熊野古道中辺路(なかへち)と高野山への歩き旅を終え、4日夜
帰宅しました。
延べ11日の旅の模様を、これから順次紹介しますが、今月前半
は幾つかの予定があり、連続的に報告できないかもしれません。
今日は、初日の模様です。
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第1日 2008年10月25日(土)
=熊野速玉大社と新宮市内を巡る=
東京駅7時33分発ひかり403号に乗り、名古屋から特急南紀
3号に乗り換え、13時25分に新宮駅に着いた。
駅に近いビジネスホテルにザックを置き、熊野三山(速玉・那智・
本宮の各大社)のひとつ、熊野速玉大社と、新宮市内の社寺を少
しだけ巡ることにした。
熊野速玉大社は、駅の西北西にあり、すぐ北を和歌山県と三重
県との県境になる熊野川が流れている。
駅から北東へ線路沿いの道を進み、石段を上がって市民の憩い
の場で、「丹鶴城公園」と呼ばれる新宮城跡に上がる。
新宮城は、別名丹鶴城と呼ばれ、関ヶ原合戦の後、和歌山城主
淺野幸長の家臣、淺野忠吉が慶長6年(1601)に築城を開始した
とのこと。
城はないが石垣が残り、台地上なので和歌山市内や熊野灘、熊
野川の向こうに紀伊山地の山並みなどの展望がよい。
城跡を下り、西に真っ直ぐ進むと、熊野速玉大社である。
大きな朱の鳥居をくぐり、塗りかえて鮮やかな社殿に参拝して、
明日からの熊野古道中辺路歩きの安全などを祈る。
背後の森は豊富なナギに覆われ、境内にも、ご神木で平重盛の
お手植えとして知られ、幹回り6m、高さ20mで、わが国最大とい
うナギの巨木がある。
社殿の前には、熊野御幸と記された石碑があり、後白河上皇三
十三度、後鳥羽上皇二十九度など、熊野詣でをされた皇室の名と
その度数が記されていた。
境内にはほかに、樹高21m㍍、目通り幹回り1.65mの、モク
レン科の常緑高木、オガタマノキや、近くで育った文豪で詩人、
佐藤春夫の句碑などがある。
神社背後から続くナギの純林の南側に沿う狭い通りを、南に向
かう。城下町の面影を残す家並みは別当屋敷町と呼び、旧建設省
の手作り郷土賞に入賞している。
その一軒の家の柵にはうツタカエデが、よい彩りを見せていた。
通りに沿って幾つかの寺が続いている。その一つ、本広寺は、
延宝6年(1678)新宮城主三代の水野重上(しげたか)以後、水野
家歴代の菩提寺となっているという。
千穂小に近い宗応寺は、山門の2階が鐘楼になっているが、由
緒などは記されてなかった。
少し先に、朱の欄干(らんかん)の太鼓橋があり、急な石段が上
に向かって続いている。
熊野速玉神社の摂社、熊倉神社で、熊野三山の主神降臨の霊
地、熊野信仰の根本ともいうべきところとか。
毎年2月6日の夜、白装束に身を固めた祈願者が、神火を松明
(たいまつ)に受けて538段の急石段を下る火祭りで知られるのが、
この社なのである。
鳥居をくぐってその階段を上がってみた。自然石を積んだ石段が
カーブしながら上がっている。
特に下半分が急で、このようなところ、をよくかけ下りられるもの
だと、熊野の男意気に感心した。
上がった断崖の斜面に神社が祭られ、その上に巨大な岩がのし
かかっている。
ここからも、最初に訪ねた新宮城跡や熊野灘、熊野川河口付近
の市街地などの展望がよい。
千穂小の横から東へ、国道42号を横断し、国の天然記念物であ
る「浮島の森」を訪ねる。
市役所にも近い市の中心街、周辺は住宅や商店に囲まれた一角
に、東西約96m、南北約55m、面積約5000㎡という水辺に囲ま
れた緑の島のようなところ。
縄文時代は海が侵入して島だったが、その後、海が退き、沼沢地
の植物の遺体が多数集まって形成された浮島だという。
周遊路が設けられ、有料で入って一周できるようになっている。
島内には、スギ、ヤマモモ、イヌウメモドキ、オンツツジなどがびっし
り繁茂していた。
駅のそばに戻ったころには、日暮れが近づき薄暗くなった。踏切
を越えて近くの徐福公園に行く。
徐福は、2200百年ほど前、秦の始皇帝の命で、不老不死の霊
薬を求めて船出して、たどりついたところがこの熊野の地だったと
伝えられているという。
公園内には、初代紀州徳川藩主・徳川瀬宣が建立したという徐
福の墓(下)や、新しい石像、不老の池と呼ぶコイの泳ぐ池などが
あった。
半日足らずの新宮散策を終え、17時過ぎ、近くのビジネスホテル
に入る。
(天気 晴、距離 6㎞、地図(1/2.5万) 新宮、歩行地 和歌山県
