こうして柔道というスポーツが世界に広がったことは素晴らしいことだと思う。

 柔道は礼に始まり礼に終わる。オリンピック種目の中で一番礼節を重んじている。立派な柔道家は勝利したからと言って、対戦相手に対して失礼な態度は取らない。勝っておごらず、負けて悪びれず。ここに日々の修養が重要であり、勝ち負けは人生修養の過程に過ぎないことがある。精神修養の武道が世界に広がったことは素晴らしいことだと思う。

 新しクオリンピックに取り入れられた、ブレーキングとか、スポーツクライミング、スケートボード、こうしたスポーツに日本の若者が真っ先に取り組んでいることが素晴らしいと思う。しかもこうした新しいスポーツが勝ち負けだけでなく、素晴らしい技を成功させることを、参加者全員で賞賛するという態度は素晴らしい。

 日本の選手達は予想通り、オリンピックで力を尽くした。その姿に感激した。勝敗ではない。例え予選敗退でも、メダルを逃したとしてもオリンピックで自己新記録を記録できれば、素晴らしいことだとおもう。自分を出し尽くすとはそういうことだろう。

 そう思いながら、自分の絵の制作にそうした集中と力を尽くしているかを考えさせられた。絵を描くというのは自分で決めたオリンピックのようなものだ。準備は出来たか。どこまで自分の力を出し尽くせるか。日々の只管打画なのだ。

 オリンピックは終わった。選手それぞれに次の修行の日々があるのだろう。4年後の次のオリンピックを目指して、頑張ろうと考える人も居る。新たな道に進む人も居るのだろう。世界中の若者が、全力を費やしたオリンピックが終わった。スポーツを軽く見ていたフランス人も、今回は様子が違った。

 フランス人の観客がフランス選手の戦いに熱狂していた。オリンピックは戦争のくだらなさを見せてくれたと思う。世界中の人が集い。一つになって競技を楽しむ。応援する。4年後のオリンピックを見ることが楽しみになった。ロサンゼルスでやるらしい。テレビ観戦もさらに面白く変っていることだろう。

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石垣島までの運送料

2024-08-12 04:14:43 | 暮らし


 石垣島で暮らしていると、運送料が気になる。何しろ、靴1足の運送料が靴より高いことがある。現在1,000円(税込 1,100 円)の靴の送料が、沖縄県は10,000円(税込)(離島を除く)配送方法佐川急便(沖縄県や離島等、中継料金)とある。どうしても欲しければ、小田原の家に送ってもらう。あるいは小田原のコンビニである。何と1000円の送料だ。

 購入してからしか送料が分らないシステムにしてあるものもある。筆一本の送料が3500円と言うことがあった。これは巧みに出来ていて騙された。石垣島で通販でものを買うときには必ず送料を確かめる必要がある。ものよりも送料の方が高いというものは案外に沢山在る。

 送料を安くすれば売りやすいだろうという考えではない。どうも運送会社と物販会社の間で、契約していることがあるらしい。運送会社を購入者が選択できない場合が多い。腹が立つのは、送料無料だというので購入操作を進めて行き、さあ、最後に清算をしようとすると、沖縄離島には送りません。これは辛い。

 商品を買う場合。買うか買わないかもあれこれ迷い、送料無料なら、まあ買うことにするかと決めるのだ。もし石垣島であれば、輸送量が1万円かかるというのであれば、最初から注意書きを入れるべきだ。沖縄であっても日本なのだ。何か差別されたような気になる。

 佐川急便の場合沖縄は輸送システムの都合上高くなる気がする。西濃運輸の場合には、石垣島には送れませんと断られることが多い。これは間違いなのだと思う。送れないはずがない。送れないと断られたものを、送ってもらったことがある。

 石垣島にも西濃運輸と契約している八重山港運があり、八重山港運止めにすれば良いのだ。ただそれを各地の西濃運輸が嫌がるのだ。意味は分らないが、石垣島の八重山港運が荷受会社として登録されていないのだろう。支店ではないと言うことかも知れない。

 西濃運輸はこれを認めると何か問題が起こるのだろうか。沖縄本島の宜野湾港止めになってしまう。実際には宜野湾にも八重山港運はあり、そこが受け取りを引き継いでくれて、石垣まで荷物が来る。農機具のような大きなコンテナ荷物はこの方法しか送れないことがある。

 以前に石垣の八重山港運にお願いして、実行できたことだ。同じやり方でもう一度頼んだことがある。これが特例とは思えない。大きな200ボルトの発電機を岐阜で購入して、その結果分ったことだ。 もしこの方法がなければ、石垣島にはそもそも荷物が送れないという話になってしまう。そんなわけがないのだ。八重山港運の荷受け倉庫には沢山の貨物が並んでいる。

 この時一番困ったことは、送り主がどうしても、石垣島八重山港運止めと書いてくれないことだった。そのように書くと岐阜の西濃運輸が受け取らないというのだ。全くお役所のように杓子定規だ。そこで、八重山港運の方が、岐阜の西濃運輸に電話をして、解決をしてくれた。何故西濃運輸ががやらないようにしているのか何か意味があるのだろうか。

 色々運送方法で迷ったすえに、アマゾンプライムに入った。Amazonでの買い物で、比較的送料無料が多いからだ。プライム会員でも送料無料でないものもある。それでもプライムの方が送料無料が多いので、会費を取られても、プラスになると判断をした。

 引っ越しの輸送の場合は、インターネットで安いところを探すことが出来る。30万円が60万円になるくらいの差がある。コンテナ輸送というものがあり、一コンテナの場合と、混載の場合があり、値段も大分異なる。私の場合大型コンテナが家の脇まで、侵入できるのかどうかが大きな検討材料になった。

 それでも5年前の方が今と較べれば大分安かった。今だともう荷物はあまり移動しないで、石垣で新しく購入した方が良いようなものも大分在る。そういえば、ニトリが石垣島にもあるのだが、これは運送料が上乗せされたか価格設定になっている。

 小さなものはユーパックですこしづつ送るのも割安になることもある。小荷物はユーパックが早くて安い気がする。大抵ものを送るのはユーパックにするのだが、中判全紙の絵のサイズだと、ユーパックはだめで、ヤマトの大型輸送になる。

 できるだけ、島内のお店で買うようにしてはいる。島の活性化にも成ると思うからだ。しかし、値段が違いすぎることをがまんすることも多い。通販の送料無料を探して買うように成らざる得ないことも多い。こんなことで良いのかと思いながら、品揃えの違いも大きいし、島では買えないものも多い。

 先日もオーニング、日除けのシートを探して歩いたのだが、3×4mのものが石垣島にはないのだ。通販で見れば、いくらでもある。結局、あれこれ選んでAmazonで買ってしまった。見ないで買うのだから、失敗も多いのだが、値段が違いすぎるし、ものがないのだから仕方がない。

 先日ヤフーフリマで水彩のロール紙を買った。通常よりも半額程度なので、買った。捜しているとそういう物が時々あるのだが、これが輸送に時間がかかった。船便なのだそうだ。ヤフーフリマは送料無料なのだ。それで石垣の場合すべてが船便になるらしい。

 この船便と言うのが、おかしな物で小田原から発送しても、鹿児島まで陸路で運んで、鹿児島港から船に乗り、あちこち立ち寄って、あるいは積み替えられて、石垣港まで来る。これはさすがに時間がかかる。以前友人から蘭を送っていただいて、これが船便経由になってしまい。枯れてしまうか心配で仕方がなかった。

 アメリカから紙を買うのと変らないくらい時間がかかった。ヤマト運輸の宅配便である。それは台風の性もあった。台風で船が欠航になったと思われる。これは仕方がないとしても、蘭で生き物だから、空輸でとお願いしているにもかかわらず、船便に勝手に回された。案外ずさんなところがある。

 蘭は枯れなかったので良いのだが、ヤフーから、到着しているなら、受け取り連絡を入れろと、荷物が来るより先に注意が来る。連絡を行わない無い場合は、あれだこれだ能書きがある。毎回のことだから腹が立ち読む気にもなれない。

 ヤフーに何度も文句を言うのだが、改善はされない。自動で送るのだろう。しかもこのメールには返信が出来ませんとある。返信が出来ない企業メールが多い。返信が出来ないメールなど拒否できるように出来ないものか。面倒くさくて腹が立つ。

 返信が出来ないメールは、企業から来る。企業の都合だけを考えた、許しがたい態度だ。自分は勝手に送りつけて於いて、そのメールに返信できないのでは、対等では無いではないか。こっちも受信拒否を、そうした返信できないメールに対応できるようにして貰いたい。このメールは届きませんでしたとメールの出し手に行くようにしてもらいたい。

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株価の暴落と暴騰

2024-08-07 04:18:28 | 暮らし

 株価はこれから下がる。一度株価は戻したが、円が上がれば株価は上がらなくなる。日銀が金利を上昇させた。預金金利が付くのは久しぶりのことだ。17年前から金利はなくなっているとあるが、記憶が無いほど古い話になる。円が上昇し、株価が下がり、金利が再開された。海外からの投資が減って行くのだろう。

 このように株価は下がると書き始めたのは小田原に居たときだから、7月の29日だったと思う。その予測通り、一気に株価は下落して、3千円まで下がった。4万円を超えていて、まだまだ5万円まで上がるなどと予測を立てた人が居た。それに乗せられて、株式投資をして大損をした人が沢山居ることだろう。

 そして、株価は過去にない暴落をした翌日に、またまた前例にない暴騰をすることになる。株価は投機的に上がり下がりしているのであって、実質経済に連動していない。円があまりに安くなったために、海外の投資家が日本株を買ったのだ。円が上がりそうなので、一気に日本株が売られた。

 だから株式投資は投機なのだ。ギャンブルなのだ。政府がギャンブルを奨励している国はまず無い。日本は倫理の失われた国になったのだ。自民党の政治家を見れば、みんな姑息な守銭奴ばかりだ。こんな最低の連流が日本を牛耳っているのだから、日本の停滞も止むえないのだろう。

 何故不労所得の株式賭博を毛嫌いするかと言えば、そもそもギャンブル依存症が自分の中にあるのを知っているからだ。子供の頃にはベイゴマ、ビー玉、メンコ、とはまり込んでいた。そして小学校高学年からは将棋にはまった。フランスに居るときにはビンゴゲームにはまった。はまり込むのが怖いので、毛嫌いすることにしている。

 日本の株の30%は海外の投資家の売買と言うことらしい。だから、円安が日本株の買いに成ったのであって、日本経済に見込みがあるから日本の株が買われていたわけではない。しかし、株価の解説ではもっともらしい説明だけが行われ、株価と日本経済が連動しているように説明していた。大間違いだろう。

 円が上がったのは日銀が金利を復活させると言い始めたからだ。これは黒田前日銀総裁から、今の植田総裁に代わったときから、言われていたことだ。金利がないと言うことは異常なことなのだから、どこかであ金利を戻す必要がある。

 私は全くの素人だが、金利がないというのは何かおかしい。企業が設備投資するには金利がないというのは良いのだろう。政府は大量に借金をしているのだから、金利が復活するのは困るのだろう。金利がない世界などどこか世界標準にはずれている。経済は繋がっているのだから、何時までもこのままという事はできないのだろう。

 政府は老人がしがみついて居る命綱の貯金を投資に回せと呼びかけている。まるで政府が特殊詐欺をしているかのようだ。株価暴落で老人が投資詐欺に引っかかったわけだ。政府は奨励したのだから、今回の大損の責任を取ってくれるのだろうか。政府は知らん顔して居るだけだろう。

