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201 水彩画 日曜展示

2024-03-03 04:20:00 | 水彩画
201 水彩画 日曜展示








412「朝靄の下田」
2024.3 10号







413「下田港」
2023.3 10号








414「吉野のサクラ」
2024.3








415「下津井」
2024.3 10号










416「鳥海雪桜」
2024.3 10号









417「伊豆」
2024.3 10号







418「妙高高原」
2024.3 10号


 今回は10号Mサイズの横の絵が多かった。何かこの形に手が伸びた。いつも描いてきた場所の絵だ。何度も描いているので、見ているような気持ちで描いている。しかし見ていない方が自由に描ける。絵は何かを写しているのではなく、画面に自分の世界を創造しているものだ。

 海の色は青いと思っているが、実際の海は青いというようなことは無い。様々に変かを続けていて、留まるところが無い。絵は海のその様々を総合して海として表現する。そのためには一瞬の時である、今の海に引きずられるのも良いとは言えない。

 あくまで絵を作り出している。頭の中にある世界を描いている。だから常日頃よくよく海をみる必要がある。千変万化の海を凝視して、見届ける。そしてその総合としての海を描く。もしそれが出来れば、絵画によって自分の観ている世界を表現できたことになるのではないかと考えている。


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絵に習うことはない。

2024-02-28 04:15:53 | 水彩画


 リーダーのわかばが種付けのために、出かけたので今は桜とのぼたんの2頭。人の後を着いてくる。

 絵を描くためには頭の中で、描く絵を想像できなければ絵は描けない。だから子供にお母さんの顔を描いて下さいと言っても、母親の顔を想像して描くことは出来ない。リンゴを見て、リンゴを描くこととはまるで違うことになる。お母さんを描く子供の絵は、一度知識に置き換えて描くのだ。例えば眼鏡をかけているとか、頭はくるくるパーマであるとか、太ってまん丸であるとか。言葉にすればなんとか描ける。

 図像としての母親を想像できて、その頭の中にある図像を写し取ることは、幼稚園児では出来ない。たぶん小学校三年生ぐらいまでは出来ない。だから子供は顔と言えば、へのへのもへじ的に、マルを描いて眼をヨコに二つ描くと言うように、実際の顔では無く、図像として出来上がっている図を書くことから始まる。

 いわば、顔を書くであって、描くではない。書写のようなものだ。日本画には画家になってもそのような絵が多数ある。朱竹のような、出来上がった図があってそれを、描く決まった筆法があり、手順でなぞるだけで、竹らしい姿ができてくると言う方法である。中国画は今でも大半がそれである。

 正月の掛け軸と言うことで、鶴亀図とか。松に日の出。海越しの富士。翁媼図。決まった図柄を描くことが、伝統的な日本画の描き方で、この図を徒弟制度の職人と同じように、先生に教わると言うことだったのだ。そういう装飾絵画が、絵師の仕事であったわけで、まあ今の日本の絵画にもその伝統が息づいている。

 その意味では、庶民の絵画であった、浮世絵は少し違う。面白い、新しい意匠が人気を集めたのだ。次々に過去にないものが現れる。そこには従来の日本画にはなかった。絵画の本流に触れるものがあったのだ。庶民文化が、貴族文化を凌駕した江戸時代のすごさ。

 縁日にでる大道芸のような、昇り龍の一筆書きというのもあった。子供の頃お祭りには必ず出ていたもので、その描き方を家でも遊びで良くやっていた。今でもあの龍図の寅さんはどこかにいるのだろうか。筆を前後に揺すりながら進めると、龍のうろこに見えるのだ。指でパチッと目を入れる。お絵かき遊びと言うことで結構やっていた。

 絵を描くと言うことと、図を再現すると言うことは全く異なることなのだ。アルタミラの牛の図は絵であり、牛の記号では無い。縄文の土偶は造形である。子供の頃に絵を習おうとしたときに、図を写すことから始めるとすれば、大きな間違いをすることになる。絵を描くとは、見えている世界を再現するのではない。紙の上に新しい世界を作ると言うことなのだ。

 明治期の図画教育は、まさに写画である。教科書に見本の絵があり、それを写すことが図画の時間だったのだ。書道の時間は書写である。見本の文字を真似をして写すのだ。はいこのように筆は入れて、横へまっすぐ引く線の速度はこのくらい。止めは力を込めてと。絵画はそんなことを覚えれば、自分というものが遠のくばかりである。

