



地球環境問題ではマイクロプラステックが最も深刻である。温暖化も深刻であるが、さらに問題解決の困難な問題になるだろう。プラステック製品は燃やしてしまわない限り、微細なプラステテックが海洋に漂う事になる。自然循環に乗らない物質を作り出すという事が問題なのだ。この先マイクロプラステックの量は年々倍増してゆくのではないかと言われている。すでに多くの海洋生物がプラステックを誤飲した影響で死んでしまうものが、多数観察されている。マイクロプラステックの場合、植物プランクトンに取り込まれる。そして、それを餌をする海洋生物。それを食べる魚、海鳥とどんどん食の連鎖が繰り返され、生体内の濃縮が進んでゆく。将来土壌に存在する、マイクロプラステックも作物の根から取り込まれることになる。結局のところ、人間も食糧として徐々にマイクロプラステックを食べているようだ。もちろん食べたからと言って体内に取り込まれるよりも、排出されてしまうものがほとんどである。しかし、1年に5個から20個ぐらいな人間でも体内に取り込んでいいるのではないかと言われている。その数は、自然界の濃度が倍増してゆくとすれば、取り込み量も倍増してゆく可能性が高い。どこかで限界を超えて、人間の健康問題になるはずである。
実験的にはマイクロプラステックが細胞膜を突き破り細胞内にまで、取り込まれてゆくことが分かっている。こうしたマイクロプラステックはそのものの害というより、プラステックに加えられている、様々な添加剤が同時に取り込まれることの方が、直接の生物への影響が高いだろうと考える。マイクロプラステックを取り込んだ細胞が、変異を起こしたり、がん化したり、免疫力の低下を起こしたりする可能性がある。これはあくまで現段階の推測であるが、人体で証明されたときには取り返しがつかない事態ということである。解決不能な問題ではない。私の子供のころは自然循環に収まるものだけだったのだ。プラステックを止めればいいだけのことだ。当面、止められないというのであれば、燃やす以外にない。燃やすとダイオキシンが出るという事が言われて、燃やすことが制限されたため、マイクロプラステックが増加したのではないかと推測できる。
いずれにしても、年々海洋のマイクロプラステックの量は倍増していっている。例えば化学繊維の衣類は選択するたびにマイクロプラステックが水と一緒に流れ出てゆく。人間がプラステックを使用する以上、止めなく増え続ける。つまり、どれほど小さくなるとしても消えない以上、地球環境に蓄積されるばかりなのだ。解決策は唯一プラステック製品を使わないほかない。どうしても使わざる得ないとすれば、燃やしてしまうほかない。燃やしてダイオキシンが出るというような問題は、解決できないほど深刻なことではない。プラステックのリサイクルなどと言ってもほとんど焼け石に水である。結局リサイクルされたプラステックも、燃やさない以上、プラステックは巡り巡り、マイクロプラステックになる。こうしたときに、スーパーの袋を有料化するとか、プラステックのストローをやめるなどという事は、全く気分的なごまかしにすぎない。地中に埋まる塩ビ管は将来どうなるのだろうか。公園のプラステックの遊具はどうなるのだろうか。化学繊維の医療はどうなるのだろうか。プラステック塗料は、ありとあらゆる場面で使われているプラステックをどうしたらいいのか。
当面、プラステックは燃やす以外にない。燃やすことが有害であるとすれば、もう作らないほか道はない。スーパー袋などどうでもいい、本質を見誤ることになる。そんなことではまるで解決できない深刻なことなのだ。スーパーで買い物をしない、すべて自給で暮らすというのであれば、一応の解決の方向であろうが、そんなことは現実的ではない。リサイクルに回しているから大丈夫だという考えもあるが、これは相当に危うい考えだ。プラステックは小さくなるから大丈夫だなどという、とんでもないコメントがあった。小さくなるから手に負えなくなるのだ。大きいままならまだ処理方法がある。だから、今あるプラステック類は出来る限り燃やすべきだ。こういうことを言って、レジ袋を減らそうなどという気分的環境派の人から批判を浴びた。それならレジ袋環境派の人はどういう筋道でマイクロプラステックが減るとかんがえるのか、具体的に示してもらいたい。10年前から古い塩を買ってある。年間1キロ使うとしてもまだ10年は大丈夫だ。すでに自衛の段階に入っている。
マイクロプラスチックの環境汚染が問題になっている。プラスチックごみが細かくなり、海に漂っている。これが海の生物を危機に陥れている。たぶん海だけでなく陸上もプラステックごみが土壌を変え始めているのではなかろうか。畑をやっていると場所によってはそれくらいプラステック類が土の中からいつでも出てくる。プラスチックごみはリサイクルという事が言われる。現実にはリサイクル可能なものは全体の数パーセントにすぎない。しかも、市町村は分別をさせて途上国へ再生可能な資源という名目で輸出しようというのだから、とんでもないことが現状行われている。ごみが人類を滅ぼすという事は刻々と現実化し始めている。原子力廃棄物が処理方法がないにも関わらず、原子力発電が推進されてきた。今の自分が良ければ構わないという思想であろう。すべてのものは廃棄処理方法が見つからない限り、生産すべきではない。プラステックなど使うべきではなかったのだ。当面プラステックごみは燃やす以外ない。燃やしてしまえば、地球環境にこれほど垂れ流されることはない。
