あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

東松山から坂戸へ、高坂台地下の湧水と田園地帯を巡る(埼玉)

2016-05-17 21:43:00 | カントリーウオーク
 2016年5月15日(日)

 埼玉県内を中心に歩く、カントリーウオークグループの第233回例会に参加する。集
合は東武東上線の高坂(たかさか)駅、3組に分かれて10時8分に東口を出発した。
 
 == 七清水せせらぎ緑道を行く ==
 
 線路に平行する住宅地の間の旧道を北へ、古くからお住まいの家が多いようで、それぞ
れの庭にいろいろな花が咲き競う。
         

 民家を改装したらしい喫茶店の広い敷地には、大きなシダレザクラが2本立つ。養蚕を
していたのか、屋根に小屋根を乗せが民家も見られた。


         
 初めて見たキウイの花↑の咲く家もある。眺めていたらご主人に声をかけられ、「キウ
イの下の変わった花は何か知っているか」と問われる。コンニャクの花だった。
            

 T字路を右折して県道344号を信号で渡り、台地上の旧道を東に進む。眼下にリバー
サイドパークのグランドが見下ろせる。

 少し先で、林間の踏み跡を上がって背後の墓地から高斉寺(こうさいじ)に入る。墓地
の隅に「史跡 加賀爪累代之墓所」の標石が立ち、そばの墓地にその加賀爪(かがつめ)
一族10人の墓が並んでいた。県の旧跡である。

 加賀爪氏は徳川家に仕えて禄高1万石を領し、この地に大きな陣営を置いた領主とのこ
と。加賀爪忠澄は関ヶ原や大阪の役に戦功あり、江戸町奉行に登用されたが、加賀爪直澄
の代に成瀬氏と領地問題を起こし、天和元年(1681)に領地を没収されたという。

 それにしても、加賀爪氏という名の領主がこの地を治めていたということは、私は初め
て知った。


 本堂は端正な構え、門前にりっぱな庚申塚が立っていた。

 南側の道路に出て、すぐ先から高坂台地下を南に延びる「七清水せせらぎ緑道」へ。こ
の周辺の河岸段丘のがけ下に「高坂の七清水」と呼ぶ湧水が続いている。


 そばのがけ下に、そのひとつ「高斉寺下の清水」があるが、湧水量は少なそう。


 遊歩道沿いは緑が多く、アジサイがもうすぐ開花しそう。ウツギは咲き出していた。
    

     
 池の横を通過し、キショウブがたくさん咲き出した一帯は「東光院下の清水」。近くの
モミジが、淡い彩りの花を見せる。


    

 東西に走る市道の下をトンネルで抜け、緑道はその先で左へと台地下をカーブする。
    
 カシワバアジサイのつぼみがふくらみ、よく育ったムラサキツメクサが増え、たくさん
花を付けたウツギもある。
     


 緑道が終わり国道407号を横断した左側一帯は折本山公園。広い草地にたくさんのシ
ロツメクサが咲き、その向こうに近年完成した大規模商業団地の建物が見える。


 折本山公園の東端まで進んで県道212号を渡り、舌状に延びた正代(しょうだい)の
台地下の歩道に回る。


 左側の湿地と調整池では、オオヨシキリのさえずりが賑やか。


    
 台地の斜面にヒョウタンボクが咲き、下草にたくさん咲くのはナヨクサフジのよう。あ
まり見たことのない白い花も咲いていた。
    

         

 舌状台地の尖端付近で正代の台地に上がり、御霊(ごりよう)神社に向かう。神社近く
の小さな交差点際に、天明元年(1781)と宝暦8年(1758)に亡くなった女性を
供養して建立した、石の地蔵尊があった。
         


 御霊神社は、武蔵国を平定した源義平(みなもとのよしひら)の霊を、この地に館(や
かた)があった地頭の小代行平(しょうだいゆきひら)が祭ったといわれているとのこと。

 本殿の背後に、文政13年(1830)造立の道祖神と、不規則な凹みのある石塔が並
んでいた。
    

 南側の石段際には、市の名木で樹齢約300年、幹周り約3m、樹高約23mという大
ケヤキが、高く枝を広げていた。
     


 境内背後の西北側地続きに青蓮寺(しょうれんじ)があり、本堂左手に「小代重俊供養
塔」と記された、弘安4年(1281)銘の大きな板石塔婆が木造の建物に祭られている。
         
 ここ正代は、児玉党に属する小代氏が館を構えていたとのこと。4代重俊は勲功により
肥後国(熊本)野原荘(のはらのしよう)の地頭を命じられ、蒙古襲来の防御と領内の争
い鎮圧のために移り住んだが、重俊の仁徳を慕い、また一族の供養のために縁ある小代氏
一族関係者が建立したと記されているという。

 正面の石段を下ったがけ下からは「青蓮寺の清水」が湧出し、コンクリート張りの湧水
には大きなコイが泳いでいた。


 台地下を西南に向かい、やはりコンクリート張りの「宮鼻の清水」前を通過する。東側
には休耕田の多い田園地帯が広がる。



 宮鼻集落の南東端、台地の縁に八幡神社が祭られ、境内には「八幡神社の大ケヤキ」と
呼ぶケヤキの古木が立っていた。
     
 以前は県の木に選定されていて、根回り8m、推定樹齢は約700年以上とか。長くご
神木として親しまれてきたが、幾多の台風などで主幹部が空洞化してしまっているのが惜
しまれる。でも、根元の太さがその歴史を伝えている。

