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第188 水彩画 日曜展示

2023-12-03 04:04:23 | 水彩画
第188 水彩画 日曜展示






322「篠窪ミカン実る」
2023.11 中判全紙 








323「高きび実る」
2023.12 中判全紙








324「高きび実る」
2023.12 中判全紙








325「蘭」
2023.12 大判ハガキ








326「夜」
2023.12 大判ハガキ








326「のぼたん農園」
2023.12 大判ハガキ









327「人影」
2023.12 大判ハガキ








328「のぼたん農園」
2023.12 大判ハガキ


 今週は絵を描いたという意味では、週前半に描いた3点である。のぼたん農園では緑肥で撒いたソルゴーが実っている。ソルガムとも言う。これが何とも美しい。緑肥という意味ではソルゴーだが、高キビの一種と言っても良い。桃太郎のきびだんごである。

 風よけに蒔いたものが、なんとなく続いている。種を取ろうと実らせていたら、これが何とも美しいものになった。キビの穂の先に海がある。海を見ていると、キビの穂が風に吹かれて踊っている。いつの間にかこの絵が頭に残っていたのだろう。海の絵がキビの絵になった。

 あとは年賀状の絵を描いていた。何枚描けるか分からないが、150枚が目標である。年賀状だと自由に描けるので、何か新しい発見がある。ある意味絵としては描いていないのかも知れない。蘭の絵は昔よく描いた。のぼたん農園の木に着生させてある。

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第187 水彩画 日曜展示

2023-11-26 04:08:41 | 水彩画
第187 水彩画 日曜展示

 今小田原に来ているが、今回のものは石垣で描いたものです。






315「ゴムの木」
2023.11 中判全紙








316「風のソルゴー」
2023.11 中判全紙






317「赤花がさく」
2023.11 中判全紙








318「海越しの富士」
2023.11 和紙 15号







319「木」
2023.11 サムホール







320「草原の海」
2023.11






321「鳥海山」
2023.11 6号


 なぜか近景が現れてきた。あまり気付かなかったのだが、画面の下をどう描くか、あれこれやっている内に近景の何かが現れていた。それは一つの結果だから、それでいいと思っている。画面が自分らしくあれ。自分が納得いく空間であれ。そう考えているだけである。

 筆触も少し変わった。たぶん紙を変えたからだろう。紙が変わると筆触は変わる。最近いろいろの紙で描いて見ている。変えたいという気もいがあるのだが、ついつい慣れたファブリアーノの中判全紙で描くという事になりがちである。これは意識して変えてみる。

 そろそろ年賀状を準備している。時間をかけて少しづつ描いてみようと思っている。大判はがきサイズである。いろいろの紙でいろいろの絵を描いてみる。これが良い勉強になるのだ。いつも今年で最後かなと思うのだが、今年はまだ頑張れそうだ。





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創作に著作権は要らない

2023-11-25 04:06:27 | 水彩画

 創作に著作権は要らない。この美しい里山の景色を作り出したのは、ここでの人間の暮らしである。誰も入場料など取らない。素晴らしい暮らしがあり、素晴らしい景色が生まれ、それを味あわせてもらう。この素晴らしい景色を見せてもらうという喜びに勝るものはない。

 見るという事も創作である。創作すること自体が人間の喜びである。そのことを純粋に深めるだけでいい。創作から産まれたものはすべての人間に共通の価値である。創作者が権利を主張する必要はない。資本主義が限界に来たのは、創作に対する能力主義の問題なのだ。

 2019年、京都アニメーションが自分の作品を盗用したとして、勝手な思い込みで恨みを膨らませた。そして恨みを晴らすのだと、全くの筋違いの狂気で、放火をして社員36人が死亡、32人が重軽傷を負った 事件を起こしてしまった。被告の精神鑑定を行った医師が「被告は重度の妄想性障害で妄想は犯行の動機を形成している」とする鑑定結果を明らかにした。 

  若い優秀なアニメクリエーターの方が、これほど多く亡くなられた。日本のアニメ―ションは世界をリードしている。世田谷学園の美術部からもアニメーターになった人がいる。前途有望な青年たちが、ここで終わりになることに、どれほど無念だったのかと思う。思い出す都度鎮魂の思いは深い。

 逆恨みが狂気を育てたとしか思えない、ひどい犯罪である。まともな精神状況ではなかったのだろう。しかし、この事件と同じような盗用に対する抗議が、様々な制作会社に続いているという。小説であれ、音楽であれ、絵画であれ、デザインであれ、学問であれ、盗作の境目が難しい状況になっている。

 アイデアなどすべてが大きな違いはない。人間が考える範囲では、アイデアは出尽くしている。今や推理小説のトリックを、生成AIが考え出す時代だ。ジャイアント馬場さんが、水戸黄門のストーリーは5パターンで出来ている。これをプロレスに生かしていると、ネタバレをしたことがあった。

 京アニ事件での犯人が盗用と考えるようになったきっかけは、京アニが公募したコンクールへ出品した作品のことらしい。簡単な筋書きのような原稿を、たった一枚の紙に書いて応募したらしいのだ。これで盗用されたとしゅちょうするのは、作品の作られる過程というようなものをまるで理解していないからだろう。ラフな筋書きなどに盗用などあり得ない。

 しかし、アニメオタクのような人物が、引きこもりになりのめり込んで妄想の中で暮していて、被害妄想に陥ることはありそうなことだ。放火はしないまでも、とんでもないことを考え出す人が跡を絶たないらしい。自分が描いたイラストが盗用されたというような主張は跡を絶たないという。

 イラストなど人間を描いたのであれば大なり小なり似ている。それを盗用だと思い込んでしまう。目が二つあるでは無いかと言うことになれば切りが無い。しかし妄想を起す人にはそんな理屈は通らない。この妄想をどうすれば良いのかと言っても、どうにもならないだろう。

 そもそも、著作権という考え方をすべて捨てるべきなのだ。個人の発想に価値を付ける考え方は終わった方がいい。時代の状況に合わないのだ。良く分からないのだが、絵を描くのもAIの時代に入った。薔薇などどう描いたところで著作権などあり得ないだろう。私が描いた薔薇をまねられたなどと言ったところで相手にもされない。

 昔東郷青児が自分の絵の図柄に特許を付けたというような、本当かウソかわからないような話があった。つまり特許をとっておかなければすぐにも、真似られてしまうイラスト的な絵という事を言っていたのだろう。確か娘さんが、同じような絵を描いていた。