 やはり不労所得など考えたらだめだと言うことを、今回の教訓にすべきだ。今回暴落で、慌てて投げ売りをした人は大損した。今回暴落後の底値買いした人は、大もうけをしたのだろう。こうした売り買いで、しばらくは乱高下する。今度こそなど考えてはならない。株式投資にハマルと言うことは、もうギャンブル依存症なのだ。

 円安で海外投資家が、割安に見えた日本株を購入した。日本政府が株を買い支えているから暴落はないだろうという読みもあったのだろう。しかし、実質を伴わない異常な株価だけがつり上がっている状態は、必ずどこかで破綻を来す。不安の予測の通り、円高に振れて、株価が暴落した。

 円が上昇を始めた。短期間に1割以上高くなった。その原因は日銀がマイナス金利政策を止めた事が引き金である。これで円安は終わると思われた。そうした予測も多かった。円安は結局政府の大企業支援のようなものなのだろう。黒田総裁から、植田総裁に代わり、少し常識的な政策になったのかもしれない。

 一時1ドルが141円になった。ついこの前には、160円になると言われていた。輸出入を考えたら、この株価の1割以上の揺れは、企業の生産コストを翻弄するようなことだろう。また、フランスやドイツの絵の具が買えるようになるのだろうか。カドレモンだけは日本の絵の具では色がさえない。それどころではないことが近づいている。

 アメリカの株価も暴落している。アメリカの景気の後退が始まったのかも知れないが、そういうことは私にはよく分らない。あまり考えたことも無いし、知識も無い。ただアメリカの株価が下落には、経済的な原因があるに違いない。日本のように実質経済と別に、海外からの投資で株価が動いているわけではなさそうだ。

 日本ほどおかしな乱高下ではないが、世界同時株安になっている。リーマンショックの時以上の株価の値下がりが起きている。やはり中東で戦争が起こることが、世界経済の停滞予想になるのだろうか。イランがイスラエルを攻撃すると宣言をした。これは誰求められないと見ているのだろう。いよいよ戦争が深刻化する。

 そもそもイスラエルが、このように暴走を続ける原因は、アメリカの後ろ盾だろう。アメリカの政治は、ユダヤ系の人達の支持を必要としている。特に大統領選挙が近づく状況では、ユダヤ系の支持を期待して、イスラエルの無謀とも言える行動求めることが出来ない。

 アメリカでは失業者数が増加したという。1年前の1.2倍の失業率になったという。その結果、利下げをしろという圧力が高まっているらしい。対円のドル高の原因はアメリカの金利が高いからだ。そして日本では金利がなかったものが、これから、金利がある時代に戻るという方向。

 と言うような分析はあまり意味は無い。雇用者数が予想以上に一ヶ月に30万人も増加し続けている。と言うことも記事になっている。株価が上がれば、それが理由になる。株の上がり下がりなど意味づけたところで、ギャンブルなのだから、群集心理的なもので動いている要素が大きい。

 ただ、日銀が金利を上げて行くという本心を表明したことで、安い日本は終わるかも知れないという心理は働いている。同時にアメリカの金利が下がれば、アメリカへの投資は減るだろうと言うことは、私にも分る。日本よりアメリカの銀行にドル建てで貯金しておく人も居たのだろう。

 これから日本の株価は乱高下するに違いない。世界では戦争が続くことだろう。日本経済が良くなると言うことはしばらく無いと見ておくしかない。そして食料輸入はかなり厳しい状況に下って行きそうだ。日本が必要な食料も楽には輸入できなくなるだろう。

 次に来るAI革命後の世界では、世界の状況は大きく変化するはずだ。自給的な生活を目指し、食べるものを確保することだ。幸い日本列島はそれが出来る地域である。あす食べるもを自分で作れる、安心立命をすることだ。そうしなければ、自分の大切な命の時間を、有意義に生きる事ができない時代になるだろう。

 

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トレイン テレビ

2024-08-06 04:04:06 | 暮らし


 自然に生えてくるギンネムノキである。私は悪い木では無いと思っている。荒れ地での繁殖力が強い。ミネラルやカルシュームが多いためにお茶として飲むことも出来る。ただ有害物質も含むために、そのまま食べることは出来ないと言われている。

 牧草地では牛が食べて困ると言うが、水牛はかなり好物と見える。いくらでも食べてしまう。しかし、それでお腹を壊すようなことは一度も無い。水牛は本当に素晴らしい生き物だ。水牛の放牧地にはギンネムがあれば日陰にも成るし、若い木が出てくれば餌にも成るだろう。

 今回は東京に行った時 電車に何度も乗る事があった。電車の中にテレビがあった。お上りさんであるが、石垣島には電車はない。電車に乗るとなんとなくキョロキョロしてしまう。ついついテレビに見とれてしまった。なかなか美しい画面だったのだ。中刷り広告もいつの間にか凝視している。

 以前の車内にあった写りの悪い動画より、はるかにきれいな液晶の映像が流れていた。トレインテレビという映像が流れていた。短時間のコマーシャルの多い映像なのだが、つい見いってしまった。内容はどうでも良いようなものなのだが、CM映像の品質がかなり優れたものであった事に驚いた。

 電車の中にある中ずり 広告のポスターに比べて、 制作者のレベルの高さに驚かされた訳だ。それは映像の展開の構成レベルが高いということもあったし 、同時にポスターのレベルが急激に急激に下がっていると言うこともある。もう ポスターを制作するデザイナーの時代ではないようだ。

  最近のこうした中吊りのポスターは印刷屋さんが、片手間に作っているレベルのものなのだろう。一気にデザインレベルが下がってきている。それを一番印象付けたものが、トレイン テレビのビールの広告であった。色彩の感性が違いすぎるのだ。

 テレビの方は飲みたくなるような色彩をしている。比べて 中吊りのポスターのビールは色が汚くて、飲みたくもないような状態だった。印刷費が抑えられているのだろうか。 それはビールそのものの色が悪いということもあるのだが、背景になっているブルーがあまりにビールの色に合わないのだ 。

 こんなに色彩感覚がない デザイナーは昔ならば 考えられないことだった。 優秀なデザイナーは多分 映像作家として 動画の方に集まっているのだろう 。トレイン テレビのコマーシャルの映像のセンスは それはびっくりするほど、高い水準の作りのものだった 。普通のテレビコマーシャルよりも上を行く。

 またテレビの多分液晶画面の映像の美しさは、色彩の奥行の深さからいっても到底 中吊りポスターではかなわない。移動している車内での安定した液晶テレビ技術に驚かされた。画面の質が以前より数段良くなったのだ。もう日本の広告業界は 中吊りのポスターの時代ではない。当たり前か。

 といって、その放送内容の方はというと、どうと言うことは無い。コマーシャルが40%だそうだが、コマーシャルの方がはるかにましである。作り手の力の入れ方が違う。Tiktok は見たことないのだが、多分そこにあるような短時間勝負の映像が一応テレビの放送内容であった。

 コマーシャル映像の方が凝っているために、本編の映像よりもかなりきれいなのだ。映像が色が発せられている。光が色を放っている。この美しさは色彩の新しい世界なのだと思う。絵に描いている色は、映像の色とは違う。絵に描いている色彩は、言葉に似ている。絵の色は語っている色なのだ。

 外界の色彩の世界は光の放たれた反射光と言うことである。絵を描くと言うことはその色彩を言葉に代えながら画面で構成している。いわば言葉で観ている世界を説明しているのが、えなのだろう。絵で表わしている色彩は見ている色とは違うものなのだ。

 違うものだが、似ているためについ、見てその色を描こうとしてしまうことがある。所がそ言うことは出来ない。光の放つ色を画面に置き換えたいのであれば、液晶の画面の方が優れている。絵で外界の色を表わすと言うことは、全く再現ではない、言葉で色彩を語るような遠回りになるのだろう。

 詩で言葉で外界を語ることに、絵を描くと言うことは近いのだ。画面に絵の具という色のある物質で、観ている世界とは別物の世界を構築している。その構築されたものは、確かに観ている世界を材料にして、自分の世界を再構成して居るようなものなのだ。

 見ていると言うことが突き詰められて、世界を認識していることになる。絵は世界をこういうものだと指し示している。つまりそれが自分の世界観と言うことになるのだろう。絵が世界観の表現と言うこと成ることによって、絵は自分のことを表わしていると言うことになる。

 自分に表現すべきものがなければ、自分に世界観がなければ、絵は描くことが出来ない。絵がつまらないと言うことは世界観がないと言うことになる。もちろん世界中にある絵のようなもののことではない。私自身の描こうとしている私絵画のことである。

 私絵画は絵の具という言葉を使った、世界の断片の構築なのだ。だから、私であれば、自給的な世界の希望が絵と言うことなのかもしれない。絵は遠回りしているものだ。言葉で世界観を語ることも困難であるのと似ている。絵は図であるから、言葉よりはある意味直接的に示すことができる。

 言葉には出来ないことも絵には出来るという部分がある。多分絵を描くと言うことは全く、写真を撮ると言うことに似てはいるが、意味が違うものなのだ。ここまでのことは今分っていることだ。分っては居るから、そのように描こうとはしているのだろう。

 そのようにと言うのは、絵を描くときには何をしているかなど考えないからだ。何をしようとも思わないからだ。画面に向かいただその時に応じて反応を繰り返して、自分の感じているものに、自分の内なる世界に、近づけようとしているだけなのだ。

 東京では絵が描けない。自然の情景がなければ絵は描けない。作られた公園では絵は描けない。石垣の夏であれば絵が描ける。見ているものに似ているとしても、見ているものを写しているわけではないから、観ている世界への反応がなければ、絵は出てこない。

 石垣島の夏に反応できている。このくっきりとした曖昧さのない世界。この毅然とした世界。このすごさに触発されて、絵を生み出そうとしている。やっとやるべき事にたどり着いた気がしている。やれるかどうかは別にして、やるべき事は分った。


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完熟バナナが健康食

2024-08-05 04:57:02 | 暮らし


 台風が通り過ぎた直後の、のぼたん農園の島バナナ。やっと成るようになったが、台風の風にやられると言われていたが、40mぐらいの風は吹いたが、何とか持ち堪えてくれた。叢生栽培だと案外風に強いようだ。来年は暴風の扇芭蕉も風よけになるからもう大丈夫だと見ている。

 15年間、果物だけを食べて、健康に暮らしている人が居る。中野 瑞樹 さん、と言われる研究者のかただ。1976年生まれ。京都大学卒。元東京大学 教員 。元アメリカ国立海洋大気局 客員研究員。2003年にフルーツのもつ魅力に目覚め、消費啓発活動、毎日フルーツ200g推進協会代表である。

 2009年9月から実験的に、水もお茶も摂らない「フルーツ中心にほぼ果実だけの食生活」を続けて15年間になると言うから驚き。果物だけを一日1キロから2キロ食べるのだそうだ。冬場は柑橘類。夏場はスイカが中心らしい。記事を読んでみた範囲では、実際の所は今一分らないのだが、良く15年間他のものが食べたく成らなかった物だ。さすが研究者は偉い。

 そうは言いながらもお米を食べないと言うことには困る。日本人ではなくなる。 WHO(世界保健機関)とFAO(国連食糧農業機関) では毎日400グラム果物を食べるように推奨されているという。日本では200グラムは食べましょうとしているが、日本人は先進国中最低の量の100グラム以下しか食べられていないという。

 特に若い人が果物を食べると、肥満の原因になると思い込んでいるせいである。砂糖が肥満の原因という間違えも蔓延している。砂糖も果物も中毒性もない。美味しいから食べたければ、食べた方が良い。好きなものが食べたくなることには理由がある。

 だから甘いものを沢山食べてしまうのは、砂糖に中毒性があると主張する人が居る。これは砂糖に対して失礼な主張だ。お酒やたばこには中毒性がある。砂糖の中毒性など科学的に証明されたことがない。甘いものを止められないのは中毒性ではなく、精神的な欠落から来ている。

 何か満たされないものがあり、アマイモノデソの穴を埋めようという心理が起きているのだ。辛いことがあった日には、甘いものを食べたくなる。甘いものには癒やしの効果があるからだ。ドーパミンが放出されるのだ。これは中毒とは違う。

 経済だけでなく、女性差別だけでなく、あれこれ先進国最低が多い国柄なわけだが、それでも先進国中寿命は最長というのも不思議な現象である。何故400グラム以上果物を食べるアメリカが寿命が短いのか。何でも食べ過ぎなのだろう。過ぎたるは及ばざるがごとし。

 年寄は比較的多く食べるが、それでも200グラムは食べていないらしい。もっと果物を食べようと言うことである。それは良いことだ。私は以前から黒バナナを食べ続けている。毎日1本食べていれば200グラムで十分と言うことになる。島バナナであれば2本になる。

 しかし、400グラム食べるためにはもう少しバナナ以外の果物を食べる必要がある。夏はパイナップルが良い。完熟パイナップルに勝る果物はないだろう。マンゴーが美味しいと言っても、マンゴーに勝つおいしさだと思う。いつも渡部さんがくれる冷凍パイナップルほど美味しいものはない。

 自給生活者としては、食べるためには自分で栽培しなければならない。小田原には柑橘や柿やビワなどを作っている。石垣ののぼたん農園ではバナナ、パイナップルを中心にした熱帯果樹である。何故自分で作るかと言えば、完熟果物というものは売られてはいないからである。

 完熟した果物の効能は、別格になる。栄養価も高いし、毒性も少なくなる。青い内は良くない成分があり、熟して毒性が消えるという果実は多い。大なり小なり果実にはそういう性質があるはずだ。しかし完熟した果物は輸送が出来ない。だから市場に出ない。

 イチジクなど美味しい品種は輸送できないから、自分で作る以外に食べる方法がない。それで鉢植えイチジクの特殊品種が苗が、流行の商品になったという。始めたのは足柄地域の松田の方である。いまや完熟した果物を食べようというので、鉢物果実が流行なのだ。果物のなり姿は、見た目も良いから鉢物として悪くない。

 市場で流通している果物は、完熟前に採取されたものだ。追熟して食べ頃になる。しかし、一番美味しいのは木で完熟したものである。追熟は次善の味なのだ。都会の4階以上ベランダなどで作ると、虫も来ないはずだ。風も強いのでカイガラムシなども付きにくい。

 自然療法や東洋医学に従う人などには、果物は身体を冷やす。悪い食べ物と主張する人が多い。果たして、15年も果物だけを食べて実験した上で言っているのだろうか。「甘いものは中毒性が在り、悪い食べ物だ」という、通説が日本人の中に果物嫌いを増やしたのだ。

 こうした間違った思い込みがあって、健康志向の強い人に限って、甘い果物は身体に悪いと思い込んでいる人が居る。自分の身体で試さなければだめだ。私は果物が好きだし。好きなものは健康に良いと思っている。毎日200グラム以上は50年以上食べている。

 それでも太らない。身長171センチ体重は54キロである。果物ほどおししくて、健康に良いものはないと思っている。ただし、ただし、それは自分で作り完熟にした食べ物である事が重要だ。柿でも、梅でも、プラムでも、青い内は毒性が強い。完熟してきて、つまり中にある種が、充実してくるのを待って、美味しくなるのだ。

 それはどの果実にも大なり小なりそういう傾向がある。だから、果物は完熟に限るのだが、完熟すれば輸送が出来ない。だから、完熟果実を食べたいのであれば、完熟出荷を主旨とする農園に直送をお願いするしかない。それよりも自分で作ることが良いに決まっている。

 完熟すると言うことは果物が発酵を始めると言うことだ。発酵によって毒性がなくなる。それは果実が、種の保存継続のために兼ね備えた性質である。青い内に食べられてしまうと、種が芽生えにくい。完熟して果実の中にある種子が充実してから、鳥などに食べられようとしているのだ。

 食べた鳥は種を遠くまで運び、糞という肥料と共に種を蒔くことになる。完熟して実を落とす果実が普通だろう。実が落ちる頃に食べれば一番健康に良い果実になっている。それが黒バナナの健康増進である。バナナの皮が黒くなるのは中が発酵を始めた印だ。

 本来であれば、木で完熟まで置いてから、取って食べると美味しいのだ。沖縄では青パパイヤがよく食べられるのだが、完熟したパパイヤの方が、健康にも良い。黄色パパイヤで柔らかくなったものが良い。青パパイヤが木の上で発酵するに伴い、柔らかな黄色の果皮に成る。甘くなるし、ビタミンCが増加する。

 石垣島には珊瑚パパイヤと呼ばれる品種があり、完熟するととても美味しいものになる。しかし自然に生えてくるパパイヤも多く、どんなパパイヤでも、黄色くなるまで待って収穫すれば、野菜パパイヤが果物パパイヤになる。発酵作用で毒性もなくなるし、美味しくも成る。

 島バナナも木で黄色くなるのを待てば、一番美味しい。青いバナナがなってから、黄色くなるまでには1ヶ月以上かかる。鳥にやられるし、台風が来るかも知れない。それでついつい早く収穫されるのだ。先日の台風前にはゆらていく市場には、青バナナが山積みになっていた。

 青いバナナを追熟するのでも似たようなものだが、これが天日干しのお米が美味しいというのと似ていて、樹上で完熟したバナナは別物なのだ。落ちそうになったバナナを、木から取って食べるほど美味しいバナナはない。これをさらに追熟させて、黒バナナを毎日2本食べれば、病気知らずである。それは100歳まで私が生きたときに証明できるので、あと25年待って欲しい。

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斉藤知事の役回り

2024-08-03 04:27:39 | 暮らし
 斉藤知事は少し行き過ぎたひとだ。周りに居る人を疲れさす人である。多分、誰でもこういう人に出会ったことはあるはずだ。そうした場合、人間は本能的にとでも言うように、自然に関わりを持たないようにする。危うきに近づかずである。

 それでも間違うこともある。たまたま仕方がなくいい顔をしている内に、相手は特別親しい人と思い込んでしまう。それはそうだろう、そうした人は心からの親しい人など無い人なのだ。たまたま親しくなったと思い込めば、スッポンのように食いついて離さない。

 よほどの軋轢が無い限り、関係を絶つことは出来ないことになる。しかし、それも大変疲れることになる。出来れば自然消滅的に関係を絶つのが最善策なのだが、普通はそれが出来ない。相手は問題ある人なのだ。そういう点にだけは実に鋭い感性が働く。

 だから、最初が肝心で判断をしなければならない。この人は危ないぞ。こういう人間としてはやるべきではないような、失礼な対応が必要になるのだ。しかし人間生きて行く植えで、これが大切な舵取り方法になる。ひどいことだがこれが生きるコツのような物なのだ。

 電車に乗って、お危ない人が居るぞと言う直感出る。何気なく、出れも気付かないように、他の車両に移動する術がなければならない。変に避けたと思われれば、大変なトラブルに発展しかねないのだ。こんな人間対応はだめなのだが、現代社会では必要な対応力でもある。

 

 
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江戸時代の識字率には2説ある。

2024-07-30 04:26:28 | 暮らし


 江戸時代を考える上で、日本人の識字率のことがある。江戸時代の日本は世界トップレベルの識字率だとされる。様々な情報から、それは正しい推測だと私は考えている。幕末には全国に1万5千以上の寺子屋があり、江戸時代中期の識字率70%あったといわれる。

 ところが、一方で識字率は20%以下でかなり低いと言う説もある。都会と地方という地域の違いもあるのだろう。無知蒙昧な江戸時代の百姓という、先入観があること、明治帝国建設のため、がむしゃらな富国強兵のを進める上で、江戸時代を悪い時代にしたいという意識が働いて、無知蒙昧な百姓という決めつけをしたのではないか。

 江戸時代の庶民の文化を見ると、金魚、盆栽、園芸、チャボ、浮世絵、読本、出版文化、歌舞音曲 、発句、俳諧連歌。生活の中に様々な好奇心を花開かせていたのだ。江戸の庶民は好奇心に満ちている。人生を味わうという意味で、今よりもずっと文化人の国であった。字を読む人が普通だったと考えて間違いない。

 当時のロンドン人口86万人、識字率20%、パリ54万人識字率10%との記録がある。江戸幕府が鎖国政策を断念して、開国をしたが日本は植民地化されずに、一気に西欧の産業革命を取り入れることに成功する。識字率の高さが維新改革・西洋化に適応できた理由と考えて良いのだろう。日本国民の大半が明治政府の法令規則を読み、情報を共有出来たことは窮鼠君西欧化に役立ったはずだ。

 江戸時代の識字率は低かったという主張もいまでも繰返し主張されている。いずれにしても江戸時代に識字率を目的に調査が行われたことはなかった為に、他の資料からの推測になるわけだ。識字率は低いはずだという先入観からの資料探しをおこない、江戸時代を無知蒙昧な時代としようとする考えと読める。

 その推測に影響したものが、明治政府の富国強兵の西欧化の考え方である。文部大臣が日本語を辞めて英語にしようとしたほど愚かな人達なのだ。明治政府のある意味浅はかな江戸時代否定が、江戸時代の百姓が字を読めるはずがないという思い込みを生み、江戸時代を悪い時代として、宣伝しようという考えに基づくものがあった。

 しかし、実際には柳田民俗学に見られるような江戸時代の百姓の知性の高さは、かなりのものがあったのだ。百姓の知識に対する熱意は常に高いものがあった。それ故に農業技術は世界でも優れていると言えるものだった。特に稲作技術に於いては、世界最高水準のものであることが分かっている。当時反収8俵の記録がある。

 江戸時代には、農薬も化学肥料もない。今でいう完全有機農業であったと言える。 記録を見ると、当時の江戸では、身のまわりにある有機物(人の排泄物も含まれる)の管理や農業への活用が、徹底して行われ、捨てるゴミなど無いほどだったのだ。

 江戸時代ののお米の収穫量は、6俵程度が平均的なものである。現在の水準から見ても、十分な生産力と考えなければ成らない。江戸時代の稲作は世界最高水準のものであることは間違いないことだ。それは水土技術の高さと、当時の部落単位の共同生産の仕組みにある。

 その背景に、識字率の高さがあるとみなければ、つじつまが合わない。 昨年何時種を蒔き、何時追肥を入れたか。そうしたその地域での過去の記録を参考にすることなしには、不可能な稲作なのだ。明治期になると、そうした農民自身の残した記録が沢山存在する。

 江戸時代の稲の品種で、6俵平均の収穫を上げることなど現代でも不可能なことだ。そこには庄屋を中心にした、農業集団が形成されていたのだ。必ずしも搾取されてばかり居たわけではない。自分たちで創意工夫して、その自分たちの田んぼに適合した、稲作技術の開発をしなければならない。

 それは過去の伝承であり、他地域からの情報の収集が必要になる。そうした農学の蓄積も各藩ごとに原題から見てもかなり科学的な思考が行われていたことが分る。その背景に地域地域での百姓の、ひたすらの科学的思考と実践があったのだ。