 宮鼻集落の西南端にある香林寺は、最近再建したようで、本堂も山門も白木が真新しい。


 左手のお堂の前に、文化14年(1817)銘の如意輪観音と享和3年(1813)銘
の馬頭観世音像が並ぶ。六地蔵を祭る、山門横の地蔵堂も新しい。
    

 正午を過ぎたので、大きなドームの見える方角に急ぐ。車の途切れるのを待って九十九
川(つくもがわ)の北側で国道407号を横断する。国道際に「近衛師団長浅香宮殿下演
習御統監之地」と記された石碑が立っていた。
         

 九十九川を渡り、南地区体育館も併設されている昼食地の高坂市民活動センターに、12
時26分に着いた。
 
 == 越辺川を渡り坂戸市へ ==

 昼食後ミーティングを終えて、13時25分に市民活動センターを出た。南側で国道を
横断し、送電線に平行する田んぼの中の道を南へ。水田に水を入れる時期になったようで、
道路沿いの流れにはきれいな水が流れている。



 越辺川の左岸を越えて、新しい木橋の島田橋を渡る。以前は時代劇などのロケにも使わ
れた趣ある木橋だったが、近年の水害で流され架け替えられたもの。


 右岸堤防を下った路傍には、地蔵尊など10数基の石塔が並んでいた。



 越辺川と水田に周囲を囲まれた島田集落に入り、東に向かう。豊富な屋敷林に囲まれた
民家が多く、長い生け垣に囲まれた敷地の広い民家も目に付く。


 島田囃(しまだばやし)の山車(だし)車庫の横を通過し、集落の東端付近から集落を
出て、広々とした田園地帯を南下する。水入り前の田んぼが多いが、中には田植えを終え
た水田もある。


 ほぼ真っ直ぐに進み、自然堤防のままの飯盛川の土手に上がる。豊富な草に覆われた堤
防は、春先に黄色の花で彩られたと思われる実のついたナノハナが多い。


 次の橋まで西進して車道を横切り、すぐ先の歩道橋を渡って南側の坂戸市総合運動公園
に入る。2004年の第59回国体のソフトボール競技会場になったという、野球場のネ
ット裏観覧席で、暑くなった日射しを避けて休憩した。

         
 そばの坂戸市のマスコットキャラクター像の立つ池の前で記念撮影をして、公園の南西
側へ。



 園路をたくさんのちびっ子を乗せた豆自動車が走り、その先の広場では「第13回さか
ど民商まつり」が終わろうとしていた。


 バザーの間を抜け、緑陰で休む人、終わりを告げる中央舞台など、市民で賑わう会場を
一巡して入口に戻り、会場を後にする。


 南側をU字状に回って西進して片柳集落に入った。ヒノキの境内林に囲まれた飯盛神社
で小休止する。


 飯盛川を渡って芦山町の新しい戸建て住宅街を進み、ゴールの北坂戸駅に14時53分
に着いた。

(参加 12人、天気 曇後晴、距離 11㎞、地図(1/2.5万) 東松山、川越北部、
 歩行地 東松山市、坂戸市、歩数 21,200)




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アートウオークセラピーで横須賀市津久井を歩く(神奈川)

2016-05-02 22:33:36 | カントリーウオーク
 2016年4月24日(日)

 先月の初回は休んだ、山浦敬子さんの今年2回目の「アートウオークセラピー」と呼ぶ
ウオーキングに参加した。

 集合は京浜急行久里浜線の津久井浜駅。午前中は雨の予報のためか、参加者は敬子さん
のほかは茅ヶ崎のIさんと私のみ。10時ちょうどにスタートする。

 小雨模様なのでポンチョを被り歩き出したが、大したことはなく、間もなく脱ぐことが
出来た。

     
 まずは駅の北側にある浅間神社へ。聖武天皇の天平年中〈729~48〉、僧 行基
(ぎょうき)が来て駿河国の浅間神社を勧請(かんじよう)したと伝わるとのこと。

 社殿は急石段上にあり、豊富な広葉樹林に覆われていた。

 駅前に戻り、線路の高架下を横切る道路を北西に向かい、すぐのT字路から津久井三丁
目の集落に入る。周辺にはカボチャ畑が多く、花や小さな実が見られる。


    