プラステックごみを燃やすとダイオキシンが出るという事が言われる。生ごみなどの塩分量の多いいごみと混ぜて燃やすからダイオキシンが余計に出る。プラステックだけを燃やしてもダイオキシンの生成は少ない。木材を燃やしても、石油を燃やしてもダイオキシンは生成される。昔の囲炉裏の暮らしでは、眼をやられたり肺を病む年寄りが多かった。室内で木が燃やされて煙がでる。煙というものは一定身体に悪い。プラステックごみを燃やすとダイオキシンが出るということが、浸透した。必要以上に問題化されたことで、その後のプラステック処理がゆがんだ形になってしまった。プラステックごみは一切燃やされないことになった。そして環境にそのまま廃棄されることになった。これを解決するためにはプラステック類を作らないことである。しかし、これほど世界に広がってしまったものを直ちにやめることはできない。そうであれば、当面燃やすことの方がマシな処理になる。私は燃やしてしまうので、環境破壊者のように言われることがあるが、燃やそうが分別しようがプラステックを使う人はすべて同罪である。
リサイクルなど現状では絶望的である。レジ袋の有料化など無意味な茶番である。どれほどの効果も期待できない。政府の対応は気休めと言い訳程度のことだろう。レジ袋を禁止して紙袋にすという所も出て来てる。プラステック類はリサイクル出来ない系統のものの方が多い。その上にリサイクルされた、プラステックごみだって、結局のところ海に流れてゆく末路にあるのだ。焼却場で燃やすとしても、ダイオキシンを含んだ灰は結局埋められている。生ごみと併せて燃やされるのは、塩分が混ざるので良いことではない。それくらいなら、ごみ発電である。プラステックを中心に、燃やして発電すればよい。そうした発電システムを行っている製紙会社もある。紙にならない木くずと、プラステックごみとを併せて償却することで、その熱で発電した電力が工場のエネルギーになる。
最悪のやり方が、埋め立て処分である。現状ではこれが多い。分別して集められて、それが埋め立てに回されている。同時に輸出である。輸出されて、どうなっているのか行く末はわからない。海に流れ出ている可能性もある。中国ではプラステックごみの受け入れを禁止した。そうしたら、今度はタイに輸出しよう、インドに輸出しようという事らしい。それをやっているのが、行政のプラステックの分別ごみだ。こんなことなら庭先で燃やした方がマシなくらいだ。ダイオキシンが有名になり、プラステックごみに関して、エセ科学的な判断が広まった。放射性廃棄物と同じ流れである。どれほど少量でも問題があるとされて、木の葉のたき火さえダイオキシンを危惧する人さえいる。もちろん燃やしていればいいのではない。しかし、現状ではその方がマシなのだ。プラステックが簡単に分解できるまでは、プラステックを必要としない社会が良いのであるが、そうも行かないのであれば、消却を前提にした、可塑剤の工夫をしたプラステックの生産をすべきだ。
対馬でカワウソが発見された。DNA鑑定の結果ユーラシアカワウソであり、日本カワウソが生き残っていたのではないことが分かった。少し残念な結果になった。山梨県の境川村藤垈では、50年前には確かにカワウソが生息していた。向昌院の池の鯉をカワウソが食べに来ていた。その頃の2,3年の間だけ、10回ぐらいは鯉が食べられ、2回は祖母とおじさん2人が目撃した。目撃したのは明るい時間だった。夜明けごろ食いちぎられた鯉を朝私は見たのだが、カワウソ自体は見ることが出来なかった。立ち上がりこっちを見ていたそうだ。その姿が河童のようだったといっていた。韓国では町のどぶ川に沢山生息している。日本では何故絶滅したのだろうか。何が韓国と違うのだろうか。日本での絶滅は乱獲と言われているが、何故韓国では大事にされているのだろうか。韓国から対馬にどうやって流れ着いたのだろうか。オス2匹とメスが1匹いるらしいという事だ。この3匹からカワウソは増えるのだろうか。あるいは居なくなるのか。さらに流れ着くことがあるのだろうか。
対馬と韓国の距離は50キロしかない。この距離であれば、カワウソなら泳いで渡ることは問題ないだろう。日本カワウソは相当の距離を移動していたらしい。もちろん島伝いに、また川をさかのぼり長距離移動して暮らしている生き物と言われている。対馬のカワウソの今後を温かく見守ってもらいたいものだ。日本人もこうして海を渡って日本列島に流れ着いたはずだ。小さな船出来たのだろう。カワウソが3匹だけで繁殖を続け、増えるものかどうかも興味深い。日本人が何人ぐらいまとまって移動してくれば、日本列島に定着できたのだろうか。多分10人ぐらいでは難しいことだろう。50人ぐらいいれば大丈夫な気がする。時間差で何百年の間に、次々に渡ってきたのだろう。ある時期に台湾の方にいた人々に移動する機運が生まれる。移動しなければならない事情が生まれる。アフリカから何万年もかけて移動してきた位だから、人類は常に新しいところへ広がろうとする生き物なのだろう。カワウソならば対馬で増えれば、今度は福岡辺りに移住する可能性もある。それには何万年はいらないのだろう。
