あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

山陽路3日間の旅① 潮待ちの港、鞆の浦へ(広島県福山市)

2014-05-13 14:43:31 | 国内旅行
 春の大型連休が終わった翌日の5月7日(水)から9日(金)まで、山陽路への短い旅
に出かけた。

 2014年5月7日(火)
 == 潮待ちの港町 鞆の浦へ ==

 5時44分に自宅を出て、東京駅7時33分発の東海道新幹線ひかり503号に乗る。
新大阪で10時59分発山陽新幹線さくら553号に乗り換えて車中で軽い昼食を済ませ、
12時02分に福山駅で下車した。

 広島県の東南部に位置し広島市に次ぐ県内第2の都市、「百万本のバラの町」を目指し
ているという福山市の玄関口、福山駅前から鞆鉄(ともてつ)バスに乗り、12時50分
に鞆の浦(とものうら)バス停で下りる。

 瀬戸内海の中央、福山市の沼隈半島南端に位置する鞆の浦は、万葉の昔から風待ち、潮
待ちで栄えた港町。江戸時代から続く町並みには、歴史に名をはせた人物の足跡が残って
いるという。その町並みを、3時間余りで巡ろうという計画である。

    
 バス停前の平屋には、鞆の浦観光のみやげ品などが並ぶ。「鞆の浦観光情報センター」
もあり、一角がミニ鉄道資料館。
    
 大正12年(1913)から昭和29年(1954)まで福山~鞆間12.5㎞を運行し
た鞆鉄道の、SLの写真や当時の資料、道具などが、こじんまりと展示してあった。


 海沿いの道路を南へ向かい、福山市の鞆支所や消防署の横を通過する。仙酔島行き渡船
のりば↑のそばの崖下に「むろの木歌碑」がある。
        
 万葉の時代、鞆の浦には遣唐使や遣新羅使(けんしらぎし)などが立ち寄り、幾つもの
歌が詠(よ)まれたようで、歌碑は天平2年(730)に太宰府の任を終えて立ち寄った大
伴旅人の歌だという。そばに「鞆の浦」と「福山城」と名付けられたバラが、花を開いて
いた。

 その崖地の上にあるのが、天暦年間(947~)の創建と伝えられる福禅寺(ふくぜん
じ)。

 本堂や隣接する対潮楼(たいちょうろう)は、元禄年間(1688~)の建立で国史跡
になっている。


 対潮楼は江戸時代、朝鮮通信使の迎賓館や宿舎となり、窓枠を通しての弁天島や仙酔島
などの眺めは素晴らしく、正徳元年(1711)の朝鮮通信使は、「日東第一景勝」と賞
賛したという。いろは丸沈没をめぐって、坂本竜馬と紀州藩士との話し合いが行われた場
でもあるらしい。

 弁天島などの島々や観光船を眺め、楼内の展示品なども見て本堂に参拝し寺を去る。

              観光船 平成いろは丸


 古い家並みの続く細い路地を西に抜けて、T字路を右折してその先の駐車場横を上がり、
「鞆の浦歴史民俗資料館」↓に回った。

 館は、戦国時代に毛利氏によって築かれ、関ヶ原合戦後に安芸・備後領主となった福島
正則により大改築されたという鞆城跡に造られ、鞆の浦の歴史や祭りなどの資料が展示さ
れているようだが、連休後の休館日だった。