 200mあまり進んで看板に従い、ミカン運搬用レールの横の階段を上がり、往生院に
行く。
     
 永禄元年(1558)の開創と伝わる浄土宗の寺。本尊は、「三浦七阿弥陀」第6番の
阿弥陀三尊とか。


       
 狭い境内の周囲を墓地が囲み、本堂横に水子地蔵が立つ。本堂前に育苗中の野菜の苗が
置かれ、墓の多くが長谷川姓だった。



 下の道路に戻り先に進む。かやぶき屋根にトタンを被せた民家が2棟あり、そばの畑に
見慣れぬ花が咲く。
    
 畑にいたご主人に聞くと、セイヨウアカメガシだという。ほかに、畑の作物のこと、西
側の津久井高のこと、長谷川姓が多いことなどの話を交わした。


 次のY字路を右に入ると、キャベツのナノハナがいっぱいに咲く。キャベツから、この
ようなナノハナが咲くとは知らなかった。
    

 ちなみに、2日後に薬局でもらったナノハナの資料に、「主なアブラナ科の野菜は、ダ
イコン、カブ、キャベツ、ブロッコリ-、小松菜、チンゲンサイ、白菜などで、これらの
花はすべてナノハナになる」と記されていた。

 次第に高度が上がって周辺に気持ちよい新緑が広がり、眼下には畑や民家が望まれる。


 路傍に古い青面金剛(しょうめんこんごう)など6基が集められていて、中の二つには、
明和5年(1768)と天保10年(1839)と刻まれていた。



 高度が上がり、行く手に砲台山(204m)や武山(200m)山頂のアンテナなど
が望まれ、左手眼下に津久井五丁目の民家や畑が広がる。


 そばの畑のブロッコリーからも、ナノハナが咲き出す。


 標高50m近くまで上がり、背後の墓地から東光寺境内に下りた。

 東光寺は約1,200年前、最初訪ねた往生院同様、行基菩薩が諸国行脚の際この地に
来て草庵を結び、夢のお告げにより日光・月光菩薩と十二神将像を彫刻して、この寺を建
てたという。


 鐘楼は年代を感じるたずまい。仁王門の横に、「三浦一族碑」とも記された「津久井義
行公碑」が立っていた。
        
 津久井次郎義行は、三浦半島を治めた三浦一族の統領、三浦大介義昭の弟で、この津久
井の地名をとり津久井氏と称したとか。当寺を治国理民の祈祷所と定めて中興し、その威
光は三浦全郷に聞こえたという。


 寺の東側一帯にイチゴ栽培用の大きなビニールハウス棟が並ぶ。そのひとつに数台の車
で来た人が入り、30分で食べ放題のイチゴ狩りを楽しんでいた。
    

 その横から北へ、高度を上げて行くとミカン畑があり、ミカンの花が開花しようとして
いた。
    


 谷戸作堰(せき)と呼ぶ、いまは水の涸れた潅漑(かんがい)用ため池の横から西側の
道路に回る。すぐ先のY字路際に周辺の観光農園の案内図があり、イチゴやジャガイモ、
サツマイモ、ミカンの収穫を楽しめる場所がたくさん記されていた。


 北に砲台山が近づき、眼下には観光農園の大規模なビニールハウス棟が広がる。


 南東に少し下り、11時38分にせせらぎ公園に入り、東屋(あずまや)で昼食にした。

 公園は、もと水間戸堰と呼ぶため池だったよう。公園のせせらぎの上には、小さな吊り
橋が架かる。


 食事を終えて記念撮影をして、12時過ぎに公園を出る。


          こちらは、敬子さんに撮ってもらった写真のコピー。
         

 南西に緩やかに下り、津久井五丁目の集落中心部へ。Y字路際に馬頭観音や庚申塔、青
面金剛などが並び、石の小さな祠(ほこら)も祭られていた。



 集落を北西に進むと民家の斜面に大株のツツジが数本咲き競い、コデマリも花いっぱい。


 さらに緩斜面を上がって円乗院へ。本堂前にバショウが立ち並び、この地の暖かさが知
れる。



 車道をS字状に上がり集落を抜けると、ピーク付近からは集落の展望が広がり、南西に
アンテナの林立する一角が望まれる。

 帰宅後調べたら、三浦市初声町高円坊(はつせまちこうえんぼう)にある総務省の三浦
電波監視センター。短波帯と宇宙電波の監視をしている日本唯一の施設のようだ。

 思い出すと、半世紀以上前の1960年代前半の職場で、「電波監理局初声」の名を知
ったが、当時は郵政相の施設だった。

 蛇足ながら、当時の二つの職場では全国各地の地名を知ることが多く、ウオーキングな
どでその地に行くと、それら地名や関連の公共機関とか企業名などをいまも思い出す。


 道路際はビニールシートに覆われた畑が多く、シートの中は大豆の小さな苗だった。

 下りとなった三つ目のカーブ点の木の下にも3基の青面金剛石像が並び、その二つの年
号は文化年代(1804~18)である。
    

 今日もらった地図の西端、須軽谷(すがるや)の扇山集落まで進み、山腹に祭られた八
幡神社に上がる。


 拝殿の右手に、トタン板に三方を囲まれた古木があり、どうもこのウオークで以前来た
ことがあるように思われた。
     
 帰宅後確認したら、2014年11月23日に来た、須軽谷八幡神社だった。入って来
た方向が違うので、覆われた古木を見るまで気付かなかったのだ。

 正面の石鳥居には、天保10年(1839)と刻まれていた。


 同じ道を戻り、扇山集落の東端辺りからは別の道を少し迂回してまたもとの道に出た。
S字状カーブの南端付近の十字路から、横須賀市と三浦市の市境を走る稜線上の道を南へ
と向かう。