 藝術としての書ではなく。代書屋さんの看板文字である。それらしくだけの物にすぎない。絵をかくと言うことが、何かの図を真似を覚えることだった。その伝統は根強く今にも続いている。だから絵を描くというとデッサンをすることが基礎と言うことになる。日本美術の衰退の原因はここにある。

 デッサンは美術学校の受験の基礎であって、絵描きになる道を誤らせている。上手に写し取る能力は、確かに商品絵画の製造に関わるなら意味があるが、絵を描く為には何の意味も無い。むしろ芸術を志すとすれば、害になることの方が多い。芸術としての絵画は写すのではなく、作り出すものなのだ。

 お母さんの顔を描いてください。幼稚園でもやる事かも知れないが、これはなかなか奥が深い話なのだ。それを言われたときに、途方に暮れてしまった。お母さんを絵に描くことなど出来るはずがないと思ったのだ。いわゆる顔の形の図を書いてもお母さんには成らない。

 どうしたら良いのか、全く考えつかなかった。舟を描くと言っても、舟の図の書き方は分かっていて、手順通り書けばそれらしく舟になる事の方が不思議だったのだ。それは、見たことのある舟とはまるで違うが、舟の図ではある。この違いが分からないのに、お母さんと言われても、それは立体的な存在で生きている。どうすれば図になるかはとうてい分からなかった。

 この絵を描く要領は私にはなかなか突破できなかった。所が要領の良い子供も居るもので、こんな風に顔は描けば良いんだよと、手順を示してくれる子が居た。なるほど、そうかそうやれば顔らしきもになると、気がついてやり方を真似てしまって安易な解決をした。

 あのときは重要な分岐点だった。お母さんというものを絵に描けるかという命題は、実は今でもある。確かに、絶対的な愛情を持って面倒を見てくれた存在である。あの感じを絵に描くけるかと言えば、これは大きな命題になる。聖母マリア像もそうなのかも知れない。

 金沢大学の美術の授業は光風会の北浜淳先生だった。この人に教わったことは、「せめて絵の具を混ぜるなら、よく混ぜろ。」と言うことだった。この言葉が頭に残り、50歳ぐらいまで悪影響が残っていた。あるとき読んだ中川一政の言葉に、絵の具はあまり混ぜないで塗るようにした。と書いてあり呪縛が解けた。

 絵の描き方は自分が発明するか、発見するかするしかないものなのだ。だから石膏デッサンをするというような、馬鹿げたことは避けた方が良い。それが上手に出来ることが、絵を描く基礎ではない。下手が絵の内。上手いは絵の外。藝術としての絵は生み出すもので上手に写すものではない。

 明治時代がいかにだめな時代かが、美術の授業を考えてみても分かる。学校教育が、人間教育になるのは、大正自由教育が始まってからのことだ。自由学園の美術教師だった山本鼎によって人間教育としての絵画が始まる。私の叔父は山本鼎の授業を受けていたので、その様子を話してくれた。

 藝術は人間の表現である。その人間がどこまで深い世界を感じているかにかかっている。言葉にすれば世界観の表現なのだ。幼稚園の時のように、お母さんを描いてくださいということは、子供には実は、それはあなたの世界観を描いてください。と言うことなのだ。
 
 言葉には書ききれない世界観も、絵なら表現できるかも知れない。これが藝術としての絵画の目標だと考えている。薔薇や富士山の図を、手順道理に巧みに写すものではないのだ。そういうつまらないことが絵に混ざれば、どんどん自分の世界観から遠ざかることになる。

 

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第200 水彩画 日曜展示

2024-02-25 04:04:56 | 水彩画

第200 水彩画 日曜展示









404「ヨットハーバー」
2024.2 6号






405「赤い林」
2024.2 6号





406「春の伊東」
2024.2 6号






407「フサキ」
2024.2 8号







408「花」
2024.2 10号







409「篠窪秋」
2024.2 中判全紙







410「海辺」
2024.2 10号







411「マゴノ森」
2024.2 15号





 200回目の日曜展示であるが、特別なことはない。考えないで続けている。絵は様々なものが表れてくる。毎日何の脈略もないが、自分の絵ではある。それでいいのかと思っている。無理やりどこかに向いたくはない。小脳的に、反応的に絵を描いて見ている。