 絵画とは言えない形で一世を風靡したことはあったが、今では完全に廃れた。本物の絵画ではないから、作品の命は短かった。別段イラストレーターという事でも良かったのだろうが、それでは一枚の絵が一千万円なんて言うか価格では売れなかったという事になる。

 AIが作り出す画像は著作権がまだ整理されていない。デザイナーがタイポグラフィーとして文字を作るなどという作業は、もうAIの世界だろう。一文字一文字手描きして文字を作るというような気の遠くなるような作業が、数時間で出来てしまうのだろう。

 読みやすい丸文字で、手書き風。とか言えばなんとなくそんな文字を作りそうだ。例えば私が書いた手書きの文字をAIに入力すれば、笹村文字が出現するはずだ。もうこういう時代の中で、著作権などと言っているのは、ばかばかしくないのだろうか。

 たぶんそういう事で生計を立てている人がいるから、著作権を主張したくなるのだろう。しかし、もう機械任せにした方が安上がりな分野は日に日に広がっている。人間がやるべき仕事が変わって行こうとしているのだ。藤井将棋ではないが、人間の能力をコンピュターは超えたのだ。越えられても将棋は終わりではなかったのだ。

 こういう中で人間の意味ある行為とは何か。それを考えるべきだ。私は行為するそのことにあると思っている。結果に人間の価値を見るのではなく、行為にどれだけ充実したものを残せるか。藤井将棋は見る将棋というものを作った。今や見る将棋ファーンが沢山いる。

 人間が生きてゆくこと自体は、体力でも創作でも楽になるはずだ。農業でもあらかたの作業は機械がやれるようになる。しかし、実際の耕作の在り方を決めるのは人間である。人間がどうやれるかがこれからの生きるということになる。

 自分らしくあるだけでいい。自分の日々を充実できればいい。農産物は販売していい。創作物は販売してはならない。創作物を商品と考えれば、創作が創作ではなくなる。禅坊主が座禅を見世物にしてお布施を貰うようなことになる。

 芸術活動は創造するという事自体を純粋化すればいいだけなのだ。それが一日一日を生きるという充実になる。これが私絵画である。芸術は商品から離れなければならない。そうしなければ、資本主義末期の投資対象になり、人間の為の芸術から離れるばかりである。

 農業でも生成AIにかかわるとすれば、ひこばえ農法の10通りの方法を教えてください。と頼めば、いくらかでも役立つ方法が示されるかもしれない。そしてそれを実践して見る。この実践が人間のやるべき仕事ではないか。充実して農作業に生きるという事が、生きることの目的になればそれでいい。

 権利を主張して、その権利でお金を産もうという事が、能力主義の悪いところなのだ。能力主義が限界に達している。競争に敗れるものが人間の大半なのだ。そして敗者が今後も増加してゆくだろう。これが格差になる。それは国単位の争いにもなっている。

 現状ではそれを克服できるものであるはずの共産主義国の方が、能力主義の無残をさらしている。人間が能力主義を超えることのできる生きものであるのかどうかは分からないが、どこかで方向を変えなければ、人間が終わりになることだけは確かだ。

 
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横尾忠則の「寒山拾得展」の不可思議

2023-11-22 03:41:15 | 水彩画


 先日、NHKネットに出ていた横尾忠則氏のインタビュー記事を読んだ。この人の絵の描き方は、良くよく私に似ていた。世間から見れば、私の絵の描き方が横尾氏に似ていたわけだ。つまり横尾氏も「私絵画」なのだ。多分今の時代に自分に向かって正直に絵を描くと、私絵画になりがちだと再確認した。

 ポーランドの田舎町で横尾忠則展を見つけて驚いて見たことがある。40年前のことだろう。まだポーランドが共産圏と言われた時代だ。その街で多分クラクフ近郊だったと思うのだが、日本人の絵画の展覧会が開かれたのは空前絶後のことではなかっただろうか。それくらい、「世界の横尾忠則」だった人なのだ。あのときの横尾氏はまだ45歳。

 その後横尾氏はイラストを止めて、絵描きになると、絵画を描き始めた。それまでのイラストと較べて、意味不明な絵になった。描きたいものを描いた結果意味不明になるのは、自分に入り込もうとしているからだと思えた。この後どうなるのだろうかと強い興味を持った。

 情報でつくるイラストを描くことには、天才だったと思う。そんな人でも自分とは何かは難しかったのだ。人目を捨てた途端に、人間は位置をとらえるジャイロを失う。そこから自分とは何かが始まるのではないか。結果として自分に至れる人と、見失ってしまう人がいる。

 自分に至るためには正しい方角を見定める必要がある。人間界をはなれて、自分のは中に入り込むことで、下手をすると世間を失って、独善に至るだけの人がいる。こうなるとつまらないことになる。私絵画で良いのだが、世界観という大きな価値観を失ってはならない。

 87歳になった横尾忠則氏はそのまま何とも言えない絵を描き続けている。今東京都博物館で横尾忠則展が開催されているらしい。「横尾忠則 寒山百得」展である。見ないでも分かっているので行かないが、私絵画がどういうものかは分かると思う。良い絵を描こうと言うことでは無いことだけはよく分かる。ある種のだらしがない絵になっている。

 横尾氏は若い頃にやっていたイラストレーターの仕事は、多分忘れたい仕事なのだ。世界を驚かせたあのイラストの世界を、「あれは、アイデアであり、自分の中から出てきた世界ではない」と思い、本当の自分に至ろうと考えたのだ。そうしたら、寒山拾得になったのではないだろうか。

 本当の自分など居ないというのが、あの横尾忠則のイラスト画ではないか。インチキをインチキと表現できたのだ。それが絵の面白さだ。だめなことをだめと表現できれば良いし、良いものを良いものと表現する価値と、何も変らないのが絵の世界だ。

 横尾忠則氏は勲章をもらった。国の評価した人はこの寒山拾得を素晴らしいと考えて勲章を与えたのだろうか。過去の栄光を評価したのだろうか。過去の栄光から抜け出て、こういうとんでもない絵画を描いたことを評価した勲章なのか。もしそうだとすれば、すごいことだと思うが。それは権威というものにはできないはずのことだ。

 何とも私には分からないことである。人間が生きると言うことは、やっかいなことである。100年後横尾忠則氏はどのように見られるのであろうか。まあそういうこともどうでも良いと考えているに違いない。一体誰が描いたんだろうというような絵を描きたいという、私絵画なのだから。

 私絵画で気を付けなければいけないことは、藝術の社会性と価値である。私絵画といえども、社会への表現でなければならない。それは人間だからである。私さえ良ければと言うのが、私絵画ではない。自分よりも回りのことである。ここが藝術の大切なところだ。周りのために自分に入るのだ。

 人間のための科学、人間のための学問、人間のための藝術である。これを忘れてしまえば、私絵画は藝術ではなくなる。私絵画は自分というものを探求すると言うことを目的として、絵画を描いて行く。自分の修行として絵を描く。その先には藝術による人間の救済がある。

 横尾忠則氏はアホになる修行と言われる。一体この絵は誰が描いたのだろうと、自分自身にもわからなくなるという事を言っている。まあアホの言う気ままな気分的な事だから、真に受けてはならない。修行を持ち出すところがそもそもアホポッくない。

 誰でもがそうしたアホに至れるわけではない。しかし、そういう方角を目指して、日々生きて行きたい。そういう修業努力を続けることは出来るはずだ。私で言えば日々の一枚である。そしてその方角を確認することではないか。横尾忠則氏の絵画が、そのアホの方角を進んでいるのかどうかだけが問題なのだろう。

 先日、Ksギャラリーで水彩人に関わる3人展をみた。よくできてはいるのだが、迫ってくる一人一人の世界観がない。絵が器用に作られている。水彩の怖いのはその水彩の持ち味で、そこそこの感じが出てしまい、絵のごとく見えてしまうことにある。アホからは程遠いことになる。これが描いている人、自身の眼を誤らせる。

 そこそこのいい感じは怖い。絵はだめでもその人のだめであれば、それがいい。横尾忠則の絵はそうした絵だと思う。あれでだらしないところがなくなればいいのだがと思う。だらしないのは性格なのだろう。私のだめはそういう意味では、「もっともらしい」ところかもしれない。

 高橋千賀子さん、山下美保子さん、米倉三貴さんである。Ksギャラリーでは抽象画の展覧会が開かれている。これは今時では珍しいかもしれない。このぎゃらりーの傾向のようなものがある。これは立派なことなのだと思う。20年ぐらい同じであったら、世間の方が変化している。

 世間の方が堕落したのだ。もう見渡せば商品絵画ばかりである。買ってください買ってくださいと、絵がよだれを垂らしている。売れそうなものに世の中は動いてゆく。時代が腐り始めているから、即物的なものしか受け入れられなくなっている。だから絵がいよいよ物欲しげになる。

 このてんが、横尾忠則氏は違う。もちろん自分の美術館もあるわけだし、今更絵を売らなければならないなどということももちろんないのだろう。この先に描かれる絵をまだ期待している。90歳を越えて修行が成就して、アホになれば、まだ大化けする可能性がある。私絵画の追随者として、そうなることを願っている。
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第186 水彩画 日曜展示

2023-11-19 04:23:23 | 水彩画
 第186 水彩画 日曜展示







307「犬吠埼灯台」
2023.11 10号







308「英太郎さんの田んぼ」
2023.11 10号








309「耕された土」
2023.11 15号 MBM紙









310「麦畑の準備」
2023.11  15号 MBM








311「きびの畑」
2023.11 15号 MBM








312「二本の木」
2023.11 15号 MBM





313「海」
2023.11 10号





314「別天地入り口」
2023.11 10号


 静かに描いていた一週間である。MBMの木炭紙で描いてみた。この紙は割合発色がいい。安定性があるのか、後で変色するのかは分からないが、しばらく続けて描いてみた。この紙で発色させるのは、塗り重ねが必要だ。色が洗われるまで時間がかかる。

 その待ち時間がおもしろい。だんだんに自分の絵が現われてくる。手順を考えることはしないので、あれこれ試行錯誤している内に、出てくるものがある。不思議に同じような色調になるのも不思議だ。ただ、こうだろうこうだろうと進めて行く内に自分の収まりの良い所で終わる。

 収まるところと言うのが、どこにあるのかは分からない。それが自分なのかどうかも分からないのだが、ともかくやれることは、絵を描き進めることだけだ。その結果が並べた絵である。もう少しMBMで描いてみて、その後和紙で描いてみようかと思っている。

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絵がわからない、と言う人が多い。

2023-11-16 04:28:42 | 水彩画


 どうも絵が分からない。こういう言葉をよく聞く。私の絵を見てそういう発言があるときは、碌でもない絵だからで、よくないと園力無く行ってもらえば良い。人に分かるようにまともな絵を欲しい。と言うことだと聞いている。今努力しているので、もうしばらく待って欲しいと答える他ない。

 しかし、絵を分かりたいというのは、どういう気持ちなのだろうか。モーツアルトを聴いて、分かる人はいるのだろうか。なんか好きだなー。これはいい。感銘を受ける。心に染みてくる。辛いときに聞く救済になる。音楽は分かるようなものではない。

 私にはモーツアルトは救済である。モーツアルトが分かる人というのがいるとすれば、どのようにわかるのだろうか。音楽の良さは感じたままであり、理解して、分かるようなものではない。音楽はすべて具体的な意味など無い。抽象的なものだ。そのまま感じているだけのものだ。

 絵を分かるというのはどういうことだろうか。私の絵見て感じるものがない。これは別にして、どんな絵あっても分かろうとするようなものではないのだ。見て救済される人がいれば、それはすごいことなのだ。私は中川一政氏の絵を見ると、思わず手を合せたくなる。

 わたしの絵の場合は、描いている私が絵とは何か、まだよく分からないのに、見る人が分かるはずがないだろうと思う。ただわたしの目指しているところの方角に共感できる人はいるかもしれない。絵の方角である。よい世界を探っている。そ言う姿勢だけは伝わるかも知れないと思っている。

 それは思想哲学である。共産主義を望ましいと考えている。資本主義を素晴らしいと考えている人には、分りやすく言えば能力主義を正しいと考える人には、私の絵は受け入れられないでも仕方がない。むしろ、能力主義は克服されなくてはならないという絵だと考えている。これはより分かりにくい説明かも知れない。

 絵を見るとき好き嫌いでみる。その好き嫌いの感じ方は、その人の人間なのだ。思想とか傾向とかいってもいいだろう。思いきって言ってしまえば、思想が無い人には、絵というものは分からないとも言える。結局の所絵は好きか嫌いかは大切な入り口なのだ。

 好きだと思ったら、何故この絵が好きなんだろうか。と思うところから絵が存在する重要性が、だんだんに分かってくる。私はマチスもボナールも好きなのだが、最初はボナールが好きだと言うところから始まった。中学生の頃、ボナール展を見て圧倒されてしまったのだ。

 ボナールの絵に中学生の感性が、何と美しい色の調子を描けるのかとはまり込んでしまった。色彩の魅力である。こんなに美しい色使いは見たことがないと思った。もちろん何がどのように良いというような理解など無い。絵が分かったとも思わない。ただこんな色で絵を描いてみたいと考えた。

 その色彩は作られた色彩だった。庭のまばゆい光をとらえているのであるが、描写しているものではない。ボナールという人間が見た色彩の美しさに還元されているものだ。このボナールの色感に魅了されたのだ。モネと似て非なるものがあると思った。

 それまでモネも好きだったのだが、人間ボナールからにじみ出てきたような色使いに陶酔してしまった。その色彩の世界には60年経過した今でも、魅了され続けている。ボナールは日本の浮世絵に魅了されて、あの色彩の世界を展開した。日本人の私がはまった理由も、そこにあるかも知れない。

 江戸時代の絵画は19世紀のヨーロッパに大きな影響を与えた。日本は江戸時代を軽んじて、克服すべき社会と考えていた時代である。明治政府の幼稚な脱亜入欧思想である。その日本文化をないがしろにした帝国主義と言う野蛮な政治思想は今も継続されている。

 江戸時代の文化レベルの高さは、世界史的に見ても別格と言える。浮世絵は庶民が買って見て楽しむものだったのだ。絵を庶民が買うというような文化は歴史上初めてのことだっただろう。その庶民の鑑賞眼が、実はボナールを感動させた高度な美意識を生み出したのだ。

 ヨーロッパでの浮世絵の登場は、陶器の包み紙からだ。日本では価値がないと考えて、包装紙にした。緩衝材にした浮世絵が、陶器以上にヨーロッパに影響を与えたのだ。今の私には浮世絵を見て、ボナールほど感銘を受ける感性がない。その時代時代の感覚のぶつかり合いがあるのだろう。

 ボナールに浮世絵の色感を分解してもらい、なるほど美しいと感じているのだ。その時に日本人の私はこの原点が、浮世絵にあるなどとは少しも思わなかったし、今でもそうは感じない。まばゆい南欧の光の庭が現われる。今度は私が、石垣の強烈な光の、農地を描いてみたい。

 絵を分かると言うことをあえて言葉にすれば、方角に共鳴すると言うことだ。浮世絵には共鳴できないが、成るほどとは思う。参考には成るだろう。しかし、そういう見方はしても仕方がない。人の絵を参考にはしたくもないから、参考にしたら自分の絵ではなくなる。だから浮世絵を見たいとは思わない。

 ボナールの絵はいつでも見たい。魂が浄化される。私の曇った感性が、一瞬霧が晴れる。絵の意識が洗われる。それが絵が分かると言うことだろうと思う。しかし、それは脳が理解するとは別のことである。

 最近マチス展を見て、マチスは分かったという絵だ思った。マチスは理屈で分析が出来る。マチスは確かに知性的に絵を追求している。だから知性的に見ることが可能だ。私の場合、ボナールからマチスに入り、またマチスからボナールに到達できたという気がする。

 実は絵が分かるにも段階がある。中学生の時のボナールの感激と今ボナールを見ての感動とは少し違う。中学生の時のボナールは夢のような憧れだった。あれから、絵を描き続けてきて、ボナールの色彩の魔術の種が見えてきたわけだ。何故色彩が美しいのかが、知性的にも理解が出来る。

 当時、ボナールの色彩はガランスのような透明色を、不透明色にわずかに混ぜている。その微妙なニュアンスの作り方が絶妙なのだ、と言う文章を読んで、真似をしてみた。ところがまったくボナールの美しさには近づくことすら出来なかった。

 不器用と言うこともあったのだろう。ボナール風の絵を描くと言うことも結局無かった。自分がその場で見えたように風景を描き、見えたように静物を描いていた。それ以外に思いつくこともなく、ただ絵を描いていれば満足だった。それは大学の美術部でも同じだった。

 結局今でも絵を又描きたいと言うだけなのだ。人の絵から学ぶと言うことと、自分が絵を描くと言うことは回路が違う。中川一政氏から学んでいるのは絵を描く姿勢である。中川一政風の絵を描きたいなどとは思わない。絵を描くという行為に深く、踏み込んでいきたいだけだ。私は絵をそういう物だと、理解している。

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第185 水彩画 日曜展示

2023-11-12 04:26:27 | 水彩画
第185 水彩画 日曜展示







300「北部の山」
2023.11 中判全紙








301「赤い実」
2023.11 中判全紙






302「篠窪秋」
2023.11 中判全紙






303「虹」
2023.11 10号









304「戸隠山」
2023.11 10号







305「紀伊半島の港」
2023.11 10号 ワットマン








306「月の雫」
2023.11 10号 ワットマン

 
 静かに絵を描いている。何も考えないで絵を描いている。こうしてみると様々である。しばらくこのまま続けてみるつもりだ。最近豚毛の丸筆を使ってみたら、描きやすいので驚いた。しばらく使っていたが、描きやすいのもどんなものだろうか。

 思いどうおりに描けると言うのも、残念なのだ。上手く行かないことばかりだが、たまたま自分の中の深いところを引き出してくれるような筆を願っている。思いもかけなかった世界を開いてくれるような筆を願っている。たぶんそういうことが東洋の絵の描き方にはあるのかも知れない。

 自分の意図通りに描ける筆が西洋の筆だ。作業をしているわけでは無い。絵を描くことをタオとして精神の修行をしているとしたら、思い通りも問題なのだ。扱いきれないことを、何とかしようとすると言うことにも意味がある。あれこれ思いながら絵を描いている。


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画筆について

2023-11-06 04:29:13 | 水彩画



 絵を描く画筆は何百本も持っている。いつも様々な筆を使うようにしている。あまり同じ筆で描くと言うことは、意識してしないようにしている。絵を描くときには10本ぐらいの筆は並べておいて使う。絵が同じでありたくないと言うことがある。現状を乗り越えるためには、筆でもいろいろやってみたい。

 絵にとって筆は大きな影響がある。絵にとって筆触は語り口のようなものだ。筆触を作るのは筆次第だ。おもしろい内容の話も語り方で変る。落語など同じ話を語り口で味わうものだ。絵では薔薇の絵や富士山の絵は無数にあるだろうが、描き方、語り口が絵の根本に繋がる要素になる。

 東洋の絵画の多くは丸筆で描かれている。西欧の絵画の多くは刷毛でというか、平筆で描かれている。平筆と丸筆の違いは文化の違いというような重要な意味がある。平筆では字は書けない。書けばくせ字になる。東洋の絵画の目的は字を書くことと、絵を描くこに変わりがないことなのだ。

 いわば西欧の絵画は科学的な学問のような探求のされ方をする。西洋は絵画に於いても科学的真理が追究される。人間の主観性よりも、科学的な客観性が重要なのだ。東洋の絵画は精神的な世界観が重要になる。東洋は人間が在りようが問われる。

 書道は書かれた字から、書いた人の人格を味わう。なるほど弘法大師空海かと字から思想哲学まで考える。だから個性が欠落した、代書屋さんの文字は書ではない。現状の書道は人間修行の方があまり問題にならないようだ。上手に書けば良いらしい。

 絵でも人間が求められるから、刷毛ではなく、丸い筆で描くことが必要だった。もちろん、全体で言えばである。刷毛で書いたから悪いという意味ではない。私の水彩画は丸筆で描く。たぶん水彩画の人は丸筆が多いのではないか。ここに私が水彩画に変り、油彩画を描かなくなった理由があった。

 油彩画の時は平筆だけを使っていた。丸筆は使いにくくてどうしようもなかった。それが、水彩画を描くようになり、いつの間にか変っている。今では平筆は実に使いにくくなっている。最初に丸筆を使ったときには戸惑いがあったのだが、水彩画を描くと平筆では描きにくくて、いつの間にか変った。

 筆の毛の質も、堅い豚毛のものから、柔らかい羊毛やミンクの毛に変った。最近豚毛の油彩画用の丸筆をかなり使う。ラファエロの大きな丸筆が出てきたのだ。何かの折に買って結局使い切れなかったものだろう。東洋の堅い馬毛とも違う描き味がある。

 豚毛の丸筆というのは、どこか盲点を突いたような筆だ。しかも短穂である。案外に仕えるというので、探したら五本ほど出てきたので、使い出した。含みはよくないのだが、描き味は悪くない。筆はなれるまで、つまり小脳化するまでは使えない。それまではだめだと思いながら使う。 

  油彩画の筆は思い通りにかけるように出来ている。ところが、日本の筆は思い通りには行かないように出来ている。筆に託して、偶発性が生まれるように出来ている。使いにくい筆を使うことで、偶然呼び起こされるものがないか探している。いつも自分というものを越えようというのが日本の筆だ。

 油彩画から、水彩画に変ったときに、平筆から丸筆に変ったことにかなり戸惑ったはずだ。今では何がやりにくかったのかは分からないが、丸筆の方が使いずらい気がする。丸筆を自由に使うためには、日常的に文章を書いて慣れる、小脳化する必要がある。

 丸筆の筆触というものに、その後とりつかれてしまった。不忍池のそばにあった宮内不朽堂の、白雲という隈取り筆にはまった。この筆に出会ったことで水彩画の魅力にはまったのだと思う。短穂の隈取りの極太の羊毛筆である。あれから40年経つが、これ以上の筆に出会ったことがない。

 無理をしないでも、ただそのままで気持ちの良い筆触が引き出せた。自分のその時々の気持ちを筆跡が反映してくれるようになったのだ。それから不朽堂の筆ばかり使うようになった。自分の絵を描いているという気持ちになり、油彩画を決定的に止めることになる。

 水彩画だけを描くようになったのは、白雲筆の御陰だった。最後に作っていただいた10本の白雲はまだ使っているが、かなりへたってきている。筆は証文品だからしょうが無いと、宮内さんは最後に言われていた。それでも水彩の人はまだ良い。日本画の人だと一年でダメにすると嘆かれていた。

 その後中国に行き、沢山の筆を購入してきた。その筆を実験的に使ってみる内に、様々な筆があり、筆によって絵が変ると言うことを体験することになった。中国の筆の多様性には驚かされた。あらゆる動物の毛が筆になっていた。その中にはミンクの筆もあった。コリンスキーである。中国では狼毫毛という。

 ヨーロッパの水彩筆はコリンスキーである。やはり水彩画でも平筆があるが、日本では丸筆が中心である。油彩画の塗るという感覚では無く、描くという感覚が水彩画なのだろう。ヨーロッパでも水彩画では人間的な筆跡が残るものが現われる。東洋の影響と言うこともあるかも知れない。

 敦煌の壁画をみると、刷毛で描いていると思われる筆触である。敦煌辺りが、東西の境目で、それより東では丸筆の文化である。それは文字を筆で描くという文化と結びついている。江戸時代の人は鉛筆やボールペンが無いから、文字を書くと言えば、筆である。もちろん刷毛ではなく丸筆である。

 この時代の人の絵を見ると、実に筆が生きている。鳥羽僧正の鳥獣戯画の線描のすごみは傑出している。その後の明治期以降の日本画の人の絵であっても刷毛で描いたたように見えるものが出てくる。日常生活に筆で文字を書くと言うことが、無くなってしまった。

 最近は何かを書くと言えば、パソコンである。もう鉛筆もボールペンも役所の書類の外ない。書く文化というものが失われ、筆が生活から離れる。しかし絵を描く私は特殊で四六時中筆で、絵を描いている。毎日毎日何十年も書いていて、最近やっと筆が描くことが自由になってきた。江戸時代の人が文字を書くというような感覚が分かるようになった。

 そうなると、様々な筆がある事の意味が分かるようになった。穂先が柔らかく長い筆がある。水墨画の人が使う筆らしい。「細嫩光鋒」、「細微光鋒」 と言うような羊毛筆である。細光峰とは、羊毛の中でもヤギの首の下まわりの弾力があり、細い毛 。極めて使いにくい筆であるのだが、これが何とも表現の幅がある筆なのだ。

 柔軟で弾力があり、絵の具の含みがよい。豹狼毫筆、コリンスキーと違う意味でやはり頂点の筆だ。最近細光峰を使って見ている。慣れるには数年はかかるのだろうが、この筆にあまり慣れないという良さがある。何でも行きすぎはよくないのだ。九谷焼の北出先生が曲ろくろというものがあるが、あれでは芸術にはならないと言われていた。

 馴れる慣れるということ。絵を描くということは、初めての挑戦なのだから、慣れていてはだめだ。下手で良いのだ。そう思い、羊毛筆の径が25ミリミリ10センチ以上の穂先の筆で描いてみている。まるで歯が立たないが、それでも、小脳化の訓練だと思い使っている。