 東方に海と房総の山らしいのが望まれるが、霞んではっきりとは認識できない


 放置されたアブラナ科の野菜から咲き出したナノハナ畑が広がり、背後に武山の稜線が
望まれる。


 この辺りでスケッチタイムとし、敬子さんは短時間で1枚描きあげた。


 周辺に広がる、カボチャや大豆などの畑を眺めながらの道は、車も通らず安心して歩け
る。


 地図上の標高54mの十字路際にも、嘉永元年(1848)と刻まれた青面金剛など、
6基の石像が並んでいた。



 市境を離れて津久井四丁目まで下り、道は南東に向かう。いまは珍しい裸電線に止まっ
ているのは何だろう。I さんはハトだろうと言うが、もっと小さい鳥のようにも見える。


 下のグランドから歓声の聞こえる津久井高の南西側高みや老人ホーム前を通過し、津久
井浜駅の上を通過する跨道上まで戻る。


 線路の北側を下り、津久井駅には14時ちょうどに着いた。

 あちこちでウグイスがさえずり、緩やかなアップダウンで変わる新緑の山並みや野菜畑
などの眺望を楽しみ、車もほとんど気にすることなく歩け、気持ちよいカントリーウオー
クだった。

(天気 小雨後曇、距離 7㎞、地図(1/2.5万) 浦賀、歩行地 横須賀市、歩数
 14,400、累積標高差 約400m)
 



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取手から利根川を渡しで越えて我孫子市東郊へ(茨城・千葉)

2016-03-14 22:27:19 | カントリーウオーク
 2016年3月13日(日)

 24年目に入って最初の、カントリーウオークグループの例会に参加した。集合はいつ
もより1時間早い9時にJR常磐線取手(とりで)駅。午前中に乗る利根川の渡しの乗船
人員の関係で2組に分かれ、9時9分に東口を出た。

 
 == 取手宿旧本陣など巡り小堀の渡しへ ==
 
 線路に近い緩やかな坂を北東に上がり、まずは取手一高の南側のこぢんまりした地蔵堂
へ。新四国相馬霊場第20番札所で、境内に屋根付きのつるべ井戸が残る。



 取手一高の東に回ると井野天満神社がある。室町末期の天正元年(1573)の創建と
か。拝殿前には生花が飾られ、近くに新しい撫で牛像が置かれていた。
    


 東側の鳥居の横にカシの古木が目に付くが、ほかに高木は少ない。でも、盛りを過ぎた
が梅は何本も花を見せ、スイセン、クリスマスローズ、サンシュユなどが咲き競い、早春
の彩りにあふれている。
    

 東に下って台宿二丁目の東側を南下して、Y字路際に祭られた香取神社に入る。江戸初
期の正保4年(1647)の建立で、新しい社殿は平成8年(1996)末の竣工という。


        
 境内のハクモクレンが咲き出し、交差点を挟んで、新四国相馬霊場第4番と不動堂の小
さなお堂が並んでいた。


 西に回り、駅に近い取手二丁目の台地上にある広い境内の長禅寺に行く。平将門が祈願
寺として承平元年(931)に創建したと伝わる古寺。江戸初期に当地に移り、徳川家光
から朱印地5石3斗を賜り、以後代々の将軍からも朱印地を賜っていたという。


 茨城県指定有形文化財の三世堂は、宝暦13年(1763)の建立。外観は2層だが内
部は3層のさざえ堂形式になっていて、守本尊の十一面観音と、坂東、秩父、西国のあわ
せて百観音霊場の本尊が安置されている。


    
 境内はケヤキの高木など樹木が多く、中心の池にはニシキゴイが泳ぎ、梅やユキヤナギ、
カンヒザクラなどが花を見せていた。
         


 山門を出て急石段を下った南側の県道11号・水戸街道に、漬物の新六本店と田中酒造
店が並ぶ。新六本店は明治時代の創業で、キュウリやナスなどの粕漬けで知られているよ
うだ。



 田中酒造店は明暦元年(1655)の創業とか。店の前に大きな酒樽のオブジェが並ぶ。



 店内に五月人形が飾られていたので入り、動きのある姿の飾りびなを拝見する。明治天
皇行幸の折、陛下ののどを潤した功により下賜された銘柄が「君萬代」だという。
    

 東南に少しで「旧取手宿本陣染野家住宅」があり、公開していたので表門を入った。

 染野家は代々取手宿の名主で、貞享4年(1687)に水戸徳川家から本陣を命ぜられ
たとか。現在の主屋は寛政7年(1795)の再建で、ほぼ当時のままという。かやぶき
屋根正面の入母屋破風(いりもやはふ)が、風格を感じさせる。