 建物前の広場からは、鞆湾や古い家並みなどの展望が広がり、新緑みずみずしい木の下
に父親が鞆町出身という箏曲の楽聖・宮城道雄の座像があった。
        



 背後の山並みや公園の豊富な新緑の彩りも気持ちよい。


    
 花壇に様々な花の咲き競う横を南西に下る。そばの地蔵院の墓地には、サクランボが実
っていた。細い通りに入り、こちらにも残る古い家並みを眺める。


 古い井戸ポンプと道しるべの立つ三差路から、西側の山腹を南北に走る通りへ。通りに
沿って寺院が幾つか並んでいた。


 独特の山門を入った南禅坊の本堂前にも、サクランボが実る。
    

 隣の阿弥陀寺には「鞆の浦古寺めぐり」ののぼりが立つ。「鞆の大仏」で知られた寺の
ようで、境内の一隅でテッセンが大きな花を見せていた。


 三差路を右折して西側高台にある医王寺に向かう。中腹の妙圓寺(みょうえんじ)の山
門には、花飾りを背に乗せた白象の像が立っている。


 通りの左手石垣に、「景観茶房セレーノ」の看板があり、挽きたてのコーヒーが味わえ
そう。
    
 立ち寄ることにして、迷路のような小路を二度ほど曲る。民家の間の曲がり角に、壁面
にツタを這わせたその茶坊があった。


 狭い玄関を上がると、鞆湾が一望できるテラスにテーブルと椅子が並び、展望を楽しみ
ながらゆっくりとくつろげる空間がある。


 コーヒーと手作りケーキを注文し、爽やかな風を感じながら島々や行き交う船、鞆港や
鞆の古い家並みなどを眺める。

 店主の高橋善信さんが、間近に見える島々や、今日は霞んで見えないが対岸の四国各市
や石鎚山の方角、季節により移り変わる月の上がる方向などを教えて下さる。


 鞆湾に計画された道路について聞くと、湾の半分以上を埋め立てられてしまい、古くか
らの景観が全く消えてしまうことが分かった。

 なんと、高橋さんは「鞆の自然と景観を守る会」の事務局長をされ、道路計画が中止に
なるまでは反対運動でご多忙だったとか。お陰でこの素晴らしい歴史的景観が残されるこ
とになったのだ。

 当然鞆の歴史にも詳しく、関連の活動で全国を回られ、川越市での会議にも行かれたと
いう。お若い頃には9年?ほど、首都圏での生活もされていたようだ。

    
 室内のテーブルには、地元や各地で求められた小さい焼き物や置物などが並び、8段飾
りの古いひな人形も飾られていた。


 「2階に上がるとさらに眺めが良い」と言われたので上がり、より広がる視界を一望す
る。


 高橋さんも協力されたという「鞆の浦を歩く」という冊子を分けていただき、1時間
20分近く滞在したセリーノを後にした。

 南側の崖沿いの細道を、医王寺の仁王門に向かう。中ほどに「平賀源内生祠(せいし)」
という三輪塔が立っていた。
        
 江戸時代の蘭学者・平賀源内が、長崎で学んだ帰りに鞆の浦の溝川家に立ち寄って陶土
を発見し、源内焼の製法を伝えた。瀬川家は感謝して生存中に神としてまつる生祠をここ
に立てたのだという。

 医王寺の仁王門には、大小のわらじがたくさん奉納されていた。医王寺は弘法大師の開
基と伝えられ、本尊木造薬師如来立像は県の文化財。鐘楼は寛永20年(1642)の建
立、本堂は貞享2年(1685)の再建と伝えられているという。



 本堂前にはツツジが花盛りで、愛宕台権現の建物は独特の造り。鐘楼付近からは鞆の浦
の景観が一望でき、眼下には鞆のシンボル、常夜灯も見下ろせる。



 境内には、大友旅人の「鞆の浦亡妻挽歌」中の一首を刻んだ歌碑もある。

 山門を出て細い参道を下り、鞆港西側の海沿いを走る県道に出た。港の中心の常夜灯に
向かう道筋に、「渡守神社御旅所」があった。
    
 神功皇后朝鮮征伐の折、海中から湧出した霊石ゆかりの地という。

    
 もち米と16種の和漢植物などで造る鞆の銘酒、保命酒の醸造元の一つの、塔のような
高い建物や、白壁造りの鞆交番前を過ぎる。



 細い路地に昔のままの民家の並ぶ通りを進んで、鞆の浦のシンボル、常夜灯の立つ波止
場に行く。常夜灯は、海中の基礎から高さ約10mあり、石造りの常夜灯としては日本最
大とか。
    
 安政6年(1859)の建造で灯台の役目を果たしていて、セレーヌの高橋さんの話で
は、夜は四国側からも明かりが見えたという。


 そばに、江戸時代に建てられた大型土蔵↑を利用して、いろは丸事件の資料や沈没・海
底発掘調査の状況を模したジオラマなどのあるという「いろは丸展示館」があるが、時間
が無いので入館は省いた。




 近くの、尊皇攘夷を主張して都を追われた三条実美など7人の公家ゆかりで国重要文化
財の太田家住宅や、保命酒の店、「鞆町並み つくろい空間」の建物、鞆町出身で森下仁
丹の創業者、森下博氏ゆかりの建物、坂本龍馬談判の町家・旧魚屋萬蔵宅、「鞆ノ津の力
石」の傍らなどを巡る。
     






 予定より1時間以上経過して、鞆港バス停に16時33分に着く。5分後の鞆鉄バスに
乗り、福山駅には17時10分に戻った。


 17時28分発山陽新幹線下りさくら56号で広島駅に17時52分に着き、今宵の宿、
南口に近いビジネスホテルに18時過ぎに入る。

 夕食に入った駅前のデパートの10階に、ワンフロアを占める大型書店ジュンク堂があ
り、全国の地形図も販売していたので、鞆の浦やこの後訪ねる岩国と周防大島の2万5千
分の1地形図を購入した。

(天気 晴、地図 手作りイラストマップ鞆の浦、パンフレット「福山 鞆の浦」の鞆の
 浦マップ、歩行地 広島県福山市)




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コメント (2)
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