あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

山陽路3日間の旅② 錦帯橋のある城下町 岩国へ(山口)(その2)

2014-05-15 18:47:46 | 国内旅行
 2014年5月8日(水)
 == 岩国 錦帯橋と岩国城周辺を巡る(続き) ==

 岩国城からのロープウェイを下りた後は、吉香公園の東側一帯を巡りことにして、まず
は山麓駅の東にある白山比(しらやまひめ)神社へ。

 加賀国(石川県)の同名の神社の分霊を移し祭ったもの。石鳥居は元禄7年(1694)
に吉川広紀(きっかわひろのり)の寄進とか。社殿は明治23年(1890)の再建のよ
うだ。


        
 境内のシャクナゲやフジが花盛り。岩国藩藩士の長男で「日本のエジソン」とも呼ばれ、
日本初の白熱灯を製作し水力発電所を建設するなどした、東京電気(後の東芝の弱電部門)
の創業者、藤岡市助博士のことばを刻んだ「立志の碑」もあった。
        


 神社の前のお堀にかかる石橋を渡って東進する。橋からは、この先回る予定の錦雲閣が
望まれ、堀ではたくさんの亀が甲羅(こうら)を干していた。


 橋のそばに「田中穂積先生胸像」がある。田中穂積は安政2年(1855)岩国の生ま
れ。幼少から音楽に親しみ、海軍軍楽隊に入り終生軍楽隊に籍を置き、のち隊長となり、
名曲「美しき天然」や行進曲などの名曲を残した。
    

 胸像前を進んで、能舞台の隣にある褒忠社(ほうちゆうしや)へ。南側にある吉幸神社
の末社で、岩国藩主吉川広家が吉川家の回向所(えこうしよ)としていたが、廃藩後に神
社に改めたのだという。


 近くのアヤメが咲きそろっていた。


 吉幸神社の横には、山口県天然記念物で、高さ25m、幹周囲3.3mあるエンジュの大
木が立っているが、樹齢は不明らしい。
      


 隣接する、瓦屋根付き木塀に囲まれた吉幸神社に参拝する。吉幸神社は、岩国藩主歴代
の神霊をまつり、現社殿は享保13年(1728)に白山神社内に造営され、明治18年
(1885)にこの地に移築されたとのこと。


 檜皮葺の神門を入ると拝殿があり、奥の本殿や弊殿、石鳥居など、何れも国の重要文化
財で、岩国藩大工の高い技術のうかがえる江戸中期の建築という。




 石鳥居をくぐって社殿を離れ、境内南隅の堀際に立つ錦雲閣(きんうんかく)に回る。
旧藩時代には3階建ての南櫓のあった場所。明治18年(1885)に居館跡が公園にな
ったとき、この絵馬堂が建設されたとか。やはり国登録有形文化財である。



 お堀に影映すツツジを眺め、開花前の牡丹園に隣接する旧吉川邸厩門(うまやもん)に
回る。

 岩国藩13代藩主で、明治維新後は岩国藩知事も務めた吉川経健(つねたけ)邸附属の
長屋門。正面の邸宅↓が明治25年(1892)の棟上げなので、ほぼ同時期のものと考
えられるようだ。こちらも国登録有形文化財である。


 門の中からふり返る吉幸公園の彩り。



 岩国に関係する歴史資料や美術工芸品などを収蔵するという岩国徴古館↑前を戻り、吉
川家ゆかりの武具や古文書、美術工芸品などを展示しているという吉川史料館前を通過す
る。
    

        
 岩国出身の女流作家、宇野千代の言葉を記した、木製の碑の前を過ぎる。まだ開花前の
吉香花菖蒲園の南端付近には、剣を構えた佐々木小次郎像があった。
        


 川沿いの車道に出て、再び錦帯橋を渡り左岸に戻る。


 2階が「橋の駅」になっているバス乗り場に、13時15分に着いた。13時20分発
岩国駅行きの電車型バス「いちすけ」号に乗る。
    
 ちなみに「いちすけ」とは、白山比神社境内に「立志の碑」があった「日本のエジソ
ン」藤岡市助のこと。藤岡博士は、明治42年(1909)から昭和4年(1929)ま
で市内を走っていた路面電車、岩国電気軌道を設立し、社長を務めていたという。

