2014年5月8日(水)
== 岩国 錦帯橋と岩国城周辺を巡る(続き) ==
岩国城からのロープウェイを下りた後は、吉香公園の東側一帯を巡りことにして、まず
は山麓駅の東にある白山比(しらやまひめ)神社へ。
加賀国(石川県)の同名の神社の分霊を移し祭ったもの。石鳥居は元禄7年(1694)
に吉川広紀(きっかわひろのり)の寄進とか。社殿は明治23年(1890)の再建のよ
うだ。
境内のシャクナゲやフジが花盛り。岩国藩藩士の長男で「日本のエジソン」とも呼ばれ、
日本初の白熱灯を製作し水力発電所を建設するなどした、東京電気(後の東芝の弱電部門)
の創業者、藤岡市助博士のことばを刻んだ「立志の碑」もあった。
神社の前のお堀にかかる石橋を渡って東進する。橋からは、この先回る予定の錦雲閣が
望まれ、堀ではたくさんの亀が甲羅(こうら)を干していた。
橋のそばに「田中穂積先生胸像」がある。田中穂積は安政2年(1855)岩国の生ま
れ。幼少から音楽に親しみ、海軍軍楽隊に入り終生軍楽隊に籍を置き、のち隊長となり、
名曲「美しき天然」や行進曲などの名曲を残した。
胸像前を進んで、能舞台の隣にある褒忠社(ほうちゆうしや)へ。南側にある吉幸神社
の末社で、岩国藩主吉川広家が吉川家の回向所(えこうしよ)としていたが、廃藩後に神
社に改めたのだという。
近くのアヤメが咲きそろっていた。
吉幸神社の横には、山口県天然記念物で、高さ25m、幹周囲3.3mあるエンジュの大
木が立っているが、樹齢は不明らしい。
隣接する、瓦屋根付き木塀に囲まれた吉幸神社に参拝する。吉幸神社は、岩国藩主歴代
の神霊をまつり、現社殿は享保13年(1728)に白山神社内に造営され、明治18年
(1885)にこの地に移築されたとのこと。
檜皮葺の神門を入ると拝殿があり、奥の本殿や弊殿、石鳥居など、何れも国の重要文化
財で、岩国藩大工の高い技術のうかがえる江戸中期の建築という。
石鳥居をくぐって社殿を離れ、境内南隅の堀際に立つ錦雲閣(きんうんかく)に回る。
旧藩時代には3階建ての南櫓のあった場所。明治18年(1885)に居館跡が公園にな
ったとき、この絵馬堂が建設されたとか。やはり国登録有形文化財である。
お堀に影映すツツジを眺め、開花前の牡丹園に隣接する旧吉川邸厩門(うまやもん)に
回る。
岩国藩13代藩主で、明治維新後は岩国藩知事も務めた吉川経健(つねたけ)邸附属の
長屋門。正面の邸宅↓が明治25年(1892)の棟上げなので、ほぼ同時期のものと考
えられるようだ。こちらも国登録有形文化財である。
門の中からふり返る吉幸公園の彩り。
岩国に関係する歴史資料や美術工芸品などを収蔵するという岩国徴古館↑前を戻り、吉
川家ゆかりの武具や古文書、美術工芸品などを展示しているという吉川史料館前を通過す
る。
岩国出身の女流作家、宇野千代の言葉を記した、木製の碑の前を過ぎる。まだ開花前の
吉香花菖蒲園の南端付近には、剣を構えた佐々木小次郎像があった。
川沿いの車道に出て、再び錦帯橋を渡り左岸に戻る。
2階が「橋の駅」になっているバス乗り場に、13時15分に着いた。13時20分発
岩国駅行きの電車型バス「いちすけ」号に乗る。
ちなみに「いちすけ」とは、白山比神社境内に「立志の碑」があった「日本のエジソ
ン」藤岡市助のこと。藤岡博士は、明治42年(1909)から昭和4年(1929)ま
で市内を走っていた路面電車、岩国電気軌道を設立し、社長を務めていたという。
いちすけ号は、その軌道跡を転用した道路を運行している。レトロな駅舎のJR岩徳
(がんとく)線の西岩国駅前を通過し、13時42分に岩国駅に着いた。
駅構内のめん処「まつの屋」で遅い昼食をして、14時41分発JR山陽本線下り電車
に乗る。瀬戸内海に沿って南下する。
15時7分に大畠(おおばたけ)駅で下車した。
周防大島(すおうおうしま)行きバスまで1時間近くあるので、駅から仏像の見えた、
近くの高台にあるお寺に行く。
寺の名は分からなかったが、境内からは瀬戸内海の展望が広がり、バスで渡る周防大島
への玄関口である大島大橋や、周防大島の山並みなどが一望できる。
16時発、周防大島東端の周防油宇行き防長バスに乗る。バスは大島大橋を渡って周防
大島の西端に入り、東西に長い島の北側を進む。
宿泊地に近い周防長崎バス停には16時42分に着き、そばにある今夜の宿、かわい寿
し旅館に入った。
(天気 晴、地図 「城下町岩国(錦帯橋)の史跡を訪ねて」(絵図)、歩行地 山口県岩
国市)
国内旅行 ブログランキングへ
にほんブログ村
== 岩国 錦帯橋と岩国城周辺を巡る(続き) ==