身近にある生物の大半がいつの時代かに日本列島にやってきたものだ。最近来たものを帰化生物として、少し昔から日本にあった在来種と交雑するとか主張する人がいるが。つまらないものの見方である。イネだって帰化植物である。瑞穂の国の大切なお米だって、日本人が来た時よりだいぶ後になり、つい最近日本列島に来たものだ。太古の自然を守るというような、一切の手つかずの自然環境を守るというような自然保護と、日本のような里地里山の自然環境を守るという事では、全く異なる保護の思想を確立しなければならない。この辺が西表のユネスコ自然遺産登録では明確になっていない。小田原では、小田原めだかという固有種が存在する。固有種といっても見た目が異なるという事ではなく、DNAが少し他と違うという事らしい。この小田原めだかの保護を一応の旗印にして桑原の里地里山環境を守ろうとしたことは正しい方向性である。環境保護の為に小田原めだかのDNAに拘るのも許されるだろう。しかし、そのこと本当の所はさして意味があることではない。里地里山環境の保全から見れば小さなことである。
日本に存在する生物はすべてが、カワウソのように渡来したのだ。今帰化植物などと言われ、毛嫌いされている黄菖蒲という美しい花がある。舟原の溜池にも自然に咲いている。これを取り除くべきだという意見がある。全く無意味な考え方だ。デンジソウならば水田雑草であれ絶滅危惧種と言われ保護の対象になる。田字草だって帰化植物なのである。メダカだってそもそもお米と一緒に来たのであろう帰化生物なのだ。渡来した時代の違いをでたらめでかまわないという訳ではないが、こだわりだけで根拠のない保護思想を里地里山に持ち込んではならない。日本人の美意識が許す生物であれば、里地里山では受け入れるべきだ。ハクビシンやアライグマも確かに困る。同時にタヌキだって、鹿だって、猪だって、サルだって、里地里山では困る。何を守るべきかといえば、人間の暮らしである。暮らしを失ってしまい、観念的に自然保護を唱えたところで、方向違いである。自然保護を主張するなら、田んぼ位はやってみなければ話にならないだろう。あの夏の暑さの中の他の草取りを経験してからものを言えと言いたい。
強い雨が降り、舟原溜池は満水に近づいている。上の池は上手く水がはけている。この溜池は江戸初期に作られた農業施設である。この農業施設をそのままにして、ビオトープのように手を入れてはならない。とする環境原理主義があった。とんでもないことで、ここを養魚場にしたとしても、蓮池にしたとしても、何の問題もない。以前は魚が放流され、釣り場になっていたのだ。当たり前のことだが溜池というものは、地域で暮らしに役立つように様々な形で利用されてきたものだ。田んぼが減少している中で、可能な形で利用することで、この溜池が維持される可能性が出てくると考える。農業遺構として、税金で管理するというようなことは、すでにできないことである。当面はこの溜池を農業遺構であるという共通の認識を持つことからだ。その結果、この地域の人が誇りの持てる、憩える美しい場所として大切にできれば、それが一番よいのだと思う。
60センチくらい水深があるのだが、ガマの穂が出てきている。手入れをしなければ、ガマの穂が水面一杯に広がることだろう。もう少し深くすることで広がることを制限できるかもしれない。左のミズキの枝を取り巻くように山藤が咲いている。なかなか美しいものだ。キブシ、こぶし、山藤、ミズキとなかなか見事な舟原の春になった。花が咲く美しい場所であるという事が、まず第一ではなかろうか。花は人を呼ぶ。人が来るようになれば、美観が維持される。大切な場所にしようという人も現れるはずだ。私はあと1年半で小田原を離れることになる。そうでなくても歳をとり草刈りも出来なくなる。誰かが引き続き管理してゆきたいと思うような場所にそれまでにしたいと思っている。美しい場所にならなければ、保全は出来ない。
排水口部分、ここもなかなか面白場所だ。
環境保護運動には原理主義がある。県の環境関係の職員にこの溜池をのことを相談して歩いたのだが、すべての方がそのまま残さなければならない。何かを持ち込んではならないという考えだった。環境というものをどういうものと考えているのか信じがたい思いになった。イスラム原理主義というものがどういうものかわからなかったが、自分たちの権力の拡大の主張にイスラム教というものを持ちだして、正当化しようとしているように見えた。イスラム教を持ち出せば、議論を封殺できる。環境運動でも環境保護という言葉を持ち出せば、論理を超えた錦の御旗のようなものとして、議論を抑えられるというような傾向である。私も小田原めだか会議の一員であった。小田原メダカの生息地を守る会にも参加していた。有機農業をしている。有機農業の方が環境に良いという意識もある。しかし、こうした活動の中で環境原理主義が障害になる。困ることの方が多かった。田んぼを干すのは環境破壊だといわれたことすらある。農業をやるという事はそもそも環境破壊である。その中で、環境の中に自分の暮らしを織り込むという事が重要と考えてきた。環境の中に暮らしを織り込むことができるかを模索してきた。
環境原理主義者に閉口するのは、暮らしの自然への折り込み方に苦情を言ってくるからである。自給農業に生きるという事も環境に負荷を与える側面がある。負荷を与えるし、環境を豊かにすることも行う。その綜合の中で、かろうじての調和を探そうということなのではないか。農業は美しいものでなければだめだ。原発と比較として太陽光がマシだと考える。電気を使わない暮らしが可能なら別だが、それが出来ない以上仕方がない。人間が生きるという事は環境を改変するという事だ。特に農業は環境破壊そのものだ。しかし、手入れをすることで新しい永続性のある自然の使い方を探しているのだ。生きる以上ものを食べる。あくまで比較的マシな農業のやり方を選択できるだけだ。一切自然に手を付けないというような原理主義的選択はない。人間の生きるすべてがそういうものなのだ。完全を求めて、調和というものが見えなくなる。ここが原理主義の怖いところだ。
田んぼに来るオハグロトンボ 大好きなトンボで危険外来生物ではない。こちらはオスで身体が緑に輝く。この後3日ほどしてメスを見かけた。
ヒアリの日本侵入が問題になり、外国から怖い生き物がやってくるという話が、気持ちにひっかかっている。先日も岡山の水島港にいたと報道されていた。昨年の夏は確か東京の代々木公園でデング熱と蚊の騒動があった。便乗するようにヤマカガシに子供が噛まれたという話が、大騒ぎになった。報道的には必要と考えた報道なのだろう。そのことの背景まで調査して報道してもらいたい。何千年も日本人とともにあったヤマカガシが、いまさらのごとく危険生物になる。すべては、暮らしが地べたから離れたことがある。子供の頃からヤマカガシに毒があることは知っていたが、おとなしい蛇なのでよほどのことでなければ噛まない。生活の実感というものが失われたところに、情報だけが独り歩きする。有害外来生物に関する学問的厚みがない。専門家と称する人が登場して、一つの偏見を述べると、もうそれが揺るがない事実のように蔓延してゆく。まだ有害外来生物に関しては、分からないことがほとんどの気がする。
稲穂でトンボの抜け殻 ギンヤンマに見えたけど違うかな。オニヤンマの抜け殻も先日見つけたと渡邊さんが言っていた。
千年くらいの単位で、中国大陸から渡来して、日本に帰化した生き物も山ほどある。何万年くらい前に渡来したという事で日本固有種と言えるのかどうか、明確にわからない植物も幾らでもある。つる植物の葛がアメリカではとても困った植物になっているそうだ。アメリカでもくずもちが流行すれば解決するのか。葛根湯で風邪を治すようになればいいのか。有害、有用は人間の身勝手に過ぎない。アメリカザリガニが日本の水辺の生きものを絶滅させてしまうというので、駆除に力が入れられている。子供の頃、アメリカザリガニ取りをしては食べた。あれから、もう60年は経っている。あの頃の境川村でもすでに平地の方にはいくらでもいた。アメリカザリガニが悪い訳ではないが、駆除しなければ日本の絶滅危惧種が危うい状況にある。世界では日々絶滅している生き物がいる。小田原でもザリガニ駆除に何回か参加したことがあるが、トラップで捕まえたのだが、その程度では減る兆候は見えなかった。ここまで広がってしまった状況では環境的に駆除不可能な地域もあるのだと思う。何処で折り合いをつけるかである。環境原理主義に陥ってはダメだ。
沖縄でもハブのいる島とハブのいない島がある。宮古島はハブがいない。だから宮古島に移住するという人にお会いしたことがある。ハブのいない島になりたいと考えて駆除を公的に行っている。毒蛇で死者も出るから駆除されるというのは、生物多様性の考えから言えば、少し疑問がある。マムシは子供の頃から思うとずいぶん減少した気がする。ヒアリは毒があったので、毛嫌いされる。そこらにある一切の草が雑草として、除草剤で駆除される。そういう現実と、生物多様性の原理主義とはどこで折り合うのだろうか。シュバイツアーは病原菌を殺すことは正しいことなのかと悩んだそうだ。まず、ヒアリが来た意味を悩むことは必要なのではなかろうか。人間中心主義だ。人間だけが特別という事は自然界ではおかしい。人間が一番の危険生物である。このことを肝に銘じたうえで考えると、すべてはほどほどに考える必要がある。