 いちすけ号は、その軌道跡を転用した道路を運行している。レトロな駅舎のJR岩徳
(がんとく)線の西岩国駅前を通過し、13時42分に岩国駅に着いた。


    
 駅構内のめん処「まつの屋」で遅い昼食をして、14時41分発JR山陽本線下り電車
に乗る。瀬戸内海に沿って南下する。




 15時7分に大畠(おおばたけ)駅で下車した。


 周防大島(すおうおうしま)行きバスまで1時間近くあるので、駅から仏像の見えた、
近くの高台にあるお寺に行く。
        

 寺の名は分からなかったが、境内からは瀬戸内海の展望が広がり、バスで渡る周防大島
への玄関口である大島大橋や、周防大島の山並みなどが一望できる。


 16時発、周防大島東端の周防油宇行き防長バスに乗る。バスは大島大橋を渡って周防
大島の西端に入り、東西に長い島の北側を進む。


 宿泊地に近い周防長崎バス停には16時42分に着き、そばにある今夜の宿、かわい寿
し旅館に入った。

(天気 晴、地図 「城下町岩国(錦帯橋)の史跡を訪ねて」(絵図)、歩行地 山口県岩
 国市)




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山陽路3日間の旅② 錦帯橋のある城下町 岩国へ(山口)(その1)

2014-05-14 22:54:02 | 国内旅行
 2014年5月8日(水)
 == 岩国 錦帯橋と岩国城周辺を巡る ==

 前泊した広島駅南口のビジネスホテルを8時に出る。広島駅8時20発のJR山陽本線
下り電車に乗り、9時12分に岩国駅に着いた。
    

 ちなみに、錦帯橋(きんたいきよう)で知られる岩国市は山口県の本土東端にあり、広
島県大竹市に接している。

    
 駅前から新岩国駅行き防長バス「きんたい」号に乗り、9時46分に錦帯橋バス停で下
りた。今日は、日本三名橋の一つで「奇跡の名橋」とも呼ばれる錦帯橋と、岩国城の周辺
を半日足らずで巡ろうという計画である。

 橋のそばにある岩国市観光協会で、錦帯橋入橋料、岩国城ロープウェイ乗車料、岩国城
天守閣入場券のセット割引券(940円)を求め、錦帯橋際に行く。


 橋を渡る前に、橋の架かる錦川の左岸下流側から5連の木造アーチ橋の様子を眺める。
橋の向こうの城山には、岩国城天守閣が望まれた。


 錦帯橋は、周防(すおう)岩国領の第3代領主、吉川広嘉(きっかわひろよし)により
延宝元年(1673)の創建。その後の流出と再建を経て現在に至り、岩国のシンボルと
して親しまれている。

 橋の長さは193.3m、五つの橋径間は各々約35mあり、ヒノキ、ケヤキ、赤松、ヒ
バ、クリ、カシの木材で造られ、世界で唯一、構造力学上も純粋な木造アーチ橋だという。

 その美しさは江戸時代中期から評判で、歌川広重や葛飾北斎、司馬江漢などにより描か
れ、国の名勝に指定されている。




 清流や周辺の新緑などを眺めながら橋を渡り、対岸の右岸に行く。橋のたもとには、日
本一のソフトクリーム100種類があるという店や、岩国寿司などの食事処があった。


 その前を直進すると広い公園のような新緑みずみずしい緑地が広がり、正面に吉川広嘉
公の銅造が立っていた。
        

 右側園路の少し先に、山口県文化財「香川県長屋門」がある。香川家は岩国藩五家老の
一つ。香川正恒が元禄(1688~)前期に建立したと伝えられ、江戸時代の武家門造り
の典型的な建物という。


