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あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

熊野古道中辺路を歩く①(熊野速玉神社と新宮市内)

2008-11-06 22:32:58 | 熊野古道を歩く
 熊野古道中辺路(なかへち)と高野山への歩き旅を終え、4日夜
帰宅しました。
 
 延べ11日の旅の模様を、これから順次紹介しますが、今月前半
は幾つかの予定があり、連続的に報告できないかもしれません。

 今日は、初日の模様です。

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 第1日 2008年10月25日(土)
 =熊野速玉大社と新宮市内を巡る=


 
 東京駅7時33分発ひかり403号に乗り、名古屋から特急南紀
3号に乗り換え、13時25分に新宮駅に着いた。

 駅に近いビジネスホテルにザックを置き、熊野三山(速玉・那智・
本宮の各大社)のひとつ、熊野速玉大社と、新宮市内の社寺を少
しだけ巡ることにした。

 熊野速玉大社は、駅の西北西にあり、すぐ北を和歌山県と三重
県との県境になる熊野川が流れている。

 駅から北東へ線路沿いの道を進み、石段を上がって市民の憩い
の場で、「丹鶴城公園」と呼ばれる新宮城跡に上がる。

 新宮城は、別名丹鶴城と呼ばれ、関ヶ原合戦の後、和歌山城主
淺野幸長の家臣、淺野忠吉が慶長6年(1601)に築城を開始した
とのこと。

 城はないが石垣が残り、台地上なので和歌山市内や熊野灘、熊
野川の向こうに紀伊山地の山並みなどの展望がよい。


 城跡を下り、西に真っ直ぐ進むと、熊野速玉大社である。

 大きな朱の鳥居をくぐり、塗りかえて鮮やかな社殿に参拝して、
明日からの熊野古道中辺路歩きの安全などを祈る。


 背後の森は豊富なナギに覆われ、境内にも、ご神木で平重盛の
お手植えとして知られ、幹回り6m、高さ20mで、わが国最大とい
うナギの巨木がある。


 社殿の前には、熊野御幸と記された石碑があり、後白河上皇三
十三度、後鳥羽上皇二十九度など、熊野詣でをされた皇室の名と
その度数が記されていた。

 境内にはほかに、樹高21m㍍、目通り幹回り1.65mの、モク
レン科の常緑高木、オガタマノキや、近くで育った文豪で詩人、
佐藤春夫の句碑などがある。

 神社背後から続くナギの純林の南側に沿う狭い通りを、南に向
かう。城下町の面影を残す家並みは別当屋敷町と呼び、旧建設省
の手作り郷土賞に入賞している。


 その一軒の家の柵にはうツタカエデが、よい彩りを見せていた。


 通りに沿って幾つかの寺が続いている。その一つ、本広寺は、
延宝6年(1678)新宮城主三代の水野重上(しげたか)以後、水野
家歴代の菩提寺となっているという。


 千穂小に近い宗応寺は、山門の2階が鐘楼になっているが、由
緒などは記されてなかった。


 少し先に、朱の欄干(らんかん)の太鼓橋があり、急な石段が上
に向かって続いている。

 熊野速玉神社の摂社、熊倉神社で、熊野三山の主神降臨の霊
地、熊野信仰の根本ともいうべきところとか。

 毎年2月6日の夜、白装束に身を固めた祈願者が、神火を松明
(たいまつ)に受けて538段の急石段を下る火祭りで知られるのが、
この社なのである。

 鳥居をくぐってその階段を上がってみた。自然石を積んだ石段が
カーブしながら上がっている。

 特に下半分が急で、このようなところ、をよくかけ下りられるもの
だと、熊野の男意気に感心した。

 上がった断崖の斜面に神社が祭られ、その上に巨大な岩がのし
かかっている。


 ここからも、最初に訪ねた新宮城跡や熊野灘、熊野川河口付近
の市街地などの展望がよい。


 千穂小の横から東へ、国道42号を横断し、国の天然記念物であ
る「浮島の森」を訪ねる。

 市役所にも近い市の中心街、周辺は住宅や商店に囲まれた一角
に、東西約96m、南北約55m、面積約5000㎡という水辺に囲ま
れた緑の島のようなところ。

 縄文時代は海が侵入して島だったが、その後、海が退き、沼沢地
の植物の遺体が多数集まって形成された浮島だという。

 周遊路が設けられ、有料で入って一周できるようになっている。
島内には、スギ、ヤマモモ、イヌウメモドキ、オンツツジなどがびっし
り繁茂していた。

 駅のそばに戻ったころには、日暮れが近づき薄暗くなった。踏切
を越えて近くの徐福公園に行く。

 徐福は、2200百年ほど前、秦の始皇帝の命で、不老不死の霊
薬を求めて船出して、たどりついたところがこの熊野の地だったと
伝えられているという。

 公園内には、初代紀州徳川藩主・徳川瀬宣が建立したという徐
福の墓(下)や、新しい石像、不老の池と呼ぶコイの泳ぐ池などが
あった。


 半日足らずの新宮散策を終え、17時過ぎ、近くのビジネスホテル
に入る。

(天気 晴、距離 6㎞、地図(1/2.5万) 新宮、歩行地 和歌山県
 新宮市)
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奈良市内を回り帰途へ