 いつか絵を描く方法を忘れたい。歩き方は忘れても歩いている。歩き方を思い出すこともないが、何とか歩ける。たぶん姿勢も悪し、みっともない歩き方なのだろう。しかし、それが74年かかった歩き方なのだろう。千田是也は歩き方で人間は表現できると書いている。

 私の絵は私の歩き方であればいい。無理やりこさえたような、立派な歩き方はいらない。健康になるウオーキングレッスンはいらない。とぼとぼ自分らしく歩ければいい。毎日7000歩ぐらいは歩く暮らしでいたい。そんな感じで日々1枚の絵を描いてゆくつもりだ。



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日々の一枚の1400日

2024-02-24 04:18:51 | 水彩画


 日々の一枚で水彩画を描くことを続けている。何でこんなことをやっているのだろうかと思う日もある。ただ、決めたことなので続けてみよう、と思って何とか続けている。日々の一枚は葛飾北斎から学んだことだ。その心意気がすごいと思ったから真似をしている。描きたい思いが湧いて来るので、続いている訳なのだが。

 続けてきた今の状態を少しまとめておこうかと思う。日曜日には200回目になる。はじめて200週1400日ということになる。描いた絵の数は1411枚。これが私のすべてである。毎日1枚は描いてきたことになる。始めたのは2020-05-17 04:00:46とある。こういうことが、すぐ分かるのがブログの良いところである。

 始めたのはコロナの流行が契機だった。絵を発表すること自体が難しくなった。水彩人も中止せざる得なかった。絵を描いて行く気持ちの維持と言うことがあり、このままではいけない。ブログで発表して行こうと考えたのだ。始めた頃は絵が出来たら出すと言うことで、毎日描く日々の1枚は考えていなかった。

 北斎は日々の1枚を行い100歳を超えれば、何でも生きたように描けると書いている。「画狂老人卍」の画号を用る。長寿を得て百数十歳に至れば、一点一格が生きるがごとき絵を描けることだろう、と記す。そして絶筆を昇り龍にした。

 その龍は絵から抜け出て空に舞い昇って行く。その龍が北斎なのだ。所が北斎は残念なことに、1840年北斎は90歳で亡くなる。北斎は歳をとっても衰えなかった、数少ない絵描きの一人である。日々の一枚の意欲が北斎の絵を最晩年まで北斎の精神をその絵は伝えている。

 書いておけば、葛飾北斎の絵は島根県立美術館が多数保存している。ウエッブで一部の絵を公開しているので、いつでも北斎の絵を見ることが出来る。代表作とも言える富嶽三十六景は、70歳代前半のもので四十六作品の連作である。今の私と同年代だ。今更のことだが、改めて考えてみるとすごいものだ。

 江戸時代に70歳を超えた老人が歩いて、富士を巡り回って絵を描いている。愛知県当たりから富士山を描いた絵もある。今の私が富士山の周りを何年もの間、歩き回り絵を描くようなことが出来るかである。富士山にも登って描いているとおもわれる。本当に絵を描くことに狂った人だったのだろう。またそれを受け入れた江戸の庶民もすごいものだ。

 北斎では無く、自分のことであった。北斎に匹敵する、絵に対する情熱はあるつもりだ。しかも、マチスも、セザンヌも、ボナールも、私には付いていてくれる。改めて100歳を超えて、描いてみようと思う。それが北斎が出来なかったことだ。

 自分の絵の空間を作ることが、最近の目標のようだ。意識してそうしていると言うよりも、自分の絵がいつの間にかそうなってきていた。どういうときに絵になってきたと感じるかというと、絵に空間が出てくると、はっと、その勢いに気付くのだ。何か絵が現われた感じがするのだ。

 空間が表れていない絵もいくらでもある。それは絵が出来ないと言う感じが無いまま、終わりまで行った絵だ。なかなか絵にならないで、試行錯誤している絵は、ある時絵が立ち上がる感じがする時が来る。どこかに線を引いたり、色を付けたりしたときに、何故か画面が大きく変り動き空間が広がる。

 何故、そんなことが起こるのかは分かっていなかったのだが、繰り返している内に、どうも空間が現われたときらしいと思うようになった。空間が現われるとはどういうことか、言葉になりにくいのだが、平板な絵の姿が突如立体的になる感じだろう。その絵画空間は写真のような陰影による空間でもないし、ぼかしによる空間でも無い。もちろん遠近法による空間でも無い。