 その先は「日本の歴史公園百選」の一つである吉幸(きっこう)公園。

 左手石垣の傍らから大噴水が噴出し、園内のクスノキなどの淡い新緑がみずみずしい。



 右手は、江戸中期の中級武家屋敷の数少ない遺構、国指定文化財の「旧目加田家住宅」。
邸内のりっぱなアヤメが花を開いていた。
    

 岩国藩が藩財政の立て直しの一環として宝暦8年(1758)に実施した、戸別に三株
の楮(こうぞ)の植え付けを義務づけた「軒別三株楮」ゆかりのコウゾの古木も残る。
    

 正面の城山にある岩国城へのロープウェイの山麓駅横には、陶磁器やガラス工芸品、甲
冑、刀剣、書画などを展示しているという岩国美術館があるが入館はせず、岩国城に上が
ることにした。



 ロープウェイは20分間隔で運行しており、10時40分発に乗る。


 眼下の吉香公園や城山南面の柔らかな新緑などを眺める間もわずか、3分ほどで山上駅
に着いた。


 天守閣へは土道の遊歩道と舗装された車道とがあるが、往路は遊歩道を進む。城山一帯
は岩国自然休養林になっていて、遊歩道も豊富な森林に覆われている。
    
 5分ほどで天守閣を囲む広場に着いた。

 岩国城天守閣は、吉川広家により慶長13年(1608)に築城されたが、元和元年
(1615)には江戸幕府の一国一城令で破棄され、現在の天守閣は昭和37年
(1962)、錦帯橋付近からの景観を考え旧天守閣より南へ約50mのところに、古
地図をもとに再建されたという。
      

          
 天守閣に入り、館内に展示されている刀剣や鉄砲、「日本の名橋」の写真などを観覧し
ながら最上階の4階へ。
      


 「物見」と呼ばれる展望台に出ると、眼下の吉香公園や錦川の流れ、錦帯橋をはじめ、
霞む瀬戸内の海や島々などが一望できる。周辺の、木々ごとに違う新緑の彩りも気持ち
よい。




 天守閣を出て築城当時の旧天守台の石垣のそばに回り、見かけの美しさより構造力学上
の安全性に重点置いたという、反りの無い直線的な隅どりの石垣を見る。


      
 帰路は、城山の稜線北側を回る舗装された車道を進む。右カーブした下部に、「大釣井
(おおつるい)」と呼ぶ大きな井戸がある。

 慶長13年(1609)の築城当時に造られたもの。非常時の武器弾薬などの収納とと
もに、敵に包囲された場合の脱出口を備えだ井戸だったとも伝えられているという。

 その先のヒノキ林では、神社仏閣などの檜皮葺(ひわだぶき)屋根の材料として使われ
る檜皮を採取しているらしい。はがれた皮は10年ほどでもとの状態に戻るという。

 ロープウェイの山頂駅前に戻る。駅周辺の広場「城山おもしろぱあく」にからくり時計
があり、時を告げるとき、中の人形が動き出すとのこと。
      
 11時55分になったら動き出し、メロディも流れた。




 12時発の下りロープウェイに乗り、山麓に戻った。(続く)




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山陽路3日間の旅① 潮待ちの港、鞆の浦へ(広島県福山市)

2014-05-13 14:43:31 | 国内旅行
 春の大型連休が終わった翌日の5月7日(水)から9日(金)まで、山陽路への短い旅
に出かけた。

 2014年5月7日(火)
 == 潮待ちの港町 鞆の浦へ ==

 5時44分に自宅を出て、東京駅7時33分発の東海道新幹線ひかり503号に乗る。
新大阪で10時59分発山陽新幹線さくら553号に乗り換えて車中で軽い昼食を済ませ、
12時02分に福山駅で下車した。

 広島県の東南部に位置し広島市に次ぐ県内第2の都市、「百万本のバラの町」を目指し
ているという福山市の玄関口、福山駅前から鞆鉄(ともてつ)バスに乗り、12時50分
に鞆の浦(とものうら)バス停で下りる。

