今日、2月19日(土)、関東百駅巡礼歩行に参加して、JR青梅線の日向和田(ひなた
わだ)駅から、梅の公園、三室山を経て、吉川英治記念館を観覧して、二つ先の二俣尾
(ふたまたお)駅まで歩きました。
レポートは別途とし、最後に訪ねた吉川英治記念館の庭園の様子のみを紹介します。
吉川英治は、昭和19年(1944)3月、東京・赤坂から、ここ、当時の西多摩郡吉野村
(現在は青梅市柚木町)に疎開し、昭和28年8月に去るまで、10年の間住んだとのこと
です。
現在はその邸宅跡が吉川英治記念館になっていて、広い敷地は約6000㎡(約2000
坪)あり、趣ある庭園を巡れるようになっていました。
入口を入って正面にあるのが、この母屋。
母屋の左手奥には洋館があり、吉川英治は、ここで新平家物語などを執筆しました。
3度の食事も、多くはここでとったようです。
洋館のそばに咲くアシビ(馬酔木)。
広い庭園の中心に立つシイの木。樹齢は5~600年とか。
緩やかな斜面を生かした庭園の一部。
シイの木の下に建つ石像。入口付近にも同じような石像が。
早春に咲く花、マンサクが数輪、花を見せていました。
展示室には、吉川英治の執筆原稿や、新平家物語、私本太平記などの刊行本、昭和35
年(1960)に授賞した文化勲章などが展示されていました。
わだ)駅から、梅の公園、三室山を経て、吉川英治記念館を観覧して、二つ先の二俣尾
(ふたまたお)駅まで歩きました。
レポートは別途とし、最後に訪ねた吉川英治記念館の庭園の様子のみを紹介します。
吉川英治は、昭和19年(1944)3月、東京・赤坂から、ここ、当時の西多摩郡吉野村
(現在は青梅市柚木町)に疎開し、昭和28年8月に去るまで、10年の間住んだとのこと
です。
現在はその邸宅跡が吉川英治記念館になっていて、広い敷地は約6000㎡(約2000
坪)あり、趣ある庭園を巡れるようになっていました。
入口を入って正面にあるのが、この母屋。
母屋の左手奥には洋館があり、吉川英治は、ここで新平家物語などを執筆しました。
3度の食事も、多くはここでとったようです。
洋館のそばに咲くアシビ(馬酔木)。
広い庭園の中心に立つシイの木。樹齢は5~600年とか。
緩やかな斜面を生かした庭園の一部。
シイの木の下に建つ石像。入口付近にも同じような石像が。
早春に咲く花、マンサクが数輪、花を見せていました。
展示室には、吉川英治の執筆原稿や、新平家物語、私本太平記などの刊行本、昭和35
年(1960)に授賞した文化勲章などが展示されていました。