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第184 水彩画 日曜展示

2023-11-05 04:10:42 | 水彩画
第184 水彩画 日曜展示

小田原で描いた絵です。





290「伊豆下田」
2023.10 10号








291「田子港」
2023.10








292「佐渡両津港」
2023.10 20号







293「青梅の川の公園」
2023.10 10号







294「房総の半島」
2023.10 10号





295「飯盛山」
2023.10 10号







296「シーラ原」
2023.10 10号







297「黒姫高原」
2023.10 10号







298「妙高山紅葉」
2023.10 10号







299「紀伊半島」
2023.10 10号


  小田原に月に一回一週間ほど行く。必ず絵を描くようにしている。小田原に行くのがとても楽しみだ。小田原の仲間に会える。田んぼや畑や溜め池を、見せてもらうだけでも嬉しくなる。みんな素晴らしい自給農業を続けている。大いに励みになる。

 今年はついに一反700キロ収穫した田んぼが生まれた。有機農業でこれだけの収穫をしているところは少ないと思う。有機農業の優秀さを表していると思う。ここまで来るのにはそれなりの時間がかかった。ひたすら地道に続けることの大切さを感じる。

 その時々に何かやらせてもらえる農作業があれば、精一杯やらせてもらう。そして時間が空いたときに絵を描く。小田原の空気は又違う。この違う場所で描くと言うことがよい刺激になっている。箱根や山梨まで描きに行く。それがまた石垣島に戻って絵を描く何かになるような気がしている。

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第183 水彩画 日曜展示

2023-10-29 04:07:02 | 水彩画
第183 水彩画 日曜展示

小田原で描いた絵です。





282「名蔵アンパル」
2023.10 中判全紙







283「北八ヶ岳」
2023.10(昔描いた絵) MBM紙








284「真鶴港」
2023.10 10号






285「大正池」
2023.10 10号






286「桂林公園」
2023.10(1992.6 に途中まで描いた絵) 10号





287「加部島」
2023.10 10号








288「蓼科山秋」
2023.10 10号






289「飯盛山秋」
2023.10 10号








290「三津浜」
2023.10 10号


 一ヶ月前に描いてあり、小田原に置いてあった絵が混ざっています。だんだんに小田原から水彩画は移動させている。額装してある物は30点ぐらい残っているが、それ以外はほとんどが石垣に持ってきた。ほとんどの絵に手を入れている。見ると何かしら描きたくなる。

 絵は終わりはない。終わりはないからつい続きを考えてしまう。続きを描くと言うことは、壊すと言うことになる。壊してそのままダメになる絵の方が多い。修整するような気持ちでは続けて描くことはしない。それでは絵を描くことにならないからだ。

 絵は自分への挑戦でもある。何とか体裁の良い絵に仕上げようなどと言う気持ちが、少しでもあれば、絵を描くことなど止めた方が良いと思っている。未だかつて無い自分に向かって描くという気持ちにならなければ無意味なことだ。ダメでもいいじゃんと言うことで続きを描く。

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将棋竜王戦の第二局の藤井竜王のすごさ

2023-10-25 04:39:52 | 水彩画


 藤井竜王の強さを改めて見せてもらった、竜王戦第二局であった。この将棋ではAIを超えている指し手が、何度か現われた。しかも、終盤の勝負の大切な場面で、AIは角の王手を歩合いか、角合いが良いとしていた。ところが藤井8冠ここで王を角道から引いて、危険な場所に玉を移動させた。

 まさかの手段である。たぶんプロの棋士も全員が失着、とみたのではないだろうか。AIもそうだが、私レベルでもいかにも歩合いの受けが完璧に見えたのだ。ところが歩合いこそ失着になりかねなかった。そのことは当日の段階ではまだ誰も、もちろんAIも気付かないほど難解な手段だった。

 ところが、時間をかけて調べてみると、この歩合いがあまり良くないという判断が出てきた。しかも、王を角道を外して引く手だけが勝つ手段だったのだ。こういうことが、様々時間をかけて、様々なソフトが調べ上げてくれるのだ。そしてその調べの結果が続々とユーチューブに挙げられる。

 その結果、藤井竜王の失着に見えた手が最善手だったのだ。AIが何時間かけても発見できなかった手を藤井竜王は30分ぐらいで見付けたのだ。何故ここでそんなに考えるのかすら私には不思議な場面だったのだ。そしてその後は簡単に勝ちきった。

 それで分かったことは、挑戦者の伊藤6段の強さも並ではないと言うことだった。強い相手と戦うことでさらに強くなるのが藤井8冠だ。伊藤6段の角捨で玉を下げてもう一度角打ちという手は実は素晴らしい攻めだったのだ。普通ならこの反撃で逆転しただろう。

 いつか藤井8冠がタイトルを奪われるとすれば、この伊藤6段なのかも知れない。伊藤6段は素晴らしい手と失着が出る。手段を発見する能力は抜群なのだが、失着も出やすい棋士かも知れない。将棋には勝因はなく、敗着のゲームだから、伊藤6段は現状では勝負弱いかも知れない。

 もし、伊藤6段が失着が出ないようになれば、藤井8冠を破りタイトルを取ることも可能な才能だ。確かに永瀬王座も唖然とするような失着で王座線を敗れたのだが、永瀬王座の失着はありがちなうっかり系の失着である。疲労の蓄積と1分将棋の罠である。

 ところが伊藤6段の失着は見落としではないようだ。あまりに高度な戦いの中、AIすら気付かないような攻め筋なのだから、見落としとはとうてい言えない。1分将棋の中では読み切れなかったと言うことだろう。この勝負の場面で一時間以上時間を残していた藤井8冠と、1分将棋になっていた伊藤6段の状況の違いが勝負を分けたのだ。

 永瀬王座との厳しい王座戦の中で、永瀬王座は稔密な研究の結果をぶつけてきた。永瀬王座は全精力をこの藤井8冠との王座戦にかけていたような、研究の蓄積をぶつける将棋だった。どの将棋もこの永瀬研究が功を奏して、有利な場面で種判に持ち込んだ。しかも時間は永瀬王座は使わない。

 しかし、それでも最終版の数手で永瀬は長考を続けて、一分将棋に入る。それがやはり失着を呼ぶ原因になる。長考で疲労が溜まったのだ。そしてうっかりが出てしまった。研究では永瀬王座が勝ったのは当然で、この間藤井8冠はあらゆるタイトル戦を戦い続けていて、永瀬王座だけを研究するわけには行かなかったのだ。