岩国城からのロープウェイを下りた後は、吉香公園の東側一帯を巡りことにして、まず
は山麓駅の東にある白山比(しらやまひめ)神社へ。
加賀国(石川県)の同名の神社の分霊を移し祭ったもの。石鳥居は元禄7年(1694)
に吉川広紀(きっかわひろのり)の寄進とか。社殿は明治23年(1890)の再建のよ
うだ。
境内のシャクナゲやフジが花盛り。岩国藩藩士の長男で「日本のエジソン」とも呼ばれ、
日本初の白熱灯を製作し水力発電所を建設するなどした、東京電気(後の東芝の弱電部門)
の創業者、藤岡市助博士のことばを刻んだ「立志の碑」もあった。
神社の前のお堀にかかる石橋を渡って東進する。橋からは、この先回る予定の錦雲閣が
望まれ、堀ではたくさんの亀が甲羅(こうら)を干していた。
橋のそばに「田中穂積先生胸像」がある。田中穂積は安政2年(1855)岩国の生ま
れ。幼少から音楽に親しみ、海軍軍楽隊に入り終生軍楽隊に籍を置き、のち隊長となり、
名曲「美しき天然」や行進曲などの名曲を残した。
胸像前を進んで、能舞台の隣にある褒忠社(ほうちゆうしや)へ。南側にある吉幸神社
の末社で、岩国藩主吉川広家が吉川家の回向所(えこうしよ)としていたが、廃藩後に神
社に改めたのだという。
近くのアヤメが咲きそろっていた。
吉幸神社の横には、山口県天然記念物で、高さ25m、幹周囲3.3mあるエンジュの大
木が立っているが、樹齢は不明らしい。
隣接する、瓦屋根付き木塀に囲まれた吉幸神社に参拝する。吉幸神社は、岩国藩主歴代
の神霊をまつり、現社殿は享保13年(1728)に白山神社内に造営され、明治18年
(1885)にこの地に移築されたとのこと。
檜皮葺の神門を入ると拝殿があり、奥の本殿や弊殿、石鳥居など、何れも国の重要文化
財で、岩国藩大工の高い技術のうかがえる江戸中期の建築という。
石鳥居をくぐって社殿を離れ、境内南隅の堀際に立つ錦雲閣(きんうんかく)に回る。
旧藩時代には3階建ての南櫓のあった場所。明治18年(1885)に居館跡が公園にな
ったとき、この絵馬堂が建設されたとか。やはり国登録有形文化財である。
お堀に影映すツツジを眺め、開花前の牡丹園に隣接する旧吉川邸厩門(うまやもん)に
回る。
岩国藩13代藩主で、明治維新後は岩国藩知事も務めた吉川経健(つねたけ)邸附属の
長屋門。正面の邸宅↓が明治25年(1892)の棟上げなので、ほぼ同時期のものと考
えられるようだ。こちらも国登録有形文化財である。
門の中からふり返る吉幸公園の彩り。
岩国に関係する歴史資料や美術工芸品などを収蔵するという岩国徴古館↑前を戻り、吉
川家ゆかりの武具や古文書、美術工芸品などを展示しているという吉川史料館前を通過す
る。
岩国出身の女流作家、宇野千代の言葉を記した、木製の碑の前を過ぎる。まだ開花前の
吉香花菖蒲園の南端付近には、剣を構えた佐々木小次郎像があった。
川沿いの車道に出て、再び錦帯橋を渡り左岸に戻る。
2階が「橋の駅」になっているバス乗り場に、13時15分に着いた。13時20分発
岩国駅行きの電車型バス「いちすけ」号に乗る。
ちなみに「いちすけ」とは、白山比神社境内に「立志の碑」があった「日本のエジソ
ン」藤岡市助のこと。藤岡博士は、明治42年(1909)から昭和4年(1929)ま
で市内を走っていた路面電車、岩国電気軌道を設立し、社長を務めていたという。
いちすけ号は、その軌道跡を転用した道路を運行している。レトロな駅舎のJR岩徳
(がんとく)線の西岩国駅前を通過し、13時42分に岩国駅に着いた。
駅構内のめん処「まつの屋」で遅い昼食をして、14時41分発JR山陽本線下り電車
に乗る。瀬戸内海に沿って南下する。
15時7分に大畠(おおばたけ)駅で下車した。
周防大島(すおうおうしま)行きバスまで1時間近くあるので、駅から仏像の見えた、
近くの高台にあるお寺に行く。
寺の名は分からなかったが、境内からは瀬戸内海の展望が広がり、バスで渡る周防大島
への玄関口である大島大橋や、周防大島の山並みなどが一望できる。
16時発、周防大島東端の周防油宇行き防長バスに乗る。バスは大島大橋を渡って周防
大島の西端に入り、東西に長い島の北側を進む。
宿泊地に近い周防長崎バス停には16時42分に着き、そばにある今夜の宿、かわい寿
し旅館に入った。
(天気 晴、地図 「城下町岩国(錦帯橋)の史跡を訪ねて」(絵図)、歩行地 山口県岩
国市)
国内旅行 ブログランキングへ
にほんブログ村
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます