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あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

板橋区立美術館の企画展「実況中継EDO」へ(東京)

2011-10-03 21:57:39 | 江戸・東京を歩く
 2011年10月2日(日)
 
 板橋区立美術展で、「実況中継EDO」という企画展が開かれているという新聞記事を
読んでいたので、観覧に行くことにした。

 東武東上線下赤塚駅に下車して、赤塚中央通りを北西に向かう。


 1.5㎞ほど進んで松月院通りという広い通りを横断する。通りの北側が、その松月院。
「板橋十景」の一つとの標石があったので、立ち寄ることにした。

 松月院は、延徳4年(1492)千葉自胤(よりだね)が菩提寺と定めて中興開基となり、
天正19年(1591)には、徳川家康が40石を寄進し、歴代将軍の朱印状が寺宝として
秘蔵されているという。

 山門を入った右手に、「松月院のヒイラギ」と呼ぶ、ヒイラギの古木が立っている。

 高さ10m、目通り2.7mあり、樹齢約100年と推定され、板橋区天然記念物に
選定されていた。

 さらに中門を入った正面に大きな本堂があり、その前のサルスベリは、まだたくさん
花を見せていた。


 右手には、四国名産の赤虎石が奉納されている。重量は23トンあるという。


 広い境内の西側の一角には、大砲を形取った「高島秋帆先生紀功碑」が立つている。


 高島秋帆(たかしましゅうはん)は、寛政10年(1798)に長崎に生まれ、出島
のオランダ人から西洋の砲術を学び、天保12年(1841)5月、この松月院に本陣
を置き、門弟100名と現在の高島平、徳丸原にて様式砲術訓練を公開した。のちの日
本陸軍創設者の一人だという。

 この紀功碑は、安政4年(1857)に鋳造された鋼製24斤加農砲(かのんほう)
を碑心にしたもので、高さ6mとのこと。

 次の小さい交差点の先、斜面林の下に、「赤塚不動の滝」と呼ぶ滝が落下していた。

 いまの流れは細いが、かつて板橋区内のがけ下には、いたるところで水が湧き、この
滝もその一つ。江戸中頃から富士山や大山などに詣でる際の「みそぎ場」として使われ
ていたという。平成14年(2002)、東京都名水57選に選定されている。

 交差点まで戻って左手に入ると、「東京大仏」で知られる赤塚山乗蓮寺があった。
石段の横に閻魔堂があり、大きな閻魔様が鎮座している。


 石段を上がり山門を入ると、正面にコンクリート造りの大本堂がどっしりと立つ。


 東京大仏は、右手に鎮座している。


 そばに、天保飢饉供養塔↓や、たくさんの石仏が並んでいた。

 天保飢饉供養塔は、天保4年(1833)から7年にかけての飢饉による、板橋宿内の
死者を寺内に埋葬しその菩提を弔らうために、当時のご住職が建立したもの。台座には、
423人の戒名が刻まれている。

 乗蓮寺の南側にある、板橋区立赤塚植物園にも立ち寄る。武蔵野の面影を残す赤塚の丘
陵地を活用して、1981年に開園したとのこと。広さ約1haに約600種の樹木や草花、
山野草が植えられているという。
 

 園内のキンモクセイが、よい香りを漂わせていた。


 周遊路を上がって行くと芝生地があり、ベンチで昼食をする人も見える。


 北西端にある万葉・薬用園に咲くフジバカマ。


 さて、だいぶ寄り道をして時間が経過した。そろそろ美術館に向かわなければと、そ
ばの都立赤塚公園へ南西端から入った。

 高台なので風当たりが強かったのか、先日の台風15号の強風にやられたと思われる
大木が倒れていた。


 台地上にある赤塚公園は、室町時代の康正2年(1456)に千葉自胤が入城したと
伝えらる赤塚城跡。園内には、空堀や土塁の跡が残っている。


 公園内の広葉樹林の間を東に下って、今日の目的地である板橋区立美術館に着く。


 ここへ来ることにしたのは、9月28日のこの朝日新聞東京本社版夕刊記事である。


 目的の企画展「実況中継EDO」のリーフレット

 
 展示されていた、伊能忠敬の「日本沿海與地図」(小図)、狩野探幽の「草花写生絵
図」、円山応挙の「群獣図屏風」、池大雅の「三岳紀行」、歌川広重の「武相名所手鑑」、
河鍋暁斉の「日光地取絵巻」など、江戸時代の精密な地図や写生、スケッチなどを興味
深く鑑賞した。

 この企画展は10月10日(月・祝)まで開催中。観覧料は、一般600円で65歳
以上は半額である。

 美術館の北側にある板橋区立溜池公園の池には、釣り人がたくさん竿を垂らしていた。


 そばの、板橋区立郷土資料館にも入館して(入館無料)、旧石器時代から現代にいたる
板橋区の移り変わりの様子を観覧した。


 資料館の庭には、区内から移設した古民家や納屋、古井戸、農具などが公開されて
いる。
 
 この古民家は、徳丸4丁目の田中家寄贈のもので、江戸時代後期のものと推定されて
いる。


 横の納屋は、蓮根2丁目の中村家寄贈のもの、左手の漬物樽は、たくあん漬け用の大樽。
板橋区や練馬区は江戸時代から練馬大根の生産地として有名だった。この樽は、板橋区大
門の漬物商が使用していたもので、「とうご」と呼び、大根4千本以上が入るとのこと。

 郷土資料館を出て南東に向かい、東武東上線の隣駅である成増(なります)駅構内を抜
けて、営団成増駅から帰路についた。


【追記】当日、下車した下赤塚駅で配布されていた「マンスリーとーぶ」10月号を帰宅
後開いて見たら、連載の「新・駅前そぞろ歩記」で、私が歩いたエリアを紹介した「史跡
と美術館と秋日和の武蔵野」という記事が掲載されていた。



 この、東武鉄道お客様センター発行のPR誌は、10月上旬から東武鉄道の各駅にて
入手できる。


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稲荷町から田原町周辺の寺社を巡る(東京・台東区)(続き)

2011-09-26 22:00:00 | 江戸・東京を歩く
 9月24日(土)(続き)

 その通りの南側にある源空寺の墓地に入る。ここには、日本国中を測量して精密な
地図を造った伊能忠敬↓と、伊能忠敬に測量を指導した江戸中期の暦学者、高橋至時
(よしとき)の墓が並び、いずれも国指定史跡になっている。


 その横には、江戸初期の町奴として知られる幡随院長兵衛夫妻の墓が、近くには、江戸
後期の文人画家である谷文晁の墓↓もあり、それぞれ東京都史跡に指定されている。



 源空寺本堂は通りの北側にあり、境内のイチョウにギンナンがいっぱい。


 鐘楼には、徳川家光の勧めで寛永13年(1636)に鋳造したという、高さ2.22m
ある大型の銅鐘が下がっていた。

 この周辺に寺院が数え切れないほどあるのは、明暦の大火後、幕府の政策により寺院が移
ってきたことによるようで、当時「新寺町」と言われたことなどが、近くの「旧浅草清島町」
の説明板に記されていた。

 さらに東に進んで、矢先稲荷神社に行く。平成3年(1991)で鎮座350年になるとか。

 現在の社殿はコンクリート造りだが、昔は、京都の三十三間堂を真似た矢場があったという。
いま境内は、あまり広くなく、どの方向にその建物があったかは分からなかった。

 2本ほど南の通りを西に少し戻り、同じ松ヶ谷2丁目の聖徳寺に回る。ここには、4代将軍
家綱の承応2年(1653)に、羽村から四谷大木戸までの43㎞に及ぶ玉川上水を4か月余
りで完成させた、玉川庄右衛門と清右衛門兄弟の墓が並び、都指定史跡となっている。


 同じ道を戻ってすぐ東側、正定寺の墓地へ。ここも墓石1つ分だけの狭いスペースの墓が
並んでいるが、その中に、剣聖直心流の幕末の剣豪で、その道場に勝麟太郎(海舟)も通っ
たという剣客、島田虎之助の墓(左)と、漆喰を塗った上に鏝(こて)で絵を描くという
鏝絵の、江戸末期の絵師、伊豆長八の墓(右)があった。
 

 本堂は、4階建てのマンションのような建物の一角である。



 東側の通りは、商売の道具などの店の並ぶかっぱ橋通り。看板や、食べ物のサンプル
商品、食器の店などが連なる通りを南へ少し進み、東側の西浅草1丁目に回った。


 南側から広い境内の東本願寺に入り、大本堂に上がって参拝する。



 本堂内には数百の椅子が並び、参拝の人が次々に訪れる。涼しい境内でひと休み後、本堂
を背にして記念撮影をした。


 14時を過ぎたので、南側の浅草通りに出てひとまず解散となり、帰る人は近くの東京
メトロ銀座線の田原町駅に向かう。

 残った6人は、もう少し回ることにして、東本願寺の東側にある等光寺に行く。石塀に
埋め込まれたご住職の標石は「土岐」となっている。


 ここは、土岐善麿(ときぜんまろ)の生家であり、墓地に「一念」と刻まれた善麿の墓
が立っていた。

 土岐善麿は、明治18年(1885)生まれの歌人で国文学者。現代国語、国学の基礎
確立に尽くし、ローマ字の普及にも尽力し、多くの校歌の作詞者としても知られている。

 翌明治19年生まれの石川啄木の親友でもあり、啄木の葬儀はここで行われたとか。境内
の一隅には、啄木の歌碑もあった。


 田原町駅そばの寿四丁目交差点を渡り、南側の寿2丁目にある本法寺に、西側の門から入
った。

 門の傍らに熊谷稲荷があり、そばに「はなし塚」が立つ。

 はなし塚は、昭和16年(1941)に建立されたもので、太平洋戦争に向かうにあたり、
時局に合わない禁演落語の台本を納め、落語界先輩の霊を弔らうために建立したもの。

 戦後の昭和21年には、禁煙落語復活祭が行われ、それまでに納められた物に代えて、戦
時中の台本などが納められたという。

 境内には扇塚や筆塚もあり、西側の石塀は戦後、落語家、講談師、演芸場やラジオ放送局
などの寄進で立てられ、その名が刻まれている。




 寺の南側から東に進み、国際通りを越えて寿四丁目に入り、わずかなスペースの角地に
立つ宗吾殿へ。


 宗吾とは、江戸時代の義民で、佐倉藩の重税に苦しむ農民のために藩主堀田正信に直訴
して処刑された佐倉宗吾のこと。この地はのち、その堀田家の家系の近江堀田氏の屋敷と
なり、宗吾殿は近江堀田家で建立したらしい。

 宗吾のことは、芝居や講談の題材となって広く知られ、その縁でここの石塀も、寄進し
た講談師や落語家、寄席などの名が刻まれていた。


 これで予定のコースを巡り終え、15時過ぎ、ゴールの東京メトロ浅草線田原町駅に
下った。


 歩いたエリアは、東西、南北とも1㎞に満たないわずかなエリアだが、企画したKさん
のきめ細かな下調べのお陰で、多くの寺社の江戸時代から近代までを知る、盛りだくさん
な歴史散策ができた。

(天気 晴、参加 9人、距離 5㎞、地図 台東区1万分の1図、歩行地 台東区)

 帰宅後、夕方のテレビで、国内ただひとつ残っていた講談専門の寄席だった上野本牧亭
が、この日の講座を持って閉幕したことが報道された。午後訪ねた本法寺や宗吾殿の石塀
に、本牧亭の名が刻まれていたかもしれない。



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稲荷町から田原町周辺の寺社を巡る(東京・台東区)

2011-09-25 15:22:44 | 江戸・東京を歩く
2011年9月24日(土)

 地図愛好者グループの第21回例会があり、東京メトロ銀座線の稲荷町から隣の田原町
周辺を巡る、東京歴史散歩に参加した。


 11時に稲荷町駅上↑をスタートし、駅の北側、東上野五丁目にある永昌寺へ。


 境内左手に「講道館柔道発祥の地」碑が立っている。柔道の父、嘉納治五郎は明治15
年(1882)、ここの書院に12畳の道場を設け、柔道を始めたという。


 寺の北側の通りには、関東大震災の復興のために建設されたという古い建物がが残って
いる。

 上野下アパートと呼び、4階建ての建物は現在も使用されて、中にはこのような組織も
入っているようだ。


 上野下アパートの西側の通りを南下して、浅草通りを横断し、東上野三丁目の下谷神社
に行く。


 下谷神社は、天平2年(730)に上野忍ヶ丘に創建されたと伝えられ、祭神は日本
武尊である。近隣での2度の移転を経て、関東大震災後の昭和3年(1928)の区画
整理によりこの地に移り、昭和9年(1934)に遷座されたとのこと。


 拝殿の天井には、近くの池之端に住んでいた日本画の巨匠、横山大観の天井画が描か
れている。


 境内には、最寄りの地下鉄の駅名の起こりである稲荷神社もある。その稲荷神社の横
を南に抜けて境内を出た。

 東に向かう通りには、太平洋戦争の戦災を免れた古い民家が残り、庭のない家の前に
鉢植えをたくさん並べた家も多い。


 元浅草二丁目を東に抜けて、元浅草四丁目にある誓教寺に入った。本堂は現代風な建物。


 墓地に回ると、「富岳三十六景」などで知られる江戸後期の浮世絵師で、欧米の近代
芸術にも影響を与えた葛飾北斎の墓があり、東京都史跡になっている。


 境内には、生誕230年の平成2年(1990)に建立した葛飾北斎像もあった。


 再び北に向かい、浅草通りを松ヶ谷一丁目交差点で横断し、松ヶ谷1丁目の妙音寺に
西側の山門から入る。



 境内はよく手入れされた植栽が多く、弁天池にはりっぱなヒゴイガがたくさん泳いで
いる。池の脇に咲き出した白ハギの横の緑陰で小休止した。


 東上野6交差点を北に渡ると、西側にあるのが報恩寺。本堂はコンクリート造りで大
きく、境内にはソメイヨシノの古木が立つ。


 寺では、江戸時代から正月に四條流包丁儀式「俎板開(まないたびらき)」が継承され、
テレビなどでも報道されているという。


 境内には、慶安元年(1648)鋳造の銅鐘が、大きな鐘楼に吊され、傍らには、昭和
10年(1935)の竣工時に現在の本堂に用いられたという、高さ2m余りで重量530
㎏という大きな鬼瓦が置かれていた。


 報恩寺の北側に、「筑波」というそば屋さんがあった。正午を少し過ぎたので、ここで
昼食をすることにした。


 店内はかなり広いが、墓参に来たらしい近隣の人たちが次々に出入りして満員。私たち
も幾つかのテーブルに分かれたが、一般のそば屋さんより盛りが多くて美味い。賑わうの
も当然で、よい店に入ったとみな満足した。

 店のおすすめ、筑波そばは450円、私の食べたとろろそばは550円だった。

 道路を隔てた東側には、いまは都内でも数少なくなった銭湯が残り、煙突から煙が上が
っていた。


 北側の通りを西に入って、次は上野小の北にある法善寺へ。本堂は近代的なコンクリート
造り。


 本堂右手の墓地に、天保5年(1834)と7年に江戸の風俗や行事、名所などを絵入り
解説した「江戸名所図会(ずえ)」を完成させた、斎藤長秋(ちょうしゅう)以下三代の墓
が、きゅうくつな墓地の片隅にあり、都史跡に指定されていた。


 北側の通りに回って東へ向かうと、行く手に建設が進む東京スカイツリーが望まれる。


 (続く)


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国分寺・小金井・小平の緑陰を歩く(東京)

2011-07-06 21:12:11 | 江戸・東京を歩く
 2011年7月3日(日)

 梅雨の中休みで少し蒸し暑いこの日、カントリーウオークグループの第185回例会に参加した。
暑さを避けて、いつもより1時間早くJR中央線・武蔵野線の西国分寺駅に集合し、9時10分に駅
を出た。
 
 ==武藏国分寺からお鷹の道を経て殿ヶ谷戸庭園へ==


 武蔵野線に沿って線路西側を南下、新しいマンションに沿ってりっぱな街路樹が続く。縄文時代
の竪穴住居を復元した武蔵台遺跡公園を抜けて、西元町四丁目へ。


 豊富な緑陰が残る旧鎌倉街道の切り通しを下ると、武蔵国分尼寺跡。奈良時代中期、聖武天皇
の命により、国分寺とともに建立されたところ。

 金堂の石の基礎や復元された塀があり、一帯は国分寺市立歴史公園となっている。

 JR武蔵野線のガードを東に抜け、平行する府中街道を横断する。国分寺市立四中校舎の西隅
に、文化財資料展示室があったので、入館して発掘品などを観覧した。

 すぐ東が武蔵国分僧寺(こくぶんそうじ)跡。金堂や講堂、鐘楼跡などの草地が広がり、ところど
ころにケヤキなどの大木が大きく枝を広げている。


 北に回って楼門をくぐり、現存の国分寺境内に入った。

 正面に1733年に建立された本堂があり、その周囲は万葉植物園になっていて、万葉集に読まれた
草木がたくさん植え込まれ、各々に万葉集の歌が記されていた。


 本堂の西側斜面には、うっそうとした樹木に囲まれて仁王門と薬師堂が立っている。


 「お鷹の道」と呼ぶきれいなせせらぎに沿って東に少しで、武蔵国分寺資料館がある。そばの「史跡
の駅おたカフェ」でチケットを求め、長屋門から館内に入った。

 西側には「国分寺崖線(がいせん)」と呼ぶ武蔵野段丘の斜面下から流れ出す湧水源がある。竹や
ぶや古木の柿など豊富な樹木に囲まれた一角に立つ資料館には、この周辺の遺跡からの出土品や、
武蔵国分寺の模型などが展示されていた。


 その先、崖線下の弁天様を祭った湧水の池は「真姿の池(ますがたのいけ)」と呼ばれ、「全国名水
百選」と「東京の名湧水57選」に選定されている。



 そばの農家では、自作の農産物を直売していた。蒸し暑くなってきたので、涼を求めて湧水に入る幼
児やワンちゃんもいる。

 東元町三丁目の住宅地を進み、交通量の多い都道145号に出る。国分寺駅に向かって緩やかに上
がり、駅のそばにある国名勝の殿ヶ谷戸(とのがやと)庭園に11時半に入る。

 緑の豊富な園内、東側にある紅葉亭と呼ぶ東屋に入り、昼食にした。

 殿ヶ谷戸庭園は、大正2年(1913)から4年にかけて造られた、後の満鉄副総裁江口定條氏の別邸。
その後三菱財閥の岩崎彦弥太氏に買い取られ、昭和49年(1974)に東京都が買収したとのこと。

 国分寺崖線の南の縁にあり、武蔵野台地と崖線の自然が良好な状態で保存されていて、四季それぞ
れに多くの花に彩られる。いまは、ナデシコやギボウシなどの花が見られ、あちこちにあるモミジの新緑
の彩りも気持ちよい。

 ==二つの大学を抜けて玉川上水緑道へ==

 昼食後、崖線からの湧水を集めた次郎弁天池に下り、竹林やハギのトンネル、大芝生地など園内を一
周し、記念撮影をして12時40分に出発した。


 かなり日差しが増え、午後の太陽が蒸し暑い。都道145号を南町二丁目まで進み、その先200mほど
で左折する。JR中央線の線路近くまで進んで、東京経済大の正門を入った。

 構内は、正門前の桜並木をはじめ樹木が豊富。校舎の間を東に下って行くと、崖線下の緑陰に新二郎
池があった。1957年から11年間在職の、北沢新二郎学長の時代に池として整備したという。

 ここも「東京の名湧水57選」に選定されているようだが、この時期の湧水は少ないようで、水はほとんど
無い。さらに続く緑陰の土道を南に進み、大学構内を抜けた。

 崖線下の道を東へ進むと朱塗りの橋があり、その奥に貫井神社の社殿が立っている。創立は天正18
年(1590)、境内にも湧水があり、当初は貫井弁財天と呼ばれていたという。


 弁天池の岩の上で、たくさんのカメが甲羅を干していた。東に隣接して、真明寺が並んでいる。

 さらに東へ、都道248号に出て、貫井トンネルの上を越える遊歩道に上がり、「はけうえ遺跡」の案内板
の立つ緑陰で小休止する。周辺からは、旧石器時代の異なる生活面や、縄文早期の縦穴住居跡などが
発見されたという。

 小金井警察署のある、都道134号との交差点に出て右折し、うっそうとした木々に覆われた南側の滄浪
(そうろう)泉園に入る。

 明治・大正期に三井銀行の役員や衆議院議員を歴任した、波多野承五郎の別荘跡。現在は約3分の1
になったというが、それでも約12,000㎡あり、武蔵野の面影をとどめる樹林に覆われている。

 ここも国分寺崖線に面し、崖下の池のほとりから湧水が出ている。

池のほとりを一周すると、「おだんご地蔵」と呼ぶ正徳3年(1713)の地蔵と、寛文6六年(1666)に祭ら
れた小金井市で最古という「鼻欠け地蔵」が立っていた。


 都道134号を西へ、高架となったJR中央線下を北に抜けた少し先に、色鮮やかなヤマモモがたくさん実
をつけている。


 桜並木の道を北に向かい、東京学藝大小金井キャンパスに入った。


 校門前にヤマユリが咲き、広い構内は松やケヤキなど、豊富な樹木が枝を伸び伸びと広げている。陸上
競技場と野球場の間から、北側の車道に抜けた。


 やはり校内にうっそうとした緑陰の残る東京サレジオ学園の横を進んで、上水南町三丁目の北側で玉川
上水緑道へ。

 ところどころにノカンゾウの咲く緑道は、広葉樹の緑陰が続き、午後の蒸し暑い日差しを和らげてくれる。
上水の流量はいまは少な目だが、流れにはコイの泳ぐのが見下ろせ、深い堀割りから往時の豊富な流れが
しのばれる。


 中ほどで西武多摩湖線を横断し、その先は歩きやすい土の道となる。一橋大や津田塾大の南側を通過し、
小平中央公園を抜けて、16時18分に西武国分寺線の鷹の台駅にゴールした。

(参加 16人、天気 曇一時晴、距離 13㎞、地図(1/2.5万) 立川、歩行地 国分寺市、小金井市、
 小平市、歩数 22.5000)


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立川・阿豆佐味神社から武蔵砂川駅へ(東京)

2011-05-17 15:02:43 | 江戸・東京を歩く
 2011年5月15日(日)(続き)

 カタツムリ歩行会の第204回例会の散会後、午前中一緒に歩いたメンバー中の4人で、時間切れで行
けなかった流泉寺を回って武蔵砂川駅に向かうことにした。

 自動車の交通量の多い五日市街道を西に向かう。阿豆佐味神社のすぐ南西、多摩信用金庫の敷地内
に、「庶民教育記念之誌」があり、江戸時代の阿豆佐味天神社の神官、宮崎常次郎が、この地に寺子屋
を開いて、近隣の子どもたちに手習いを教えたことなどが記されていた。


 近くの大きな民家のブロック塀に、「オープンギャラリー 蔵の美楽館 自由にご覧下さい」の表示があっ
たので、立ち寄ってみた。

 南側の土蔵の1階が、その美楽館(びがくかん)。母屋に居られたご主人、Tさんが気づかれて案内して
いただいた。

 壁面には、Tさんご自作の玉川上水の四季、先月、昭和記念公園の花を描いたという「がんばろう日本」、
昨年の今頃、私もツアーで訪れたトルコ、カッパドキア風景などの版画や、油絵が飾られている。


 壁際と真ん中のテーブルには、ここを訪れた方からいただいたという、折り紙や武者人形、絵画や歴史
資料の冊子など、それぞれの方の作品、またTさん自作の陶芸作品など、多彩な作品が展示されていた。

 いろいろなことに興味を持っているというTさんは、さらに珍しい楽器を3つ紹介して下さった。

 ヤギの皮を張り、細くしぼんだ反対側が空いている太鼓は、縁(ふち)と中心とのたたき具合を変えると、
かなり変化のある音が出せる。


 1世紀くらい前、ロシアの人が作ったという電子楽器「テルミン」は、木箱の上にかざした右手の左右の
動きで音階が代わり、左の金属のループ部分の上を左手で上下することにより、音量が変わるという。

 Tさんが演奏され、私たちも音の出具合を確かめさせてもらったが、大変興味深い楽器だった。

 最後は草笛の演奏。オオムラサキの葉を唇に当てて音を出すのだが、やってみると音を出し続けるのが
難しく、かすかに音がしただけだった。


 入口に吊された鳥の飾り物は、Tさんがマレーシアで入手したものとか。風に揺られて心地よい音を聞か
せてくれる。ゆっくりと観賞と実演を楽しませてもらい、いろいろな話を伺い失礼した。

 五日市街道を西へ、左からの車道と合して少しで砂川三番交差点を通過する。すぐ先の南へ延びる車道
との三差路際に、キウイやブルーベリーを売る「馬塲ファーム」と呼ぶ店があった。

 南側の畑で栽培したというキウイやブルーベリーのほか、それらの蜂蜜入りジャムなども販売している。


 幾つもの蜂の巣や大きなカボチャ、もみ付きの稻わらを被せた酒びん、季節の花なども飾られていて、
素朴な店構えだが直売ということで、購買欲をそそられる。


 目的の流泉寺はすぐ先にあった。立派な山門をくぐると広い境内は樹木が多く、最奥の本堂から道路際
の庫裡(くり)まで4棟の建物が並び、いずれも堂々たる造りである。ほかにも二つのお堂や鐘楼があり、
地元砂川の人々の信仰の厚さがうかがわれる。


 興味をひかれたのは、本堂前に並ぶ数10体の羅漢像。


 制作は平成に入ってのもののようだが、いろいろなポーズの像が並び、なかには眼鏡をかけた像、カメ
ラを持った像などもあり、制作者がどのような想いや意図で刻んだものか、想像をかき立てられ、見ていて
も飽きない。


 境内には、西砂川尋常高等小の校長を明治33年(1890)から大正9年(1910)まで21年間も務めた、
初代校長、小安傳先生の顕彰碑や、墓参りの水をくむのための手押しのポンプ井戸など、珍しいものも見
られた。

 本堂の前、広葉樹の木に花が開いていた。なんの木なんだろうか。


 門前の信号を渡った北側は、花木生産販売の滝島園。「季節の花 お気軽にお立ち寄り下さい」の看板と、
道路際のスペースに並ぶシャクナゲの苗木や、きれいな草花の苗の彩りにひかれて、ここにも立ち寄る。


 背後や西側を立派な屋敷林に囲まれた農家、奥さんが出てこられたので、お話を伺う。

 以前は養蚕をやっていたとのことで、養蚕に使った「うだつ」と呼ぶ二つの小さい屋根を持った3階建ての
納屋や、立派な蔵も残っている。


 奥さんの教育の成果か、息子さんやお孫さんも農家を継ぎたいと考えているという。

 大きな生け垣と道路との間の敷地内を砂川用水が流れていて、カモが来たりして夏も涼しいという。荷物に
なるので買うことは出来なかったが、魅力ある苗木が色々と揃っていた。

 西隣は、奥様の話では庄屋だったとか。さらに広大な屋敷で、門の奥の邸内は立派なケヤキが10数本も
あり、モミジなどほかの木々も皆大きく育っている。




 やはり邸内を砂川用水が流れ、敷地を囲む背の高い生け垣にも目を見張らされた。


 五日市街道に分かれ、庄屋さんの生け垣に沿って北に向かう。広い美影橋公園の先で、玉川上水に江戸
時代からかかるという見影橋を渡る。

 当時は、玉川上水の上流から4番目の橋だったので「四ノ橋」と呼ばれ、また、名主の屋敷に近いことから
「旦那橋」とも呼ばれていたという。どうやら名主というのは、滝島園の奥様のいう庄屋さんのことと思われた。

 橋の北で西武拝島線のガードをくぐり、近くのスーパー・マルエツで飲物を買って小テーブルで休んで、乾
いたのどを潤す。そばの武蔵砂川駅には、16時近くに着いた。

 (天気 晴、距離(玉川上水駅から) 4㎞、地図(1/2.5万) 立川、歩行地 東大和市、立川市)


【追記】 朝のカタツムリ歩行会の受付にて、「カタツムリ歩行200回特集号」という記念誌をいただいた。

 事務局を続けていただいている土井さんが、ご多忙の中まとめられたもので、カタツムリ歩行会の2006
年2月の第151回例会~2010年12月の200回例会まで50回の記録と、この歩きを企画された「やまさ
ん」こと山浦正昭さんや、事務局の土井さんご夫妻、さらにレギュラー参加者など21人のメッセージが盛り
込まれた、134頁に及ぶ冊子である。



 この5年間の例会模様が全て分かり、それぞれの会員の思いや行動などが記された貴重な資料である。
私も投稿させていただいたが、毎回の例会の企画と実行に合わせて、大変お世話になっている土井さんに、
厚く御礼申し上げます


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明治薬科大の薬用植物園へ(東京)

2011-04-23 21:56:47 | 江戸・東京を歩く
 2011年4月21日(木)

 所沢「とことこ漫歩」で、清瀬市郷土博物館から清瀬中里緑地保全地域を歩いた後、
ゴールの西武池袋線秋津駅に向かう途中にあった、明治薬科大に寄り、薬用植物園
を見学することにした。

 明治薬科大の正門付近。左に見えるのは、正門を入ったところにあるハイブリッド
マイクロ発電装置。定格出力400Wの風車と、定格出力110Wの太陽電池で構成
されている。



 正門の守衛さんに断り、門を入って右手の薬用植物園に向かう。


 立っている銅像には、「恩田重信先生像」との表示がある。


 近くの、ツツジとヤマブキが花を競っていた。


 その先から、たくさんの薬草が栽培されていて、簡単な説明がある。これは、シロ
ヤマブキ。果実を、虚弱体質の改善や老化防止に用いるという。


 キョウガノコ。どんな薬効があるかは記されてない。


 つるに、丸まったカギがある珍しい植物。カギカズラといい、カギの部分が高血圧
の頭痛や、めまい、動脈硬化、けいれんなどに用いられるようだ。


 園内を巡る参加者。


 アカヤジオウという植物。補血、強壮、止血の効があるという。


 テンダイウヤク(天台烏薬)、漢方薬である。 


 アケビがたくさん花をつけていたが、薬効の表示はなかった。


 アーモンドで、甘みのあるものを鎮咳、去嘆、食用にするようだ。


 コテングクワガタ、これも薬効は分からない。


 キバナスズシロ(ルッコラ、ロケット)、種子は強壮作用を持つという。


 ほかにもたくさんの薬草が植えられていたが、これくらいにして見学を終えることにする。

 正門近くには、白花のシャクナゲが満開だった。 


 ミツバツツジも見頃である。


 30分ほど見学して、薬用植物園を後にして、ゴールの秋津駅に向かった。

 ちなみに、明治薬科大薬用植物園の見学は、平日の9時から17時(冬期は16時頃)
の間可能で、大学の正門か東門の守衛所にその旨申し出る。

 団体(10名以上)の場合は、あらかじめ問い合わせが必要のよう。

 なお、明治薬科大学薬用植物園のWeb pageは、以下をご覧下さい。
  http://www.my-pharm.ac.jp/herb/index.html

 場所:東京都清瀬市野塩2-522-1
 交通:西武池袋線秋津駅から徒歩約12分、JR武蔵野線新秋津駅から徒歩約17分


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清瀬市郷土博物館と清瀬中里保全地域を歩く(東京)

2011-04-22 20:22:40 | 江戸・東京を歩く
 2011年4月21日(木)

 所沢山里探訪会主催の、第4回所沢「とことこ漫歩」に参加した。今回は、所沢市の
南東に接する東京都清瀬市を訪ね、所沢市とのと都県境付近の里山を歩こうという
企画である。

 9時30分に西武池袋線の清瀬駅改札口付近に集合して、まずは北口のケヤキ通り
を進んで、清瀬市郷土博物館に入る。

 ここで約1時間ほどの時間をとり、オリエンテーションとして、同館友の会会長で清瀬
の自然を守る会特別顧問の栗山 究(きわむ)さんから、同氏が中心となって昭和51
年(1976)から進めてきた、清瀬市内の自然保護活動の様子を聞く。

 清瀬市は「緑と病院」の多いところだが、都市化の進展とともに緑が失われて来たの
で、市に働きかけてその保全に取り組み、この後訪ねる空堀川(からぼりがわ)周辺の
「中里緑地保全地域」や、駅に近い旧結核研究所跡地の「松山緑地保全地域」の設定
などにこぎつけ、継続してその整備や調査などに取り組んでおられるという。

 中里緑地保全地域の様子については、たくさんのスライドを上映して、絶滅危惧種など
貴重な植物が、この地に多く残されていることなど紹介された。

 同じ部屋で昼食をして、12時30分に博物館を出る。昼食後のひととき、館内にある
清瀬の歴史や動植物などの展示も観覧する。


 その一つ、これは「下宿のふせぎ」と呼ばれるもので、村に悪病が入らぬよう祈願する
ために、村境にかけたものとか。毎年5月3日にこの行事が行われるという。

 さて、昼食を済ませた参加者20人余りは、お話しいただいた栗山先生の先導で博物
館を出て、北西にある中里自然保護地域に向かう。

 近くの小公園に、白い花をいっぱいつけた木が見えたので、立ち寄ってみた。リンゴの
花のようだが、こんなにビッシリと花に覆われたリンゴは見たことがない。

 なんの木だろうか?、先生もはっきりお分かりにならなかったようだ。

 南北に走る小金井街道(都道24号)に出て、北へ500mほどで左折して、中里2丁目
の旧空堀川の流れに近い平地の雑木林へ。このあたりを、清瀬中里緑地保全地域「C
地区」という。


 クヌギやコナラなどの林床にはカタクリが多く、毎年3月下旬から4月上旬にかけて
「カタクリ祭り」が開催されるという。ところどころに、遅れたカタクリが花を見せていた。


 南側の段丘崖には、この後回った「B地区」の広葉樹林が望まれる。


 A地区の車道沿いに咲いていたアケビの花。


 A地区の南西端から、樹林の中の遊歩道に入り、クヌギなどの若緑の間を抜ける。


 林床には、首都圏では滅多に見られなくなったカントウタンポポが、あちこちに咲く。


 さらに進むと、ニリンソウの群落が何か所も見られた。


 林の北側に出て、旧空堀川跡をかさあげして、小さい流れを復元した「清瀬せせらぎ
公園」を上流に向かう。


 南側の林には、たくさんの花を見せるクヌギが目についた。


 車道の南に回って、やや急な段丘になっている「B地区」の斜面林に入る。


 こちらには、イカリソウがたくさん花を開いていた。


 せせらぎ公園の流れに戻って林を抜ける。流れにはホタルも生息しているという。
ホタルの幼虫は見つからなかったが、いくつものアメンボウが泳ぐのが見られた。


 清瀬四小の東に接した「せせらぎ管理棟」で休憩タイム。ここにはトイレもある。


 ひと休みした後、せせらぎに沿ってさらに上流に向かう。清瀬四小の背後の、ウワミ
ズザクラが開花していた。


 近くに並んで咲くニワトコの花。


 せせらぎ公園の最上流、空堀川の石田橋まで行き、空堀川右岸に沿って次の橋の上
流まで進むと、通称「おばけ山」と呼ばれる、西北西向き傾斜地の広葉樹林が「A地区」
である。

 川沿いに見られた、ヤマグワ(山桑)の可愛らしい花。 


 こちらも、クヌギやコナラ、ヤマザクラなどの、みずみずしい新緑に覆われていた。


 A地区は空堀川の梅坂橋のところで終わる。橋から振り返る中里緑地保全地域「A地
区」の新緑。右端はハナミズキの花。


 中里緑地保全地域は、わずかなエリアではあるが、栗山先生のお話の通り、写真では
紹介できなかったが、ほかにもいくつもの貴重な植物や花が残っていて、興味深く植物
散歩をすることができた。

 この後、梅坂橋を渡って隣の秋津駅に向かうのだが、橋の北側にあった明治薬科大に
寄り、構内にある薬草園を見学させてもらった。これについては、項を改めて紹介する。

 西武池袋線秋津駅には、15時50分頃に着いた。

(天気 曇、距離 5㎞、地図(1/2.5万) 志木、歩行地 清瀬市)


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門前仲町から両国へ、芭蕉ゆかりの地を訪ねる(東京)(続き)

2011-02-13 17:02:23 | 江戸・東京を歩く
 2011年2月11日(金・祝)(続き)

 ゆっくりと見た資料館を出て、清澄庭園の北に回り、臨川寺へ。松尾芭蕉がたびた
び参禅した寺とのこと。

 小公園のような一角に、芭蕉像と芭蕉由緒の碑、それに墨直しの碑が並んでいた。

 清澄二丁目のこのあたりには、八百長問題で揺れる相撲部屋が幾つかあったが、
いずれも玄関は固く閉ざされていた。


 隅田川に近い萬年橋通りに出て、その萬年橋を渡る。江戸時代の萬年橋は、葛飾
北斎の「富嶽三十六景」や、安藤広重の「江戸名所百景」に描かれたという。


 橋のたもとに、芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」の句が掲げられていた。

 橋の北岸には、「川舟番所跡」の説明板があり、江戸時代に、江戸から小名木川を
経て利根川を結ぶ流通網の出入口として、川舟を利用してここを通る人と荷物を検査
したことが記されていた。

 北側の通りを左折すると、「芭蕉稲荷大明神」ののぼりの林立する、狭い境内の稲荷
神社がある。

 芭蕉庵のあったところで、芭蕉は延宝8年(1680)から元禄7年(1694)まで、ここ
を本拠としていたという。

 近くの隅田川と小名木川との合流点に、芭蕉庵史跡展望公園が整備されている。少
し高見の公園に上がると、下流間近に清洲橋↓が、上流には新大橋周辺が望まれる。


 園内には芭蕉像があり、小さな池などが設けられていた。


 堤防に沿って少し進み、裏口から芭蕉記念館に入る。建物に沿った、狭いながらも趣
ある庭園に、滝が流れて白梅が咲き、ところどころに芭蕉の句が吊されていた。



 館内2階と3階が展示室。句人の書簡や短冊、芭蕉の肖像や系譜など、ゆかりの品
々が並んでいた。ちなみに、館内は撮影禁止である。

 表門のある萬年通りに出て、八名川小の前を東に抜け、深川神明宮に詣でる。境内
南側に、近代的な御輿蔵が2棟あり、近隣八町内の御輿が収蔵されていた。


 本殿は近代的なコンクリート造りだが、ここは400年前、深川八郎右衛門が開拓して
伊勢皇大神宮を祭った「深川」の地名発祥の地だという。

 深川ゆかりの地で、今日の記念撮影とする。


 新大橋通に出て、都営地下鉄森下駅上を通過し、清澄通へ。首都高小松川線下を抜
けてすぐに左折、桐の博物館前を過ぎる。


 両国小の西に回ると、忠臣蔵でおなじみ、赤穂義士、吉良上野介の上屋敷跡の一角
が、本所松坂町公園と呼ぶ小公園になっていた。

 当時の吉良邸は約2,550坪(約8,400㎡)あり、公園はその86分の1に過ぎないと
いう。当時の海鼠壁(なまこかべ)を模した塀に囲まれた園内には、新しい吉良上野介
像があり、壁面には、義士関係の記録や絵画が並び、首洗い井戸などが残されていた。

 墨田両国三郵便局の先で、裏門をくぐって回向院(えこういん)に入る。

 回向院は、明暦3年(1657)の江戸大火・振袖火事の死者、10万8千を弔らうために
建立し、その後、安政大地震(1855)の死者2万5千人余りなども埋葬され、大正12
年(1923)の関東大震災の死者10万余人の分骨も、納骨堂に安置されているという。

 広い境内には、宝暦7年(1757)建立の塩地蔵↑、鼠小僧(ねずみこぞう)の墓、木遣
塚、江戸時代の戯作者・岩瀬京伝、京山兄弟の墓、江戸中期の国学者、加藤千陰の墓、
明暦大火横死者供養塔、力塚など、見るべきものが多い。


 一時小降りになった雪が、またかなり降ってきた。

 表門から出て北へ、名横綱の力士像や手形の並ぶ国技館通を進み、ゴールのJR総武
線両国駅に、13時35分に着いた。


 (天気 雪、参加 17人、距離 7㎞、地図(1/2.5万) 東京首部、歩行地 江東
  区、墨田区、歩数 9,900)


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門前仲町から両国へ、芭蕉ゆかりの地を訪ねる(東京)

2011-02-12 21:07:55 | 江戸・東京を歩く
 2011年2月11日(金・祝)

 まる18年となったカントリーウオークグループ、今年最初の例会は、東京メトロと都営
地下鉄の接する門前仲町駅に集まり、10時15分に出発した。今日は、カントリーウオ
ークではなく、芭蕉ゆかりの地など、江戸の面影を探るタウンウオークである。

 門前仲町の交差点から永代通りを東に向かい、門前に菓子やせんべい、飲食店など
の並ぶ通りを入り、まずは深川不動尊へ。


 お札(ふだ)などを授かる建物の前に、大きなわらじが立てかけてある。境内には、奉
納された力石もあった。



 すぐ東側が、富岡八幡宮。きらびやかな社殿に参拝し、御輿蔵(みこしぐら)にある日
本一という御輿をのぞく。重さ4.5トン、ダイヤモンドやルビーをたくさんちりばめてあり、
金色に輝いている。


 鳥居の近くには、ここから出立し、日本中を測量して精密な地図を作った、伊能忠敬
(いのうただたか)の像が立つ。


 境内にはほかに、大関力士碑、横綱力士碑などがある。


 境内を北に抜けて、首都高9号線の高架下を西へ向かう。清澄通りに出て北へ少し
で、深川ゑんま堂で知られる法乗院に行く。

 本堂左手の焔魔(えんま)堂に、真っ赤な顔をした大きなえんまさんがにらんでいる。

 願ごとに分かれた賽銭(さいせん)筒にお賽銭を入れると、えんま様の厳かなお声
が拝聴できる。

 本堂正面には、金色の仏像が並び、両側のミラーで数限りない像が並んでいるよう
に見える。周囲の壁面には、極楽浄土を描いた極彩色の絵が並んでいた。


 さらに北へ、仙台堀川の南側は、芭蕉が「奥の細道」に旅だった採茶庵跡。旅姿の
芭蕉像が、小さな建物の前で雪に濡れていた。

 車道の向こうに塗れる芭蕉像を見て、仙台堀川を渡る。


 橋の北側、深川老人福祉センターの一角が、江戸後期の小説家・滝沢馬琴誕生の
地。馬琴の代表作である、「南総里見八犬伝」の書を積み上げた像が出来ていた。


 通りの西は三菱の創始者、岩崎弥太郎が造った清澄庭園。東側一帯には、振袖
(ふりそで)火事以降に集まったという寺院が密集している。

 その墓地の一つに、紀伊国屋文左衛門の碑が立ち、背後にはゆかりのミカンの木
が植えられていた。


 北側に、広い境内にコンクリート造りの大きな本堂が目に付く霊巌寺がある。境内
には、都指定文化財で江戸六地蔵の一つ、銅造地蔵菩薩座像が祭られている。


 石柵に囲まれた一角には、八代将軍徳川吉宗の孫で、陸奥白河藩主だった松平
定信の墓があった。


 門前の通りを東に少しで、江東区立深川江戸資料館に入る。


 館内の広い空間に、江戸時代の深川の町並みや、人々の暮らしを再現した展示が
あり、一巡して観覧した。


                               (続く)


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六道山公園の周辺をめぐる(東京・瑞穂町)

2010-10-24 11:27:39 | 江戸・東京を歩く
 2010年10月23日(土)

 5日ぶりに晴れた今日は、地図を愛好するグループの第19回例会で、東京・瑞穂
町にある六道山からの展望を楽しみに出かけました。

 集合地のJR八高線箱根ヶ崎駅は、新装なって橋上駅に変わっていました。


 自動車で来たSameさんの車に乗せてもらい、駅から2㎞ほど、狭山丘陵の西端に位
置する六道山公園の駐車場まで、一気に上がることが出来ました。

 公園の中心部は桜が多く、紅葉が始まっています。


 大きなカクレミノに実がついていました。わが家の玄関先にもあるのですが、実が
つくとは知りませんでした。


 今日1番の目的地は、このレンガ造りの展望塔です。階段を屋上まで上がります。

 富士山の好展望台なので、国土交通省関東地方整備局選定の「関東の富士見
100景」「瑞穂町からの富士」に選定された場所です。

 展望台のそばには、「風景の指標」と題した彫刻がありました。作者は、関根伸夫
と記されています。


 展望台の上の標高は205mになるようですが、周辺の広葉樹がかなり伸びてい
ます。15年前に来た人が当時の写真を見せてくれましたが、それと比べると視界
がかなり、さえぎられてしまっていました。

 北側の上越方面の展望は全く得られません。西方は、奥多摩の御前山から富士
山をはじめ相模の大山あたりまでの展望が広がるはずですが、雲が多くて富士山
は望めず、大山も霞んでいました。

 私はあまり分かりませんが、メンバーの皆さんの見立てでは、2つのピークの左
は奥多摩の馬頭刈山、右は鶴脚山とのことです。


 これはその南側の山並み。何という山かおわかりですか?
 

 ちょっと霞んだ展望ながら、ゆっくりとあちこちを眺めました。都心の方向には、西武
ドームの上に、建設中の新しいテレビ塔・スカイツリーも確認できました。

 展望塔下の芝生広場で昼食をして、次の目的地に向かう前にメンバーの記念撮影。


 今日2つめのポイント、北西1㎞足らずにある1等三角点に向かいました。駅の方から
上がってきた車道の峠付近。向こうに下りかけたあたりから左に入ります。


 車道から、三角点に向かうお伊勢山遊歩道の道標。三角点はすぐ先に少し上がった
ところです。


 標高194.01mの一等三角点「高根」、明治29年(1896)に立てられました。

 当時は、このピークから、測量のための展望が得られたのでしょうが、現在は広葉樹
林に覆われてしまい、全く視界は利きません。


 地形図に示された林間の道を、山ろくにある神社に向かって下ることにしました。左下
の木の間越しに、都立瑞穂園芸高校が見え隠れするあたりまで下ったら、「陸軍」の標
石が残っていて、近くにもう1個みつけました。

 第2次大戦中は、このあたりに軍事施設があったようです。現在の横田基地と関係が
あるのかもしれません。

 その下、競技場が見下ろせる付近からは、奥多摩の大岳山や御岳山奥の院のピーク
などが見え、撮影は出来ませんが、かすかに富士山の上部も望まれました。


 下る途中の分岐に気づかず、神社のある稜線より南の稜線に下り、下の住宅地の近
くから少し戻って、八雲神社と浅間神社に回りました。こちらは、下にある八雲神社。

 石段右側の、何本かのビワの木に花が咲いていました。社殿の右手から、石段を100
mほど上がると、上にある浅間神社↓です。

 ここも広葉樹林に囲まれていて、視界は得られません。

 今日の予定はこれで終わり、皆さんは箱根ヶ崎駅に向かいます。

 私は、八雲神社から200mほど下った車道で皆さんと別れ、反対の北西方向に向かい、
狭山丘陵の北麓の集落を結ぶ旧道を東へ、約11㎞を自宅まで歩いて帰りました。

 (天気 晴、参加 7人、距離 3.5㎞、地図(1/2.5万) 青梅、累積標高差 約180m、
 歩行地 瑞穂町)


 
 
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