あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

鎌倉街道上道を歩く① =高崎から群馬藤岡へ=(群馬)

2023-09-01 20:24:48 | 鎌倉街道上道を歩く
 残暑が治まらず、新しいレポートづくりのための歩きが出来ないので、21年前の
2002年2月から11月にかけて歩いた、鎌倉街道上道(かみつみち)のレポートを
9回に分けて報告します。

 当時、私はまだデジカメでなくてフィルムカメラで撮り、プリントがやや色あせていま
すがご了承下さい。

========================================

 第1回 2002年2月16日(土) 〈高崎から群馬藤岡まで〉

 カントリーウオークグループの2月例会にて、「この指止まれ」で「鎌倉街道上道(か
みつみち)を高崎から鎌倉の鶴岡八幡宮まで歩きませんか」と呼びかけ、第1回をさっそ
くその週末の今日実施することにした。

 ちなみに鎌倉街道とは、鎌倉時代に幕府のある鎌倉と各地を結んだ道路網のことで、鎌
倉幕府の御家人が有事の際に「いざ鎌倉」と鎌倉殿のもとに馳せ参じた道。

 特によく知られるのが、上道(かみつみち、かみのみち)・中道(なかつみち、なかの
みち)・下道(しもつみち、しものみち)と呼ばれる関東地方を中心に広がる主要な幹線
道3本。さらに支線も加わり、いまも「鎌倉街道」の名を残すところも多い。

 このうち、鎌倉街道上道として定説化しているのは、鎌倉から武蔵西部を経て上州に至
る古道で、鎌倉から化粧坂、瀬谷、本町田、小野路、府中、所沢、入間、笛吹峠、奈良梨
(小川町)、山名を経て高崎までのルートのよう。今回は、このコースを北から南へ、高
崎から鎌倉まで群馬、埼玉、東京、神奈川の1都3県をはせ参じようという企画である。

 なお、参考にしたのは、「鎌倉街道夢紀行 上道コース」(テレビ埼玉編、さきたま出
版会発行)である。
     

   本書に記載の鎌倉街道の全体図
   
      この図の左上、高崎から中央部下(南へ)鎌倉へのルートが上道

 =高崎駅から市内の旧跡へ=

 3人くらいは参加するかなと八高線経由で高崎駅へ行ったら、11人も集まった。

 駅西口をバックに記念撮影し、10時15分「いざ鎌倉!」へと出立した。


 穏やかな快晴でウオーク日和。まず西に向かい、鎌倉時代初期に和田正信が築いたとい
う和田城、のち井伊氏が大きく改修した高崎城跡へ。

 現在残るのは三の丸外囲の土居と堀、そして乾櫓(いぬいやぐら)と東門で、一帯は公
園になっている。


 公園と高層建築の市役所との間を南へ、噴水のある公園を抜けて光明寺横に出る。


 古墳上に護摩堂があったので、ここで旅の安全を祈願する。


 聖石橋に通じる車道を横切り小万坂を下る。国道17号線を横断、城南大橋下から烏川
左岸に出る。西側の展望が開け、真っ白な浅間山が見えてきた。

 少し先で左折、上信電鉄の踏切を越えると琴平神社。等身大の古い烏天狗が二つ立つ。
     
 本殿は小山の上。大ケヤキや大きなムクノキがある。北側の荘厳寺との間の細道が鎌倉
街道だと、Kuさんが寺の人に聞いてきた。

 細い路地を上越新幹線の東へ。和田多中町の三差路に双代道祖神があるのを、Kaさん
が見つけた。男女神が体を触れていないのは珍しく、県下で唯一のようだ。
     

 佐野窪町の三差路近くに、佐野の船橋歌碑があった。

 「かみつけの 佐野の船はし とりはなし 親はさくれど わはさかるがへ」と万葉集
東歌の一首が刻まれている。碑文は文政10(1827)年の記。

 『橋には烏川を挟んだ二つの村の男女の伝説があり、謡曲「船橋」の素材になった。歌
碑は二人の怨霊を慰めるために建てられた』と記されていた。

 その先で案内に従い右折、新幹線線路際の常世(つねよ)神社に寄る。


     
 室町時代の謡曲「鉢の木」の舞台になったと言われるところ。小さな社の前に、佐野源
左衛門常世が鉢の木を切っている絵がある。

 一昨年秋の特別例会にて、今日参加されたIeさんの生家近くの佐野市内で、源左衛門
の館跡に寄っており、不思議な縁を感じた。

 200m余り先、新幹線西側の杉林の森に定家神社があった。創建は江戸時代中期で、
祭神は鎌倉時代の和歌の名人・藤原定家。本殿内には定家の
               「来ぬ人の 待つほの潮の夕なぎの…」の掲額がある。