日本の自然環境を守るためには、大前提として自給農業を行う以外にない。国際競争力のある農業とは、自然の多様性を破壊する農業である。日本の大半の田んぼには国際競争力はない。間違いなく減少してゆく。生物多様性にとって、生産不利地域の田んぼを維持することが極めて重要になる。田んぼは自然破壊であるが、3000年循環農業を行い、多様性を担う事になった。その中でもお米とともに渡来した、植物や昆虫がいる。メダカだってそうかもしれない。そうした折り合いをつけた自然が日本の自然だ。未来に繋げることができるのは自給農業だけだ。学校で教育としてビオトープをやるくらいなら、田んぼをやるべきだ。自然と暮らしの良い加減を見つけることだ。自然と折り合いをつける暮らしとは、自分が食べるものをもたらしてくれる恵の自然だ。アメリカザリガニを子供の頃食べていた。赤ヒキガエルを佃煮にするほど食べた。蜂の子を求めて山を走って転んだこと。川では沢蟹を集めて、堰堤から落ちた。 豊かな恵みの自然を取り戻すためには、自給農業をやるほかない。
国立環境研究所生態リスク評価・対策研究室の五箇公一室長は「毒餌で在来アリも駆除され、ヒアリが入りやすくなる恐れがある」としているそうだ。よく分からない意見だとおもうが、専門家の考えなのだから従わざる得ないらしい。在来アリが居ればヒアリが増えないなどという事は、私には考えられない。台湾でもアメリカでもアリが居なかったわけではない。在来アリにヒアリを追い返すような力はない。特定外来生物の行政判断は、どうも意味不明なところがある。他の国でのヒアリ対応の前例から学べばいいのだ。アメリカや台湾がそうらしい。まあ、その前にそもそも防げるのか防げないのかであるが。前例を見てみれば、セアカコケグモは日本に定着したようだ。今は日本の至る所に生息している。小さな虫は荷物とともに、日本中に運ばれたのだろう。毒虫なら有名になるが、微生物の世界ではすでに島国である境界は無くなっているのだろう。何100万人の人が行き来し、膨大な貨物が出入りしている。
日本でセアカコケグモで死んだ人は居ない。現生地のオーストラリアでも死ぬ人は今はないそうだ。ヒアリでは人は死ぬのだろうか。アメリカではヒアリがどこにでもいるようになって、年間何千人もがさされるらしい。確かな数は把握できないが、当初100名も死ぬというあいまいな話があったが、1人ぐらいという事らしい。それほど恐れるべきものでもない。日本国内でも蜂に刺されて死ぬ人は毎年20人はいるそうだから、ヒアリが定着したからと言って、それほど恐れることはない。ヒアリの日本定着を防ぐことは相当に難しいと思われる。理由は南米原産のものがアメリカで繁栄したのは、アメリカの住宅地などの方が、ヒアリの生息地としては向いているとある。日本の住宅地も同じような環境ではないか。しかし、増やさない方が良いに決まっている。初期段階の今徹底した駆除をしてみることだろう。そして、継続して監視を続ける。相当費用もかかるだろうが、やるなら今のうちだろう。広がってしまってから駆除しようとしても、ほとんど不可能なことになる。
私は山の中で育ったから、いろいろの虫に刺されたものだ。その為か今は虫刺されには強い方だ。毒があると言えば日本ではマムシだ。それでもマムシに噛まれて死ぬという人も今はめったにいないらしい。マムシは何度も捕まえた。子供の頃虚弱体質だから、食べさせられた。マムシの肝というのも飲み込まされた。藤垈では見つければ大抵は捕まえていた。島へべなど美味しいというので積極的に食べていた。タンパク質不足なのだ。蛇に嚙まれたことはない。こちらが攻撃しなければ、黙ってどこかに逃げてゆくだけだ。マムシは本当に減ったと思う。山北にいたころ1万円で買うという人が来たことがある。これなら取る人がいる訳だ。蛇は変わった性格の生きものだ。大切にするととても慣れる。アオダイショウが鼠を良くとってくれるので、養鶏場では大事にしていた。急速に大きくなって、2メートルは超えた。私の腕位の太さになった。いじめないで、売れない卵を上げていた。とても慣れた。なついてもらうほど蛇が好きという事でもないから、勝手にさせておいたのだが、どんどん厚かましくなった。
アメリカザリガニが日本の水辺の自然を壊している。もう駆除もできないほどの状況になっている。トンボだってホタルだって、ドジョウだってメダカだって、水生昆虫全てが、ザリガニを何とかしなければ絶滅してゆく。現状でもボランティア的にはザリガニ駆除はかなり熱心に行われていてる。水辺を守る運動の活動目的に近くなっている。水辺というものが減少していにも拘わず、ザリガニは増加している。国を挙げてやるべきはアメリカザリガニの駆除だ。ここまで広がってしまった今、駆除できるのかかわからないが、やるならば重要課題だと思う。ヒアリだった。過剰な心配はしない方が良い。特定外来生物には違いないが、日本の自然を破壊するようなものではないようだ。毒があるという事で、白い眼で見られているが、毒があろうがなかろうが、自然という中では同じである。特定外来生物の受け入れ方に、明確な方針を立てることが先決だ。方針なく日本の生物の保全などと言ってみたところで、効果もないうえに、妙な原理主義者を育てることになるだけだ。
ナガミヒナゲシが最近どこでも見られるようになった。群生する美しい花にもかかわらず、危険外来生物として駆除しなければならないとの主張があり、知識の浅いテレビ局など駆除を進めるように報道していた。どのような理由で危険なのであろうか。強いアレロパシーがあり、この花が広がりだすと、他の草が無くなるという主張らしい。日本にどこかそういう場所があり、困ってでもいるのだろうか。黄菖蒲の扱いと似ている。カキツバタが無くなるという主張のようだが、美しい花が何故嫌われるのか。特定危険外来生物というものがあり、植物には13種ある。それら以上にナガミヒナゲシは雑草化のリスクが高いので、早く駆除せよという主張まである。根拠のないデマに過ぎない。ネットによる弊害の一つである。農にかかわるものとしては、この草が特定外来植物ほど迷惑になるとは思えない。増えてどんな植物を無くすというのだろうか。また増えて人間に対して迷惑があるのだろうか。もう少し自分の頭で科学的に対応しなければならない。これも半可通の自然保護原理主義者の仕業か。
日本の身近にある草花や農業の栽培品種の大半のものは、外来種である。帰化植物である。何か困ることでもあるであろうか。稲が増えて困るとか、小麦が増えて困るという話は聞かない。そもそも稲作や麦作に伴い、数限りない植物が渡来した。そして日本の自然に広がっていった。そして落ち着くところに落ち着いているのだ。杉は日本固有植物だそうだ。ところがずいぶん人間に迷惑な植物になっている。杉が悪い訳ではない。杉花粉ほど、人間に迷惑をかけている植物はないのではなかろうか。太古から日本列島に自生していたものだという。それを日本中の山に偏在させたことが間違えであった。子供にまで緑の羽根募金をさせて、日本中の山に植林して、そして価格が合わないという事で、建築材として切り出すことさえままならなくなり、今やスギ花粉症の元凶となっている。人間が偏在させて、困ることにした植物があるということに過ぎない。
特定外来生物(12種)と要注意外来生物(84種)というものがある。ここには国内由来の外来生物というものもある。小田原周辺ではみかんの雑草抑えと敷き藁に使われている、なぎなたがやなども所によっては要注意植物という事になる。家の周辺にもいくらでも植えられているが、具体的に何を注意すればいいのだろうか。麦作をすると雑草として出てくるが、すぐ倒れるのでカラスムギほどは困らない。麦以外の作物では良い敷き藁になり問題がない。麦を刈るころ倒れてくれれば何とかなる。高山や離島に入り込んで、そこにある固有種と交雑するから危険とされる植物もある。帰化植物に加えて史前帰化植物というものもあるようだ。地球の成り立ちから言えば、ありとあらゆる植物が帰化植物と考えた方が良い。作物は全て帰化植物という事になる。そもそも植物の侵入を完全に防ぐというようなことは不可能である。あくまで手入れの範囲でかかわりを続ければ行えばいいことである。
循環農業とはそういうものである。ありとあらゆるものをほど良い耕作の中で継続させる術である。除草剤で一網打尽というような思想では不可能なことなのだ。一網打尽の思想では、いったんはびこったものはもう手の打ちようがない自然破壊となる。どのような植物でもよい面もあれば、悪い面もある。それはあくまで人間にとってという視点で考えなくてはならない。人間に都合が良ければ作物であろうし、迷惑なものなら雑草である。工場ですべての食物が合成されるようになれば、いま最も困るという植物が有用植物になる可能性だってある。ほど良い範囲で調整して行く以外にない。つまり人間の暮らしが無くなったことに原因がある。周辺の自然とのかかわりの中で暮らすことが無くなった。草刈り一つやったことのない人の方が、多いいのではないだろうか。こういう人が、意味も分からずナガミヒナゲシが危険だから取り除けなどと主張するのだろう。
築地市場の移転がやたら揉めていた理由がやっと分かった。今問題になっている2008年は石原都政3期目であった。石原氏は国政に気持ちが移っていて、都政の現場がおかしくなっていたと思われる。石原知事の関心は常に都政より国政にあった。石原知事は保守政党の設立に関心を移していた。その後維新の会や次世代の党などと国政に戻る。都民の支持率は高く、2011年には4期目の当選をする。1999年から2012年まで続いた石原都政。2012年には尖閣諸島を東京都の土地にするという発言をワシントンで行う。そして猪瀬氏を後継に指名し都知事を辞職。舛添都知事が贅沢で批判されたが、石原知事の贅沢三昧はその比ではなかった。その上、都政は人任せで、都庁に行くのは週3回程度だった。石原氏はこの問題では騙されたと発言したそうだが、騙されたのは都民である。この人に批判が出なかったのは、圧倒的な国民的支持である。加えて、衆議院議員時代からの、大きな利権と保守勢力と結びついていた。マスコミは追及を怠った。
石原都知事の領分であるはずの都の行政はお役人にお任せになっていたのだ。その結果お役人の手抜きや、手落ちが蔓延した。今になって、豊洲の設計がでたらめだとか、建築工事が談合だったのではないかという話が出て来るのも当然のことだ。そもそも豊洲の土壌汚染が騒ぎになった一因は、汚染が取り除けないというような安全上の問題以前にある。築地に残りたいという仲卸などが、問題点として取り上げたことで深刻化した。科学的な汚染処理よりも、移転実現の説得が優先された。都知事はこうしたことに関心も薄かった。築地市場が卸売市場として限界に達していることは明白だ。しかし、その歴史の中で商売を成功させている業者にしてみれば、あえて、新しい挑戦をしろというのでは不安なだけだろう。その根底にあるものは、卸売市場というものの、歴史的転換期が来ているという事だろう。卸売市場の役割はあるにしても、その意味は変わらざる得ないという前提の中にある。
豊洲に移れば、新しい取引形態を新規に作り上げなければならない可能性がある。当然この機会を狙って、割り込もうという企業も登場しかねない。伝統的信用で構築されてきた築地市場の形態が、清算されかねない状況を感じたのだろう。こうした不安の中で、都の担当者はその場限りの対応を繰り返した。それが、土壌汚染、土壌の除去、盛り土。その後の環境調査。この流れを建前として、説得材料にしただけだ。汚染地に卸売市場が出来るというだけで、風評被害は確実である。清潔で安全な市場を作るというイメージ戦略の前提は、この時に崩れたのだ。築地からの移転の根本原因である。手狭になったという事と衛生上問題がある点では、世間的な説得材料を失っていた。問題は本質的な安全性よりも、建前としての説得材料問題であるから、盛り土の上に建物を建てるというようなことは、すぐ忘れられた。
市場の安全性は商売のイメージである。築地のようにコンクリートに直接生ものが置かれていても、歴史的な実績があり、築地仕入れが商売の売り文句になる状態の意味を考えなければならない。食品安全基準というものが、そもそもおかしいものなのだ。弱小の処理場を淘汰することが、安全対策というようなところがある。猪を山で撃ち、その場で解体して食べることは違法ではない。然し同じことを豚で行えば犯罪である。釣った魚をさばいて生で食べることは違法ではない。しかし、安全基準では問題ありとなり、将来禁止される可能性がある。安全の中に商売が入り込んでくるとややこしい。これに行政の管轄権が介入するから、なおさら訳が分からなくなる。食糧の安全の問題と、食糧の流通の問題の2つの課題が残る。業者には流通の問題と、既得権益である。安全は監督官庁の問題である。魚の安全管理と、食肉の安全管理は行政としては同じでなければ矛盾する。
田んぼ夏空
温暖化対策が出来なければ、人類は滅亡する。これは正確な未来予測である。これは危機を煽るデマではない。人類が滅亡してまた地球は新たな生命を育み始めて、再度知的生命が誕生するのだろうか。その時人類が残した遺跡を発見してどのように思う事であろうか。火を手に入れて、人類が化石燃料を燃やし続けることは、抑精神の乏しい、貪欲な生き物として必然なことなのかもしれない。資本主義を人類が続ける以上、温暖化の阻止は出来ないことだろう。温暖化など、直視しようとしないことだろう。様々な屁理屈を並び立て、金儲けできる道を見つけ、出し抜こうとすることだろう。むしろ当面は気象変動を喜び、競争相手がこぼれ落ちるのを期待する国もある。ある国家は温暖化阻止に向うことは出来るかもしれないが、地球規模で言えば不可能であろう。
温暖化は一人一人の暮らし方なのだ。人間が暮らしの豊かさをどこに見出すかだ。資本主義は消費を良いものとして、大量消費を奨励している。今年の夏は暑いので、クーラーが売れて景気が良くなると、テレビでは電気屋さんが喜んでいた。温暖化万歳の企業が存在し、温暖化を推進していることだって大いにありうる。人類の滅亡よりも目先の儲けを求めるのが、資本主義の原理だ。競争に負ければ元も子もない。商売をやっていれば、クーラーの販売員が夏暑いことを喜ぶのは当たり前のことだ。山背が来て不安になっている岩手の農家とは違う意識になる。私も、早く梅雨明けしてもらいたいと考えていた。長雨で稲が病気にならないか不安だからだ。こういう時近代農法では殺菌剤を散布するのだろう。昨年、8月後半の雨続きで小黒菌核病らしきもので大打撃を受けた。ストチュウでも用意しておこうかと思っている。病気が出たとしても、そこそこ通り抜けるしかない。それが里山暮らしの手入れというものだろう。
稲の病気を畏れ、化学薬品で予防まですれば新たな問題が出現する。効果が高いものには、予防効果だけではない自然環境に与える影響も大きくなる。そして遺伝子組み換え作物まで進んでゆく。そうして自然を破壊しても、自分の農園だけが利益の出る農法に向かう事になる。遺伝子組み換え作物以外の農家のことなど、潰れればいいと考えている。それが競争の原理である。遺伝子組み換え作物の殺虫植物が自然界に広がった場合どのような影響が出るかは、未解明である。未解明であろうが、自分の利益が出るのであれば気にしていれば出し抜かれる。それが資本主義の現実である。こうして人類は競争をしながら拝金主義に染まった。相手が良くなることは、自分が良くなれないことという仕組み。唯一人類が生き残るためには、共存である。自分の暮らしを深めるることが回りに迷惑をかけない生き方。それを実践していたのが江戸時代のの暮らしである。封建的で因習にとらわれ、不愉快な社会ではあるが、共存するしかない社会である。
