あるきメデス

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関東山の辺の道⑬ 佐野から足利まで(栃木)

2014-10-19 22:42:17 | 関東山の辺の道
 2014年10月17日(金)

 私のオリジナルウオーク、関東平野の外縁を反時計回りに歩きつなぐ「関東山の辺の道」
の13回目を1年1か月ぶりに実施した。スタートはJR両毛線と東武佐野線の佐野駅。
南口を9時13分に出発する。


 線路に平行する昇栄通りを少しで、交差する殿町通りへ。嘉永6年(1853)には、
佐野領主だった井伊直弼(いいなおすけ)が通ったという。

 万町交差点で県道67号・例幣使(れいへいし)街道に入る。通りには、江戸後期から
明治時代に建てられた見世蔵造りの商家が幾つか残る。




 さらに二つ南の通りに回り、観音寺へ。

 佐野七福神の大黒天の寺なので石造大黒天像が祭られ、その先のお堂に、寛文9年
(1669)に天明の3人の鋳物師による合作という、像高3.13mの銅造阿弥陀如来
座像が祭られていた。
        

 道路の斜向かいにある佐野市観光物産会館に入り、パンフレットを入手し草餅を求める。


 南側の広い敷地一帯は、佐野厄除け大師で知られる惣宗寺である。

 重厚な山門を入ると、新しいお堂に金ぴかな金銅大梵鐘が下がる。
        
 厄除元三慈恵大師の1千年を記念して建立され、直径1.15m、重量約2トンあり、
日本一大きな金の梵鐘だという。

 正面には、地元佐野市小中(こなか)町生まれで足尾銅山鉱毒被害を明治天皇に直訴す
るなど、人権の尊重と自然保護のために尽力した田中正造の墓がある。
        


 近くには朱塗りの鐘楼があり、右手正面に厄除元三大師を祭る大本堂↑や、新書院、佐
野東照宮↓など、きらびやかな建物が並ぶ。



 東照宮の唐門横から境内を出て、西に向かう。そばの交差点際には涅槃寺(ねはんじ)
があり、東側交差点近くに、天和2年(1682)に江戸、白金の松秀寺から勧請したと
いう、日限(ひぎり)地蔵尊が小さいお堂に祭られていた。
        
 日限とは、日を決めて願いをかければ必ずその日までに願いがかなうという、ありがた
いお地蔵さんだという。


 秋山川の天明大橋を渡る。国道7号との交差点を右折して北へ、平行する流れの西側に
迂回して佐野市郷土博物館に行く。

     田中正造像

 直訴状や遺品など、田中正造ゆかりの資料が展示されているというが、たくさんの小学
生が入館したばかりなのと、撮影には面倒な手続きがいるとのこと、さらにこの先の時間
も考え、ざっと見ただけで退館した(入場無料)。

 西中の東から北側の通り回る。この通りも例幣使街道で、路上にその看板が下がる。隣
接する煙草苗育布工場のところでJR両毛線の踏切を渡り、広々とした田園地帯を北進す
る。

 刈り入れ前の水田もかなり残り、その北側に緩やかな山並みが望まれ、その一つの山頂
付近に「大小」の文字が見える。この山の名は、午後、その近くまで行って地図を見て分
かった。


 しばらく北進する途中には、コンバインで収穫中の田んぼもあった。吹きさらしで西風
が強く感じられる。

 水田地帯の北端まで進んで県道237号に入ると、田中正造の生地、小中町。すぐ先の
T字路を北に少しで、田中家の累代墓所で田中正造の菩提寺という浄蓮寺がある。

 本堂背後の墓地を回ったが、田中家の墓地は確認できなかった。


 県道に戻り、交差点の少し先が県指定史跡の田中正造旧宅。県道に面して表門と2階建
ての隠居所が、奥に母屋↓や土蔵があり、毎週火木土日曜日に公開しているというが、こ
の日は公開日でないので外観を見るに止める。


 県道を挟んで南側には「義人田中正造翁生誕の地」の標識が立ち、小公園のような敷地
の奥に屋根付きの大きな墓があり、田中正造とカツ夫人が合祀(ごうし)されていた。
    

 すぐ先の交差点際に背の高いイチョウがそびえ、傍らに「小堀鞆音画伯生家跡」の大き
な碑が立つ。
     
 小堀鞆音(こぼりともと)は、文久4年(1864)この地生まれの日本画家。初めは
狩野派を学び、のち歴史人物画から大和絵に進み、私塾で国学や漢学も学んだとか。東京
美術学校助教授や文展審査員となり、歴史画を得意とし、安田靫彦、前田青邨らに影響を
与え、勤王家としても知られたという。


 すぐ先の旗川の旗川橋を渡ると、佐野市から足利市に入る。右岸沿いに少し進んで工場
の南から西側の田園地帯に出る。


    
 東根集落に入り、素朴な地蔵堂や3棟分が連接した長い土蔵のある民家横などを通過し
て、医王寺に入る。

 天慶5年(942)の建立で、幾多の変遷を経て元禄元年(1688)に、越後の秀継
和尚が本堂と薬師堂を再建したという。

        
 敷地は広いが樹木は少なく、開放的な境内。明和元年(1764)の建立で高さ4.2
mの宝塔↑があり、小さいお堂には十九夜塔が祭られている。石の上に祭られた「派祖専
誉僧正」像を覆う木陰で昼食にしたが、休んでいると西からの風が冷たく感じられた。


 隣接する西根集落を抜けて出流(いづる)川を渡る。路傍に「県重要文化財木造勝観世
音菩薩立像」碑があり、そばの観音山山裾の斜面に青屋根が見えたので、その石段を上が
ってみる。


 山門の両側に、保存状態の惜しまれる足利市文化財の木像金剛力士像が祭られ、さらに
石段を上がると、やはり市重文の稲岡観音堂があった。文書や正面の額などから江戸時代
前半の建築と考えられるとか。堂内は暗くて、観世音菩薩立像は確認できない。

 すぐ先の右カーブする山裾の路傍に、いずれも足利氏文化財の石造勢至菩薩供養塔と石
造廻国供養塔が祭られ、勢至菩薩供養塔↓は、寛政8年(1769)の建立と記されてい
るという。
        

 斜面を少し上がると、観行寺(かんぎょうじ)跡に小さいお堂があり、その上部には
「西場の百観音」と呼ぶ、前列に西国三十三番、中列に坂東三十三番、後列に秩父三十四
番の石仏が整然と並んでいた。


 造立は寛政2年(1790)~10年で、保存状態も良く、当時の民衆の厚い信仰を物
語る貴重なものとして、足利市民俗文化財となっている。
    

 百観音からは、刈り入れ前の田んぼの展望が広がる。
 


 観音山の南麓に延びる西場町の集落沿いを西進する。その西に続く大小山(318.6
m)が近づき、「大小」の文字もよく読めるようになった。


 山裾に続く小坂集落を半円状に回り、田園地帯を真っ直ぐ伸びてきた道路と合した山裾
に、三社神社のどっしりした社殿があった。

 拝殿の天井には足利市重要文化財で、百歌仙図と花鳥図の112枚が描かれた天井絵が
あるというが、拝殿前面の狭い格子からのぞいてみても暗くて分からない。

 描いたのは幕末から明治に佐野や足利東部で活躍した絵師、藤英悦で、先ほど通過した
小中に生家跡碑のあった小堀鞆音の父という。

 街路樹と広い歩道のある通りを横断し、JR両毛線富田駅の北に広がる駒場町の住宅地
を西に抜けて、県道67号に入る。

 北斜面上の広いエリアに、肥前鍋島藩の陶磁器を多数所蔵するという栗田美術館がある
が、時間が気になるので寄らず。県道の北側の旧道を入って迫間町へ。


 小集落の中ほどの高台に、熊野神社↑と東善院が並んでいた。熊野神社にはソメイヨシ
ノが数本あり、東善院の本堂前にはミカンが色づき、そばの地蔵尊にそのミカンが供えら
れている。石段の横には阿弥陀堂もあった。


 中心を真っ直ぐに県道が貫く大久保町↑の西側山際にあった、日光鹿島神社に寄り小休
止する。

 拝殿の文字は、連合艦隊司令長官や侍従長、太平洋戦争終戦時の首相をなどを努めた、
鈴木貫太郎の海軍中将時代の書である。
    

 この本殿の天井にも、江戸末期の嘉永2年(1849)、佐野の絵師、田村定衛門安貞
が描いたという、花鳥を中心とした77枚の天井絵があるようだが、やはり暗くて認識で
きない。本殿の右手前には、モミの高木が目につく。
    


 県道を少しで毛野小の横から旧道で八椚町を西に抜け、さらに山裾の旧道を進む。標高
112.3mの山を背にして天満宮↑があり、県道に接近した山川町の山裾には白鬚神社
が祭られていた。


 名草川の左岸に突き当たり県道に戻る。日没が近づいて太陽が低くなり、向かい風が冷
たい。

 足利の市街地に入った助戸一丁目に、足利厄除大師、龍泉寺の大きな看板が目についた
ので寄る。

 境内を南側に回ると、コンクリード造りの大本堂や宝形(ほうぎよう)造りの観音堂な
どがあり、観音堂のそばには堂々たるクスノキの古木が高く枝を広げていた。東側にはり
っぱな幼稚園も併設されている。
    

 寺は足利坂東三番札所、ぼけ封じ関東二十四番札所などで知られているようで、参詣人
も多そう。佐野の厄除け大師は知っていたが、隣の足利にも厄除け大師があったとは知ら
なかった。

 駅に近い伊勢町一丁目に入ると、県道の電線は地中化されて見通しが良い。

      
 点灯されたガス灯スタイルの電灯には、足利学校の飾り付けも施されていた。
      

 クラシックスタイルのJR両毛線足利駅前を通過する。


 線路を横断する地下道際に、電気機関車EF60123号が保存展示されていた。駅前
や公園などにSLの展示は多いが、近年まで走っていた電気機関車の展示は珍しい。



 地下道を南に抜けて渡良瀬川沿いを進み、中橋を渡って今日のゴール、東武伊勢崎線の
足利駅に16時30分に着いた。


(天気 快晴、距離 21㎞、地図(1/2.5万) 佐野、足利南部、歩行地 佐野市
 足利市、歩数 36,700) 




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