 瀬戸内海の中央、福山市の沼隈半島南端に位置する鞆の浦は、万葉の昔から風待ち、潮
待ちで栄えた港町。江戸時代から続く町並みには、歴史に名をはせた人物の足跡が残って
いるという。その町並みを、3時間余りで巡ろうという計画である。

    
 バス停前の平屋には、鞆の浦観光のみやげ品などが並ぶ。「鞆の浦観光情報センター」
もあり、一角がミニ鉄道資料館。
    
 大正12年(1913)から昭和29年(1954)まで福山~鞆間12.5㎞を運行し
た鞆鉄道の、SLの写真や当時の資料、道具などが、こじんまりと展示してあった。


 海沿いの道路を南へ向かい、福山市の鞆支所や消防署の横を通過する。仙酔島行き渡船
のりば↑のそばの崖下に「むろの木歌碑」がある。
        
 万葉の時代、鞆の浦には遣唐使や遣新羅使(けんしらぎし)などが立ち寄り、幾つもの
歌が詠(よ)まれたようで、歌碑は天平2年(730)に太宰府の任を終えて立ち寄った大
伴旅人の歌だという。そばに「鞆の浦」と「福山城」と名付けられたバラが、花を開いて
いた。

 その崖地の上にあるのが、天暦年間(947~)の創建と伝えられる福禅寺(ふくぜん
じ)。

 本堂や隣接する対潮楼(たいちょうろう)は、元禄年間(1688~)の建立で国史跡
になっている。


 対潮楼は江戸時代、朝鮮通信使の迎賓館や宿舎となり、窓枠を通しての弁天島や仙酔島
などの眺めは素晴らしく、正徳元年(1711)の朝鮮通信使は、「日東第一景勝」と賞
賛したという。いろは丸沈没をめぐって、坂本竜馬と紀州藩士との話し合いが行われた場
でもあるらしい。

 弁天島などの島々や観光船を眺め、楼内の展示品なども見て本堂に参拝し寺を去る。

              観光船 平成いろは丸


 古い家並みの続く細い路地を西に抜けて、T字路を右折してその先の駐車場横を上がり、
「鞆の浦歴史民俗資料館」↓に回った。

 館は、戦国時代に毛利氏によって築かれ、関ヶ原合戦後に安芸・備後領主となった福島
正則により大改築されたという鞆城跡に造られ、鞆の浦の歴史や祭りなどの資料が展示さ
れているようだが、連休後の休館日だった。