 平板な色面の組み合わせが、突如空間を表わし始める。その中心となる原因は画面の中の色や形に動きの調整が付くというような感じだ。西洋画の言うところの、いわゆるムーブマンというものなのかも知れないが、もう少し違う感じもしている。もったいぶって言えば、絵が精神的なものになるという感じがする。

 どちらかと言えば、北斎の絵にある絵の気韻生動という姿である。絵に命が宿るという状態。どうしてそうなるのかは分からないが、あれやこれや訳が分からず、やっている内に偶発的に起こる。それで、はっとしてあれこれさらにやる。それで絵が終われる時もあれば、また絵が死んでしまうこともある。

 線の動きが絵に流れを生む時もあれば、色彩が命を吹き込むときもある。一枚一枚絵によって違うので、絵を描く公式があると言うことではないようだ。自分の気持ちの方の違いもある。その日はそれで生きたと思えたものが、翌日には死んでいると言うこともままある。

 多分水彩画がかなり自由に描けるようになってきた気がする。沢山描いたからだろう。日々の一枚の成果と言える。色々の紙に描いている。しかし、和紙に描いたとしても、木炭紙に描いたにしても、ケント紙に書いたとしても、水彩画紙に描いても同じことである。

 描く技術が巧みになったために、その紙に応じて描けるようになり、自分の世界観をどんな紙でも対応できるようになってきた。そのことが良い方向に進んだと言うだけの意味では無い。むしろ上手は絵の外に気を付けろと言うことである。

 下手で無くなってしまうことで、絵では無くなってしまうことは、絵の世界ではむしろありすぎるくらい、普通のことなのだ。上手に描けたために、絵の世界観が無いにもかかわらず、一般論としての絵らしきものに見えてしまう危険がある。絵で唯一意味のあることは、作者の世界観が絵の中に表現されているか、どうかだけである。

 当たり前の事で、絵は作者の内的な世界を表現するものなのだ。外界をきれいに写すものは、装飾品としては良いが、芸術表現としての絵画とは関係がないものなのだ。内的な世界と言うことが以前よりは、絵の表現として感じられるようになった気がする。

 自分に至ると言うことが、絵の目標である。それは絵の宗教的目的のようなものだ。ある意味信仰の世界と言えば言えるようなものだから、他の人の絵とは関係の無いことだろう。絵を描くことで、自分とは何かを考えていると言うことになる。

 人間として生まれて、遠からず死んで行く以上、自分というものを知りたい。その思いを絵を描くことに託したのだ。仏教で言えば、回心とか、悟りとか、言うようなものなのだろうが、私の場合は、その修行の道が絵を描くと言うことらしい。坐禅とか、念仏とか、そういう形の無い修行が出来なかったのだ。

 絵であれば、自分の成長とか、変化とか、衰えとか、そういう物が画面に現われる。その形を頼ろうという姑息な修行の方法なのだ。姑息に見える方法ではあるが、私にも出来る唯一の方法なのだ。自分の死ぬまでのことだ。やり尽くしてみるほか無い。
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第199 水彩画 日曜展示

2024-02-18 04:11:11 | 水彩画
第199 水彩画 日曜展示






397「ソルゴー」
2024.2 10号








398「海と空のあいだ」
2024.2 8号







399「のぼたん農園」
2024.2 中判全紙









400「ヤラブダケ」
2024.2 中判全紙







401「ブザマダケ」
2024.2 10号






402「農園」
2024.2 10号







403「岬」
2024.2 8号


 絵に集中して描けた1週間だった。静かに描いていた。絵が動き出すのを待ちながら描いた。一枚一枚に時間がかかったかも知れない。苦しんでひねり出しているわけでも無い。楽しんで描いているわけでも無い。自分の中の大切な物が、画面に現われるのを待っている。

 何故か画面があるときに、強く動く。そう思うのは何か自分の命に触れたのだと思う。それをもっと強く感じたいと思って絵を描き続けている。何故絵は動き出すのだろうか。動くはずがない絵が立ち上がるとか思うのだろうか。不思議なことだ。

 自分の妄想なのかも知れない。多分そうなのだろう。それでも確かめずには居られない気持ちでいる。自分の絵になる。自分が描いたと言える絵になる。今だってそうに違いないのだが、もっと親密なものが、現われると思っている。



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第198 水彩画 日曜展示

2024-02-11 04:52:04 | 水彩画
第198 水彩画 日曜展示





390「三津浜富士」
2024.2 8号








391「八ヶ岳」
2024.2 5号







392「石垣島北部」
2024.2







393「夜の木」
2024.2







394「伊豆」
2024.2 8号






395「花」
2024.2 8






396「つくも島」
2024.2 4号






397「やらぶ」
2024.2 6号


 充実した気持ちの一週間だった。田植えが終わり、稲が順調に生長していて、見ているだけで穏やかな満足感に包まれていた。作業があるの訳でもないのだが、すぐに田んぼが見に行きたくなった。上の方にアトリエカーを止めていたので、何度もしたまで行った。

 下の方に車を止めたかったのだが、下の方に車を止めると邪魔になるような気がして上に止めている。今日明日と連休だから、人が多いかもしれないので、上に止めた方が良いだろう。時々アトリエカーから出るくらいが丁度良いかも知れない。

 日々の一枚と思っているが、出来上がるものがだいたいそんなものと言うことで、一枚に集中して描いている日もあれば、あれこれ描く日もある。アトリエカーの中には20枚くらいの絵が乗っている。出来たかなと思うと家のアトリエに展示をする。それでいいかなと思って写真を撮る。

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第197 水彩画 日曜展示

2024-02-04 04:19:15 | 水彩画
第197 水彩画 日曜展示






390「熱海夜景」
2024.2 8号






391「三津富士」
2024.2 8号







392「のぼたん農園」
2024.2 3号








393「花」
2024.2 8号








394「鳥海山」
2024.2 8号






395「名蔵」
2024.2 5号






396「戸隠山」
2024.2 8号



 石垣の冬は晴れると、実に素敵な日になる。一番良い季節だといつも思う。旅行に来ていた頃はこの時期を狙っていた。しかし、本来この季節は雨が多い。所が今年は去年の半分しか雨がなかった。去年は一昨年の半分しか雨がなかった。何と今年は4分の1しか雨が降らなかったのだ。

 素敵な日が続くので、気分は爽快なのだが、また田んぼは水不足だ。田んぼを7つに減らせば、湧き水で足りるはずだったのだが、その湧き水も水量を減らしている。絵を描くには心地よいのだが、田んぼのことを考えると、雨が来て欲しい。

 絵は相変わらず、バラバラである。バラバラではあるが、何かこの先が少し見えてきたような気もしている。いつもそんな気分なのだが。普通に描いて、自分の絵になっていて欲しい。特別なものではなく、ありきたりで、自分が観ている世界が絵になればそれでいいと思って描いている。





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第196 水彩画 日曜展示

2024-01-28 04:12:17 | 水彩画
第196 水彩画 日曜展示

  小さな絵だけです。







379「西伊豆」
2024.1








380「三津富士」
2024.1







381「沼津富士」
2024.1








382「箱根富士」
2024,1








383「和歌山漁港」
2024.1





384「あかい花」
2024.1







385「箱根富士」
2024.1







386「あかい花」
2024.1






387「森の家」
2024.1





388「赤崎」
2024.1





389「二子島」
2024.1


 台湾の絵が描きたいと思って、苦労して画材は持って行ったのだが、描く時間がなかった。次に行くときにはぜひ描くつもりで、よくよく見てきた。4月ぐらいに行ければいいのだが。まだ予定がたたない。ともかく時間が足りない。絵を描く時間がもう少し欲しい。

 できる限り自由に描く。今はそれだけである。湧き出てくるものを出来るだけ無意識に受け止めている。見ているものをそのまま描きだすことが多いのだが、いつの間にか絵は違うものになっている。そんな風に何故なってしまうかはわからないが、出てくるものに任せている。

 このまま絵を描いて行き、何も結論が出ない可能性もあるが、それでも仕方がないと思っている。結果よりも、今の描くという行為の方を大切にしてゆくつもりだ。只管打画と言ってもそれほど一筋でもないわけだが、やれることをやるだけやる。眼になって絞り尽くす。どうもそれが印象派でもあったらしい。

 
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第195 水彩画 日曜展示

2024-01-21 05:08:46 | 水彩画
第195 水彩画 日曜展示

今回は最初の中判全紙の2点ばかり描いていた。






373「小山の田んぼ」
2024.1 中判全紙








374「のぼたん農園」
2024.1 中判全紙 








375「富士」
2024.1 6号








376「佐世保赤崎港」
2024.1 4号







377「入江」
2024.1 4号







378「国仲さんのカボチャ」
2024.1 3号




 何故か絵が進まず、眺めてばかりいた気がする。待っているだけで、絵のことをぼんやり眺めている。絵のことを考えないことにしているので、なにも出てこなければ、描き進めることはない。そんな一週間だった気がする。