共によくなる以外によくなる道がないという社会を目指すべきだ。それは期待したところで、不可能に近い。何度も人類はばかばかしい戦争を繰り返す。相手に勝たなければ、自分が生き残れないと思い込んでいるのだ。その現実が避けられないとするなら、せめて自分の暮らしだけでも自然の循環にそいたい。すごい遠回りになる道だが、温暖化を食い止めるには、一人一人が金権主義を抜けるしかない。たぶんできないだろう。70年ごろ学生闘争が起きたのは、その危機感が根底にあった。このままでは人類は滅亡すると予測された。しかし、世界はその警告を無視した。そして、50年無謀にも突き進み、後戻りできないところまで来ているのだろう。私は全体のことを忘れるようにして、あえて見ないようにして自分勝手に自給自足に生きようとしてきた。しかし、時間は確実に悪い方向のまま過ぎ、展望はさらに暗くなっている。次世代に示せるものは、もう逃避方法だけかもしれない。
東電が作った第3者委員会から、福島原発事故調査報告が出た。最近はやりの厳しい眼で検討しているはずの、第3者委員会であるが、単純に東電の弁解が出てきた。こうした卑劣な態度がまた事故を起こすのだ。第3者員会の目的は企業責任の追及の裁判の弁護の為である。全くのでたらめのひどい報告である。こんなものを第3者と自ら呼ぶ姿勢がそもそもおかしい。当時の政府の対応のおかしさに原因を転嫁するための、自称第3者委員会である。確かに政府はひどかった。と同時に東電だってとてつもなくひどかった。東電には事故を起こした当事者としての責任を忘れたいだけだろう。予測を超えた大津波で、想定外の事態に至り、原発が炉心溶融して、放射能をまき散らした。それをまるで仕方がなかったこととして、誰も責任を取らないで終わろうとしている。農の会のお茶に対する補償は請求しているにもかかわらず、反応すらない。被害者が被害を証明しろで終わりである。
今ではほとぼりが冷めたと、アベ政権も各電力会社も、原発の推進をすることに躍起となっている。40年過ぎの原発も廃棄しないで、また20年使い続ける方針。廃棄したところで核のごみは行き場がない。これほど迷惑な原発を推進する理由は、企業利益意外に考えられない。政府は電力会社を後押しして、原子力を次のエネルギーの中心に据えようとしてきた。国民を安全神話に巻き込んできた。だから、原発事故が想定外で、対応が後手後手に回った。中国から大きなクレーンを貰わなければ、海水さえかけられなかった。近隣諸国も他人事ではなかったのだ。近隣諸国が今でも日本の食糧に不安を持つのは、そうした日本の政府や東電への不信である。メルトダウンしているだろうと、いくら追及しても口を割らなかった東電である。その責任だけでも極めて重いものがある。口を割らなかった理由を政府に口止めされていたと責任の転嫁をするなど情けなくないか。しかも、参議院選挙にその報告をぶつけてきた。この不誠実な態度では、又原発事故が起きそうだ。
東電の第3者委員会では、巻き添えケチの第3者委員会で有名になった、元東京地検特捜部副部長の佐々木善三弁護士である。「重要な事柄をマスコミ発表する際には 事前に官邸や保安院の了解を得る必要があり、対外的に炉心溶融を肯定する発言を差し控えるべきとの認識が、東電社内で広く共有されていた。」そして、最近実は東電は炉心溶融の事実を事故3日後に把握していたことが、分かってきた。そこで、分かっていたがそれを公表できなかったのは、政府の圧力だったと言い逃れの道を作ったのだ。佐々木氏は依頼者の弁護をするのに、確かにマムシのようである。小渕裕子氏もそうだった。今度は、甘利氏の第3者員会をやりそうである。真実を検証すべき第3者員会の名前を語り、完全に東電の側に立って弁護をしている。東電の清水社長の発言は正しいという前提なのだ。その指示をしたという政府への聞き取りは、やる余裕も権限もなかったが、指示をしたように推察できるというのだ。
佐々木氏の報告書は官邸の指示については、すべて推量である。推量で、炉心溶融を隠した責任は官邸にあったと結論しているのだ。こんな推量であれば、私にもできる。全く偏った杜撰な報告である。しかし、こうしてお茶を濁しておけば世間などいい加減なものだから、後は時間を稼げばいいと厚かましいマムシだ。。佐々木氏が過去かかわった第3者員会全てがこのやり方である。これほどの欺瞞を繰り返している人間を第3者委員会に入れて良いものだろうか。というより、この依頼者側に立つ姿勢が、又依頼が集中させるのだろう。この構造が日本社会のだらしなさである。すぐ国民が忘れる。忘れるまでの時間稼ぎが第3者委員会になっていないか。小渕裕子氏はその後選挙で再選された。甘利氏も、そういう事になるのだろう。このいい加減さが日本の一番ダメなところだ。