 ただこれはからは、藤井8冠は8冠のタイトル戦と、4つのトーナメント戦だけになるので、挑戦者を見据えて研究をしてくるはずだ。しかも伊藤6段との竜王戦に見るように、永瀬戦を経て、さらに読みが深くなり、AI超えが普通になってきたようだ。

 これには藤井の使うパソコンのCPU が桁外れと言うことがあるような気がする。世界的半導体企業「AMD」の日本法人「日本AMD」が1、藤井が将棋研究のための自作パソコンで使用している同社CPU(中央演算処理装置)の最新型が完成次第に提供し、さらなる進化に協力することを明言した。 

 すでに藤井のパソコンは桁外れの演算能力なのだ。だから今の今も、すごい速度で藤井8冠の感覚と読みをサポートしているのだ。テレビの使うAIソフトのレベルではないのだ。翌日に発見できるような手が、数十分で読み切れる能力の違いだ。

 だから藤井8冠が繰返しテレビのAI超えをすることになるのだろう。藤井8冠はAMDの会長兼最高経営責任者であるリサ・スー氏を「世界で最も会いたい人」として挙げ、7月に都内で対談を果たした。いかにこのCPUが重要な物かが分かる。

 藤井将棋は実におもしろい。今までの将棋を一新している。将棋の格言のような物が通用しなくなった。永瀬王座の勝負に徹底した序盤戦術を耐えしのいだ。耐え忍ぶ中で、実に人間的な勝負術を身につけたように見える。最先端のコンピュター将棋といかにも人間的な機微を併せ持つ将棋。

 ここまで進化するともう当面誰も追いつくことは出来ないだろう。伊藤6段と永瀬王座がタッグを組んで戦えば、可能性があるかも知れない。この藤井将棋の桁外れな思考方法は、すべての分野で考えてみる必要があるのことなのだ。

 農業のAI化と言うことが言われる。田んぼの大型農業で一番優れた農法は稲葉式農法だと思う。この稲葉式は実際の技術がとても難しい。しかしこの難しさはコンピュターならば乗り越えられそうな難しさだ。GPS付きの、自動コントロールのトラックターに稲葉式の代掻きを覚えてもらうことは出来る。

 田んぼの土壌の状態を把握しなければならないのだが、これも人間の判断以上にコンピュターを利用して分析的に把握してもらう方が優れている気がする。大型機械化農業はそこまで進化しなければ意味が無い。またそこまで進む可能性が大きい。

 では絵の方はどうだろうか。絵画は描くという行為に意味を見るように成るだろう。スポーツが身体と心の健康のためであるとすれば、絵画を描く行為が人間の脳の新しい分野を開発するものである気がする。自由な発想力とか、創造する能力を高めるための絵画制作。

 絵を描くと言う行為が生きると言うことの意味を確認し、生きる事の価値を深めると言うことに、将来なるのではないだろうか。そういう絵画の在り方だけに意味があると、AI絵画の登場は証明しているような気がしている。それが「わたくし絵画」と言うことになる。

 藤井将棋を見ていると、そういうことをつい妄想してしまう。それくらい過去の将棋とは別物なのだ。藤井将棋を越えるためには藤井将棋を学ぶ以外にない。もうその領域は素人将棋とは縁のないような世界だ。いつか次世代の天才が現われるまで無理なのかも知れない。
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第182 水彩画 日曜展示

2023-10-22 04:24:20 | 水彩画
第182 水彩画 日曜展示






277「のぼたん農園」
2023.10 中判全紙







278「のぼたん農園」
2023.10 中判全紙







279「大里の牧草地」
2023.10 中判全紙





280「のぼたん農園」
2023.10 中判全紙



281「のぼたん農園」
2023.10 中判全紙


 全体として描いている。空であるとか、海であるとか、草地であるとかそ言う違いを意識しないで描いている。何もかも同じ光の反映であると感じて描いている。その意識になれたことが、一歩前進だなと思っている。自分という物が絵を描くことで少しは変われた気がして嬉しい。

 日々の一枚までには届かない。中判全紙の絵だと一日でできると言うことが少ない。描く時間を合計してみれれば一枚二時間ぐらいなのだが、30分が4回として、一日に2回か3回ぐらい描く。4回描ければ何とか終わるのだろうが、一日4回描くのは難しい。

 30分4回ぐらい何でも無いとは思う。確かに一日中絵の前に座っているだけの日もある。諏訪って眺めているばかりでなかなか描くことは出来ない日がある。その日その日である。今日のぼたん農園で絵が描ければ良いなと思う。

 

 

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第181 水彩画 日曜展示

2023-10-15 04:04:03 | 水彩画
第181 水彩画 日曜展示






271「明日香村上居」
2023,10 中判全紙









272「嵩田集落」
2023,10 中判全紙 継続








273「フサキリゾート」
2023.10 中判全紙






274「のぼたん農園」
2023.10 中判全紙








275「のぼたん農園」
2023.10 中判全紙







276「嵩田集落」 継続
2023,10

 少し涼しくなってきて、絵も描きやすい。少し新しい方向が出てきたような気がしている。と言っても前に戻ったようなものなのだが、行きつ戻りつである。海も空も草原も畑も田んぼも同じ者として描くというような感じである。

 筆触と色である。それが自分のものであればそれだけで良いような気になる。何を描くのかというようなことはその時にはない。果物であろうが、華であろうが、同じである。気持ちよい筆触と色がそこになればその絵はそれで十分だと思える。

 絵を見ると言うことになると、それが風景なのか花なのかは意味があるのだが、中川一政の絵を見ていると、そういうことはあまり意味が無いように見える。中川一政がそこにあるのだから、描かれたものの意味は小さい。
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第180 水彩画 日曜展示

2023-10-08 04:47:46 | 水彩画
第180 水彩画 日曜展示

 明日香村の絵である。





267「明日香村上居1」
2023.10





268「明日香村上居2」
2023.10






269「明日香村上居3」
2023.10






270「明日香村上居4」
2023.10


 最初の3枚が、現場の写生で描いた絵である。最後一枚が石垣に戻り、記憶だけで描いた絵である。描いた絵は見ないことにした。写真なども一切見ないで、記憶に残っているものだけで描いてみた。この方法だと記憶で絵を描くと言うことの意味が、少し見えてくる気がする。

 何が記憶に残るのかと言うことになる。印象に強かった者が残る。そこに、自分の絵のようなものが加わる。それが良いことなのかどうかは分からないが、まだしばらくの間はこのやり方で、続けてみるつもりだ。