新宮市)
帰宅しました。
延べ11日の旅の模様を、これから順次紹介しますが、今月前半
は幾つかの予定があり、連続的に報告できないかもしれません。
今日は、初日の模様です。
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第1日 2008年10月25日(土)
=熊野速玉大社と新宮市内を巡る=
東京駅7時33分発ひかり403号に乗り、名古屋から特急南紀
3号に乗り換え、13時25分に新宮駅に着いた。
駅に近いビジネスホテルにザックを置き、熊野三山(速玉・那智・
本宮の各大社)のひとつ、熊野速玉大社と、新宮市内の社寺を少
しだけ巡ることにした。
熊野速玉大社は、駅の西北西にあり、すぐ北を和歌山県と三重
県との県境になる熊野川が流れている。
駅から北東へ線路沿いの道を進み、石段を上がって市民の憩い
の場で、「丹鶴城公園」と呼ばれる新宮城跡に上がる。
新宮城は、別名丹鶴城と呼ばれ、関ヶ原合戦の後、和歌山城主
淺野幸長の家臣、淺野忠吉が慶長6年(1601)に築城を開始した
とのこと。
城はないが石垣が残り、台地上なので和歌山市内や熊野灘、熊
野川の向こうに紀伊山地の山並みなどの展望がよい。
城跡を下り、西に真っ直ぐ進むと、熊野速玉大社である。
大きな朱の鳥居をくぐり、塗りかえて鮮やかな社殿に参拝して、
明日からの熊野古道中辺路歩きの安全などを祈る。
背後の森は豊富なナギに覆われ、境内にも、ご神木で平重盛の
お手植えとして知られ、幹回り6m、高さ20mで、わが国最大とい
うナギの巨木がある。
社殿の前には、熊野御幸と記された石碑があり、後白河上皇三
十三度、後鳥羽上皇二十九度など、熊野詣でをされた皇室の名と
その度数が記されていた。
境内にはほかに、樹高21m㍍、目通り幹回り1.65mの、モク
レン科の常緑高木、オガタマノキや、近くで育った文豪で詩人、
佐藤春夫の句碑などがある。
神社背後から続くナギの純林の南側に沿う狭い通りを、南に向
かう。城下町の面影を残す家並みは別当屋敷町と呼び、旧建設省
の手作り郷土賞に入賞している。
その一軒の家の柵にはうツタカエデが、よい彩りを見せていた。
通りに沿って幾つかの寺が続いている。その一つ、本広寺は、
延宝6年(1678)新宮城主三代の水野重上(しげたか)以後、水野
家歴代の菩提寺となっているという。
千穂小に近い宗応寺は、山門の2階が鐘楼になっているが、由
緒などは記されてなかった。
少し先に、朱の欄干(らんかん)の太鼓橋があり、急な石段が上
に向かって続いている。
熊野速玉神社の摂社、熊倉神社で、熊野三山の主神降臨の霊
地、熊野信仰の根本ともいうべきところとか。
毎年2月6日の夜、白装束に身を固めた祈願者が、神火を松明
(たいまつ)に受けて538段の急石段を下る火祭りで知られるのが、
この社なのである。
鳥居をくぐってその階段を上がってみた。自然石を積んだ石段が
カーブしながら上がっている。
特に下半分が急で、このようなところ、をよくかけ下りられるもの
だと、熊野の男意気に感心した。
上がった断崖の斜面に神社が祭られ、その上に巨大な岩がのし
かかっている。
ここからも、最初に訪ねた新宮城跡や熊野灘、熊野川河口付近
の市街地などの展望がよい。
千穂小の横から東へ、国道42号を横断し、国の天然記念物であ
る「浮島の森」を訪ねる。
市役所にも近い市の中心街、周辺は住宅や商店に囲まれた一角
に、東西約96m、南北約55m、面積約5000㎡という水辺に囲ま
れた緑の島のようなところ。
縄文時代は海が侵入して島だったが、その後、海が退き、沼沢地
の植物の遺体が多数集まって形成された浮島だという。
周遊路が設けられ、有料で入って一周できるようになっている。
島内には、スギ、ヤマモモ、イヌウメモドキ、オンツツジなどがびっし
り繁茂していた。
駅のそばに戻ったころには、日暮れが近づき薄暗くなった。踏切
を越えて近くの徐福公園に行く。
徐福は、2200百年ほど前、秦の始皇帝の命で、不老不死の霊
薬を求めて船出して、たどりついたところがこの熊野の地だったと
伝えられているという。
公園内には、初代紀州徳川藩主・徳川瀬宣が建立したという徐
福の墓(下)や、新しい石像、不老の池と呼ぶコイの泳ぐ池などが
あった。
半日足らずの新宮散策を終え、17時過ぎ、近くのビジネスホテル
に入る。
(天気 晴、距離 6㎞、地図(1/2.5万) 新宮、歩行地 和歌山県
新宮市)