 それらのことは文字をなしに不可能なことだと考えて間違いが無い。また必要であるから、寺子屋で百姓も学んだのだ。山梨の藤垈という、小さな山村にある向昌院ですら、寺子屋が行われていたのだ。私の子供の頃には、まだ寺子屋で使われていたという座り机があった。

 当然生徒は百姓である。百姓の向学心も高いものがあったのだ。それは二宮金次郎が、百姓でありながら、勉学に励み、取り立てられ藩の財政を立て直し、一人の思想家になったことでも分る。多くの百姓が必要で読み書きそろばんを学んだのだ。

 小田原の久野地域では、江戸時代に入ると新田開発が進んでいる。その時代にこの地域に住民も一気に増加したとみられる。この新田開発は当然地域に入植した新百姓が行ったのだろう。その頃からの家系図を残している旧家が久野には何軒もある。

 その水田開発はまず、山際の水源付近には沢山の溜め池が作られる。山の下に水路トンネルを掘られ、田んぼを造成した場所にまで水が運ばれる。欠ノ上集落付近では大地の下には水路が張り巡らされている。そしてその水は現在のミクニ工業辺りの扇状地を潤し、下部の平野地帯まで繋げられた。

 当然このような大きな水土工事には、設計図も、手順書も、作業詳細など、実際に労働者として働く、地域の新百姓にまで効率よく伝えられなければならない。一定の識字率が高くなければ、効率が悪すぎる工事になったはずだ。そうした意味でも百姓は字を読む必要が無かったと言うことは、先入観に過ぎない。

 また、江戸時代の出版文化と言うことがある。瓦版が売られてそれを庶民が読む。浮世絵が刷られて大量出版される。読み本文化も隆盛になる。日本には平安時代から絵巻物という伝統があり、絵を中心に物語が展開され、それに和歌のような文字が書き込まれる。

 そうした伝統から、絵を中心に物語が作られ、そこに文字が加えられた読み本が出来る。挿絵入りの小説である。これが人気が出て、大量出版がされることになる。雨月物語や南総里見八犬伝が有名である。これは庶民文化なのだ。庶民が文字を読めることで生まれた文化なのだ。

 その絵巻物に始まる読み本文化は、漫画となり、アニメとなり、いまや世界で評価される一つの表現方法になっている。日本の江戸時代の大衆は決して文字の読めない人ではなかったのだ。明治期に高尚な読み物は絵など入らないという先入観の間違えなのだ。

 明治の知識人の鼻持ちならない意識が、浮世絵や読み本を低俗なものと退けたのだ。しかし、読み本は活字も当然、木版画ですられていて、その木版の世界は世界の版画の中でも傑出したものである。その文字までも含めて、美術品として評価されるような、高い美意識で作られていたものなのだ。

 アニメーションが世界で評価されたように、江戸時代に産まれた絵入りの小説の伝統は、現代に蘇っている。浮世絵も通俗な低級絵画として扱われたものが、現代ではむしろ、日本美術の高い評価に変っているのだ。その根底に、庶民文化の深い造詣と、識字率の高さがあることを忘れてはならない。同時に、明治時代の江戸否定は気を付けなければならないのだ。

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日本が1200円で韓国が1700円

2024-07-27 03:57:05 | 暮らし


 最低賃金の過去にない上昇が繰り返されている。素晴らしいことではあるが、それでも収入は物価高騰に追いつかず、目減りしているのが現状だ。何しろ国家公務員の給与が最低賃金に足りていないというのだから、日本の給与所得者はかなり深刻な状況になっていると言うことだ。

 最低賃金の値上がりは、労働者の生活を下支えする一方で、人件費がかさむ中小企業にとっては大きな負担となっている。経営基盤の弱い中小企業では、人件費が高騰して労働者を雇えない「人手不足倒産」が増えている。給与が安ければ人が集まらない。労賃を上げれば、利益が出ない。

 大企業の労働者であれば、円安の恩恵もあるのだろう。日本人の大半の人が大企業勤務ではないのだから、特に非正規雇用者の生活が苦しくなっている。農業者はかなり厳しい状況である。農業分野でも人手不足倒産が増えている。畜産分野では家族労働では限界がある。

 と言って肉体労働の畜産の仕事では、日本人の希望は少ない。そこで外国人労働者の雇用と言うことになるが、これも安い給与ではなかなか人が集まらない状況になっている。継続したくとも辞めざる得ない状況ということが、石垣島でも聞こえてくる。しかし、畜産をやめて農業分野で出来ることはほぼない。

 同時に円安が続いて飼料の高騰が起きている。これも畜産農家を追い詰めているのだが、高騰だけでなく、購入競争に勝てないので、輸入できなくなるという現実も始まっている。力のある国が、高値で購入してしまうのだ。日本の農業は非常事態と言えるような状況である。

 日本政府の方針ではアジアからの労働者に来て貰い、労働者不足を補う戦略であった。全く甘い計画である。ところが、造船会社がアジアから10人新規採用する予定で居たところ、実際には5名しか来てくれなかった。その原因は5名は韓国の造船会社に引き抜かれてしまったというのだ。

 日本の時給が1200円の所、韓国企業では1700円出すという。石垣の畜産農家では、1200円でも厳しいのではないだろうか。それなら縮小するほか無い。あるいは廃業と言うことになる。予測されたことではあるが、岸田政権の食糧自給実行計画があまりに空想的で空しい。

 それでも5名が日本に来てくれたのは日本が良い国だからではないか。大切に働いて貰わなければならない。40%給与が違うのなら、私なら高い韓国の方で働く。多分来年にはもう来てくれる人はさらに半減するに違いない。そして遠からず、来て貰うどころか、日本人が海外に働きに出る時代が来る。もう始まっているという話もある。

 東アジアの経済の状況はすでに序列的には台湾、韓国、日本なのだ、と言ってもそれぞれに問題を抱えているわけで、何時何が起こるか分らないような状況である。韓国、台湾は徴兵制度があり、臨戦態勢を続けながら、日本経済を凌駕したのだから、その力量差には驚かされる。

 日本は新しい国の方角を考えなければ成らないところに来ているのだろう。その意味で、私は岸田さんにはいくらか期待をした。そのことはこのブログにも書いた。しかし、想像以上に何もできない人であった。やったのは田中派つぶしぐらいで、経済政策は目立つものはなく、棚牡丹餅を掲げて、傍観していたに過ぎない。

 道徳のある資本主義を標榜したのだから、出来ないまでも何かをぶち上げるべきでは無かったのではないだろうか。少なくともカジノによる経済活性化や、不労所得による富裕層優遇は、何か道徳的に歯止めをかけるべきだったのではないか。私はそれに期待したのだが、バカだったようだ。

 外国人労働者は来て欲しくても来てくれなくなる。今のところ、たくさん来てくれているベトナム人が、第二の在日差別に成りそうで不安。日本への移民奨励政策には国民の合意がない。企業が労働者不足で、行き詰まり無理強情に進めたのだ。企業から裏金を貰っている都合上、有無を言わさずやらされているのが自民党。

 政府には将来の日本の構想がない。どんな国にしようとしているのか、岸田政権はまるで示したことが無い。確かにあれこれ裏金で追い詰められ、ごまかしの説明に追われて、こんな国にしたいのだというようなことが、口にすることも出来なかったのだろう。

 実は岸田政権は1年前には新しい資本主義のグランドデザインと実行計画というものを出している。長いもので読み応えはあるのだが、分析は一応うなずけるのだが、ではどうするのかという実行計画の方が、今ひとつ、嫌全く新鮮さがない。つまり空論である。

 何度も読んだが、優秀な官僚の作文で、実際に働く農業者の声が聞こえない。企業が対応する農業と言うことになるのか。中小企業が無視されているのと同じで、普通の農家は端から埒外の存在のようだ。これで本当に地方の中山間地の地域が消滅しないと言えるだろうか。言えないから消滅が続いている。

 実行計画という以上、いつまでにどのの段階まで進めるという具体性がなければならないが、これでは文章を作ることが官僚の実行であって、それで終わり。モデル事業として、行政がこんな農業を実践してみる必要がある。日本の農業者が具体化できる計画なのか是非、経営してみてほしい。

 私の考える実践計画だ。まず食糧の安全保障があげられているが、具体的に考える必要がある。当然お米が基本になる。お米は自給率が高い。ただ、コメの消費が減少している。小田原の学校給食なども、週2回しか米飯給食がなかった。今は少しは増えたのだろうか。学校給食はすべて米飯給食にすべきだ。

 安全保障を考えるのであれば、そこまでやるのが具体的な実行計画である。日本人はお米中心の食に戻すべきだ。日本の気候に合わないパン用小麦の生産はしなくてもよい。もしどうしてもパン食がやりたいのであれば、コメパンである。できれば玄米パンである。

 麺類の日を入れたいのであれば、ビーフンを使ったうどんやパスタである。十分できるのだから、日本人の食事を変えなければ、食の安全保障はないという覚悟で、学校給食の米飯化を進める。ただし、学校給食はすべて無償にする。こういう考え方が、実行計画である。

 また官公庁の食事はすべて、米飯である。公務員や公立病院関係者はソバなど食べない。パンなどかじらない。おにぎりの外食を世界に普及する。米食の多様性を追求し、食の米飯化を国策として進める。健康な日本の伝統食であるコメ食文化を再度確立する。

 これはあくまで食の安全保障の緊急事態対策である。そこまでしなければ中山間地の水田が守れなくなっているのだ。中山間地が守れない原因は水田農業が経営できないからだ。地方を再生することが政府の方針であれば、なんとしても稲作農家が経営できるようにしなければならない。

 政府は水田の畑地化を進めると実行計画に書いている。それでは日本は滅びる。全く馬鹿げている。日本は瑞穂の国である。日本の環境は至る所に存在した里地里山の水田が、作り出したものなのだ。沖縄本島が水田がなくなり、どれほど寂しい景色になったことか。環境調整機能を持つ水田をどんなものと考えているのか。

 こんな政府なのだから、東アジアでも遅れた国になってきたのも已む得ないことかもしれない。結局政府に期待してもむなしい。自分たちのまわりから確かなものにして行くという以外にない。のぼたん農園と農の会で頑張る以外にない。35年の間に少しは良くなったこともある。
 
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世界は危うい所に来ている。

2024-07-23 04:25:05 | 暮らし


 日本の経済は衰退を始めている。それはどうも日本だけではない。多くの国が問題を抱えて、抜け出ることができないでいる。戦争をしているロシアやイスラエルは戦争を止めることすら出来なくなっている。世界は何か末期的な状況に進んでいるのではないかと、不安が募る。

 それは資本主義経済が行き着く先の自明の事なのかもしれない。競争に負けまい。競争に負けると経済が破綻する。何としても相手を蹴落とそう。そういう余裕を失った、経済競争の限界が迫っているのだと思う。先進国一般の人口減少は、その表れと見ていいのだろう。環境汚染、気候変動、もう人間がコントロールできないところに来ている。

 こういう悪い状況の社会で、一人一人はどのように生きる事ができるのかを考えてみたい。競争経済の社会から降りるほか無いのではないだろうか。社会全体を何とかしなければ、ならないと言うのは確かにあるのだが、普通の人間がそんな大それた事を考えれば、絶望するほかない。

 自分の動ける範囲のことで、出来ることの範囲で、どんな生き方が出来るのか。自分にとって何が良いものなのかを考えていきる他ない。社会を良い方向に変えるというようなことを考えても、不可能なところまで社会は悪くなっている。そんなことよりも、自分のまわりを変えることを考えた方が良い。

 社会の最悪の状況とは、倫理を失い始めた社会と言うことである。政府自体が衰退の焦りの中で、拝金主義にとりつかれている。そのために社会倫理というものが消えたのだろう。お金がなければ困ると言うことはあるが、お金にす張られてしまうのは情けないことだ。

 国民一般が、お金の価値以外に、生きる価値があることを見付けられない人間になり始めている。一方で大半の日本人はむしろ優しい人間になった。その優しい競争を降りようという日本人が苦しんでいる。政府は人間を無理な競争に駆り立てようとしている。この間違いに気付く必要がある。

 身体を動かして、自分の生きるに直結する作務を捜すことでは無いかと考えている。わかり合えるもので、競争のない場を作り出し、助け合うことではないだろうか。その小さな繋がりの中で、人間である事を維持して行くことが大切なのだと思う。

 先日、ネットで読んだ記事に、ゴミ拾い活動をする人のことが出ていた。その人は自分の健康のためにと、最初は散歩を始めた。それならばとゴミ拾いを始めたのだそうだ。身体をこごめるから、散歩だけより運動になると考えたのだそうだ。

 散歩をしながらゴミを拾っている。それは素晴らしい奉仕活動である。所がその人はあくまで自分の健康法としてゴミ拾いをしている。ゴミを拾う動きが良い体操になると言われていた。毎日自分の家の前をゴミ拾いをしてくれている人を見て、ありがとうございます。ご苦労様です。声をかけてくれる。それでまた元気を貰う事ができると言われていた。

 素晴らしい生き方の人だと頭が下がる。この人の生き方は競争とは無縁だろう。競争では無いところには、素晴らしい命の躍動がある。その人が出来ることで身体を動かしてみる。それ以外に何も始まらない気がする。そもそもあらためて、特別な何かを始める必要もないのかも知れない。

 のぼたん農園をやっているのも、絵を描いているのも同じことである。おかしな話かも知れないが、それだけが社会に役立てる事ではないかと考えている。絵を描くことも、のぼたん農園を作ることも、好きなことでやっているのだが、誰かのためになるかも知れない。そう思うとやっていることがより嬉しいことになる。

 世界はより厳しい競争社会に入っている。さらに良くない能力主義に進むことだろう。階級社会がはっきりとしてくる気がする。能力主義差別社会が来る。能力があるのだから、ないものを抑圧して支配してかまわないという社会である。

 人間らしい世界ではないと思う。人間社会の良さは、競争に勝利して生まれるものではない。譲り合うことで、産まれるものだと思う。自分のためよりも人のためである事の方が、人間らしいのだと思う。人間の弱さが他者に勝つという事で安心を得ようと、競争人間に成れと駆り立てている。

 人間は一瞬に滅びるほどの武力を持ってしまった。その意味で、次の戦争は人類の滅亡を意味しているのだろう。間違っても戦争の道を歩んではならない。にもかかわらず、ロシアもイスラエルも、危うい戦争を終わりにすることが出来ない。世界は狂い始めている。

 それはAI革命と関連しているのかも知れない。人間というものが、機械に敗れ、機械に従うようなる革命である。人間の能力は絶対ではなくなる。人間は機械の手を借りていきるようになる革命が起きている。この革命は情報革命である。労働革命でもある。人間はAI革命後の世界で生き残るためには、生き方を変えざる得ない状況だ。

 労働というものの意味が変る。生きるための労働から、人間らしくあるための労働に変る。人間らしくない労働は機械が行うようになる。畑を耕す肉体労働が、機械を使う労働が登場し、人間は数百倍の労働力を得る。そして、AI革命でさらに、数千倍の労働を達成する。

 それは、古代の皇帝のような、隷属した何千人の労働力を得ることと、同様なことになる。その人間の飛躍的な能力の拡大が、不安定な社会を生み出している。一人が一人分しか働けないという、人間の原点に立ち戻ることが、人間を取り戻す方法ではないだろうか。そこからもう一度考えてみる。

 人間は自分の労働で、生きる事が可能だ。一日1時間働くことで、人間は食糧の確保が出来る。人間が生きるという意味では、競争などいらないのだ。この自給自足まで戻る事ができれば、他人を滅ぼすような競争など必要がない、世界が見えてくる。
 
 この事実を身体で経験することだけが、AI革命後の世界に生き残る道ではないだろうか。そのためののぼたん農園である。のぼたん農園で週に一日働くことが出来れば、食糧の自給は可能になる。そのためには農業技術が必要になる。失われ始めている、人間が働いて一人前の、江戸時代の農業技術を探らなければならない。

 人間の幸せは、身体を使って生きる事にあると考えて良い。回りの人と協働し、助け合う。この生き方の奧に、人間の幸せがある。他人を滅ぼしながら勝ち抜くような生き方では、不幸が不幸を呼ぶばかりである。人間の豊かさから遠のいて行くばかりだ。

 産業革命があり、人間は豊かになったが、競争が激化した。AI革命があり、人間は人間らしくあるための道を見失っている。私が言うのも恥ずかしいことではあるが、もう一度人間は何のために生きているのか。そのことを見つめ直すところから、始めて見る以外にないのだろう。
 
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不労所得は人間をだめにする

2024-07-22 04:10:58 | 暮らし


 不労所得を政府が推奨している。ニーサとか、FXとか言葉は聞いたことがあるが、意味は分らない。知りたくもない。どうせ政府の悪巧みにしか思えない。政府が、老人が不安で銀行貯金を貯め込んでいるのを、株式投資に回させようと言うことかと理解している。

 銀行貯金は物価が上がり、目減りするだけだから、有利な投資をしろと言うのだ。それに乗せられて、貯金を吐き出している老人も多いのだろう。老人ならまだ良い、先がないのだからどうでもいいのかもしれない。若い者がこうした馬鹿なことに乗せられて、人生を誤ることは情けないばかりだ。

 不労所得は楽をして設けようと言うことだ。日々身体を使って働くという大切なことを、馬鹿げたことに思わせることになる。日本人はすでに身体で働くと言う人間の基本を失い始めている。身体に辛い仕事をやらないで、外国人労働者を買おうというのだ。何と恥ずかしいことかと思う。

 政府がカジノを誘致することが、経済を活性化すると考えている国なのだ。不労所得を不道徳な、人生を誤るものだと考えていない。もちろん大半の日本人が、賭け事を悪行だとは思わないし、まして不労所得は良くないなどと言うのは、少数派に入ることは分っている。

 しかし、この不健全な不労所得を宣伝する政府が、日本の未来をだめにすることには黙っていられない。きちっと働くことを忘れた国は、必ず滅びる。すでに日本は衰退を始めている。ホリエモンが登場した頃から日本はおかしくなったのだ。要領よく設ける奴が偉いという間違った方角に日本は歩み始めた。

 「働かざる者喰うべからず。」これは別段共産主義国家の標語ではない。禅宗の言葉なのだ。懐海禅師と言う95歳に成られた老僧がおられた。熱心に作務をされる。弟子の僧が、もうそのお歳になれば作務はされなくとも良いのではないかと、箒など片付けてしまう。

 すると「一日作さざれば、一日くらわず」 と言われて、食事を取らなくなる。懐海禅師は何も作務をしなかったので、食べる資格がないとの考えを示した。箒を片付けた弟子にそう教えたかったのだろう。禅宗に於いては作務が最も大切な修行と考えられている。

 茅野の頼岳寺で修行をさせていただいたときに、三沢禅師に「庭の石のように、掃除をしている。」分らないのでど言うことでしょうかと聞いた。「庭石がゴロゴロしている。お前はその庭石だ。」こう言われたのが、遺言だった。この言葉を忘れたことはない。禅寺では何より作務が大切な修行なのだ。

 キリスト教に於いても同じだ。新約聖書の『テサロニケの信徒への手紙二』3章10節には「働こうとしない者は、食べることもしてはならない」という一節がある。とのこと。この考え方はキリスト教の現代にまで流れる思想となっていると書いてある。

 イスラム教は金利を否定している。コーランの第2章275節に、商売は許すが利息は禁じるとの記述があることから、利息を介在させた金融取引が不可能になっている。とのこと。多くの宗教が不労所得を良くないものとしているのは意味のあることだと思う。

 何故禅宗が身体を動かして働くことを大切にしているかを考えてみる。禅堂では五観の偈げと言うものを食事の前に、声を合せて大声で唱える。 五いつつには成道じょうどうの為ための故ゆえに 今此いまこの食じきを受うくーーーと言う具合だ。

 生きていると言うことはものを食べると言うことで、食べると言うことは道を悟る為の手段だと言うことになる。そこで食べるものを作ると言う作務が、最も大切な禅堂の修行になる。こう考えたのが、私の祖父黒川賢宗である。そして自給自足に生きた。

 境川役場に長く勤めた。5人の子供を大学に行くように、戦後いち早く相模原の開墾地に農地を購入するような、経済観念のある人でもあった。その土地が米軍基地に編入され、取り上げられてしまい、今度は新小岩に家を購入した。それを人に貸すと同時に、5人の子供達はその家から大学に通った。

 一方で畑や田んぼは生涯続けた。最後に入院をするときに、自分の葬儀のために、庭木の剪定をしていた。私が得度をして僧侶になったときには、「向昌院は貧しいから畑をやっているわけではない。昔の禅寺では、自分の食べるものは自分で作ったものだ。」畑の前でこのように教えられた。いつか私も自給自足で暮らすと、祖父に誓った。

 宝くじが当たり、生涯そのお金で暮らせることが幸せなのかどうかである。株が高騰して、生涯働かないで暮らせることが幸せなのかどうかである。自給自足で生きる事に較べれば、全くつまらないことだというのだ。自分の食べるものを自分で作れたときの安堵感以上のものはない。農業をすることはお金を稼ぐためだけではない。

 自給自足が出来たときに、はじめてこれで絵を描いて生きてもいいと覚悟できた。宝くじが当たって、これで絵を描いて生きてもいいとはとても思えないだろう。多分次の不労所得を考えるのだろう。自分の身体で働いて、明日の命を繋ぐことが出来る。この安心立命こそ大切なのだと思う。

 身体を使って生きる。これは人間の基本だ。賭博や投資に自分の意識がとらわれて、頭がそれだけになるような生き方は、道を誤るだけだ。一日働いて、自分の生きる糧を得る。この身体が感じる確かさ、汗をかくひたすらさが、その人間を育てる。

 不労所得でお金を得る事に成ると、そうした身体を使い生活費を得ることのありがたさを見失うことになる。それはすでに、人間が一次産業から離れたときから、人間の意味を見失い始めていたのだと思う。君主に使える武士よりも、年貢を取られる百姓の方が確かな生き方が出来たのだ。

 今日も朝起きて生きている。今日は何をやるか。自分の今日をどのようにすれば充実した一日にすることが出来るか。何をやるのも自由である。これは父が教えてくれた、好きなことを見付けることが、子供のやるべき事だと何度も教えてくれた御陰である。

 好きなことだけをやって生きてきたことが、自分の幸運である。それは絵を描くことであり、農作業をすることである。この一日を自分の身体を使って働けることが出来るのは、幸運だと思う。自分が選び、自分がやりたいことが出来る一日。無駄には出来ないと思う。限られた命である。一番やりたいことをやる以外にない。今日は台風に備えて、防風ネットを張る。

 不労所得に頭を使い、お金に一喜一憂して、神経を疲れさすことなど人間性をだめにするばかりだ。確かにお金儲けが好きだと言う人が、多数存在する世の中になってしまった。資本主義社会の末期的な状況が、人間を倫理などどうでも良い存在にしてしまったのだ。

 悪い社会が悪い人間を生み出している。しかも、多くの人間が拝金主義を悪い事だと感じる理性も失っている。政府がカジノや投資を奨励するのだから、仕方がないことかも知れないが。このように社会が崩れかかっている中では、良い仲間をもち、不労所得などくだらないと確かめ合うほかない。

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教員のなり手不足

2024-07-17 04:27:17 | 暮らし


 公立学校の教員のなり手が減少している。理由は大きく3つ考えられる。
1,学校という職場の労働環境が良くないこと。保護者対応の困難さ。
2,勤務時間に明確な終わりがない上に、残業手当が明確にはないこと。
3,教育の仕事が、社会的にやりがいのあるものでなくなっていること。

 教職を目指した時代は、まだ教員に対して聖職という言葉が生き残っていた。尊いやりがいのある職業だという社会認識がまだいくらか残っていた。私の叔父や叔母に当たる人、そして母親。すべてが教職の人だった。ただし、父は教員という職業を蔑視していた。

 世田谷学園の美術講師を7年間やらせて貰った。色々の偶然が重なり、やることになったのだが、やりがいのある7年間であったと思う。何故止めたかと言えば、自給自足生活を成し遂げたらば、教師を辞めて暮らそうと始めから決めていたからだ。

 自分の身体による労働だけで自分を支える暮らしに、禅宗の僧侶としての暮らしを思い詰めていた。それは祖父黒川賢宗の生き方の影響だと思う。祖父は若い時代に北海道に布教に行った。そして、身体を壊し山梨にあった向昌院に入り、自給自足の僧侶として生きた。食べるものはすべて作り、炭を焼き、水を引き、蜂を飼い、山羊を飼っていた。

 教師が辛かったから、続けられなくなったということもある。それは生徒が人間であるからだ。人間として、多くの子供と接することは、特に曹洞宗の学校での教員は、自分の力量を超えていたのだろうと思う。手抜きをしながら、生徒と接することは出来なかった。人間との関わりはいつも困難に満ちていた。

 社会の矛盾は生徒一人一人に表れる。これは金沢大学で小松先生に学んだことだ。社会はとんでもない方角に動いている。このままではひどいことになると感じる毎日だった。生徒達の困難が社会の矛盾に原因していると、結局の所思い至るにもかかわらず、手を打つことなど出来ない。

 この無力感、限界感、が自分につきまとっていることが、やりがいと較べて辛すぎた。当時の世田谷学園はかなりの進学校であった。美術の講師の立ち位置は、困難を極めた。美術を志す生徒もいた。しかし、それは父兄からも、学校からも歓迎されることではなかった。

 多分教職を考える若い人達も、大いに迷うはずだ。例え、教職に就いたとしても、すぐに辞めようかと考えるだろうと思える。しかし、5年間はやらなければ何も分らない。私の場合、そう考えて始めた。教職を正面から自分の生き方として考えたならば、それくらい大変な仕事なのだと思う。

 だから、教員の希望者が減少して、倍率が下がり教職が比較的自由に選択できる時代になったとしても、教職をやる人がさらに減少するのは必然だと思う。資格があるからと言って、給与を貰う為が主目的に始められるような仕事ではない。人間を育てるという仕事は、極めて重い仕事になる。

 私が小学校で学んだ1955年の戦後の混乱期であれば、かなり学校というものは適当なものであった。何しろ60人クラスである。通路すら無い状態。教えるという意味では、教える能力のないひどい教員もかなりいたと思う。戦争帰りのすさんだ教師もいたし、教室に来てただ座っていて何もやらない教師さえいた。

 何を血迷ったのか理由なく、一人の生徒を泥棒にしてしまったことすらあった。それでも、そのクラスから東大を含めて1流大学に10名以上進学している。一方で非行に走って、学校に来なくなり、行方不明になった人も多数いる。なんともデタラメな学校であり、そんな戦後の混乱だった。

 昔は良かったとつい感じてしまいがちだが、学校教育の戦後の時代は、今よりはるかにひどかったと言える。今は良くなっているにもかかわらず、教職はあまり良い評価がされていない。教員希望者は生徒の減少以上に減り続けている。人間を育てる仕事が重いものであるにもかかわらず、その評価がされていないからではないだろうか。

 戦前の師範学校は授業料がなく、優秀ではあるが所得がないと言う学究心のある者には、もっと学びたいという気持ちで、師範学校に進学するという人が多かったようだ。国が教育を国の基礎づくりと考えて、重要なものとしていた。しかし、実際には、師範学校は貧乏な子供だけが行く学校で、差別をされてもいるような矛盾があった。

 この教員差別意識は今ではなくなっているとは思う。現在は教員養成科が授業料無料ではないと言うことにもあるかもしれない。ただし、教員は15年勤務すると奨学金の返済が免除される。教員の職務が激務だというのは、やる仕事が増えたと言うことが大きい。

 生徒に教えるという以外の仕事が多すぎる。本来そういう事務仕事は、ITの専門職に任せた方が良い。雑務全般を引き受ける職員も必要だろう。教員が教えることに専念できる環境を作り出すことが先決である。残業代が問題になるが、残業を教員がしなくて済む環境を作ることだ。

 部活動が問題の一つだ。部活動が盛んな学校では、特別に熱心な教師がいる。よく言われるような、運動部の顧問教師である。一身を投げ打って部活動を指導し、強豪校にする。そのこと自体が生きがいなのだ。所があくまで勝手にやっている部活動という場合も多い。

 本来であれば、部活動はあくまで学校教育の範囲で行うべきなのだが、競技である以上勝ち負けが伴い、熱心でなければ勝てないことになる。自分が好きなことであれば、部活動に情熱を傾けて、給与に関係なく働いている人もいるだろう。

 私は美術部の顧問であった。毎日最後まで一緒に何かやっていた。自分の制作を見せることが教育だと考えていた。もちろん無給である。生徒のやりたいという気持ちを尊重したかっただけだ。そもそも教員と賃金は私には関係がなかった。賃金は回りが考えることだ。この学校に授業料なしで通わせて貰ったのだ。

 部活動は外部人材の利用も進めなければならない。私は週一限小学校の授業を手伝っている。無給であるが、当然であると思うし、お礼など貰いたくもない。子供達の何かになるのであれば、稲作の授業はとてもやりがいがある。私が子供達に出来る事だと思う。

 稲作を通して、見る力を培う。蒔いた種がどのように生長するかを観察する。食べ物を自分の力で作るという体験をする。この作務の体験を通して、一次産業の意味を身体を通して知ってもらいたいと考えている。汗をかいて働くことで、食べ物は出来ること。

 そういう子供達に何かやって上げたいという人材は、世間にはかなりいると思う。そうした人を旨く学校の力にすべきだろう。無給で行うべきものだ。もっと周りの人達と学校は連携すべきだ。子供を社会全体が育てて行くのでなければ、学校は成り立たない。

 結論から言えば、公教育を拝金主義から脱することだ。小学校から英語教育をやるような、企業で即役立つ教育などいらない。教育が拝金主義に連動して、つまらない知育に陥っているのだ。理想の社会を目指す人間が、公教育に情熱が湧かないのも致し方ない。

 人間性を育てる教育である。5感を育てる教育である。稲を見て判断する力、稲の堅さを触って感じる力、土の匂いを嗅いで分る力。ご飯を食べて味が分る力。田んぼに流れている音を聞く力。稲作の授業は作務の時間だと思っている。労働が生み出すものを知ることだ。

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国立大学の授業料の値上げ

2024-07-16 04:39:18 | 暮らし


 大学の学費は受益者負担が望ましいと最近主張される。国立大学の学費を年額150万円まで上げるべきだというのが、慶応義塾大学の伊藤公平塾長 の主張だ。大学とはどういう所なのだろうか。もし、大学が就職予備校であるなら、当然受益者負担と言う考え方になるのだろう。慶応はそういう場なのだろう。

 しかし、大学で学ぶと言うことは、国のために必要なことだと考えるならば、大学の授業料は国が負担すべきと言う考え方になる。防衛大学校は学費免除どころではなく、手当が支給される。実際には給与が支給されなければ行く人がまず居ないという現実がある。

 国立大学で学ぶと言うことは、国のためになる人間になり、日本国民のために働くと言うことが将来にある。私はそういう気持ちで、金沢大学に行った。今でも忘れたことがない。自分の稼いだお金で、大学に行くしかなかったので、国立大学以外考えられなかった。当時の学費は月額1000円だった。

 1000円でなければ大学に行けなかっただろう。高校を卒業したのだから後は自分でやれというのが、父の考え方だった。何しろ夏休みなどで家に戻ったときにも、泊まるのはただで良いが、食費ぐらいは出せという考えだった。父には考えがあって、あえて要求したことは分っていた。

 大学闘争の時代と言うこともあり、国のためとはどういうことかは、よく考えたことだった。たとえば、革命を起すことが、国のためかも知れないとも考えた。国のためとは日本列島に暮らす人達の為と言うことだと考えていた。国体とか、天皇とか、政府とかそういう物ではない。

 大学は政府から独立性を持たなければならないものだ。 政府に従う大学であるならば、国立大学の存在意義はなくなる。権力から独立した。自由な学問探究の場であるからこそ、存在意義が高まる。つまり軍事力による国防という目的の、自衛隊大学校ではないのだ。 知恵を持って、国の品格を持って国を維持する大学。

 ところが、驚異的な値上げが行われた理由は、大学教育を受ける者の、受益者負担の考え方である。大学に行くのは自分が利益を得るためなのだから、学費の自己負担は当然だという考え方に変ってきた。それは、大学の研究自体が、産学協同という考えに変ったためが根底にある。

  学問研究・研究成果の発表・討論・教授・学習などに関して、政治・宗教・経済などいっさいの外的権力からの干渉・制限・圧迫を受けることなく、活動しうること。 日本国憲法第23条に「学問の自由は、これを保障する」と規定されている。 

 ところが、日本の学問は企業の利益と言う思想に、学問の自由が制限を受けたのだ。これは日本がまだ高度成長している最中に起きた、方向転換だった。このことが、学問の力を削ぎ、結局の所資本主義の競争に敗れる遠因になった。憲法違反が国を弱めたのだ。

 学問は基礎研究が重要である。基礎研究の厚みが、その国の力に反映してくる。例えば、「いとよ」と言う淡水魚の分類の研究をしたところで、直接的な企業の利益にはならない。牧野富太郎のように植物の分類をしたところで、直接的企業の利益にはならない。

 しかし、この基礎学問の広がりと深さが日本人を豊かな深い人間性を培って来たことは間違いない。豊かな国民が、真に豊かな社会を作る。その結果高潔な日本人が産まれ、それが日本全体の国力を高める。それが江戸時代の思想であり、一時産まれた戦後社会である。

 直接的に企業利益に結びつく学問は実は視野が狭く、先細りしてしまう。例えば農業分野で学士院賞を受賞するには、農薬や化学肥料の研究者である。有機農業のような、企業的農業にはならない分野の研究では、評価をされないし、研究費も出ない。そもそもそういう基礎研究の学者数は極端に少なくなる。

 こうして受益者負担、産学協同の思想が広がると共に、日本は拝金主義に陥り、二等国に転落してしまった。カジノの普及を国が目指すような、品格の低い拝金主義国が、世界の流れから取り残されるのは、仕方がないことなのだ。国が理性の方角を失い、お金の価値しか分らなくなった結果である。

 お金の為が強いか、人間の為が強いか。当然人間のために生きる方が力が湧いてくる。人間は自分のためでなく、人のためにこそ力が出る。やる気が出る。優勝したオリンピック選手が、頑張れたのは応援してくれた人、支援してくれた達がいたからだと、世界中の選手が言われる。

 現代は要領よく金儲けをする人が持てはやされる時代だ。子供達の将来の目標がユーチューバーやゲーマーなのだ。日本はこれをだめだと言えない国になっている。こんな国がまともな社会を作れるはずもない。勉強をするのは、決して自分のためだけではない。

 これは国家主義ではない。人間主義である。雨にも負けず主議である。みんなのためなどと考える必要はない。自分の好きなことを見付け、全力を費やすことだ。そのことが必ずみんなのためになる。そこまで人間を信じて良い。今人間が歪んだ社会に、押されて変形しているだけだ。

 現実には金儲けが好きだという浅い考えの人が、きっと蔓延していることだろう。そこに、受益者負担の浅い考え方が、反映している。社会が受益者負担を求めるのであれば、当然自分が金儲けだけを考えて何が悪いと言うことになる。自分は社会の恩恵を受けて育てられたのではないと考えることになる。

 人間を信用しない社会のつけが回ってきているのだ。人間は生来それ程悪いものではない。それを社会が拝金主義者に育てている。拝金主義で良いのだと教えている。それが大学教育までも受益者負担の思想になった理由なのだ。余裕を失った日本が表れて居る。

 150万円払い、大学教育を受けて、自分のお金のためだけに生きれば良い、と言うことになる。これではだめだ。むしろ憲法の示す国のために生きる人間を教育する。これを国立大学の目的にして、学費は無料にする。国にお金が不足して維持できないのであれば、大学数を減らすほかない。
 
 東大は値上げ分をグローバル化やデジタルトランスフォーメーション(DX)の推進に充てると説明している。留学生の増加を想定しているとみられる。お金をかけて教員や設備などをそろえ、優秀な留学生の受け入れにつなげる。 東大の設備を世界のレベルにしたいと言うことらしい。

 日本の大学は世界から、IT革命に伴う設備が後れを取っているらしい。国は国防費は倍増するというのに、教育費は増えないと言うことらしい。国が拝金主義で、即物的になった結果である。教育は果たして設備次第なのだろうかと思う。基本となる教育の思想が産学協同ではどうにもならない。

 大学教育も、あくまで人間教育である。人間が育てば、必ず良い社会になる。そのことを信じて教育に国は費用を惜しまないことだ。
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81歳のバイデンが降りない。

2024-07-04 04:10:28 | 暮らし


 バイデンアメリカ大統領候補が、トランプとの生の討論会で、耄碌してよれよれであることを露呈した。トランプでは困るけど、さすが81歳の大統領候補では、世界が困るのは現実である。アメリカは自由主義陣営のボスなのだ。問題は日本にも波及する。

 バイデン大統領は、トランプとの討論会の前に、フランスで行われたノルマンディー上陸作戦80周年式典とイタリアで行われたG7(主要7カ国)首脳会議に参加した。バイデン大統領は疲れていて、半分眠ってしまったと言うことだ。精彩さを欠き、高齢不安に拍車を掛けることになった。 飛行機の中で寝られなかったのだろう。

 それが大統領の激務に耐えられないと言うことを表わしている。大統領というものは、そのくらいの激務をこなさなければならない。年寄仕事では明確に無理な仕事だ。にもかかわらずやれると考えているとすれば、自己過信が過ぎる年寄特有の病だ。私もよく居眠りをしながら絵を描いている。

 猫の首に誰が鈴をつけるかである。「心配だから、おじいさん免許を返上して」と言えないものだろうか。年寄りは視野が狭くなる。頭が固くなる。自分は別だと考えがちだ。自己判断ができないから、誰かが止めなければだめだ。しかし、81歳の大統領に命令できる人は、有権者しかいない。

 瞬時に原爆発射の判断など到底無理だろう。これからやらなければならない中国との関係回復が可能だろうか。と言ってトランプの場合、犯罪者だ。確信犯だ。選挙の公正さすら認めない人間だ。まだ耄碌してはいないが、相当な歳なのは変わりがない。

 たしかに年寄りには、免許を返上しろと言いにくいものだろう。しかも多額の献金をしている人にしてみれば、今更降りてもらったら困るということなのだろう。アメリカも企業献金の国だ。しかも、献金した者を優遇するのが何が悪いのだという国だ。

 私もいつもそろそろ免許返上だと言われている。まだまだ大丈夫。若い人と同じくらい上手な安全運転できる。と言っている。ここが難しいところだ。年寄りは自分ではボケていないつもりなのだ。そこがボケの怖いところだ。お衰えを自覚できないのが、年寄りの特徴だ。

 この点全く他人ごとではない。自覚はないが、ブログで反省文を書けば、そういうことになる。それでも、一応は80歳まではがんばってのぼたん農園をやるので、免許の返納もできない。80歳で免許を返納したら、どうなるのだろうか。のぼたん農園に置いて行ってもらって、そこで絵を描くほかないか。

 誰かに、送迎をお願いするほかない。タクシーということになるのか。あるいは誰かお願いできる人がいるかどうか。費用は仕方がないことだが。まだ6年あるから、それまでは慎重に、用心をして運転をしなければならない。同じ時間に同じ道を通行する。年寄りで衰えているという自覚をもって。

 しかし、81歳で大統領両選挙に出るのは、無謀だし、国のためを考えれば、そんな選択はない。それだけでも大統領候補失格だろう。どこの会社だって、経営を考えたら、81歳の社長の続投はない。それでは社員がかわいそうだ。どれほど優秀でも、年齢には勝てない。

 任期中に86歳になると書かれていた。81歳でまだ大統領ができると考えているのは、無責任というほかない。良い民主主議は理性で成り立っている。80歳を超えたら大統領に立候補は出来ないと言う規則が普通だが、そういう暴挙が想定されていなかったのだ。

 アメリカのことを考えたら、自分から降りるのが、普通の感覚である。誰にでもわかることだ。この暴挙を止められないとすれば、トランプになるということだろう。バイデンもだめで、トランプは困る。民主党は候補を今からでも変えなければ、選挙は戦えない。

 どうしてもバイデンがおろせない時には、オバマ元大統領を副大統領にすることしかないのかも知れない。ドクターストップがかかった時にすぐ交代できる人材をサブに入れておく。スーパーサブである。この危ういコンビでも、トランプよりはましだろう。

 後継の大統領候補を育てなければならなかったのだ。それが出来ないと言うところに民主党の問題がある。右傾化する国が増えている。フランスでは極右政党が、選挙で第一党になりそうな状況だ。右傾化と言うより、自国主義に変ると言うことなのかもしれない。

 中国やロシアは独裁政治が固定化されてきている。そして、連携を強めている。世界は危うい方向に進んでいる。ウクライナ戦争を止められない状況になっている。パレスチナではイスラエルが、ジェノサイトを再現するような、無残な戦闘を続けている。

 このような悲惨な状況が解きほぐせないのも、アメリカの衰退の性なのかも知れない。決断力に欠ける。ウクライナも、イスラエルも止められない状態は、アメリカの衰えなのだろう。不満が残るとしても、どこかで妥協させて止めるのは、軍事援助してきたアメリカの責任でもある。

 世界は徐々に衰退を始めている。極右勢力が国を支配するような国も表れそうだ。これがコロナパンディミックで弱ってしまった人間の心なのかも知れない。日本でも自民党の腐りきった姿を見ると、公共力のようなものが失われているように見える。

 世界は徐々に危うい方向に下り始めているかのようだ。日本はより追い込まれるだろう。円安もこのくらいで当たり前なのだろう。世界の転換が早すぎる。追いついていけない国が、遅れて行く。日本のように既存の組織が強かった国は、新しい状況に変化できなかったのだ。

 アベノミクスの失敗が日本の衰退に拍車をかけた。新産業が出現せず、大企業だけが保護された。その結果格差が広がり、国の安全保障は崩れ始めた。食糧の確保が、危うくなる。温暖化対策では、後進国の仲間入りした。この状況はさらに深刻化すると考えなくてはならない。

 それぞれが、自分の暮らしを見直すほか無い。食糧自給を一人一人が行う国だ。自分の食料の半分を自給すれば、食糧輸入が途絶えたとしても、何とかなるだろう。お米、麦、ジャガイモ、玉ねぎ、大豆。いくらかの野菜。この自給をすれば、安心して暮らして行ける。

 世界が悪い方向に変ることは、止めることは出来ないが。自分の暮らしをそれぞれが確立すれば、何とか生きて行ける。これは、35年前に考えていた未来の社会が、現実化してきたと言うことだ。ここまで予測通りだったとすると、この先さらに悪い状況になるという事だ。

 やはり、安全確保のための、小さなコミュニティーを形成するほか無いのだろう。自分たちで助け合える組織を作らなければ、生き延びることが危うくなる。幸い中山間地の人が暮らしてきた地域が放棄されてきている。そこに小さなコミュニティーを作ることだろう。

 のぼたん農園で自給農業を確立して、そうしたコミュニティーの暮らしの参考材料になりたい。食糧自給は農業技術次第なのだ。一日1時間で食糧自給が出来る方法。これを探求するのが、私のこの世界状況での出来ることだろう。
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紅麴菌サプリ、76人死亡の疑い

2024-07-01 04:45:34 | 暮らし


 小林製薬から、改めて紅麹菌サプリで76人が死亡した疑いがあるとの、発表があった。何という事か。なぜすぐに公表しないのだ。医師からの問い合わせがあった後、公表が遅れたために、その後に健康被害を受けた人がいたのでなかったのか。全く反省のない会社だ。それを確認してくれない、厚労省もどうかしている。

 紅麴菌サプリ被害は氷山の一角である。今すぐあらゆるサプリを止めた方がいい。この機会に、サプリに対する考えを変えなければ、まだまだ健康のために飲む、サプリや栄養ドリンクによる被害が続く。どこか身体に異変があるのであれば、病院に行き診断をしてもらい、医師の指示に従い身体を治すことが必要だ。

 病院や医師が絶対とは言えないことも確かだが。良くない病院もあるだろうし、医師の誤診だってないとは言えない。しかし、間違いなくいえることは、自己判断のサプリはそれよりも悪いことになる。自分の身体に対する判断は最終的には自分が責任を持たなければならないが、自己判断でサプリを飲むなどという事ほどまずいことはない。

 「血圧が高めですね。」健康診断で保健士さんなどから言われるのだろう。それで、「病院で見てもらってください。」ならまだしも、「塩分を控えめな食事にして、気お付けてくださいね。」ぐらいに言われるのだろう。いう方は簡単にそういう指導をする。それなら、サプリを飲むくらいかなと自己判断して、紅麹菌サプリを飲むことになったとすれば悲劇だ。

 健康診断が原因で、サプリを飲むことにして、死という結果になってしまった人が多いのではないだろうか。健康診断など行ったことがない。行かなくてよかったと、改めて思っているところだ。身体のことで、何か専門家から言われれば、ついつい心配になる。

 悪いところを発見するためには、まずは自己判断である。内観法である。私の内観法は、静かに自分の身体を感じることだ。どうだろう眼は大丈夫か。耳はどうだろう。お腹の具合はどんなものだろう。頭のボケ具合はどの程度かなどと、自分の体をくまなく感じる。それだけのことだ。

 自分の身体の異変を自分で確認する。毎日確認していれば、いくらかは分る。誰にでもわかるとは言えないかもしれないが、訓練を続ければわかるようになる。もちろん自分の身体を測定する機器も利用した方がいい。血圧、血糖値、心拍数、睡眠時間、体重、体脂肪、肺活量、材料は必要である。その変化に着目する。

 健康診断で血圧が高いとか低いとかは平均値的な話だ。しかも、一度の測定である。毎日同じ時間に行う方が、平常時の状態が判断できる。心拍数でも、身体の負荷によって変わる。どの位の運動で、どの位になるかが判断材料になる。10分歩いた時の心拍数が常に分かっていれば、異変を気づく材料になる。

 変化から状態を判断できるように、自分の身体を数値に基づき内観する。疲れたな、と言ってもさまざまである。この疲れは普通でないと判断できるのは、普通の疲れを知っていなければできないことだ。毎年の田植えで状態がわかることもある。草刈りでわかることもある。常に自分の身体を感じていることだ。

 サプリの危険は紅麹菌サプリのアオカビ混入が原因を決めつけない方がいい。どのサプリだって、どの健康食品だって、危ういものはいくらでも含まれていると考えておいた方がいい。今回の小林製薬サプリ薬害死亡事件で、日本の検査体制が、特別ひどかった事が分かった。

 海外では医薬品で扱われるような成分が、医薬品で認められている限界以上に含まれて、使われているサプリがある。事件を受けて調べられ、あるという事が確認された。あのバブル時代を象徴した「24時間戦えますか。」のコマーシャルの危険が改めてわかる。戦ってはダメなのだ。

 疲労回復の「タウリン配合」とはどういうことだろう。大正製薬サイトによると、タウリンはアミノ酸の一種で、肉類、乳製品、魚介類に多く含まれ、特に牡蠣・しじみ・あさり・ホタテなどの貝類や、たこ・いかなど軟体動物に多く含まれています。 人体の中でのタウリンの役割は、胆汁の生成や神経系の伝達、浸透圧の調整、解毒作用、細胞膜の安定化など挙げられます。 …と書かれている。

 イチロー選手が飲んでいるのが、「ユンケル黄帝液」というのもある。あの健康ではつらつとしたイチロー選手が飲んでいるなら、よほどいいのだろうと思わされてしまう。「生薬であす一日戦える強いカラダを手に入れよう」 ニンジン流エキス、セイヨウサンザシエキス、ブクリョウエキス、ローヤルゼリーの4種類の生薬にビタミンB2、B6、Eを配合した栄養ドリンクです。 …などと書かれている。

 カフェインとか、ロイヤルゼリーとか、人参とか、様々疲労回復に良い栄養素が上げられている。そして、よい食事が十分とれない、ほとんどのひとに対して、そして仕事で疲れるすべての人に対して、さあ飲め、やれ飲めと迫っている。元気な人まで疲れている気分で、もっと元気になろうと、栄養ドリンクを飲む。

 疲れたら休めばいい。24時間戦わなくていい。企業に戦士は要らない。人間は普通に食事をして、普通に働いて、疲れたら休んで、それが当たり前のことだ。それが出来ないのであれば、何かおかしな暮らしで、続かない。そのおかしなことを変えないで、栄養ドリンクで、急速チャージしてはダメだろう。

 疲れるほど働くのは必要なことだ。適度のストレスもなければだめだ。働いて疲れて、十分睡眠をとり、バランスのとれた好きな食事をして、普通に回復させることが、健康に暮らすためには必要なことだ。人間は疲れを感じるように出来ている。疲れを感じなければ、身体が壊れるまで働いてしまう。

 サプリで疲れを忘れて働くという事は、身体を壊す間違ったことだ。身体を酷使している。酷使させられている仕事の方を見直す方がいい。しかし、そんなことを言っていたら生きていけない。という人が多いのかもしれない。もしそうならば早くそんな社会から降りた方がいい。

 と言っても三菱エレベーターの末端の肉体労働者勤めと教師の勤めの経験しかないので、仕事の事がよく分かっているわけではない。ただ、好きなことであれば24時間働けます。と徹夜で働き続けたこともある。しかし、栄養ドリンクも飲まないし、生薬も飲んだことがない。

 それが危険なことだという事を十分にわかっているからだ。イチロー選手は素晴らしいと思うが、あの宣伝を見て嫌いになった。もし本当に栄養ドリンクで、元気をつけているとしたら、おかしな話だ。野球が好きならば、さすがに栄養ドリンクはないだろうと思った。

 生薬ドーピングのようなものだ。もちろん、禁止薬物は入っていない。しかし、生薬を飲まなければ、充分に野球がやれないのであれば、野球をやることは身体に悪いという事になる。少年野球の選手たちが、栄養ドリンクを飲んで練習を頑張れば、イチロー選手のような一流選手になれると考えたら、罪なことではないか。

 あくまで普通の食事をより良いものにすることだ。良い食べ物を好きになることだ。そしてまんべんなく食べる。偏食をしない。そしてよく寝る。疲労回復は寝ることが一番。それでも疲れが取れないなら、どこか身体がおかしいのだから、病院に行く方がいい。それでどこも悪くないとしたら、働き方がおかしいのだ。
 

 
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AI革命後の社会で人間がやるべき事

2024-06-28 04:33:19 | 暮らし


 将棋の8冠だった絶対王者藤井聡太叡王に、伊藤匠七段が挑戦した第9期叡王戦五番勝負第5局で、伊藤七段が156手で藤井叡王に勝ち、3勝2敗で叡王を奪取した。伊藤新叡王の登場は正に、AI将棋を意味している。藤井聡太7冠がAIを駆使して、今までの将棋を一新した。

 昔からの定石というものが、通用しなくなった。将棋のことわざ「桂馬の高飛び歩の餌食」というような考え方が、むしろ邪魔になった。そのAI将棋を誰よりも生かした伊藤叡王が藤井将棋に勝った。AI登場で社会常識が変化する。過去の教訓も忘れなければならなくなる。

 なるほどAIはこういう形で時代を変えて行くのかと実感した。伊藤叡王の特徴は記憶力だという。記憶力が人間離れしていると言われている。AIから学ぶと言うことは、記憶すると言うことらしいのだ。将棋のトップ棋士の間では、記憶能力の大きさが争われていると言われている。

 そのいみで、藤井・伊藤時代以前の棋士の将棋で、藤井7冠や伊藤叡王に勝る将棋は極めて出にくい状況になっている。人間の記憶能力はマサチューセッツ工科大学 ハーツホーン氏の研究では、一般的に情報処理能力や記憶力は、10代後半にピークを迎えることを発見した。と書かれている。

 そのことを考えると、21歳の藤井、伊藤両氏を越えるためには、さらに若い人が表れるのでなければ無理と言うことになる。しかも記憶能力が、生まれつき際立つ人である。努力法で記憶能力は高まるらしいが、どれだけ努力しても、天才的な棋士になれるほどの記憶力は先天的な要素が高い。

 さらにハーツホーン氏の研究によると、50歳で基本的な計算能力がピークに達するとある。同じく、歴史的な出来事や政治的な思想といった一般的な情報を学び、理解する能力は、50歳前後までピークにはまだ達しない。 本当かなと思うが励まされる。

 複数の選択肢の中から答えを選ぶ、多肢選択式の語彙テストの結果、語彙力がピークに達するのは、60代後半から70代初めとされた。この辺りは実におもしろい。私のブログの語彙力は、今がピークかも知れない。過去の文章を読むと確かにそんな気がしてくる。

 しかし、肝心な発想力は失われた気もする。将棋はゲームの世界の話だから、良いのだが、人間が生きると言うことでは、この先AI利用できなければ、通用しなくなる。AIが人間の能力を超えた世界では、「人間は何をやるべきなのか」と言うことだ。例えば記憶力が良い人間と言ったところで、AIに較べることも出来ないほどの低能力である。

 大学の受験競争では、AIに勝る人間の受験生はいない。現在の受験では記憶力と、努力が出来る能力を計ることになっている。学問を行う、研究や新しい発見が出来る人間の試験方法を見つけなければならない。学問研究の性格が、AIの登場で全く様相が変るに違いないからだ。早く対応した国が次の世界をリードするのだろう。

 私は子供の頃から記憶力はとても低かった。漢字など覚えることが出来なかった。意味の伴わないことを覚えると言うことが出来なかった。漢字のテストで、0点ばかり取って、勉強してこいと怒られてばかり居た。自分でも訳が分らないように、覚えられなかった。

 それがある種の記憶障害だったのだ。と考えるようになったのは、最近のことだ。精神障害と言うことで、聖路加病院の精神科で見て貰っていたのだから、どこかに異常があったのだろう。今になって思うのは、発達記憶障害があったのだと思える。ある期間の記憶を失うところもあった。

 意味の無いことを記憶するという能力が欠けていた。多分今も同じで、人の名前は覚えられない。それで不愉快な思いをさせているのだが、最近は年寄だから仕方がないと、許されている。本当は年とは関係が無く、記憶能力が低いのだ。

 いわゆる記憶障害とは違うようだが、ともかく英語の単語を記憶するというようなことは、全く困り切るほど出来なかった。記憶方法を学び、努力すれば、記憶力が高まると言われるから、若い頃にそういうことを教えてくれる人が居れば生き方も変ったかも知れないと思う。

 若い頃は記憶で争うことはやっても無理だと考えていた。だから受験勉強も困難で、努力はしたがそれなりのものでしかなかった。それでも、好きなことの努力は出来る方だと自覚していた。強いベイゴマを作るとか。鶏の新品種を作るとか。川にダムを造るとか。絵を描くとか。大きなクワガタを探すとか。人に負けない努力が出来た。。

 AIの登場で将棋が変ったように、AIで人間がやるべき事が見つかるかも知れないと思う。鶏の新品種を作るという夢はやりきったつもりはある。その鶏が産んだ卵を孵化すことで次の世代を育てられる鶏種笹鶏を作った。ビルゲイツに笹鶏の意味を伝えたかった。アフリカで配った鶏は一代で鶏を飼うことが終わりになる。笹鶏であれば、日本の昔の地鶏のように、飼い続けることが出来るのだ。

 何十年もかけて作ったのだが、鳥インフルエンザで地域から排除を受けて終わりになった。あの頃は未熟で、木偶の坊と言われて耐える能力がなかった。歳をとった今なら少し違う。雨に負けてしまった。コロナの風に吹き飛ばされてしまった。宮沢賢治をあの頃知っていれば、笹鶏を止めることは無かったのだが。

 AIには好きと言うことが無い。人間がやるべき事は好きなことを見付けることだ。生涯やり続けられる好きなことだ。それは無意味なベイゴマではない。人のためになる好きなことで無ければ、人間は耐えられない。鶏の作出が世界のためだと思って人生をかけたのだが、もっと続けるべきだった。

 絵を描くことであれば、社会的価値があるような、ないようなものだが。絵の中には、深い哲学が存在している。哲学のある絵画はAIには描けない。真似をする絵は完璧であるが、AIには私がないから、人間存在の意味は個々のものだ。私絵画は生み出せないのだ。

 言葉にもできない。行動でも表わせない。音楽とも違う。絵画という表現法でのみ可能なものがある。図像として、そこにある自分に出会うことだ。これこそ人間がやるべきものを表わしているような気がする。AI革命の世界ではこの大切な、私という人間を忘れてはならない。

 AI革命後の世界では、人間は変わらざる得ない。人間がどのように生きるのかに特化する。人間がより人間らしくならなければ、生き残ることが出来なくなる。機械でもできることを人間が追及することは無くなる。AIが出来ない事こそ、人間がやるべきことになる。

 人間が生きるという味わいは、その人自身が感じることだ。その生きる刻々をどこまで深く感じて、好きになって生き尽くすか。より人間らしい生き方を生きることになる。芸術というものが、創作活動をする自分のためのものになる。他者と較べない、私芸術の時代が来るのかもしれない。

 
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