 自分というものが何なのかをこのやり方の法が迫れる気がしている。また明日香村には絵を描きに行きたいと思っている。季節を変えて描いてみたくなった。棚田に水が来ることは、どうなっているのか。まだ寒い頃だから、辺りの様子も違うことだろう。

 

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明日香村の奈良万葉文化館に行ってきた

2023-10-05 04:11:10 | 水彩画


 昨日まで明日香村に行ってきた。3日目に夜明けを待って、明日香村を描いてみた。朝霧から浮かび上がる明日香村の景色は、この世のものとは思えないような、荘厳で、静かで、しかも明るい華やいだものだった。人間の作り上げた世界観が景色として明日香村に在った。良いものを見せて頂いた。

 まさに修学院離宮に模式図化された世界が、ここに在った。日本を豊葦原の国として、稲作と人間の暮らしがどのように結びついてきたのかが、よく見えてきた。これこそ日本人の暮らしの本来の姿ではないだろうか。明日香村に行ったならば、お寺や史跡よりもこの田んぼを見てもらいたい。

 写真は石舞台から少し登った、上居集落の公民館のようなものがある場所から撮ったものだ。又描かせて頂ければと思っている。明日香村にはここ以外でも素晴らしい棚田がいくらでもあった。この棚田は明日香村棚田4選に入っていない。

 秋の実りの時期だったことも良かったのだろう。溜め池や飛鳥川も素晴らしいものだ。村内どこを回っても、黄色の稲穂が目に付いた。車さえ止められれば、どこでも描きたくなる景色だ。一度や2度では到底描けるものではないと思う。また行きたいものだ。

 3日間絵を描いた。その里地里山風景は素晴らしいとものだった。50年以上前に行ったことがあったのだが、久しぶりの明日香村は昔よりも美しく整っていた。棚田の素晴らしさが感動的だった。明日香村の稲作の姿こそ日本の姿ではないかと思った。

 この景色を造り出している方々の、ご苦労を思った。丁度案山子コンクールが行われていて、案山子の写真が展示されていた。電柵などはほとんど無い。奈良なのに、鹿が食べに来ないのかと思ったのだが、鹿の方も上手く棲み分けているのだろうか。

 飛鳥には文化を感じさせる歴史がある。その文化に繋がった田んぼがある。そこにある日本の意味を深く味わう必要があると思って絵を描いた。人間が自然と調和して暮らしている姿。ただ目の前には自然がある。そこに織り込まれている人間の暮らしが少しの違和感も感じさせない。

 自然の有り様に溶け込むように田んぼがある。自然を壊すことなく、暮らしを織り込んでいる。この生き方を忘れ無いようにしようと思った。たぶん私が美しいと感じるのはこの暮らし方であるのだろう。その暮らし方を描きたいという気持ちが強くなっている気がする。と言って農家を描くというのではない。

 明日香村には万葉文化館と言う県立の日本画を中心にした美術館がある。その文化館には絵の展示スペースも併設されていて、展覧会が行われている。ここで水彩人展が出来ないかというので、相談をさせてもらいに行った。公の施設なので、6ヶ月前に申し込んでから審査して決まると言うことだった。

 ただ、例年の例では空いている期間はあるので、その期間であれば水彩人であれば、館の目的から照らして、やらせて頂けそうだと言うことは分かった。私は研修を目的とした水彩人展に出来ればと考えている。朝から写生会をおこない、夜は批評会を行う。

 写生と制作と言うことを考える会をやりたい。水彩人では昔は写生会をよく行っていた。そうした研修で水彩人が出来てきたとも言える。水彩人が大きくなり、写生会としては行われなくなった。久しぶりにやってみる価値はあると思う。

 見ると言うことと描くと言うことを考えてみたい。水彩人展の中で写生会を企画する。展示してある絵を見ながら写生を行う。その意味は大きいと思う。水彩人展には必要な形だと思う。水彩人が水彩画の研究のための会であるということを思い出す必要がある。

 そう考えると万葉文化館は最適な場所ではないかと思われる。展示した絵の批評会も時間をかけて十分に行う。会期中に出来るだけの会員同人が集まれればと思う。連日その日に参加した人を中心に、朝10時から11時頃までは絵の前でその日集まった出品者を中心に絵の批評会を連日行う。

 出来れば写生会も何度かやりたい。朝6時から描いて10時から展覧会会場に集まると言うことは出来るはずだ。会場で描いた絵と自分の絵を前にして、11時まで批評会を行う事もできるはずだ。素晴らしい会場で、仲間の絵と並べて、自分の絵を考えてみることは重要である。

 しかも、明日香村の風景の中で描くことが出来る。この計画は素晴らしいものになりそうである。何とか実現したいものだ。今度の1月の総会の時に提案したい。承認されたならば、来年の秋に申し込み、3月後半に開催すると言うことが可能になる。

 今回の明日香村での写生はやはり、石垣島との違い感じるものだった。石垣島は色が強い。陰がない。明日香村の風景は色のない水墨の世界を感じた。特に早朝の霧から浮んでくる風景は、思い出すものが次々に現われるものだった。やはり子供の頃の藤垈の景色だ。

 里地里山の水田が失われている。失われてはならない景色が失われて行く。瑞穂の国日本が失われて行く。その理由は経済である。稲作で生計が保てないのだ。明日香村でも行政の支援無しで、あれだけの棚田が維持されているとすれば、そこにあるものこそ意味がある。

 以下明日香村の棚田のオーナー制度の募集記事である。

 田んぼコース :【募集】1区画 40,000 円で 78 区画を募集(1 区画 100 ㎡) 【内容】自分の田んぼで稲作ができ、新米 40kg がもらえる。 ・トラストコース:【募集】1 口 30,000 円で 15 口を募集 【内容】共同田での稲刈り・脱穀作業と、景観保全のためのススキ作り等の農作業体験ができ新米 30kg がもらえる。 ・はたけコース :【募集】1区画 10,000 円で 100 区画を募集(1区画 30 ㎡) 【内容】自分の区画で野菜や花を栽培できる。

 以上の形で運営されているようだ。たぶん日本中でこうした制度が広がっているのだろう。こういう募集で参加者がいるところと、居ないところがあるのだろう。石垣島で同じことをやって人は集まればやる価値がある。一万円で10キロのお米が貰えると言うことのようだ。

 小田原の農の会では、一万円で100キロのお米である。様々な制度で市民が米作りを始めない限り、日本の田んぼはなくなる。明日香村の棚田が、何時までも続くことを願うばかりである。市民が楽しく、有意義に、しかも経済的にも合理性のある形で、稲作が行われて行く。もう一度考えてみたい。
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