 定家は、家督を子の為家に譲った後、この佐野の松原に庵を結んだという。境内には古
墳も2基あった。


 ここで正午になったが、昼食はおあずけ。東に浅間山古墳を見ながら佐野町を抜け、新
幹線の西に出て交通量の多い一本松橋を渡る。 橋からの浅間山や妙義山方面


 橋の西側が高崎商科短大。トイレ借用の了解を得て、烏川右岸土手にザックを下ろす。

 静かな川面の向こうに浅間、妙義、榛名などの山並みを眺めながら昼食にした。


 =山名八幡宮から古墳群へ=

 40分の昼食を終えて13時15分に出発する。車道を700mほど進み上信電鉄山名
(やまな)駅の横に入り、線路下をくぐって西側の山名八幡宮へ。

 太いケヤキが2本。石段上の本殿は、平成3(1991)年に塗り直したという極彩色
の「神を守る動物」の彫刻で彩られている。

 明和6(1769)年に上州田沢村の関口文治郎の刻。本殿は裏側からも参拝で来る珍
しい造り。本殿裏の丘陵に続く道が鎌倉街道だったからだという。


 山すそを南東に進み、展望のよい田園地帯に出る。上信電鉄の南側に高さ数mの古墳が
5つ並ぶ。そばの田んぼでは、放射状に発掘した遺跡を2人で調査していた。


 回り道して鏑川(かぶらがわ)橋を渡り、藤岡市に入る。上落合集落の南に、空堀に囲
まれた国史跡の七興山古墳があった。

 地形を生かした三段構成の前方後円墳。全長148m、後円部径87m、前方部幅106m
高さ16mという立派なもの。
     
 東側から、桜の古木に覆われた墳丘に上がって休憩。高崎の町並や、浅間、赤城から日
光連山にかけての展望が良い。



 花の咲く頃もう一度来てみたいところだ。南東からの↓七興山古墳


 北原集落の東には皇子塚古墳が見え、集落の南、未舗装の細い鎌倉街道のすぐ東側には、
大きな石碑の立つ稲荷山古墳↓があった。この一帯、古墳の多いところだ。


 =吉良氏陣屋跡から神流川へ=

 15時を過ぎたが、予定の道のりは長い。ひと休みしようと下郷の龍泉寺に寄る。

 説明板を読むと、「吉良上野介の父、義冬(よしふゆ)(1606~68)が創建した
と伝えられる寺。近くに吉良氏の陣屋が置かれていて、忠臣蔵では悪名高いが、ここでは
領民から慕われた名君だった」という。

 立派なシダレザクラがあ、花時は見事であろうと思われた。

 下郷橋を渡り、鮎川の左岸を1㎞余り進む。陽が傾き西側の山並みが逆光に映える。鮎
川集落を抜け、鎌倉街道は田んぼの中を南東へ。南町の十字路には、「右鬼石道、左藤岡」
と彫られた古い道標が立つ。

 庚申山の南側を緩い上り坂が続き、庚申塔や道祖神、二十二夜塔が並ぶ辺りから下り道
に。鎌倉街道は藤岡モータースクールの先から神流川に向かってさらに真っ直ぐ伸びてい
たようだが、橋がないので車道を別所集落へ下る。


 17時近くなり冷えてきた。集落東の田の畦(あぜ)で最後の休憩。打合せをして、地
形図上、八高線の鉄橋北にある「せき」マークまで行き、渡れないようなら群馬藤岡をゴ
ールとする。

 下郷集落の東に出た。土師神社の北に本郷埴輪窯跡があるようだが寄らず、手前から八
高線を越え、線路沿いに回って神流川の左岸堤防へ。

 河原に下る道を入り、せきの見えるところに出た。残念ながらせきは大水で流され、一
部しか残っていなかった。

 川の横断は諦め、うす暗くなった根岸集落から八高線の西に出て、並行する車道を藤岡
の町並みに入る。すっかり暗くなった18時03分、群馬藤岡駅に着いた。

(参加 12人、天気 快晴後晴、距離 21㎞、地図(1/2.5万) 高崎、藤岡、
 歩行地 高崎市、藤岡市)




徒歩の旅ランキング徒歩の旅ランキング


にほんブログ村 アウトドアブログ ウォーキングへ
にほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする