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あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

靖国神社から皇居東御苑、皇居外苑を巡る(東京)

2015-12-14 18:12:39 | 江戸・東京を歩く
 2015年12月13日(日)

 カントリーウオークグループの、今年最後の第229回例会に参加した。前月に続いて
雨になったが、本降りにはならない。集合は、東京メトロ半蔵門線、東西線、都営新宿線
の九段下駅。今回も組み分けはせず、10時ちょうどに3a出口付近からスタートした。


 都道302号・靖国通りを緩やかに上がり、大鳥居をくぐって靖国神社境内へ。参道の
両側に並ぶイチョウはちょうど見ごろ。



 拝殿に参拝後、気象庁が東京の桜の開花を発表するソメイヨシノの標本木を確認した。


 九段坂上交差点から都道に出て、紅葉が見頃なモミジや子爵品川弥二郎の銅像前を通り、
高燈籠(たかとうろう)と呼ぶ建造物↓の横を進んで、田安門(たやすもん)から北の丸
公園に入った。
      




 すぐ先の、日本武道館周辺のイチョウもよい彩り。幹から枝分かれしたイチョウの大木
が、石垣の上で存在感を見せる。
     

    
 たくさん咲くサルビアレウカンサ↑の横を進んで、千鳥ヶ淵(ちどりがふち)の内側沿
いを巡る「千鳥ヶ淵さんぽみち」と呼ぶ1.65㎞の遊歩道へ。


 春の花見で知られるソメイヨシノは落葉し、淵を見下ろしている。南側に回ると、広葉
樹林のモミジなどがちょうど見ごろ。鮮やかなモミジを背に記念撮影をした。






 700m余り進むと、右手に赤レンガ造りの建物が見えた。

 現在は東京国立近代美術館工芸館だが、明治43年(1910)に造られた旧近衛師団
司令部庁舎で、国の重要文化財に指定されている。


 皇居の北の入口、乾門(いぬいもん)↑前を通過して、近くの北桔橋門(きたはねばし
もん)から皇居東御苑に入った。


 小雨に煙る乾濠(いぬいぼり)の向こうの木々も色づきを見せる。



 すぐ南側の天守台↑に上がると、東方から南へ大手町から丸の内さらに↓日比谷方面に
かけての高層ビル群が望まれる。


 南側の広い芝生地には、江戸城の大奥から中奥、表御殿など、ビッシリと建物が続いて
いたようだが、今はとうてい想像も出来ない。


 本丸最初の天守閣は2代将軍秀忠の1607年に完成し、その後3代将軍家光が1638
年に外層5層、内部6階、高さ58mという国内最大の天守閣が完成したが、19年後の
1658年、明暦の大火の飛び火により全焼し、以後は再建されなかったようだ。



 天守台の南西の緑地の大きなタチバナに、たくさんの実が付いていた。周辺のモミジや
ドウダンツツジがきれいな彩り。



 竹林の周辺の広葉樹も鮮やかな彩りだ。その先の石室は、非常の際の大奥用の調度など
を収めたところと考えられ、伊豆半島の安山岩で造られているという。


 二つの広い芝生地の間を東に向かう。中ほどにあったリュウキュウカンヒザクラの葉は、
普通の桜と違い黄色に色づいていた。
    

 振り返り眺める天守台方面。




    
 咲き出したフユザクラの前を通過して、本丸休憩所に12時05に着き、ベンチで昼食
にする。


 そばのサンシュユが赤い実を付けていた。


 ミーティングを終え、12時45分に本丸休憩所を出た。すぐ東側、東御苑の中央にあ
る白鳥濠(ぼり)の上にある展望台に上がり、二の丸雑木林やその向こうに並ぶビル群な
どを眺めた。


 展望台を下りて北側に回り、楽部(がくぶ)横を通過して汐見坂を下る。

 本丸と二の丸をつなぐ坂道で、その昔は近くまで日比谷入江が入り込み、海が眺められ
たという。

 東側の二の丸雑木林に入った。ここが都心とは思えぬ豊富な落葉広葉樹が色づき、雨に
しっとりと濡れる。



 明治期に再建されたという諏訪の茶屋↑前を通過して、二の丸庭園へ。



 松と紅葉とのコントラストが良く、静かな池の周囲を半周する。



 雨に濡れる池畔の彩りも穏やかで多彩、自然とシャッターを押す手が増えて足が止まる。


    





 池の東側を回って菖蒲(しょうぶ)田の横を過ぎ、茶室風の二の丸休憩所で小休止した。


 近くのツツジが狂い咲きで、葉の紅葉と見分けにくい。



 白鳥濠の南側から百人場所前を通り、大番所↑を確認して引き帰す。そばの巨大な石積
みと背後のビル群が、江戸から東京への時代の変遷を感じさせてくれる。


 番所とは警備の詰所のこと。百人番所↓は本丸と二の丸へ通じる大手三之門前に設けら
れた番所で、鉄砲百人組と呼ばれた甲賀組、伊賀組、根来(ねごろ)組、二十五騎組の4
組が昼夜交代で詰めていたとか。


 三つ目の同心(どうしん)番所前を抜けて、三の丸尚蔵館(しょうぞうかん)前を過ぎ
る。近くのボケも狂い咲きのよう。
    

 東側の大手門から皇居東御苑を出た。


 桔梗濠(ききょうぼり)に沿って都道301号・内堀通りの歩道を南下し、巽櫓(たつ
みやぐら)↓を見ながら堀は右折する。


     堀には、ホシハジロ(右)など何種類かの野鳥が泳いでいた。
    

 次の蛤濠(はまぐりぼり)沿いに皇居外苑を南下して二重橋前へ。冷たい雨のためか、
二重橋前も人出は少ない。


 旧江戸城の南端、桜田門を出て、皆さんは有楽町に向かう。


 2週間前の山登りで痛めた右足の筋肉痛が残る私は桜田門外で分かれ、東京メトロ有楽
町線の桜田門駅に14時23分に着いた。

 国重要文化財の法務省旧本館↑西北の敷地際から、駅への階段を下る。

(参加 17人、天気 小雨、距離 7㎞、地図(1/2.5万) 東京首部、歩行地
 千代田区、歩数 11,500(距離6㎞の桜田門駅まで))




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杉並・善福寺池の周辺を巡る(東京)

2015-03-01 23:12:21 | 江戸・東京を歩く
 2015年2月28日(土)

 西武新宿線の上井草駅で下車して10時10分にスタートする。ホームは上り下りが別
で、連絡通路はない。南側の下り改札口を出たところに、機動戦士ガンダムの「大地から」
と名付けられた銅像が立っていた。
          
 
 上井草にアニメ製作会社サンライズがあり、機動戦士ガンダムを町おこしに使用してい
るらしい。

 南西すぐ先に、上井草スポーツセンターがある。ここは上井草球場の跡地で、戦前には
巨人の大投手・沢村栄治投手が投げ、プロ野球公式戦も83試合行われたとか。


 戦後は拡張して4万5千人収容の球場となり、神宮球場が米軍に接収中は、2リーグ分
列直後のプロ野球や、東京六大学野球、高校野球などで盛んに利用され、私も中学時代に
観戦に来たような記憶がある。

 東京オリンピック開催の昭和39年(1964)に上井草給水所の配水池となり、4年
後には配水池上に軟式野球場を造成し、現在はプール、体育館、テニスコートなどもある
杉並区最大の総合体育施設。体育館の廊下には、球場時代の写真が掲示されていた。


  巨人 沢村栄治投手(昭和11年)   東京セネタースの名手 苅田久徳二塁手




 現在はサッカーなどに利用されているグランドの脇を少し進み、南側を西進すると、都
立農芸高校の農場があり、広大な果樹園などが望まれる。



 周辺の上井草四丁目には、広い敷地の古くからの農家も残り、そのひとつ西山家には、
杉並区有形文化財の穀櫃(こくびつ)があり、長い塀の一角が開かれて公開されていた。
        
 飢饉などに備えて雑穀を貯蔵するもので、江戸時代の村人たちは社会保障を領主政策に
任せず、民間でも積極的に整備したという。広い敷地内には、ケヤキの高木などがたくさ
ん残されていた。

 杉並工高の横から少しの遊歩道を進んで、切通し公園横に上がる。井草川の源流に位置
するこの辺りは、縄文時代の遺跡だったとか。


 すぐ先、青梅街道の走る五差路の南側一帯の森は井草八幡宮。東日本大震災で損壊し、
2年後に再建したという北鳥居から入る。


 八幡宮の周辺からは縄文中期の住居跡や多くの土器が発見されていて、中世初頭には武
蔵野台地の交通の要衝となり、文治5年(1189)に源頼朝が奥州征討の際には、戦勝
を祈願して境内に松を手植えしたとか。



 のち文明9年(1477)、太田道灌が石神井城の豊島氏を攻めた際には戦勝を祈願し、
慶安2年(1649)には三代将軍家光が社殿を造営させ、歴代将軍は朱印地を寄進した
という。


 社殿前に、源頼朝手植えの松の二代目の松が大切に育てられている。
      


 境内西側には井草民俗資料館があるが、公開日ではなかった。


 参道を挟み、区有形文化財の富士講灯籠(とうろう)2基が並んでいた。

 シダレウメの咲く南側を西進し、善福寺四丁目の善福寺境内へ。りっぱな本堂はコンク
リート造り。


 善福寺の開山時期は不明だが、本尊阿弥陀如来立像は鎌倉末期の作とか。「新編武藏風
土記稿」には「往古に善福寺池の池畔に善福寺という寺院があった」と記されているよう
だが、当寺が善福寺と改称したのは昭和17年(1942)のことで、関連はないらしい。

      
 本堂横に戦死者のための「鎮魂」碑と「清浄光塔」が立ち、南側の紅梅がわずかに開花
していた。門の周辺には、ソメイヨシノの古木が数本枯れ枝を広げている。


 周辺にはケヤキなど高木の多い農家が残り、新しい住宅地の一角に大和市(おおわし)
神社の小さな社殿がある。
        

 ご神体ははく製の大ワシで、大正14年(1925)に近くの一本松に止まっていたの
を散弾銃で撃たれとか。あまりにも大きかったのではく製にして、翌年村人が話し合って
お社を建てて祭り、大和市神社としたという。
    
 さい銭入れからのぞいたが見えず、デジカメを斜めに入れて撮ったら写っていた。

 南に下り、善福寺池を主とする都立善福寺公園の北端に入る。善福寺池は、かつて神田
上水の補助水源として利用され、武蔵野三大遊水池の一つとして知られていた。現在は上
池、下池に分かれ、両方で約3万7千㎡あり、公園全体の47%を占めるという。


 上池の西側を南に向かう。湖畔のネコヤナギがふくらみ、池にはカモが遊んでいる。


 斜面下に回ると、源頼朝が奥州征討から戻った際、干ばつだったので掘った「遅の井
(おそのい)」と呼ぶ湧水が枯れたので、井戸を掘ってポンプで汲み上げて復元したとい
う小さい湧水がある。
        
 「遅の井」とは、頼朝の軍勢が折からの干ばつで渇きに苦しんだのに、水が湧き出るの
が遅かったので出た言葉だという。

 そばの弁天島には、江戸時代、「善福寺の弁財天」といわれ、建久8年(1197)に
江ノ島の弁財天を勧請したのが始まりという市杵嶋(いちきしま)神社が祭られている。
      

      
 かすかに芽吹きの色づきを見せる対岸のヤナギなどを見ながら池畔を進み、渡戸橋で車
道を横切り下池へと進む。


 下池には枯れアシが茂り、湖の中の枯れ木に鳥が羽を休めていた。
    

 東端付近まで進むと、早咲きの桜が濃い色の花びらを見せている。
    

 善福寺池を離れ、善福寺川源流の橋となる美濃山橋から南下して、善福寺さくら公園か
らさくら児童遊園の横を通過する。

 都道113号に入って地蔵坂交差点や荻窪中の前を通り、原寺分橋から善福寺川右岸の
歩道へ。

 この辺り、川の両岸はコンクリート張り、そのうえ湖岸には住宅が接していて景観はい
まひとつだが、自転車も通れぬ細い歩道なので安心して歩ける。井荻橋で左岸沿いに回り、
西荻窪駅に延びる関根橋で善福寺川を離れた。

 西荻北二丁目の通りを東進し、少し先で左折して西荻図書館前を通過する。図書館前に
「城山と七ッ井戸」の説明板があり、近くの荻窪八幡神社周辺の台地上の、明治中頃まで
のことが記されていた。

 北側の杜橋から次の間中橋まで、再び善福寺川右岸の細い歩道を進む。左折して北に向
かうと青梅街道の手前右手の杉並会館に、「杉並アニメーションミュージアム」の表示が
出ていたので入館する。
      


 アニメーションミュージアムは3階。館内には、日本のアニメの歴史年表や、アニメが
できるまでの工程の説明、デジタルアニメの現状、アニメの原理の体験コーナーなどがあ
り、子ども連れの家族などで賑わう。
    





 中3階の企画展示室では、赤塚不二夫誕生80年記念の企画展(撮影禁止)が開催され
ていた(入館は無料)。

      
 道路を挟んだ西側の森は、旧上荻窪村の総鎮守だったという荻窪八幡神社。


 拝殿の前には、文明9年(1477)に太田道灌が石神井城攻めの戦勝祈願の際に植樹
したという、ご神木で「道灌槇(どうかんまき)」と呼ぶコウヤマキがあり、杉並区天然
記念物に指定されていた。
      


 都道4号・青梅街道の荻窪警察前交差点を渡り、すぐ東にある薬王院に行くが、門が閉
ざされていたので門のところからコンクリート造りのお堂を眺める。

 これから行く観泉寺の薬師堂らしい。

 交差点に戻って北へ、上井草駅に延びるバス道路を少し進むと、松乃家というそば屋さ
んがあった。もう13時半なので入り、つけとろそば(800円)で昼食とした。
    

 すぐ先左手には、広大な原っぱの広がる公園があった。

 杉並区立「桃井原っぱ公園」で、ここにはかつて大正14年(1925)に開設した中
島飛行機の原動機工場があり、国産第1号の飛行機用エンジンをはじめ、零戦のエンジン
も設計・製造されたとか。

 戦後は幾多の変遷を経て日産自動車荻窪工場となり、日本のロケット第1号も開発され
ているらしい。平成10年(1998)に工場が移転し、公園が開設されたのは平成23
年(2011)という。

 次の交差点から、中大杉並高の横を真っ直ぐに北進すると、たくさんの樹木が目に付く
広い境内の観泉寺である。


 観泉寺は、慶長2年(1597)に下井草村にて観音寺として創建された。それを今川
家十三代直房が上井草村のこの地に移転して、伽藍(がらん)を建立して寺領を寄進し、
今川家の菩提寺として観泉寺と改めたとか。

 慶安2年(1649)には幕府から10石の朱印状が与えられたという。


 どっしりした山門を入ると正面に大本堂があり、右手前にはシダレザクラの古木がまだ
枯れ枝で立つ。


 鐘楼のそばの紅梅が開花し始め、境内の植栽はよく手入れされていて気持ちよい。


 本堂左手の墓地の一角には今川氏累代の墓があり、都の旧跡に指定されている。


 墓地には、桶狭間の戦いで敗れた今川義元の子孫と、当地との関わりの説明板がある。


 寺域の東側から都道438号・早稲田通りに出て、ひとつ西の交差点から北へ、上井草
駅へ向かう。スタートした上井草駅には14時37分に戻った。

 今日歩いたのは東西、南北とも2・5㎞程度のエリアだったが、古代から近代までの種
々興味ある歴史を知ることができた。

(天気 晴、距離 9㎞、地図 (1/2.5万)吉祥寺、杉並区史跡散歩地図、歩行地
 杉並区、歩数 17,300)




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銀座の写真展から京橋を経て江戸東京博物館へ(東京)

2014-11-06 16:46:19 | 江戸・東京を歩く
 2014年11月5日(水)

 首都圏は今日、1日中どんよりとした日和でしたが、2つの写真展を見るために都心に
出かけました。

 東京メトロ丸ノ内線の銀座駅で下りて、中央通り(銀座通り)を進んで、松屋デパート
の右横(南側)を入ります。


 

 すぐ先のビルの間の小さなスペースに、朝日稲荷神社の小さな社殿が祭られていました。
        

 最初の写真展会場は、銀座3丁目にあるキャノンギャラリー。


 ここで開催中の「みちのく祈りの道の果つるところ」と題する、佐瀬雅幸写真展です。
    
 佐瀬さんの名は知りませんでしたが、長男と同じ職場の人に関係の方とか。東北各県の
祈りにゆかりの場所や石仏などを、露出アンダー気味にモノクロームで撮ったものでした。
なお、この写真展はこの日が最終日です。

 東京駅に向かうことにして、中央通りを京橋方向に進みます。銀座1丁目の事務用品店
の伊東屋のビルは現在改築中ですが、その近くに「銀座発祥の地」碑が立っていました。
        

 さらに進んで京橋1丁目に入ります。道路の反対側の交番の横には、古い標石が。
     

 「きゃうはし」と刻まれ、今は埋め立てられてしまった京橋川の京橋にあった親柱で、
明治8年(1875)に石造アーチ橋に架け替えられたときのもの。
         

 道路の反対側に戻ると、高架の首都高速道路の下に「煉瓦銀座之碑」があります。
    
 碑には、「明治5年(1872)の銀座が全焼後、当時の東京府知事が不燃性建物に
することを企画実施し、煉瓦造り2階建てアーケード式洋風建築の町並が完成して、煉
瓦通りと通称した」というようなことが記されています。

 その背後には、明治初期の銀座の街路照明に用いられた、ガス灯が復元されています。
          
 ガス灯の灯柱は明治7年(1874)当時のもの、灯具は当時のものを忠実に復元し
たようです。
        

 そして京橋の標石も。かつてここ首都高速道路の下に京橋川が流れ、京橋が架かって
いたのです。
        

 背後のビルは警察博物館。今日は時間も無いので通過しました(入館無料)。
 

 京橋交差点から鍛冶橋通を鍛冶橋まで進み、右折して東京駅八重洲口への外堀通りに入
りました。

 八重洲2丁目の常陽銀行東京営業部のウィンドウが「常陽ギャラリー」になっていて、
常陽銀行本店のある茨城県の特産、笠間焼の作者、菅原良子さんの作品が3点展示されて
いました。
   

       

         

 近くにあった福島県のアンテナショップ、福島県八重洲観光交流館をちょっとだけのぞ
いてみました。


     入口で迎えてくれた、福島の郷土玩具赤べこ。
    

 館内では福島県の特産品を販売しており、観光パンフレットも入手できます。


 八重洲地下街で昼食をしてから、JR山手線と総武線で両国駅まで行きました。


 次の写真展の会場は、両国駅のそばにある江戸東京博物館です。


 博物館では、企画展「モダン都市銀座之記憶」と特別展「東京オリンピックと新幹線」を
開催中です。両方とも興味ある企画なので観覧することにして、常設展も見られる共通券
を購入しました(一般 1,560円、65歳以上 780円)。


 まずは1階の、東京オリンピック・パラリンピック開催50周年記念の特別展「東京オ
リンピックと新幹線」へ(特別展の撮影は禁止)。
        

 展示は3つのコーナーに分かれていて、第1章では終戦から高度成長期までの東京の社
会や市民生活、第2章は新幹線、第3章は1964年の東京オリンピックとパラリンピッ
クの紹介でした。

 第1章は、空襲で焼け野原になった東京都心や復興して行く町並等の写真、オリンピッ
ク当時のテレビや放送機器など、第2章では、1964年のオリンピック直前に開通した
東海道新幹線の建設までの資料、開通当時の切符や乗務員の服装、ダイヤグラム、記念切
符、0系新幹線の椅子や写真など、第3章では、公式ポスター、競技場の設計図や模型、
競技場の入場券、選手のユニフォームなど、興味深く懐かしいものがいっぱいでした。

 6階に上がり、常設展示と企画展の入口となっている木橋当時のものを複製した日本橋
を渡って会場へ。


 常設展示は撮影可能なので、幾つか目に付いたものを撮りました。まずは橋の右下に見
下ろせる朝野新聞社の建物(実物大)。


 江戸の町割模型。


 徳川家康座、慶長6年(1601)に制作された像を芝東照宮が複製したもの。
    

 19世紀初期の三井越後屋本店(現在の三越)の10分の1模型。


 同じ19世紀初頭の芝居小屋中村屋の正面部分の原寸大を復元したもの。


 全体は江戸ゾーンと東京ゾーンに大別されていて、それぞれに町の暮らし、江戸の商業、
文明開化東京、関東大震災などのコーナーに分かれていますが、区切られた部屋ではなく
広いフロアに連続して展示されているので、どのように回るのも自由です。

 2つのゾーンの間にある第2企画展示室が、2つ目の目的の写真展である「モダン都市
銀座の記憶」と題する企画展会室です。この会場は撮影禁止でした。


      

 ここでは、写真家・師岡宏次(もろおかこうじ)氏が撮った、1930年代から50年
間に及ぶ銀座の移り変わりを展示しており、今は無い建物、時代で変わる女性の服装、都
電や町並など、懐かしい銀座や貴重な記録がいっぱいでした。

 ちなみに師岡宏次さんは、趣味で8ミリ映画の制作もされていて、私も職場の8ミリク
ラブに入って8ミリ映画制作をしていた頃に、よく出かけた8ミリ映画コンクールなどで
何度もお見かけしたり作品講評などの話を伺ったりしていて、その人柄が思い出されるの
で、この写真展を見に行く気になったのです。

 江戸東京博物館の観覧を終えて両国駅に向かうときに、正面に見えるのが国技館です。


 JR総武線の両国駅から、16時過ぎの電車で帰路につきました。




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恵比寿から有栖川宮記念公園や放送博物館経由で田町まで歩く(東京)

2014-07-15 17:38:03 | 江戸・東京を歩く
 2014年7月12日(土)

 いつもは埼玉県内を中心にカントリーウオークをしているグループだが、7月は都心の
ウオーキングをしている。今回の第215回例会も、JR山手線恵比寿駅に9時集合で開
催された。

 恵比寿駅東口、ガーデンプレイス入り口付近。


 ガーデンプレイスのエリアは、現在はサッポロビールとなったもとヱビスビールの広大
な工場だった。 


 遅れた私は9時28分に着き、先発の皆さんがガーデンプレイスから天現寺を経て有栖
川宮(ありすがわのみや)記念公園に向かうところを、ガーデンプレイス横から恵比寿2
丁目、広尾商店街を経て有栖川宮記念公園に直行し、公園で皆さんと合流した。

 途中のバス停には「ハチ公バス」の表示が。半月前に訪れ、前回投稿したハチ公の故郷、
秋田県大館市を思い出す。
        

 有栖川宮記念公園は、江戸時代は旧盛岡藩主南部美濃守の下屋敷。明治29年(1896)
に有栖川宮御用地となり、大正2年(1913)には高松宮御用地となった。のち高松宮
殿下が昭和9年(1934)に公園地として東京市に贈与され、同年中には有栖川宮記念
公園として開園したという。



 公園の西南端から入り、池の横から豊富な緑陰の斜面を上がる。


 東側の広場に上がると、有栖川宮熾仁(たるひと)親王の銅像がある。
        
 有栖川宮熾仁親王は有栖川宮家の9代目。明治維新、西南の役、日清戦役で優れた勲功
をたて、その間福岡藩知事や元老院議長、左大臣、参謀総長などを歴任したという。銅像
の周辺で小休止して水分補給などする。

 蛇足だが、私は初めての職場に就く前の9か月間、近くの企業内研修期間で技能訓練を
受けていて、昼休みによくこの公園に来ており、大変懐かしい場所。当時はこんなにうっ
そうと木々が茂ってはいなかったように思うが、もう60年以上も前のことになる。

 公園内の都立中央図書館や野球場の横を抜け、麻布中と麻布高の西から北に回る。広い
中国大使館や小さなビルのリトアニア大使館前などを通過して、西麻布3丁目と元麻布3
丁目の間を進む。

    
 超高層ビルの並び立つ六本木ヒルズの南側を回り、テレビ朝日のビルへ。


 1階ロビーで暑さを避けて休憩したが、館内に売店は無く飲食も禁止で静か。昨年7月
に訪ねたFテレビの大賑わいとは対照的だった。


 地下を都営大江戸線の走る通りを、芋洗坂に向かって緩やかに上がる。ステップ六本木
ビルのファミリーマ-トで弁当や飲み物を調達した。


 少し先の朝日神社では、昨日と今日、「ほおずき市」を開催中。


    
 神社とどんな関係にあるのか分からぬが、「森林セラピー基地」をうたう宮崎県日之影
町(ひのかげちよう)からの大きなほおずきが沢山飾られていて、町の農産物などの特売
コーナーも設けられ、地元の人などで狭い境内は大賑わいだった。
    

 外苑東通りに出て東へ、飯倉片町交差点を横断し、外務省飯倉公館やレンガ造りの麻布
郵便局前↓を過ぎる。


 機動隊のバスが周囲を警戒するロシア大使館前を通過し、東側の細い通りを入る。

    
 狭い敷地に二つの寺が並び、最初の一乗寺の本堂背後に、東京タワーの上部がそびえ立
つ。


 突き当たりの台地上には瀟洒(しょうしや)な建物のアフガニスタン大使館があり、そ
ばのちょっとした広場に「日本経緯度原点」標が設けられている。
    

    
 わが国の経度と緯度測定の基準点で、明治25年(1892)にここにあった東京天文
台の、特殊望遠鏡の中心を経緯度原点と定めたのが始まり。その後の変遷を経て、3年前
の3月11日の大地震による地殻変動で東に27㎝移動し、原点数値を改めたという。


 少しながら緑陰があり、ちょうど正午になったので、ここで昼食をすることにする。木
の下にムラサキカタバミが沢山咲いていた。
    

 食事を終えてミーティングを済ませ、12時37分に経緯度原点を後にする。正面に見
える東京タワーの方角に向かって坂を下り、桜田通りを横断して、くねくねと曲がる通り
を日鳶連(にっとびれん)会館↓や、幸稲荷神社と瘡護神社前などを通過する。
    




 愛宕山(あたごやま)の南から西側を回り、愛宕山トンネル横の階段を上がって山上広
場に出て、まずは「NHK放送博物館」を観覧することにした。


 受付では、1時間程度のガイド付きの案内も出来るという。40分ほどでとお願いし、
Kさんが案内してくれることになった。

 2階に上がり、日本の三大発明品中の八木・宇田式アンテナと高柳式テレビについての
紹介からはじまり、コールサインのこと、TVのニュース番組での放送原稿を読む仕組み、
藤山一郎の作曲ルーム↓などを案内いただく。
    

    
 さらに、放送開始直後からのラジオ放送用器材や受信機、大事件や太平洋戦争終結時な
どの放送原稿や番組の写真、初期のテレビ受像器など、われわれの世代には大変興味深い
展示を観覧した。
    

 ちなみに、2・26事件の「兵に告ぐ」原稿や、終戦の詔勅放送予告原稿を読むKさん
の滑らかなナレーションの様子から伺うと、やはりもとNHKのアナウンサーとのことだ
った。


 1時間ほど観覧して放送会館を出て、山上の愛宕神社に参拝する。

        
 相対する小さい弁天神社前には25.7m三角点もあり、弁天池を背にして記念撮影を
した。
    

 45度近いと思われる男坂の急階段を下って愛宕通りへ。


 東京慈恵会医大の間を抜けて日比谷通りに回り、都営地下鉄御成門(おなりもん)駅前
で、電車で三田駅まで先行する人と歩く人とに分かれる。


 歩行組は日比谷通りを南下して、増上寺の大本堂に入って参拝する。


    

    
 三田駅上で合流して、江戸開城の西郷隆盛と勝海舟の会見の地碑を見て、15時ちょう
ど、JR田町駅に近いMSビル前に着いた。

 この日の東京の最高気温は32℃を超え、暑かった。全員ビル地階の「名物家」で2次
会をして暑さを忘れ、今日は北欧旅行から帰国直後で参加されなかったがメンバーのひと
り、Yさんの2階の店にも立ち寄り歓談のひとときを過ごした。

(参加 15人、天気 晴、距離 10㎞、地図(1/2.5万) 東京西南部、歩行地
 東京都渋谷区、港区、歩数 19,300)





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善福寺川沿いを荻窪から中野まで歩く(東京)

2013-12-07 21:36:10 | 江戸・東京を歩く
 2013年12月6日(金)

 11月中旬並みの暖かさになったこの日、東京・杉並区の北西端、善福寺池を水源とし
て区内を東南へ流れる、善福寺川沿いのウオーキングに出かけた。

 JR中央線の荻窪駅南口を10時5分にスタートする。東南に進んで荻窪四郵便局前を
通過し、荻窪三丁目にある区立「角川(かどかわ)庭園・幻戯山房(げんぎさんぼう)~
すぎなみ詩歌(しいか)館~」へ。

 俳人で角川書店の創設者、故角川源義氏の旧宅である。緩やかな台地の中腹に広い庭園
を持ち、幻戯山房と呼ぶ建物↑は国の登録有形文化財である。

    
 建物に入り、そのまま残る源義氏の書斎を拝見する。落ち着いたたたずまいの日本庭園
では、ススキやクヌギなどが武蔵野の雰囲気を残していた。


 蛇足だが、角川現義氏の句碑を、11月23日に歩いた三浦半島の先端、城ヶ島で見た
ことを思い出した。

 南側の「大谷戸さくら緑地」に出て、枯れ枝となったソメイヨシノの間を少し進むと善
福寺川左岸の遊歩道に入る。

 善福寺川緑地の始まる中通橋の先から、流れは半円形にカーブし、その内側(左岸)で
は、台風や集中豪雨による水害から守るための調整池の工事が進捗中である。



 カーブの終わった西田橋で右岸に回る。流れに沿ってソメイヨシノの並木が続くが、葉
はほとんど落ちていた。流れにはオナガガモがたくさん泳いでいる。
    

        
 色づいたカエデの横を過ぎ、対岸に大きく枝を伸ばしたケヤキなどを見ながら進む。


 天王橋の先からは、右に大きくV字状にカーブする。イチョウの黄葉や色鮮やかなモミ
ジの下などを通過し、五日市街道を横断して再び左岸へ。
    



 川の流量は増え、緑地にはケヤキなど広葉樹の彩りが残る。


 白山前橋の先の流域は和田堀公園となり、間もなく自然のままの中の島のある和田堀池
のほとりへ。もうすぐ散りそうなモミジが、彩りを残していた。


 洪水時の調整池となる低く掘り下げた野球場の横から、流れは90度左カーブして北に
向かう、すぐ先の大宮橋を渡って右岸を少し、大宮一丁目にある杉並区立郷土博物館に寄
ることにした。


 館の入口は、旧井口家住宅の長屋門。宮前五丁目から移設したもので、文化・文政年間
(1804~29)頃の建築と推定されているという。

 敷地は、もと嵯峨公勝(さがきんかつ)侯爵の邸宅とのこと。公勝の孫娘浩(ひろ)は
満州国皇帝溥儀(ふぎ)の弟薄傑(ふけつ)にここから嫁いだようで、当時をしのぶ、た
だひとつの庭石↓だけが残されていた。
    

 コンクリート造りの館内に入り、常設展示室で原始・古代から近現代までの展示を観覧
する。


 さらに特別展示室での「甲州道中へのいざない」へ。甲州街道は10年近く前に歩いた
ことがあり、江戸五街道中の位置づけ、江戸の庶民の旅や参詣模様、案内書など、興味深
く観覧した。


 本館の北には区内の古民家、旧篠崎家住宅が移築されていて、内部にも入れる。
    

 前庭のケヤキの高木が黄葉の彩りを残していた。
     

    
 本館前には、庚申塔や馬頭観音供養塔、五輪塔など、江戸期の民間信仰の石塔が並んで
いた。ゆっくりと巡り、50分ほどかけて観覧した。

 館の前の通りを北にすぐで、東側を真っ直ぐ北北東に延びる荒玉(あらたま)水道道路
に回る。
        
 出たところの家に十月桜が咲き、すぐ先の和田堀公園では、こんな木の実がたくさん付
いていた。センダンだろうか…。
    

 ちなみに「荒玉水道」とは、大正時代から昭和中期にかけ、多摩川の水を世田谷区砧か
ら中野区野方と板橋区大谷口に送水するために使用された地下水道管のこと。現在も砧か
ら杉並区梅里までの荒玉水道沿いに都道428号「荒玉水道道路」が走り、今日はその北
端付近を歩くことにしたのである。

 荒玉水道道路の直線部が終わった東側は、日蓮宗本山の妙法寺。「やくよけ大師」とも
呼ばれ、江戸時代から霊験あらたかなことで多くの信仰を集め、その繁栄ぶりは文政6年
(1823)刊行の「武蔵名勝図絵」に、「浅草観音に並べり」と記されていたという。


 どっしりとした仁王門を入ると、正面に大きな祖師堂(そしどう)があり、堂内には
「やくよけ祖師像が」祭られている。


 この祖師堂は、先ほど入館した杉並区立郷土資料館の記念スタンプのデザインにも使わ
れており、区内でも顕著な建物であることが知れる。

 境内は広大で、大きく伸びた木々の間に幾つもの堂塔が並び立つ。

 本堂は祖師堂の右手奥にあり、落ち着いたたたずまいを見せ、近くには日朝堂(にっち
ょうどう)↓や三十三夜堂、浄行堂(じょうぎょうどう)が並ぶ。


 本堂の西側には、近くに住みこの寺を愛した作家・有吉佐和子の碑もある。
      

 葉を落とした広葉樹の下には、五重石塔や2基の千部講中石塔が立っていた。
      

 祖師堂の右手にある鉄門は、わが国近代建築学会の恩師、コンドル氏の設計で明治11
年(1877)に完成したもの。国の重要文化財に指定されているという。
    

 門前の通りを東へ、広い境内の東側を走る細い通りを北に向かう。俳人・長谷川かな夫
妻の句碑と墓があるという福相寺前を通過して、環状七号線に出る。

 少し戻って信号を渡り、斜めの通りを進んで「蚕糸の森公園」の南西端へ。

 紅葉の残る公園の南側を東進して中野区内に入り、青梅街道近くの本町六丁目にある
「散歩かふぇ ちゃらぽこ」に入る。
    

     

 日本初の「歩くこと」をテーマにしたこのカフェのことは、姫路の「出がらし紋次郎」
こと、Kさんに教えてもらったもの。

 14時に入ったのでまずは遅くなった昼食に、おすすめメニューのひとつ、「ひき肉と
トマトときのこのカレー・セット」を注文する。

 店では、週末を中心に散歩会や街道歩き、歴史講座などのイベントを手がけており、最
近は東海道を歩く企画を続けていて、東海道や大山街道などの地図や図書を販売していた。
    

 店内にはウオーキングや旅、歴史などの図書が豊富で、自由に読んだり情報交換や交流
の場として利用されているようだ。

    
 食事をしながら店主のKさんにそれらの話を伺い、食後は奥の部屋に並ぶ図書や写真な
どもゆっくり拝見した。
    
 1時間近く滞在して店を後にする。


 イチョウ並木の黄葉した青梅街道を横断して細い通りを北上し、15時15分にJR中
央線の中野駅に着いた。

(天気 晴後快晴、距離 9㎞、地図(1/2.5万) 東京西部、歩行地 杉並区、中野
 区、歩数 18,600)

 杉並区立郷土資料館でもらった「杉並区史跡散歩地図」には、1万2千分の1の大判地
図に3㎞から7㎞前後の14コースが紹介されていて、それらを組み合わせたコース取り
も出来そう。この地図を参考にして、杉並区内の史跡めぐりをしてみたい。

 なお、最近リニューアルされた「散歩かふぇちゃらぽこ」のホームページはこちらから。




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谷中、根津神社、上野公園を巡る(東京)

2013-10-19 21:55:46 | 江戸・東京を歩く
 2013年10月18日(金)

 最近解散した地図愛好者グループのNさんと、谷中(やなか)周辺の街歩きをすること
にした。JR日暮里駅に集合し、10時30分に北口をスタートする。

 まずは駅を出て西へ、谷中銀座への通りのすぐ北の、本行寺の山門を入る。

 木々の多い境内に、小林一茶の↓「陽炎や道灌どのの物見塚」句碑、種田山頭火の句碑、
太田道灌の物見塚の碑などがある。


 西隣は谷中七福神大黒天の教王寺(きょうおうじ)。

 明暦元年(1655)の建立で、慶応4年(1868)の上野戦争のとき、敗走した彰
義隊士をかくまったため新政府群の攻撃を受け、山門にはその時の銃弾の痕が残っていた。


 十字路を挟んで西側の延命院は、四代将軍徳川家綱の乳母、三沢局(みさわのつぼね)
により慶安元年(1648)の開創。


 天保7年(1836)の「江戸名所図会」にも描かれた推定樹齢600年、東京都天然
記念物のシイの古木が立っている。


 
 少し先の「夕やけだんだん」と呼ぶ坂を下ると、谷中銀座商店街。

 約170mにわたる狭い通りの両側には惣菜、菓子、パン、肉、菓子など60前後の店
が続いている。

 商店街の入口、「茶遊亭」と呼ぶ銘茶と菓子の店頭に積み上げたこれは、玄米シューク
リーム。Nさんがひとつ買おうとしたが、まだ開店準備中だった。


 飴(あめ)屋さんの壁面には、近辺の古い社寺などの切り絵が並ぶ。



 通りは観光客などで結構賑わっている。ここには著名人も数多く訪れるようで、かりん
とうの店の看板や肉屋さんに並ぶサインに、その人気の一端が知れる。


 T字路に出て「よみせ通り」を南へ、千駄木駅近くで東に入ると、突き当たりが岡倉天
心記念公園。

 日本美術院を設立した明治時代の美術界の指導者、岡倉天心の旧居跡を公園にしたもの
で、六角堂には天心像が祭られていた。


 公園の南側の路地を入り、突き当たりを右折した上り道は蛍坂(ほたるさか)と呼ばれ、
江戸時代はホタルの名所だったとか。いま左手は、墓地のがけを保持する無粋なコンクリ
ート擁壁(ようへき)が続いている。

 坂を上がり左折すると、台東区のまちなみ賞に選ばれ江戸時代の面影を残す、観音寺の
長い築地塀(ついじべい)が残っていた。

 観音寺は、慶長16年(1611)の創建という。

 すぐ先の十字路を右折して南に向かう。そばの長安寺の墓地には、岡倉天心や米人フェ
ノロサなどの日本画復興運動に加わったという明治初期の日本画家、狩野芳崖(かのうほ
うがい)の墓がある。


 鎌倉時代の板碑3基と室町時代の板碑1基があることも門前に記されていたが、見つか
らなかった。

 通りの両側は寺院が続く。その一角に、江戸時代建造の3階建て土蔵造りの質屋を活用
した「すぺーす小倉屋」と呼ぶギャラリーがある。


 入館すると、近年亡くなったこの家のおばあちゃんが、写真やメモ無しで思い出して描
いたという、大正や昭和年代の近辺の風景の絵が展示されていた。


 寺町の終わる上野桜木交差点際には、谷中六丁目から移設した旧吉田屋酒店の建物を活
用した下町風俗資料館付設展示場がある。

 建物は、明治43年(1910)に新築し、昭和61年(1986)まで使われたもの
とか。開け放たれた内部に、吉田屋酒店で使われた道具やポスターなどが展示されていた。


 正午を過ぎたので、この辺で昼食とする。交差点の西側にあるカヤバ珈琲店のランチが
お勧めとのことで、外で少し並んで待つ。

 ランチメニューは4種類で、すべて900円。2階の和室に上がり、コーヒー付きのハ
ヤシライスを美味しくいただいた。

 来た道を谷中霊園入り口まで戻り、ぎんなん通りの南側の細い通りを西に進む。

 突き当たる辺りには、昭和をしのばせる古い木造民家の並ぶ一角が残っていた。



 T字路を南下する途中の長久院の本堂前には、脇侍(わきじ)を従えた石像の閻魔(え
んま)像がある。

 六十六部聖の光誉円心(こうよえんしん)という人物が、享保11年(1726)に造
立したもの。

 都内に現存する六十六部聖造立の石仏は地蔵菩薩像が圧倒的に多く、円魔王像は極めて
まれだという。

 次のT字路を西へ、「繪処」という看板の下がる建物があった。

 自由に観覧できるというので入ると、芸大で学んだというアメリカ人の日本画屏風絵師、
アラン・ウェスト氏の屏風絵などが並ぶ画廊で、大小たくさんの絵を、5000円から
450万円までの値で販売していた。

 すぐ先のY字路際に、みかどパン店という古くからの店があり、二つの道路に挟まれた
狭いところに、谷中のシンボルとして知られる、枝をたくさん伸ばしたヒマラヤスギの古
木が立っている。

 パン店の初代店主が植木鉢で育てた木で、台東区の保護樹木に指定されていて、映画や
ドラマ、小説、雑誌などに数多く紹介されたようだが、昨年3月にこの地が売却され、伐
られる可能性があるとのこと。谷中地区の町会などが木を守る活動を続けているようだ。

 南西に少し進むと、三浦坂と呼ばれる急坂がある。


 坂を下らず北西に向かう辺りは、勝山藩(現在の岡山県)の下屋敷跡。その一角に都心
とは思えぬ緑豊富なお屋敷があり、「大名時計博物館」の古い看板が掛かっていたので観
覧することにした。

 この地に住んでいた陶芸家の上口愚朗氏が収集した江戸時代の大名時計をはじめ、外国
製時計、掛時計、櫓時計、印籠時計、香盤時計など初めて見る貴重な時計がたくさん展示
されていた。中には、東京都有形文化財に指定されたものもある(入館料300円、展示
品の撮影は禁止)。


 ひとつ西側の通りに回り、やや広いあかじ坂を下って、東京メトロ千代田線が地下を走
る不忍(しのばず)通りを横断して、根津神社へ。

 翌日、10月19日(土)と20日(日)には「第15回根津・千駄木下町まつり」が
開催されるようで、境内には露店が多数並ぶが、今日は閉ざされていて営業はしていない。

 根津神社は日本武尊(やまとたけるのみこと)の創建と伝えられ、五代将軍徳川綱吉が、
この地で誕生した六代将軍家宣(いえのぶ)の産土神(うぶすながみ)として宝永3年
(1706)に千駄木にあった社を移し、権現造りの社殿を造営したという。


 露店の間を進んで朱塗りの山門をくぐり拝殿に参拝し、境内の神楽殿などを眺め、小休
止した。


 不忍通りに戻って南東に進み、東京メトロ根津駅南側付近で左に入る。


 池之端児童遊園地は、かつて都電池之端七軒町停留場跡。そこに都電7500形の
7506号車が保存展示されていた。


 上野公園に向かって東進する。公園の台地西側下に森鴎外旧居跡の説明板があり、現在
は「天然森鴎外温泉」のビルになっていた。


 台地下を少し南に回り、大鳥居をくぐって石段を上がり、徳川家康と吉宗、慶喜の三代
将軍を祭る東照宮に参拝する。

 藤堂高虎が家康の遺言により、高虎の敷地であるここに寛永4年(1627)に本宮を
造営したが、将軍家光はその建物に満足できず、慶安4年(1651)現在の社殿を造営
替えしたとのこと。

 近年、大修理が続いていたがほぼ完成したようで、周囲の壁面付近だけが白幕に覆われ
ていた。そばの五重塔も初重の屋根のみ、覆いが被されている。


 境内の一角には、昭和20年(1945)8月に広島に投下された原爆で炎上した伯父
の家の火を故郷に持ち帰り灯し続けたという、福岡県の山本達雄さんの火と、長崎の原爆
瓦からとった火と合わせて点火し続けている「広島・長崎の火」のモニュメントがある。


 公園の真ん中を東に抜けて、JR上野公園の公園口に15時34分にゴールした。

 Nさんと私が各々用意した幾つかのガイドブックから拾った、この近辺のルートは10
近くあり、今日回ったのはその中のほんの一部。谷中銀座のユニークな店、寺町のたくさ
んの寺や幾つものミニ博物館など、まだ回ってみたいところは数多くある。また機会を作
って歩いてみたい。

(天気 晴後曇、距離 5.4㎞、地図(1/2.5万) 東京首部ほか、歩行地 荒川区、
 台東区、文京区、歩数 11,700)




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レインボーブリッジを渡りお台場海浜公園周辺を歩く(東京)

2013-07-16 20:38:11 | 江戸・東京を歩く
 2013年7月14日(日)

 カントリーウオークグループの第205回例会に参加した。ふだんは郊外の田園地帯や
里道などを歩くのだが、今回は東京都心に近いレインボーブリッジを渡り、周辺の水辺の
プロムナードなどを巡ろうというのが担当のNさんの企画である。

 暑さを少しでも避けようと、いつもより1時間早い9時にJR山手線・京浜東北線の浜
松町駅北口に集合する。そばの旧芝離宮入り口付近でコース説明を受け、9時10分に出
発した。

 == レインボーブリッジを渡りフジテレビへ == 


 高層ビルを眺めながら竹芝通りを東へ。通りに大きないかりが飾られ、伊豆七島をイメ
ージした小さい緑地が続く。新島のモアイ像かと思われる石像もある。


 通りの突き当たりが伊豆七島への玄関口、竹芝客船ターミナル。中央広場に帆船のマス
トをイメージした大きな柱が立っている。



 隅田川河口が一望でき、これから行くレインボーブリッジや、やや霞むフジテレビなど
が望まれる。


 第1待合室で少し涼み、海岸通りを走るモノレール「ゆりかもめ」の高架下の歩道を南
に向かう。薄曇りながら風がなくて蒸し暑い。


 モノレールが左カーブしてレインボーブリッジにかかるところにある歩行者用エレベー
タの建物に入り、7階のサウスルート(南遊歩道)までエレベータで上がった。


 サウスルートの歩道に出ると、眼下にタグボートらしい数隻の船が見下ろせ、南側には
港区港南の倉庫や工場、高層ビル群などが一望できる。



 もう少し風があるかと思われたが風は弱い。高所からの展望を楽しみながら東に進むと、
緑に覆われた第六台場が近づき、その向こうにお台場海浜公園やフジテレビなどの建物が
近くなってきた。




 左カーブして、眼下に第三台場の「史跡品川台場三番」碑を見下ろす。さらに右カーブ
する辺りの橋脚にお台場の説明板があり、幕末の黒船来航に備えて江戸防衛のために砲台
を据え付けたことなどが記されていた。



 全長1.5㎞余りのレインボーブリッジを下りて、お台場海浜公園に入る。かなり蒸し暑
いが家族連れや若い人など、かなりの人出で、海の中も暑いのか盛んにボラが高く飛び跳
ねる。


 松の木陰でしばらく休憩して水分補給し、冷たいキュウリ、パインアップルなどの差し
入れをいただいた。


 今晩と海の日の明日の夜開催されるという「海の灯まつり」の、色とりどりのキャンド
ル入れの並ぶ砂浜の横を通過して、11時13分にフジテレビの建物に入る。

 1階ホールで昼食の予定だったが、予定外の夏のイベントを開催中で、多くの人で賑わ
っている。その奥にあるコンビニで昼食や飲み物などを調達して、外のパラソルの並ぶテ
ーブル3つに陣を取り、昼食をした。

 
 == プロムナード公園から豊洲、月島方面へ ==


 昼食地で記念撮影後にミーティングをして、たくさんの人出で賑わうフジテレビの長い
エスカレータで7階まで上がり、屋上の庭園に出て一巡する。







 さらに5階に下って建物内を回り、フジテレビの人気番組のセットや写真、スタジオな
どを眺めて1階に戻り、12時50分に午後のコースに向かう。



 東側のウェストパークブリッジを渡り、プロムナード公園で左折してフジテレビの裏手
に回ると、高さ10m以上はありそうな大きなガンダムが立っていた。このあたりもたく
さんの人出で賑わっている。


 日差しは弱いが気温は34℃前後に上がり、蒸し暑くて風も弱い。斜張橋の横を通過し
て、ゆっくりと回る大きな観覧車が近づく。



 パレットタウンと呼ぶ建物に入ると、外国のクラシックカーが何台も並んでいた。薄暗
い通路の両側には、きらびやかな商店が並んでいる。


 それらを眺めながらさらに進み、ゲートを抜けて噴水のある広場を過ぎる。


 13時17分にモノレール・ゆりかもめの青海(あおみ)駅に着いた。


 ここからゆりかもめで終点の豊洲に向かい、豊洲から晴海通りに出て春海橋を渡り、佃
(つくだ)大橋近くから佃の渡し跡を見て、月島西中通りでもんじゃ焼きを味わおうとい
う計画であるが、暑さに弱い私はここで失礼して皆さんと別れ、Tさんとゆりかもめで新
橋駅まで戻り、帰途についた。

 ちなみに、この日の東京の最高気温は34.6℃だった。

(参加 14人、天気 晴、距離 青海駅まで7㎞、月島駅まで10㎞、地図(1/2.5
 万) 東京南部、歩行地 東京都港区、江東区、中央区、歩数(青海駅まで)12,900)




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市ヶ谷から新宿へタウンウオーク(東京)

2012-12-13 20:49:24 | 江戸・東京を歩く
 2012年12月9日(日) 

 埼玉県を中心にカントリーウオークを楽しむグループの、今年の最後となる第199回
例会が開催された。集合はJR中央・総武線の市ヶ谷駅。

 今回は、カントリーウオークならぬタウンウオークの企画。市ヶ谷見付跡の色鮮やかな
モミジのそばで組み分けをして、10時10分にスタートした。


 駅前から五番町に入り、マンションなど住宅関係のビルの多い通りを進む。ビルの間か
ら、大イチョウの黄葉が望まれる。


 間もなく外濠公園に上がった。ソメイヨシノやイチョウ、クロマツなどの古木が遊歩道
沿いに続き、木の間から西側眼下にJR中央線の線路が見下ろせる。

 金属製の柵に、ガッチリと幹を食い込ませたプラタナスが目に付く。


 四谷駅近くまで行くと、かなり葉の落ちたイチョウの下にギンナンがたくさん落ちてい
る。匂うので、持ってきたビニール袋でつまみながら3人が収穫した。



 黒松林の横を過ぎ、桜の多い一角まで進むと、北側のビル街の展望が開け、色づいたイ
チョウや広葉樹の木々も結構目に入る。




 四谷駅の北側で線路の上を越え、四谷見付交差点↓を渡って四谷一丁目へ。


 新宿通り(甲州街道)の南に平行する細い通りに入ると、繁華街とは隔離された住宅地
となる。

 おだて横丁を南下し、突き当たりを右折すると、その先一帯に20を超える寺がが並ん
でいる。江戸城の外堀工事の際に、まとまって移転してきたのだという。

 まずは最寄りの西念寺(さいねんじ)に入る。徳川家康の旧臣で槍の名手、伊賀者の指
導者として知られる服部半蔵ゆかりの寺で、家康から拝領した槍が保存されているとか。


 墓地には、慶長元(1596)年に没した半蔵の墓があり、ほかにも江戸時代の年号が
刻まれた墓が多い。



 観音坂を下り、雨宝稲荷大明神の赤いのぼりの並ぶ真成院↑の角を左折後、銭湯の先で
右折し、江戸後期の刀鍛冶の名匠、源清麿(みなもとのきよまろ)の墓のある宗福寺の前
を通過し、戒行寺に入った。


 ここは、池波正太郎のテレビ時代劇で知られる「鬼平犯科帳」の主人公、鬼平こと長谷
川平蔵の埋葬地。平蔵は、寛政7(1795)年に50歳で病没しており、ほかに鬼平の
父、宣雄など5人の火付盗賊改が葬られているという。


 戒行寺の南西にある西応寺には、幕末から明治にかけて活躍した最後の剣客、榊原鍵吉
の墓があるというが、塀にあった説明板を読むだけに止める。

 その角を北に向かい、須賀神社に入った。広い境内の東側に須賀町町会のテントが張ら
れ、町会員が交代で餅つきをしている。

 ついた餅は辛み餅やあんこ餅などにして、200円で販売していた。


 コンクリート造りのりっぱな社殿の手前左手に、近くに本社のあるスーパー〇正の創始
者、飯塚氏の胸像が、右手には鉄製の火の見のはしごに小さい半鐘が下がる。


 また、近隣町会の幾つかのみこし蔵も並んでいた。

 入った通りを北に階段で下って、東福寺坂を少し上り、右手にあった広い境内の愛染院
に行く。


 墓地も広く、その一角に内藤新宿の名主を務めた高松喜六(たかまつきろく)の墓がある。

 高松喜六は元禄11(1698)年、内藤家(ないとうけ)下屋敷(しもやしき)に、
幕府から許可されて宿場を開設して本陣を経営し、高松家は代々、内藤新宿の名主をつと
めたという。

 また、埼玉県深谷市(旧児玉町)出身で文政2(1819)年に「群書類従(ぐんしょ
るいじゆう)」を完成したことで知られる、江戸の国学者、塙保己一(はなわほきいち)
の墓も別の一角にあった。


 正午が近づいたので、この辺で寺巡りを終えて昼食地の新宿御苑に向かうことにする。

 もらった新宿観光ガイドブックの絵と違っていた円通寺を探して、付近を一周後、忍原
横丁から、屋上にヘリコプターが見え、消防博物館のある四谷三丁目交差点に出た。


 新宿通を進み、大木戸門から新宿御苑に入る。


 新装された温室や、樹齢100年を超えるユリノキ↑、花開く冬桜、まだ色濃く残るモ
ミジの紅葉などを眺めながら進む。




 12時28分に「レストランゆりのき」の前に着き、そばのベンチで昼食にした。


 近くには、明治25年(1892)から栽培しているというプラタナスの仲間、モミジ
バスズカケの大木がある。


 ミーティング後、14時まで各自園内を自由に巡ることにする。


 南側の旧御涼亭や日本庭園周辺には、モミジや大イチョウなどの紅葉、黄葉の彩りが残
っていた。





 新宿門のそばで記念撮影をして新宿御苑を出る。


 JR新宿駅南口や都庁前を通過、途中のファミリーマートで飲み物やつまみを求め、新
宿中央公園に南側から入る。

 ビルの向こうに沈む前のわずかな残照を求めて橋の上にシートを敷き、15時半までさ
さやかな忘年の宴を楽しんだ。


(参加 18人、天気 快晴、距離 9㎞、地図(1/2.5万) 東京西部、歩行地
 千代田区、新宿区、歩数 18,200)



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第10回江戸・東京七福神めぐり 新宿山ノ手七福神

2012-01-02 18:27:11 | 江戸・東京を歩く
 2012年1月2日(月・祝)

 今年の初歩きにと、東京都ウオーキング協会が毎年開催している江戸・東京七福神めぐり
に出かけた。

 この七福神巡りは、東京23区内の7つの七福神を巡るもので、全部の7コースを巡り終
えると完歩記念品がもらえる。私は一昨年に巡り終えたが昨年は参加できなかったので、今
年が2巡目の最初となる。今回は、大黒天コースの新宿山ノ手七福神に参加した。

 集合は、JR山手線の新大久保駅から東南5分ほどにある西大久保公園。ざっと70~
80人くらいの参加者が集まり、9時半過ぎから出発式を行い、9時45分に公園をスター
トした。


 南側の職安通りに出る。新大久保からこの付近一帯には韓国系の店が多く、ハングル文字
の看板があちこちで目についた。


 職安通りから南に入る区役所通りの角にあるのが、恵比寿神の稲荷鬼王神社。福瑳稲荷と
鬼王権現を合祀している神社で、江戸時代から豆腐を供えれば湿疹や腫れ物に特効があると
いう言い伝えが残っているという。


 境内には、小さな恵比寿神社も祭られていた。


 区役所通りの街路樹はカエデだが、まだ落葉せずにが残っていた。



 新宿区役所の角で靖国通りに出て、暮れの酉の市で賑わう花園神社↑の前を通過し、明治
通りを横切る。


 一つ南の花園通りに入り、もう一つ南の通りを少しで、境内の広い布袋尊の太宗寺(たい
そうじ)に入った。

 慶長年間初頭(1596頃)、僧太宗の開いた草庵を前身とし、のち信州・高遠城主内藤
家の菩提寺として栄えたとのこと。

 境内には、江戸六地蔵の一つで正徳2年(1712)に造られた銅像地蔵菩薩があり、都
の文化財に指定されている。


 ほかに都最大という閻魔像などが焔魔堂に安置されているなど、文化財が多い。

 靖国通りを越えて北に向かい、東京医科大の北側の細い通りを北に進む。


 抜弁天通りの近くに、3番目の法善寺がある。この本堂には、極彩色の七面明神像が安置
されていて、「七面さん」とも呼ばれているという。


 法善寺の寿老人は、こちらの建物の奥、高いところに祭られていた。


 抜弁天を右に見て、抜弁天通りの北側に回って、福禄寿の栄福寺に詣でる。

 万治2年(1659)の創建と伝えられる禅寺。本堂の前には、金銅の如来像と地蔵菩薩
が並んでいる。

 福禄寿は、この小さいお堂に安置されていた。


 すぐ東、Y字路の狭い一角にのぼりが並んでいるのが、抜弁天(ぬけべんてん)で知られ
る厳島神社である。


 源義家が後三年の役で欧州に向かう途中、ここに厳島神社を祭って戦勝を祈願し、勝利の
後お礼に社を建てたと伝えられているという。


 境内が南北に通り抜けできることから、また、義家が苦難を切り抜けた弁天様であること
から「抜弁天」といわれるようだ。

 社はこのように小さいが、狭い境内の北側にテントが張られ、温かいお茶の接待があった。

 地下に都営地下鉄大江戸線の走る、抜弁天通りを東に向かう。


 市谷柳町交差点の近くに6つ目、大黒天の経王寺(きょうおうじ)があった。

 このお堂に安置されている大黒天は、甲斐の身延山から移されたといわれ、15cmほど
の立像とか。たび重なる江戸の大火から焼失を免れたことから、火災を防止する「火伏せの
大黒天」として知られているという。

 こちらが経王寺の本堂、コンクリート造りである。


 さらに同じ通りを東に進む。


 市谷小前交差点から一つ南の通りに回った。このあたりは二十騎町という初めて聞く町名。
どんないわれがあるのだろうか…。


 最後の善国寺は狭いとのことで、中町あった中町公園で締めの話があり、完歩のシートを
もらう。


 公園の北側には、音楽家・宮城道雄の記念館があった。


 7番目、毘沙門天の善国寺はコンクリート造りのりっぱな本堂。参拝者もかなりいて賑わ
っていたが、カメラのモードがいつの間にか変わっていて、うまく撮れずで写真なし。

 結構人出のある神楽坂通りを下り、11時55分に東京メトロ飯田橋駅に着いた。


 (天気 晴、距離 公称10㎞、実測(カシミール3D) 7㎞、歩行地 新宿区、歩数
  10,400) 
 


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八王子の片倉城跡を訪ねる(東京)

2011-11-29 17:53:51 | 江戸・東京を歩く
 2011年11月26日(土)

 地図を愛好するグループ「地図を歩く会」の第22回例会で、八王子市街の南部にあり
東京都の史跡となっている片倉城跡を訪ねました。

 JR横浜線の、北のターミナルである八王子駅の次の片倉駅に集合し、10時半過ぎに
駅を後にしました。北口を出て西へ、国道16号を横断すると、すぐ西側の丘陵が片倉城
跡です。


 広葉樹林に覆われた斜面の下に住吉沼があり、その周辺のラクウショウとメタセコイア
が色づき、そばに幾つかの彫刻が並んでいます。




 斜面中腹にある住吉神社を目指して急階段を上がり、左に回り込むと、イチョウの幼木
がたくさん生えていました。そばのイチョウから落ちた、ギンナンが芽を出したのです。


 住吉神社は、片倉城主であった長井大善太夫道広が、応安4年(1372)に城の鎮守
として摂津国(大阪市)の住吉大社を勧請したものとか。

 慶安2年(1649)10月には、徳川3代将軍から朱印7石を受けているそうです。

 片倉城は、室町時代に大江広元を祖先とする長井氏により築かれたと伝えられており、
太平洋戦争中には高射砲陣地として使われたとのこと。面積は、39.272㎢あるそう
です。

 神社の背後から林間を、本丸跡に向かって上がって行きました。


 広い芝生に覆われた本丸広場です。


 本丸と二の丸の間の空堀はかなり埋まっていて、あまり窪みが感じられません。


 二の丸広場も広い芝生地に。西端からは奥多摩の山並みが望まれます。


 広場の隅で実を付けている木は、ムクでしょうか…


 二の丸広場の先は、標高144mの水準点をピークとした平坦な台地上に畑が広がり、
その周辺を広葉樹林が点在していました。


 広葉樹林の切れ目から北を見ると、八王子駅そばに最近出来たという、高層ビルが目
につきます。


 さらに台地上の畑の横を西に進みました。


 畑の先には、最近完成したらしい「片倉つどいの森公園」と呼ぶ、芝生広場を中心に
した自然公園が広がっています。


 公園の高台部分の西端まで行き、昼食前にまず、このグループいつもの行事、山座同定
(さんざどうてい=山の形や位置から山の名前を確認すること)に入ります。丹沢方面は
雲が多く、富士山も雲に隠れていましたが、奥多摩の山並みが、かなりはっきりと見られ
ました。


 北西に見える、五重塔のあるところは満福寺のようです。


 奥多摩の最もよい目印である大岳山(1267m)。


 さらに右(北)に目を向けると、奥武蔵の山並みや秩父の武甲山(右端)なども。


 山座同定の後、クローバーの上に腰を下ろして昼食にしました。

 同じ場所で1時間近く経過してから南西に向かい、「つどいの池」と呼ぶ調整池のそば
まで下り、公園を抜けました。


 近くの道路際に、たくさん花開いていた皇帝ダリアの一部。


 片倉駅の次、八王子みなみ野駅周辺は、広い道路を挟んで、新しい商店や事務所、住宅
などがどんどん出来つつあり、片倉城跡やつどいの森公園とは別世界のようでした。


 撮り忘れたので、ゴールのJR横浜線八王子みなみ野駅前で今日のメンバーを。私を入
れて4人で、ちょっと淋しい集まりでした。
  

 (天気 快晴、地図(1/2.5万) 八王子、歩行地 八王子市)
 


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