    
 構内の紅梅やミツマタ、サンシュユ、カンヒザクラなどが彩りを添える。
         

 西側斜面を上がると、天保11年(1840)江戸から水戸への帰途、水戸藩主徳川斉
昭が読んだ自筆の歌碑が立っていた。
         

 そばに立つ高く枝を伸ばすムクノキは、市の保存樹木である。


 水戸街道をさらに進み、北側の石段を上がると、新四国霊場2番の念仏院。


       
 境内は狭いが、本堂前に市の保存樹木のイチョウが高く枝を広げ、相対して「とりで利
根川七福神」の福禄寿が立っていた。
         

 少し戻り南側の八坂神社へ。宝永4年(1707)建立という石鳥居を入った正面に、
社殿が祭られている。


 背後の本殿は明治39年(1901)の竣工。当時の名工の木彫が施されているが、覆
い屋にネットが被され、よく見えないのが残念だ。
        

 境内には、ご神木で樹齢300年以上という大イチョウが2本あり、「子授け安産の木」
「子育ての木」としてあがめらているとか。ほかにも何本かのイチョウがある。
      


 市民会館の横を進んで利根川の左岸堤防に上がると、眼下に取手緑地運動公園が広がり、
上流にはJR常磐線の鉄橋が望まれる。


 公園の駐車場横を湖岸まで下って、「小堀(おおほり)の渡し」の乗船場に行く。

 以前この辺りの利根川は蛇行していたが、大正9年(1920)に直線化工事が完成し、
小堀地区は河道の南側に分断された。不便になった小堀地区では、住民が渡しの運行を始
め、のちに取手町営となり、現在は上流の常磐線鉄橋下と対岸との3か所を結ぶ渡し舟が、
水曜と年末年始を除いて、1日7回運行されている。

 乗船定員が12名なので、今日の参加者17人は2組に分かれ、われわれ後半は11時
20分発の渡船に乗る。


 まずは上流のJR鉄橋そばの船着場に向かって遡行する。豊富な流れは緩やかで10分
ほどで着き、折り返して対岸下流に向かう。



 今度は速度が上がり風が冷たい。今日は真冬並みで気温も7℃前後か、寒いのをがまん
して11時47分に右岸の小堀船着場に着き、待っていた前半組と合流する。



 ナノハナ咲く堤内の草地を進んで、交通量の多い堤防沿いの車道を横断する。正午近く、
近くの常圓寺に入り、本堂に接する集会所の濡れ縁に並んで昼食にした。


 == 静かな里道を回り湖北駅へ ==


 常圓寺は、千葉重胤(しげたね)の家臣により寛文2年(1662)の創立とか。境内
には新四国霊場第9番のお堂や、聖天尊堂、聖徳太子堂など小さいお堂が並ぶ。



 道路側には寛文11年(1671)銘の十九夜塔や、青面金剛、勢至菩薩像など江戸時
代の石像が多く、土中に半分以上埋もれたものもある。



 隣接する水神社は寛文8年(1668)の創立、常圓寺とともにケヤキの高木が幾つも
目に付く。ミーティングと写真撮影をして、12時45分に寺を出た。


       
 東側に回って小堀集落の中心部を北東へ。1本の木に紅白の梅が咲き、アセビが花を見
せる。フキノトウはあちこちで咲いていた。
    

 利根川の河川改修で取り残されて「古利根沼」と名を変えた、旧河道の湾曲部左岸に出
る。「利根川百景、茨城自然100選」の看板が立ち、沼が県境で対岸は千葉県我孫子市
である。


 車道に戻り、古利根沼の東北端で利根川への流入部を横断し、近くのY字路で県境を越
えて、我孫子市下根古屋集落に入った。
      
 沼の右岸を少し南下して左へ、浸食が進んで薄暗いところもある竹林の間を進む。下根
古屋の東北端の田んぼに、田の神だろうか小さい祠(ほこら)が祭られていた。


 利根川右岸沿いに続く二つの老人施設を見ながら集落の東を回り込み、特養老人ホーム
和楽園前で小休止する。


 南西の中峠下(なかびょうしも)集落に入り、新四国相場霊場60番の照妙院不動尊へ。
創建年代は不詳だが、元文5年(1740)の中峠村の記録に記載されていることから、
それ以前には創建されていたらしい。


 この寺の境内にも古い石仏が幾つも並び、ムクロジの古木と気根の下がるイチョウの古
木があった。


 国道356号を横断して「北向薬師堂」とも呼ぶ中里薬師堂の横を鍵型に通過する。傍
らに小さい子安堂も祭られていた。



 今日のゴール、JR成田線湖北(こほく)駅には14時33分に着いた。14時48分
発上野行き上り電車に乗る。今日は一日中気温が上がらず真冬並み、風邪気味の私はマフ
ラーが外せなかった。

(参加 17人、天気 曇、距離 8㎞、地図(1/2.5万) 取手、歩行地 茨城県
 取手市、千葉県我孫子市、歩数 16,200)




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二つの印旛沼の間を歩く(千葉・印西)

2016-03-06 23:17:25 | カントリーウオーク
 2016年3月5日(土)

 「新ハイキング」誌の昨年12月号に掲載された、「印西を歩く その3 北印旛沼(き
たいんばぬま)ー西印旛沼」を参考に歩いた。

 北総鉄道の終点、印旛日本医大駅に9時42分に着いた。駅構内にも駅の周辺にも商店
は無い。弁当を買ってきて良かった。9時50分に駅を出る。


 北側の戸建て住宅が並ぶ若狭一丁目と三丁目の間の通りを東進し、交差点を過ぎると松
虫の古くからの集落となる。

 次の変則四差路際に文化年代(1804~18)の廿三夜塔と、庚申塔が立っていた。

 集落の南端から北に進むと、集落中心部に松虫寺(まつむしでら)があり、門前にスダ
ジイの古木が立っていた。
     


 松虫寺は、聖武天皇の天平17年(745)僧行基の開創と伝えられる古寺。聖武天皇
の皇女松虫姫が重い病を患った際、夢のお告げで下総に来て薬師に祈り平癒したので、聖
武天皇が行基に命じて七仏薬師を刻んで寺を建立し、松虫寺と命名したという。


 朱塗りの山門と薬師堂は享保3年(1718)の改築、本堂↑は寛政11年(1799)
の建立とか。本堂右裏手には宝物殿が、左手背後には松虫姫神社↓がある。


 寺の西側の道路際に、庚申塔がビッシリと並ぶ。「百庚申塔」と呼ばれ、この地には数
多くの石塔を建てる風習があり、信仰の強さを物語るものとか。


 少し先のI家には、りっぱな長屋門が残っていた。


 北進した道が右カーブする三差路際の木の下に、「杉自塚(すぎじづか)」がある。
     
 松虫姫の乳母杉自は、姫が病癒えて奈良に帰ってもこの地に止まり、文字や養蚕、機織
りなど都の技術を里人に伝えて慕われ、没後村人が建てたものという。
         

 塚の周辺にも、文政12年(1829)銘の庚申塔が並んでいた。


 少し戻り、樹林と集落の間を東に下る。民家の畑の白梅が見頃で、近くの斜面にはカワ
ヅザクラも花開く。



 集落を出て谷地田を横切ったところに、印西大師第68番の小さなお堂が祭られていた。
        

 東側、大竹集落の台地の林は、地名の故か竹の浸食が著しく、あちこちで伸び放題。上
り坂際にM家の大きな長屋門があるが、屋根の痛みが激しく痛々しい。
     

 林間や畑の間を南方に抜けて国道464号を横断する。すぐ先の四差路際に「吉高の大
桜周辺案内図」があり、そばに7基の古い石塔が集められていた。

 中には、初めて見た「普門品塔」とか「光明真言塔」があり、光明真言塔の側面は道し
るべにもなっていた。


 畑の間を進んでナノハナ咲く吉高集落へ。二つ目のY字路際の畑道を南に回るとカワヅ
ザクラが花開き、その先に印西市天然記念物に指定された「吉高の大ザクラ」があった。



 須藤家の氏神として祭られた樹齢300年以上と推定されるヤマザクラで、根回り周囲
6.65m、樹高11.7m、枝張り最大24.5mあるとか。花期はソメイヨシノより
遅れの4月上旬から中旬という。のびのびと枝を広げていて、花の時期に見たいものだ。

 集落に入ると甘い香りが漂う。、民家の道路際で、3本のジンチョウゲがたくさんの花
を見せていた。
    

 少しの谷地田をの先の十字路際に、集会所のような平屋がある。「さくら広場」と記さ
れ、2000年公開の新藤兼人監督作品「三文役者」の映画ロケ地として使われたものと
か。

 平成17年(2005)まで、駄菓子屋として親しまれていたという。

 東北に上がった蕪和田集落の中心の十字路際には「村社宗像?」の石像と小さい祠(ほ
こら)が祭られ、北側に北印旛沼が望まれる。


 北東に少しで、豊富な森に囲まれた吉高鎮守の宗像(むなかた)神社に入る。

 天暦2年(948)、筑前国(福岡県)宗像から三女神を勧請したと伝えられ、宗像大
明神と称して治水・水産の神として尊崇され、弘化2年(1845)に宗像神社と改称さ
れたという。


 静かな境内と周辺に、10数本の紅梅や白梅が見ごろ。本殿背後にはカシだろうか、高
木が不規則に枝を伸ばしている。

    
 拝殿の左右にはカワヅザクラも咲き出していた。左手の木の下に木製のテーブルと椅子
があり、正午近いので、今年初めてのウグイスのさえずりを聞きながら昼食にした。


 12時21分に神社を去り、十字路に戻って東へ、放置された畑に怪獣のような木株が
残る。
    


 時計回りに下って台地下の迎福寺(こうふくじ)に行く。境内に樹木は少なく、新しい
お地蔵さんが並んでいた。


 田んぼの中を南東に進み、印旛捷水路(しょうすいろ)左岸に出た。印旛沼は以前W字
型の大きな沼だったが、戦後の干拓で北印旛沼と西印旛沼に分かれ、二つの間を結ぶ水路
のひとつがこの印旛捷水路で、西印旛沼から北印旛沼に向かって流れているという。


 近くには、北総鉄道経由で成田空港に伸びるスカイアクセスの線路が走っている。


 印旛捷水路左岸沿いの県道406号になっている自転車道に入り、南西に向かう。この
辺りは、禁を犯して佐倉惣五郎を対岸に渡した甚平渡し跡らしいが、護岸工事中で標識は
見られなかった。


 成田スカイアクセスの高架下を抜けて若木の桜並木沿いに進む。男性サイクリストが次
々に通過するので、流れ側を歩く。

 1㎞余り進んだ捷水路の14.5㎞標識近くに、「ナウマン象発掘地点」の説明パネル
があった。
    
 昭和41年(1966)、この水路の掘削工事中に発見されたもの。当時国内で頭、胸、
足の骨が揃って発見されたのは初めてで、発掘調査により約3万年前の化石と判明したと
いう。


 斜面上を横断する二つの道路橋下を通過し、流れはカーブして南に向かう。2.5㎞ほ
どのせんげん橋↓まで進んで自転車道を離れた。


 老人ホームよしきりの背後を西進し、花台大川岸集落の南側高台にある徳性院に入る。
江戸時代、周辺のお寺をまとめ印旛沼の航海の安全を祈って建てられたとか。

 本堂↑は印旛沼に向かって立ち、境内には「大悲窟」額のかかるお堂↓や、新しい「み
がきぼとけ七福神」、六地蔵などがある。



 境内からは南から西方に西印旛沼の展望が広がり、晴れた日には富士山も遠望できると
いう。門前には、「観音の 夢見やりつ 花の雲」と刻まれた芭蕉句碑が立っていた。

 沼や沼の北側の田園地帯を見下ろしながら北に少しでT字路を東に入り、集落の間の細
道を北西に向かう。集落を北に抜けた辺りにもカワヅザクラが4本咲いていた。


 北側の郷集落に入ってすぐのT家も、長屋門が残る。


 近くのT字路際の鎮守の森は宗像神社。寛和元年(985)、やはり筑前宗像から宗像
大明神として勧請して創建したとか。

 天保12年(1841)に宗像神社と改称し、古来から治水水産の神として崇拝を受け
ているという。本殿側面には、物語を刻んだ木彫が施されている。
    

 境内には、樹齢500年を越えると推定されるスダジイ、樹齢250年を越えると推定
のカヤをはじめ、ケヤキやムクノキなどの古木が高く枝を伸ばしていた。

 鳥居前の盛土上に、昭和53年(1979)建立の「印旛沼開拓之碑」が立っていた。
      

 北に少しのT字路の西側に、開放的で広い境内の願定院(がんじょういん)がある。

 比叡山延暦寺に属する寺で、本尊は阿弥陀如来座像。本堂と山門は享保14年(1729)
の再建と伝えられるという。


 北側の朱塗りのお堂は馬頭観音を祭る観音堂で、馬の掲額が奉納されていた。
    

 そばに毘沙門天を祭るお堂もあり、観音堂前にはケヤキの高木が目に付いた。

 南に少し戻り、林間を西に下って谷地田の東端へ。田んぼと山林の間の少し荒れた池に、
弁天堂が祭られていた。

 広がった田んぼの間を西進すると、西印旛沼の南側に、佐倉市街だろうか数棟の高僧マ
ンションらしい建物が望まれる。


 田んぼの中間辺りには、7基のお地蔵さんが並ぶ。周辺の田んぼの守り神として祭られ
たものを、一か所に集めたようだ。


 西側、一本松集落東南端の斜面上にある浅間神社に、急傾斜の石段が伸びていた。ステ
ップは短く一段飛びでも上がれるが、150段を超えるので結構キツい。上がった広葉樹
の森には、やや荒れた二つの小さい社殿が並んでいた。


 田んぼに沿って西に少しで、Sカーブ状に台地に上がる。国道464号沿いに、印西市
役所印旛支所と「ふれあいセンターいんば」の入った旧印旛村役場の建物がある。


 そばの交差点の北側は美瀬一丁目で、駅に近い新興の戸建て住宅地になっている。

 やはり住宅地の舞姫二丁目との間を進んで松虫姫公園沿いに出た。

 公園には、北側眼下に見下ろせる調整池、牛むぐり池にちなむ、牛ノ大きな遊具がある。


 公園沿いに進み、印旛日本医大駅に15時55分に戻った。1分後に上り普通電車があ
る。急ぎ階段を下り、もうホームに停車していた電車になんとか間に合った。

 それにしても、今日歩いたルートには駅の周囲を含めて全く商店を見ず、飲料水の自販
機もひとつしか見覚えが無い。駅周辺の住宅街を除いては首都圏とは思えぬ、昔ながらの
風景の残る取り残されたようなエリアだった。

(天気 晴時々曇、距離 14㎞、地図(1/2.5万) 小林、歩行地 印西市、歩数
 27,600)


 なお、今日歩いたなかで、松虫寺や郷集落、花台大川岸集落などは、8年前の2008
年2月3日、やまさんや敬子さん、ともに岩槻のIIさん、TIさんと、降りしきる雪の
中を逆行したことを思い出す。当時はまだ成田スカイアクセスも開通前で、線路の路盤工
事中だったところを通過した。




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多々良沼へ白鳥観察のウオーキング(群馬)

2016-02-18 22:34:18 | カントリーウオーク
 2016年2月17日(水)

