第2回 2002年3月30日(土) 〈群馬藤岡から用土まで〉
前日の大雨が去り、好天となったJR八高線の群馬藤岡駅には、前回より多い13人集
まる。
私が用意した地形図と、Kaさんが、読みやすいように8時間余りかけて文字の上下を入
れ替えたという「鎌倉街道夢紀行」掲載の地図を持って、9時50分に駅を出た。
=神流川を越えて埼玉県へ=
まず、八高線の西に平行する道と南に向かう。大きな鬼瓦のある寺があった。南側から
回ると大本堂が新しい成道寺。鬼瓦があるのは旧本堂らしい。
鬼瓦は屋根の上下だけでなく中間にもある。庭には大きな布袋さんが座っていた。
寛政9(1797)年銘の道祖神の横から踏切の東に出る。梨畑ではもう花が咲きだし
ていた。国道254号線に合する手前の寿楽寺にも、大きな鬼瓦が載っている。
神流川(かんながわ)の藤武橋を渡る。北西の風が強くて帽子が飛ばされそう。男体山
や赤城山、浅間山などの展望が良い。河原の枯れ木立の間にはナノハナがたくさん咲く。
橋の途中で埼玉県に入る。県境は神川町だが、200mほどでいったん上里町を通過し、
橋を渡り終えて堤防沿いに南へ、元肥土集落に入る。
庚申塔や道祖神の並ぶ↑カーブの右手に見えた広野神社で最初の休憩。大きなケヤキが
2本あり、若桜が満開。
小さい祠(ほこら)に、「肥土の石棒」と呼ばれる長さ156㎝の石棒が祀ってあった。
近くから出土したもので、縄文時代のものと考えられているようだ。
中肥土の火の見の先で鎌倉街道に入り、神川町役場に寄る。
八高線に乗り遅れた人がいないか、丹荘駅へ確認に行ったがいなかった。
=桜が満開の雉岡城址=
昨年6月の例会でも歩いたポピー畑の横を進んで線路の北に出る。
八高線をまたぐ道路下にある女堀川の雀の宮橋↑を渡ると児玉町。
ボーリング場の角から国道254号線に入り、町の中心街を進んで12時55分、雉岡
(きじおか)城跡である城山公園に着いた。
雉岡城は八幡山城とも呼ばれ、中世、上杉顕定の居城として築城、その後、鉢形城主・
北条氏邦の持城となり、小田原北条氏の滅亡とともに落城、慶長6(1601)年に廃城
になった。
園内を覆うようにソメイヨシノが満開。露店も出て家族連れなどで賑やか。昨年の例会
では葉が茂って薄暗い感じだったが、今日は花の下で明るい。
持ち寄りのおかずや果物など、いろいろいただきながら昼食と花見を楽しんだ。
=児玉町から小山川へ=
13時45分に出発。消防署の横を入り、昨年の例会でも寄った実相寺へ。拝観は出来
ないが、本尊の阿弥陀三尊は寄せ木造・玉顔で鎌倉中期の作。
本堂前のシダレザクラが満開である。
国道のT字路を右折すると八幡神社。
平安末期、源頼義・義家により創建と伝えられている古社。享保7(1722)年再建
という社殿の彫刻が緻密で見事。
珍しい青銅造りの鳥居とともに、県の有形文化財である。広い境内には、筆塚や高札場、
講の参詣記念碑が幾つも並ぶ石塚などがあり、大きなケヤキも目についた。
神社の裏手、東北にある玉連寺は、文永8(1271)年に日蓮聖人が佐渡流罪の折、
児玉六右衛門時国邸に1泊した地。時国は日蓮入没後に邸宅を寺院にして、東光山玉連寺
と名付けたという。
住職が、本堂を開けて見せて下さった。ソメイヨシノが咲く墓地には、高さ2.4mで
梵字が深く刻まれた鎌倉後期の板碑があった。
寺の東側に出て鎌倉街道に戻る。法養寺の先で国道を越え、小山川の右岸を進む。川の
両岸は、樹齢10数年と思われる若いソメイヨシノの並木が続き、花が見ごろ。左岸は深
谷市内まで9㎞余りのサイクリング道路になっている。
堤防を500m余りで「陣街道」と記された道に出て、一里塚榎の碑のところで国道254
号線に入る。一里塚には、樹齢300年を超す一本榎があったが10年ほど前に枯れ、い
まは切り株だけが残っていた。
=摩訶池から猪俣党の里へ=
15時を過ぎて疲れが出てきた。十字路にあり、昨年6月例会でも眺めた「鎌倉街道
(上道)のみちすじ」という大きな案内板をもう一度見て、来た道とこれからの道筋を確
認する。
東側の摩訶(まか)池のそばにある東屋で休憩。昨年は気付かなかったが、池に接する
ゴルフ練習場の西側に、ふた子塚古墳と呼ぶ前方後円墳があった。
木が1本立ち、枯れ草に覆われた古墳に上がってみた。
昨年の例会でTaさんから読み方のクイズが出た、南側の瓺𦼆(みか)神社に参拝。延
喜式神明帳にも記された古社で、現在の社殿は宝暦13(1763)年の再建。
「みか」とは、酒造りに使う大きなかめのこと。神社には土師器の「みか」が4個保存
されているという。社殿の龍の彫刻が見事。境内のサクラも満開である。
鎌倉街道は、国道の西側をつかず離れずに進み、広木、白石の集落を抜ける。広木には、
万葉集にも歌われた布を洗い晒す井戸、曝井(さらしい)遺跡というのがあるが、いまは
水が無くて荒れ放題のようなので、寄らずに進む。
白石の大仏集落の十字路に、延享2(1745)年銘の六道能化地蔵尊があった。この
辺りの家並みには、当時の雰囲気が感じられる。集落の東には大きな馬頭尊と庚申塔が立
っていた。東側には、やわらかな新緑の広がる遺跡の森公園の林が見える。
天神川の手前で、鎌倉街道は国道254号線に合する。橋のそばに地酒、奈良漬けの天
仁という酒造店があった。川の東側の猪俣集落は、武蔵七党の一つ猪俣党の本拠地。平家
物語にも登場する猪俣小平六の館跡や墓もあるが、1㎞余り回り道となるので通過する。
野中集落の十字路で国道は右折、鎌倉街道は直進なのでそのまま進み、すぐ先の普門寺
で最後の休憩。境内の20本近いソメイヨシノが満開。本堂西側には、古い石仏が50体
近く並んでいた。
さらに1㎞余り進んで17時30分、無人のJR八高線用土駅に着いた。少し待ってく
れたが全員揃わず、タッチの差で上り八高線は出た。
15分ほど離れた酒屋まで7人で行き、買ってきてくれた缶ビールなどで乾杯。18時
26分発の高麗川行きに乗る。
(参加 13人、天気 晴、距離 20㎞、地図(1/2.5万) 藤岡、本庄、寄居、
歩行地 藤岡市、神川町、上里町、児玉町、美里町、寄居町)
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前日の大雨が去り、好天となったJR八高線の群馬藤岡駅には、前回より多い13人集
まる。
私が用意した地形図と、Kaさんが、読みやすいように8時間余りかけて文字の上下を入
れ替えたという「鎌倉街道夢紀行」掲載の地図を持って、9時50分に駅を出た。
=神流川を越えて埼玉県へ=
まず、八高線の西に平行する道と南に向かう。大きな鬼瓦のある寺があった。南側から
回ると大本堂が新しい成道寺。鬼瓦があるのは旧本堂らしい。
鬼瓦は屋根の上下だけでなく中間にもある。庭には大きな布袋さんが座っていた。
寛政9(1797)年銘の道祖神の横から踏切の東に出る。梨畑ではもう花が咲きだし
ていた。国道254号線に合する手前の寿楽寺にも、大きな鬼瓦が載っている。
神流川(かんながわ)の藤武橋を渡る。北西の風が強くて帽子が飛ばされそう。男体山
や赤城山、浅間山などの展望が良い。河原の枯れ木立の間にはナノハナがたくさん咲く。
橋の途中で埼玉県に入る。県境は神川町だが、200mほどでいったん上里町を通過し、
橋を渡り終えて堤防沿いに南へ、元肥土集落に入る。
庚申塔や道祖神の並ぶ↑カーブの右手に見えた広野神社で最初の休憩。大きなケヤキが
2本あり、若桜が満開。
小さい祠(ほこら)に、「肥土の石棒」と呼ばれる長さ156㎝の石棒が祀ってあった。
近くから出土したもので、縄文時代のものと考えられているようだ。
中肥土の火の見の先で鎌倉街道に入り、神川町役場に寄る。
八高線に乗り遅れた人がいないか、丹荘駅へ確認に行ったがいなかった。
=桜が満開の雉岡城址=
昨年6月の例会でも歩いたポピー畑の横を進んで線路の北に出る。
八高線をまたぐ道路下にある女堀川の雀の宮橋↑を渡ると児玉町。
ボーリング場の角から国道254号線に入り、町の中心街を進んで12時55分、雉岡
(きじおか)城跡である城山公園に着いた。
雉岡城は八幡山城とも呼ばれ、中世、上杉顕定の居城として築城、その後、鉢形城主・
北条氏邦の持城となり、小田原北条氏の滅亡とともに落城、慶長6(1601)年に廃城
になった。
園内を覆うようにソメイヨシノが満開。露店も出て家族連れなどで賑やか。昨年の例会
では葉が茂って薄暗い感じだったが、今日は花の下で明るい。
持ち寄りのおかずや果物など、いろいろいただきながら昼食と花見を楽しんだ。
=児玉町から小山川へ=
13時45分に出発。消防署の横を入り、昨年の例会でも寄った実相寺へ。拝観は出来
ないが、本尊の阿弥陀三尊は寄せ木造・玉顔で鎌倉中期の作。
本堂前のシダレザクラが満開である。
国道のT字路を右折すると八幡神社。
平安末期、源頼義・義家により創建と伝えられている古社。享保7(1722)年再建
という社殿の彫刻が緻密で見事。
珍しい青銅造りの鳥居とともに、県の有形文化財である。広い境内には、筆塚や高札場、
講の参詣記念碑が幾つも並ぶ石塚などがあり、大きなケヤキも目についた。
神社の裏手、東北にある玉連寺は、文永8(1271)年に日蓮聖人が佐渡流罪の折、
児玉六右衛門時国邸に1泊した地。時国は日蓮入没後に邸宅を寺院にして、東光山玉連寺
と名付けたという。
住職が、本堂を開けて見せて下さった。ソメイヨシノが咲く墓地には、高さ2.4mで
梵字が深く刻まれた鎌倉後期の板碑があった。
寺の東側に出て鎌倉街道に戻る。法養寺の先で国道を越え、小山川の右岸を進む。川の
両岸は、樹齢10数年と思われる若いソメイヨシノの並木が続き、花が見ごろ。左岸は深
谷市内まで9㎞余りのサイクリング道路になっている。
堤防を500m余りで「陣街道」と記された道に出て、一里塚榎の碑のところで国道254
号線に入る。一里塚には、樹齢300年を超す一本榎があったが10年ほど前に枯れ、い
まは切り株だけが残っていた。
=摩訶池から猪俣党の里へ=
15時を過ぎて疲れが出てきた。十字路にあり、昨年6月例会でも眺めた「鎌倉街道
(上道)のみちすじ」という大きな案内板をもう一度見て、来た道とこれからの道筋を確
認する。
東側の摩訶(まか)池のそばにある東屋で休憩。昨年は気付かなかったが、池に接する
ゴルフ練習場の西側に、ふた子塚古墳と呼ぶ前方後円墳があった。
木が1本立ち、枯れ草に覆われた古墳に上がってみた。
昨年の例会でTaさんから読み方のクイズが出た、南側の瓺𦼆(みか)神社に参拝。延
喜式神明帳にも記された古社で、現在の社殿は宝暦13(1763)年の再建。
「みか」とは、酒造りに使う大きなかめのこと。神社には土師器の「みか」が4個保存
されているという。社殿の龍の彫刻が見事。境内のサクラも満開である。
鎌倉街道は、国道の西側をつかず離れずに進み、広木、白石の集落を抜ける。広木には、
万葉集にも歌われた布を洗い晒す井戸、曝井(さらしい)遺跡というのがあるが、いまは
水が無くて荒れ放題のようなので、寄らずに進む。
白石の大仏集落の十字路に、延享2(1745)年銘の六道能化地蔵尊があった。この
辺りの家並みには、当時の雰囲気が感じられる。集落の東には大きな馬頭尊と庚申塔が立
っていた。東側には、やわらかな新緑の広がる遺跡の森公園の林が見える。
天神川の手前で、鎌倉街道は国道254号線に合する。橋のそばに地酒、奈良漬けの天
仁という酒造店があった。川の東側の猪俣集落は、武蔵七党の一つ猪俣党の本拠地。平家
物語にも登場する猪俣小平六の館跡や墓もあるが、1㎞余り回り道となるので通過する。
野中集落の十字路で国道は右折、鎌倉街道は直進なのでそのまま進み、すぐ先の普門寺
で最後の休憩。境内の20本近いソメイヨシノが満開。本堂西側には、古い石仏が50体
近く並んでいた。
さらに1㎞余り進んで17時30分、無人のJR八高線用土駅に着いた。少し待ってく
れたが全員揃わず、タッチの差で上り八高線は出た。
15分ほど離れた酒屋まで7人で行き、買ってきてくれた缶ビールなどで乾杯。18時
26分発の高麗川行きに乗る。
(参加 13人、天気 晴、距離 20㎞、地図(1/2.5万) 藤岡、本庄、寄居、
歩行地 藤岡市、神川町、上里町、児玉町、美里町、寄居町)
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