 建物前の広場からは、鞆湾や古い家並みなどの展望が広がり、新緑みずみずしい木の下
に父親が鞆町出身という箏曲の楽聖・宮城道雄の座像があった。
        



 背後の山並みや公園の豊富な新緑の彩りも気持ちよい。


    
 花壇に様々な花の咲き競う横を南西に下る。そばの地蔵院の墓地には、サクランボが実
っていた。細い通りに入り、こちらにも残る古い家並みを眺める。


 古い井戸ポンプと道しるべの立つ三差路から、西側の山腹を南北に走る通りへ。通りに
沿って寺院が幾つか並んでいた。


 独特の山門を入った南禅坊の本堂前にも、サクランボが実る。
    

 隣の阿弥陀寺には「鞆の浦古寺めぐり」ののぼりが立つ。「鞆の大仏」で知られた寺の
ようで、境内の一隅でテッセンが大きな花を見せていた。


 三差路を右折して西側高台にある医王寺に向かう。中腹の妙圓寺(みょうえんじ)の山
門には、花飾りを背に乗せた白象の像が立っている。


 通りの左手石垣に、「景観茶房セレーノ」の看板があり、挽きたてのコーヒーが味わえ
そう。
    
 立ち寄ることにして、迷路のような小路を二度ほど曲る。民家の間の曲がり角に、壁面
にツタを這わせたその茶坊があった。


 狭い玄関を上がると、鞆湾が一望できるテラスにテーブルと椅子が並び、展望を楽しみ
ながらゆっくりとくつろげる空間がある。


 コーヒーと手作りケーキを注文し、爽やかな風を感じながら島々や行き交う船、鞆港や
鞆の古い家並みなどを眺める。

 店主の高橋善信さんが、間近に見える島々や、今日は霞んで見えないが対岸の四国各市
や石鎚山の方角、季節により移り変わる月の上がる方向などを教えて下さる。


 鞆湾に計画された道路について聞くと、湾の半分以上を埋め立てられてしまい、古くか
らの景観が全く消えてしまうことが分かった。

 なんと、高橋さんは「鞆の自然と景観を守る会」の事務局長をされ、道路計画が中止に
なるまでは反対運動でご多忙だったとか。お陰でこの素晴らしい歴史的景観が残されるこ
とになったのだ。

 当然鞆の歴史にも詳しく、関連の活動で全国を回られ、川越市での会議にも行かれたと
いう。お若い頃には9年?ほど、首都圏での生活もされていたようだ。

    
 室内のテーブルには、地元や各地で求められた小さい焼き物や置物などが並び、8段飾
りの古いひな人形も飾られていた。


 「2階に上がるとさらに眺めが良い」と言われたので上がり、より広がる視界を一望す
る。


 高橋さんも協力されたという「鞆の浦を歩く」という冊子を分けていただき、1時間
20分近く滞在したセリーノを後にした。

 南側の崖沿いの細道を、医王寺の仁王門に向かう。中ほどに「平賀源内生祠(せいし)」
という三輪塔が立っていた。
        
 江戸時代の蘭学者・平賀源内が、長崎で学んだ帰りに鞆の浦の溝川家に立ち寄って陶土
を発見し、源内焼の製法を伝えた。瀬川家は感謝して生存中に神としてまつる生祠をここ
に立てたのだという。

 医王寺の仁王門には、大小のわらじがたくさん奉納されていた。医王寺は弘法大師の開
基と伝えられ、本尊木造薬師如来立像は県の文化財。鐘楼は寛永20年(1642)の建
立、本堂は貞享2年(1685)の再建と伝えられているという。



 本堂前にはツツジが花盛りで、愛宕台権現の建物は独特の造り。鐘楼付近からは鞆の浦
の景観が一望でき、眼下には鞆のシンボル、常夜灯も見下ろせる。



 境内には、大友旅人の「鞆の浦亡妻挽歌」中の一首を刻んだ歌碑もある。

 山門を出て細い参道を下り、鞆港西側の海沿いを走る県道に出た。港の中心の常夜灯に
向かう道筋に、「渡守神社御旅所」があった。
    
 神功皇后朝鮮征伐の折、海中から湧出した霊石ゆかりの地という。

    
 もち米と16種の和漢植物などで造る鞆の銘酒、保命酒の醸造元の一つの、塔のような
高い建物や、白壁造りの鞆交番前を過ぎる。



 細い路地に昔のままの民家の並ぶ通りを進んで、鞆の浦のシンボル、常夜灯の立つ波止
場に行く。常夜灯は、海中の基礎から高さ約10mあり、石造りの常夜灯としては日本最
大とか。
    
 安政6年(1859)の建造で灯台の役目を果たしていて、セレーヌの高橋さんの話で
は、夜は四国側からも明かりが見えたという。


 そばに、江戸時代に建てられた大型土蔵↑を利用して、いろは丸事件の資料や沈没・海
底発掘調査の状況を模したジオラマなどのあるという「いろは丸展示館」があるが、時間
が無いので入館は省いた。




 近くの、尊皇攘夷を主張して都を追われた三条実美など7人の公家ゆかりで国重要文化
財の太田家住宅や、保命酒の店、「鞆町並み つくろい空間」の建物、鞆町出身で森下仁
丹の創業者、森下博氏ゆかりの建物、坂本龍馬談判の町家・旧魚屋萬蔵宅、「鞆ノ津の力
石」の傍らなどを巡る。
     