2008-11-04 15:56:47 | Weblog
午前中、奈良市内巡りへ。まず、興福寺南円堂周辺から国立博物館に行き、正倉院展を見た。
開館間もなくだったが、かなりの観覧者で、はじめの方の織物とか器、飾り物などのコーナーは、五重、六重の人垣で見ることができない。
後半の文書などは、なんとか見ることができた。
文書中に天平とか天平宝字などの年号を見て、まさに天平時代のものに接したことを実感した。
常設展の仏像群もひととおり拝観する。
次に、東大寺大仏殿から二月堂を経て春日大社に参拝、猿沢の池を回り、奈良駅に13時過ぎに着く。
なぜ、修学旅行生が行くようなところを回ったかというと、これらの社寺は、西国三十三観音霊場と、9月から発足した関西霊場会加盟のところなので、ご朱印をいただくため。
これも、今回の歩き旅の目的の一つだった。
すべての予定を終え、11日ぶりの帰途についた。
京都から東京に向かう新幹線から最後のモブログです。
写真は、見ればおなじみの東大寺大仏殿
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高野山奥の院参拝、不動坂を下る

2008-11-03 16:09:42 | Weblog
高野山宿坊にて、6時30分から勤行に参加、ご住職から有益な講話をいただき、朝食をいただく。
8時30分に宿坊を出て、高野山の中心、壇上伽藍に入った。周辺の紅葉が見ごろで、もみじなどが色鮮やか。
金剛峰寺に入って拝観後、四国遍路納経帳にご朱印をいただいた。
少し雨模様だったが、奥の院に行き、昨年3月に終えた四国遍路結願のお礼参りを済ませることができた。
昼食を済ませ、不動坂を南海電車極楽橋駅に下る。
橋本乗り換えで最後の宿、奈良市内に向かうJR和歌山線からの報告です。写真は壇上伽藍の根本大搭。
コメント (1)
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高野山町石道を上がる

2008-11-02 19:17:54 | Weblog
橋本から南海電車の高野線で九度山まで行き、8時19分に出発した。
好天で暖かい。近くの真田庵に参拝し、町石道の始まるところにある慈尊院と、丹生官省符神社に参拝、町石道に入った。
しばらくは柿畑の間を上がる。展望台があり、橋本の町並みや周辺の山などの展望が良い。
杉や桧の樹林下になり、傾斜は緩む。しばらくは気持良い土の道を進み、二つ鳥居へ。南側の、天野の里が見下ろせる展望台があった。
少し先の地蔵堂前の芝生で、暖かい日差しざを浴びながら昼食をした。
さらに樹林下を進み、国道と交差する矢立にあった茶屋で休憩する。
その先は緩やかに上り道となり、杉の古木も現れる。
16時近く、高野山の入口、大門に上がった。高野山の通りは、連休で訪れた車で渋滞している。
その横を進み、16時10分、根本大搭の北側にある宿坊に着いた。
金剛峰寺と奥の院には、明日参拝の予定。
気温は14度と涼しい。隣の宿坊の前のもみじが、よい彩りを見せていた。
写真は今日もありません。
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田辺市内を巡り橋本へ

2008-11-01 20:16:41 | Weblog
今日は移動日、午前中に田辺市内を少しだけ回る。
まずは闘鶏神社へ。熊野三山の別宮的な地位の社とか。
南方熊楠がこの神社の森を重要な植物研究の拠点としたという。
次に、その南方熊楠顕彰館に行き、その偉大な業績を知り、隣接する熊楠の旧居も見た。市街地に残る、貴重な緑の一角であった。
近くの八坂神社には、弁慶の腰掛石があった。
最後に、蟻通神社に寄る。ご神木の立派なクスノキが2本あり、七五三詣での家族が参拝していた。
正午過ぎ、JR紀伊田辺駅を離れ、御坊、和歌山経由で、16時過ぎに橋本に着き、駅に近い旅館に入った。
明日は、南海電車高野線の九度山駅から、町石道を高野山に上がる。
携帯での写真は撮り忘れたので、写真はありません。
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