 何かから自由になれそうな感じがしているのだが、それを抑えようとする自分が居るのかもしれない。カボチャの絵はのぼたん農園の地主さんの、国仲さんから頂いたカボチャ。随分立派なもので描きたくなった。

 入江の絵は石垣島の海。時々見下ろしてみている場所。その場所ではかけないので、思い浮かべて描いた。赤崎には以前時々行った。佐世保から平戸辺りが好きで良く絵を描きに行った。もう一度行ってみたいと思っている。

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第194 水彩画 日曜展示

2024-01-14 07:01:28 | 水彩画
第194 水彩画 日曜展示

写真機不良で掲載が遅れ、上手く撮れていません。





367「白いあぜ道」
2024.1 中判全紙








368「ブーゲンビリア」
2024.1 中判全紙





369「キビ」
2024.1 中判全紙








370「赤い花」
2024.1 8号







371「駒ヶ岳」
2024.1 8号







372「赤松」
2024.1 6号



  今週は田植えと稲刈りがあり、絵を描く時間は余り取れなかった。今日は稲刈りである。作業が楽しかったので、少しでも絵が描ければ満足である。何か変化できるきっかけはここにも在るかも知れないと思い描いている。

 描き始めるときも、描いている時も、絵についてはまったく考えないようになった。反射的に描いている。小脳的に描いている。大脳は動いていないと思う。絵を描いているが、絵を良くしようと思い描いている感じでもない。自然に現われる絵が自分かもしれない。

 自分が反応している世界がどんなものなのかを、稲刈りをしているときのままに今日も絵が描ければ良いと思い描いている。一休みしながら絵を描いている。目に映るものが現われてくることもあれば、昔見た絵画現われてくることもあるのだろう。もう少しこのまま描いてみる。
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第193 水彩画 日曜展示

2024-01-07 04:11:18 | 水彩画
第193 水彩画 日曜展示







359「崎枝から於茂登岳を望む」
2024.1 中盤全紙







360「ヤラブの木」
2024.1 中盤全紙







361「黄色い花と海」
2024.1 中盤全紙








362「紀伊半島の港」
2024.1 6号








363「赤い耕土」
2024.1 6号






364「石垣の夜明け」
2024.1 3号 和紙






365「茶富士」
2024.1 3号


 2024年の最初の日曜展示。新しい気持ちで描いている。描いている自分でもまだ途中のように見える絵もあるのだが、終わりまで描いたつもり。しかし、しばらく眺めていたら、また描きだすかもしれない。水彩は大体あまり描かないほうが美しい。怖いのはそれは絵の美しさではないところだ。

 費えの具と神の者としての美しさに惹かれてしまい、進め成るのは怖い。ダメになるほど描いた方がいいと考えてはいる。途中なのに描けなくなる絵もある。描けなくなって止まってしまうのだが、それは絵ができたというのか、分からなくなっただけなのか。そういうことはまだわからない。

 今回は止まってしまった絵が多いと思うのだが、並べてみてと思ったのだ。またしばらくして描き始めるかもしれない。そういうこともあってもいいと思っている。絵の描き方に決まりはない。何年前の絵であろうとも、描きたくなればまた描けばいいと思っている。
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第192 水彩画 日曜展示

2023-12-31 04:10:09 | 水彩画
 第192 水彩画 日曜展示







350「蔵王登山口」
2023.12 6号






351「クバ」
2023.12 6号







352「岩礁」
2023.12 6号








353「庭の眺め」
2023.12 8号







354「港」
2023.12 6号








355「灯台」
2023.12 ハガキサイズ







356「サクラ」
2023.12 3号







357「グスクの裏」
2023.12 6号






358「伊豆の港」
2023.12 6号


 今月は田植えの準備に熱中していた。時間的にはあまり絵を描いていなかった。空いた時間に、一休みしながら絵を描いた。短時間で絵を描くのも、おもしろいと思いながら描いていた。自分の中から出てくるものは、だんだんに出てくることも在れば、突然現われるものも在る。

 だいたい中判全紙でも2時間ぐらいで描く。と言っても、2時間で描いて終わりのこともたまにはあるが、その後すこしづつ気付いて直していると、何年も書いているというえも出てくる。一度終わりと思っても、何か気づくことがあって、また描き始める絵も多い。

 絵が出来上がると言うことは、あるのかないのか、そ言うことも別段決めないでも良いと思っている。絵の面しろい所は、すべては自分の自由な世界だからだ。何の基準もない。上手いとか下手とかもない。人とも較べない。そしてただ自分納得を探している。
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第191 水彩画 日曜展示

2023-12-24 04:21:11 | 水彩画
第191 水彩画 日曜展示








343「筑後川冬」
2023.12 6号







344「漁村」
2023.12 6号






 345「海」
2023.12 6号





346「開拓地」
2023.12 8号






347「鳥海山」
2023.12 2号






348「花畑」
2023.12 4号






349「赤い花」
2023.12 4号


 久留米で描いた絵が1値米だけ。大きなものは持てなかったので、6号になった。久留米城趾で雪が舞ってくる中で描いた。静かな景色だったが、良い空気が流れていた。もっと描きたかったのだが、外で描いていたので、一枚が限界だった。

 ほかの絵は小田原で描いたもので、「開拓地」の絵が戻って描いたものだ。少し慌ただしかったのだが、それでも何とか描けたのは良かった。色々な絵を描いているが、ここからそのうち何かが出てくるのではないかと思っている。

 年賀状の絵を平行して描いているので、その影響もあると思う。150枚描いた。130枚位を今宛名書をしている。残りが20枚はある。今からでも希望する人が居れば、送らせてもらいます。大判ハガキサイズです。年賀状が貰えれば返信でも出します。


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第190 水彩画 日曜展示

2023-12-17 04:10:25 | 水彩画
 第190 水彩画 日曜展示




336「麦畑のに続く放牧地」
2023.12 中判全紙。






337「代掻き」
2023.12 中判全紙







338「しろかき」
2023.12 中判全紙







339「光の畑」
2023.12







340「たいも」
2023.12 4号







341「はなさく」
2023.11 4号







342「富士」
2023.12 0号


 のぼたん農園はしろかき、畦塗りと取り組んでいる。正月の田植えに向けて準備が進んでいる。同時に正月頃に稲刈りにも成る。畑も今が一番賑やかで、ジャガイモ、とうもろこし、トマト、たまねぎ、麦と育っている。石垣島の一番良い季節だろう。

   絵も気持ちよく、天候に合わせて、充実して描くことが出来ている。畑の絵が現われる。田んぼや畑を描くのは難しい気がして、余り描くことが無かったのだが、今は別段上手く描こうとは思わないので、描けなくてもそのまま取り組んでいる。誰よりも畑の土のことを知っているつもりだ。
 
  しかし、絵は分かっていることよりも、分からないことの方がおもしろいのかもしれない。わかんないなあ、出来ないなあ、と言うようなものも絵だと思っている。こんなに良くできましたは、絵ではない。まだまだ、自分のだめなところまで現われない。と言うことは、良い所もまだまだだに違いない。




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第189 水彩画 日曜展示

2023-12-10 04:24:30 | 水彩画
第189 水彩画 日曜展示







329「麦畑」
2023.12 中判全紙







330「やらぶ岳」
2023.12 中判全紙








331「あぜ道を行く」
2023.12 中判全紙








332「海」
2023.12 大判ハガキ






333「川の公園」
2023.12 大判ハガキ





334「波」
2023.12 大判ハガキ







335「色と形」
2023.12 大判ハガキ


 今週も年賀はがきの絵を描いていた。それを含めてに展示する。年賀はがきを毎年手描きしているのは、何かそれで見つかりそうな気がしているからだ。小さい絵と言うこともあり、何でも自由に描ける。それでいてどなたかに送るのだから、デタラメと言うことでも無い。

 この間に描いている絵の方に何か良い影響を感じている。一歩進めるような感じがする。それで毎年200枚くらいの年賀状を描く。使えるものはいつも150枚くらいだ。今年もその調子で描いているのだが、どうも150枚も出すところはなくなったようだ。

 年賀状を止めたという人に出すわけにも行かないし。亡くなられた人も数人居る。喪中の人はかなりの数になった。自分よりも若い人が亡くなられる。何とも言えなく寂しい。いつも年賀切手を買うのだが、130枚くらいで良いかなと思っている。

 この年賀はがきを希望するという人が居たら、コメント欄で番号と住所書いてくれたら、送らせてもらいます。


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