 予定より1時間以上経過して、鞆港バス停に16時33分に着く。5分後の鞆鉄バスに
乗り、福山駅には17時10分に戻った。


 17時28分発山陽新幹線下りさくら56号で広島駅に17時52分に着き、今宵の宿、
南口に近いビジネスホテルに18時過ぎに入る。

 夕食に入った駅前のデパートの10階に、ワンフロアを占める大型書店ジュンク堂があ
り、全国の地形図も販売していたので、鞆の浦やこの後訪ねる岩国と周防大島の2万5千
分の1地形図を購入した。

(天気 晴、地図 手作りイラストマップ鞆の浦、パンフレット「福山 鞆の浦」の鞆の
 浦マップ、歩行地 広島県福山市)




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庭のニホンサクラソウ 今年は小さくて少な目

2014-05-04 22:15:14 | 所沢だより
 2014年5月4日(日)

 毎年、連れ合いが手入れして育てているニホンサクラソウが、今年も開花しましたが、
2月のあの2度の大雪のために長い間雪を被っていたためか、今年は小さめで、花の付
きもいまひとつですが、我が家の庭にいま咲くほかの花とともに紹介します。
    

    

    

 上の場所とは離れたところで育った鉢は、さらに花が少な目。




 その鉢のそばに育ったのがシャガ。こちらは毎年数が多くなり、増えて過ぎ気味です。
    

    

 チューリップは、いろいろな花を見せてくれています。




 どこからか種が飛んできたのだったか、パンジーも可愛らしい花を開きました。
    

    

    

 キンギョソウ


 屋根下のシランも知らぬうちにたくさん花を付けました。


    

 小さな花2つ、こちらはアリッサムのようですが、下の花は不明。




 もう少しすると、庭の隅のシャクナゲも開花しそうです。

〈追記〉
 日が暮れた18時半近くには、ツキミソウが咲き出していました。
    

     




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春盛り ときがわ町の花と新緑(埼玉)

2014-05-02 20:58:36 | カントリーウオーク
 2014年4月27日(日)

 私が担当する、カントリーウオークグループの6月例会の下見に、埼玉県中部のときが
わ町に出かけた。

 本来、少人数で歩くカントリーウオークでは下見はせず、用意した地図を見て興味あり
そうなところを自由に歩き、思いがけぬ出会いやふれあい、発見などを楽しむものだが、
20人前後のグループの集まりなので、トイレの場所や梅雨時の6月に昼食の出来る屋根
のある場所を事前に知っておくために、出かけたのである。

 回ったルートは、当日参加するカントリーウオーカーの楽しみのために、今回は紹介し
ないが、この日は好天に恵まれて、新緑と春の花をあちこちで目にしたので、それらをご
覧いただくことにする。

 JR八高線(はちこうせん)の明覚(みょうかく)駅をスタートした。家並みの少なく
なった畑作地帯にブルーベリーの畑があり、ちょうど花の時期を迎えていた。
    

 近くの寺のツツジも見ごろ。ツツジはこの後もあちこちで見た。


 同じ寺の東側では、ヤエザクラが花盛り。


 コデマリ


 ときがわ町を西から東に流れるのが、町の名にもなっている都幾川、橋を渡って北側に
回ると、新緑の気持ちよい展望が広がる。


 満開のツツジ


 下流で都幾川に合流する雀川の周辺も、新緑にあふれていた。

   堂平山         笠山

 この辺りは比企郡(ひきぐん)だが、比企のシンボルともいえる堂平山(どうだいらさ
ん)と笠山(かさやま)のピークがわずかに望まれる。

 やわらかな彩りを見せる柿の若葉。


 放置されたままのフジも、2色の花を開いていた。


 これもツツジの一種のよう。


 再び、新緑の広がるところに出た。


 ツツジ


 春先に咲くモクレンが、まだ咲き残っている。


 シャクナゲも花盛り。


 山裾の斜面に立つ民家の庭先に咲くツツジ。


 同じ庭に咲く別のツツジも満開だ。


 放置されていたクワの木にも、花がいっぱい付いていた。


 山ふところにあった民家の東側斜面は、ツツジ山になっている。


 低いながら格好良い山。


 田園地帯を流れる都幾川右岸の新緑。


 「木のむら物産館」の近く、個人のお宅の横に広いシバザクラ畑があり、ちょうど見ご
ろになっていた。




 木のむら物産館に来た人も気付かないのか、見に来る人は少ない。 




 近くの民家の狭い庭先に、珍しい色のフジが咲いていた。


 春の彩りをあちこちで楽しみ、JR明覚駅に戻った。




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秩父のシンボル 武甲山10景(埼玉)

2014-05-01 16:10:57 | ウオーキング
 前回アップした4月25日(金)の秩父札所巡り4回目では、秩父市中心街の西側を北
東から南西へと歩いたので、市街地の南南東にそびえる日本二百名山の一つである武甲山
(ぶこうさん)(1,304m)の姿をあちこちで眺めることが出来ました。

 初回から3回目までの秩父札所巡りでも、多くの札所やその周辺から武甲山は眺めてい
ましたが、もやで霞んだりした日もあり、今回はロケーションと天気に恵まれて、移動す
るにつれて少しずつ変わる姿をとらえたので、歩いた行程に従い紹介します。

 最初は、国道299号の秩父橋に近い荒川左岸段丘上にある、20番札所岩之上堂のそ
ばからの武甲山。場所は秩父市中寺尾です。


 次は、岩之上堂から南西へ少し進んだ、やはり荒川の左岸段丘上の道路から。

 手前の桃の花はほとんど散っていました。

 こちらは、上寺尾の県道72号から左折して南側の22番童子堂を巡り、近くの巡礼道
から。

 右手の橋は、秩父駅から西へ、ミューズパークに延びる車道の、荒川にかかる秩父公園
橋。

 22番童子堂から南西へ、小鹿坂峠下にある23番音楽寺に向かって上がる巡礼道の途
中、広葉樹林の間で展望が得られたところから。

 右下に咲くのはミツマタです。

 23番音楽寺から24番法泉寺への巡礼古道の多くは、林間を進みますが、林が切れた
一角で。


 秩父市別所の24番法泉寺を過ぎ、大久保の酒蔵資料館と秩父十三仏霊場の宝林院との
間で。

 紅白のアメリカハナミズキ

 宝林院からこの日最後の札所、25番久昌寺へ向かう県道72号の道すじ、折区公民館
近く。


 25番久昌寺境内、かなり散っていたシダレザクラの向こうに。


 25番久昌時から、この日のゴール秩父鉄道の浦山口駅への道。久那小の先の開けたと
ころで。

 石灰岩の採掘跡がはっきりと見えたのは、久しぶりのことでした。

 こちらも、少し先の落合集落の車道から。

 この先で荒川の久那橋を渡れば、浦山口駅はすぐ近くです。

 ちなみに、全山が石灰岩という武甲山の石灰岩は日本屈指の良質な大鉱床で、可採掘量
は約4億トンと推定されており、明治期からセメントの原料として採掘が進められていま
す。

 昭和15年(1940)に秩父石灰工業が操業を開始後は、山の姿が変わるほど大規模
な採掘が進められて、特に北斜面は山体の崩壊がいちじるしくなっていて、明治33年
(1900)の測量では標高1,336mだったのが、山頂付近も採掘が進められたため、
三角点が移転させられ、昭和52年(1977)には標高1,295mとされました。

 2002年に改めて調査したところ、三角点より西へ約25m離れた地点での標高が
1,304mだったので、国土地理院はここを最高地点と改めたとのこと。現在の2万5
線分の1地形図「秩父」では、1,295mの三角点と1,304mの最高点の両方が表
示されています。





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