 カントリーウオークの仲間と、館林市と邑楽町(おうらまち)にかかる多々良(たたら)
沼への白鳥観察ウオーキングに出かけた。

 東武伊勢崎線久喜駅に集まったのは6人、10時発館林行き下り電車に乗る。館林です
ぐの電車に乗り継ぎ、10時34分に次の多々良駅で下りた。


 駅前に並ぶ、市内の茂林寺(もりんじ)ゆかりのタヌキに見送られ、10時45分に駅
を出る。
    

 南側の国道122号を横断して稲荷町から日向町を経て、県立館林美術館の西端付近に
ある日向橋で多々良川を渡る。



 流れに泳ぐカモなどを見下ろしながら、川沿いを南西に延びる桜並木の遊歩道を進む。


 東側は広々とした田園地帯で、その向こうに松林の防風林が長く続いている。



 イチゴ狩り農園の長いビニールハウスの横を通過して、多々良沼の東北端の多々良橋際
に出た。眼前に多々良沼が広がるが、冬で降雨が少ないためか、湖面は狭まっているよう
に見える。



 そばにある野鳥観察棟に入ると、多々良沼の白鳥などの写真が展示され、白鳥ガイドマ
ップも置いてある。はく製のコハクチョウも、ケースに入って展示されていた。


 この辺りからは白鳥は見えないので、西進する車道の沼側に設けられた、新しい遊歩道
を進む。車を気にせずに歩けるので安心だ。

 この沼での白鳥観察を勧めてくれた、以前の中山道ウオークのメンバーで邑楽町在住の
KKさんからのメールによれば、この遊歩道は最近沼を一周できるように完成したばかり
という。

 晴れていた空に雲が増えて陽が陰り、やや強い向かい風が冷たい。観察棟から1㎞ほど
で江尻橋を渡り南へ、すぐ先に多々良沼西岸の湿地に続く小さな水辺、ガバ沼がある。 


 沼辺に邑楽町の観光物産販売所↑や観察棟と駐車場などがあり、望遠レンズを付けたカ
メラマンが何人も並んでいた。





 沼には16~17羽の白鳥と、たくさんのカモなどが望まれるが、デジカメの望遠レン
ズでは、何の白鳥かは確認できない。


 ちなみに多々良沼に飛来するのは、コハクチョウを中心にオオハクチョウやアメリカコ
ハクチョウ、コブハクチョウなどだという。

    
 観光物産販売所には毎日の飛来数が記されていて、今日午前は55羽らしい。2月では、
7日午後の140羽、14日午後の135羽、2日午後の133羽の3日間だけ、100
羽を超えているようだ。

 少し南下して、甚兵衛川の向野橋を渡る。川の南岸沿いの遊歩道を東南へ、駐車場の北
側のベンチ付近に12時03分に着き、昼食とする。


 西側、鶉新田(うずらしんでん)集落にある梅林の白梅が満開になっていた。



 雲が切れて、再び青空が広がる。北に白いのは日光の山か、近くは↓足利周辺の山だろ
うか、西北には赤城山が望まれた。


 食事を終えて12時34分に駐車場際を去り、さらに先に向かう。芦原の間の細い流れ
が湖に流れ込む辺りに、35羽前後の白鳥が見えた。


 わずかな水の浅瀬だが、魚でも来るのだろうか…。


 その先、西から沼に突き出た小さな半島の突端に、朱塗りの浮島弁財天の社殿が祭られ
ていた。

 鎌倉幕府没落の折、執権北条高時の弟、四郎慧性がある夜、崇拝する江ノ島弁財天が夢
枕に立ち、この地に逃れて再興を図るべしとのお告げを受けてたどり着き、恩林寺を建て
て北条家の菩提寺とし、江ノ島弁財天を勧請して鎮守として建立したのだという。


 弁財天堂の南側水辺には、20羽前後の白鳥が寒そうに首をつぼめて立っていた。


 この周辺も水が少なく、浅瀬が西に広がる。



 天気が回復して遠望が良くなり、北に冠雪した日光の男体山↑の山容がはっきりしてき
た。


 赤城山↑の左手(南)には榛名山↓も望まれる。


 「藤棚の小径」と呼ぶ遊歩道を西に向かう。芝生地に2本ある、サクラのつぼみがかな
りふくらんできた。
    

 藤棚の小径には、かなりの樹齢と思われる幹の太いフジが続いている。


 藤棚の終わった広場に「町指定史跡 鶉古城跡」の標柱と説明板が立っていた。

 多々良沼に突き出た「荒間崎」と呼ばれる半島部に築かれた城で、元弘3年(1333)
5月、北条高時が鎌倉に滅ぼされたとき、弟慧性らが逃れ来て築城したとか。

 のち多々良氏が入り、戦国時代には館林城主の重臣小曽根氏が小田原北条氏の来功に備
えたが、天正18年(1590)の館林城落城に伴い廃城になったという。

 そばの、「小城の泉」と呼ぶ石積みの前で記念撮影をした。


 西に延びる新しい遊歩道沿いには、多々良町で設けた健康増進用の変形の椅子などが幾
つか続く。
    


 盛土上に東屋のあるところで新しい遊歩道は左折して南へ、さらに東へと回り込み、邑
楽町から館林市に戻る。


 遊歩道は、湖岸と車道との間を緩やかなカーブで続いている。


 町と市境付近のアシの茂る小さな水辺に、1羽のアオサギが立っていた。
  


 少ない水辺などを眺めながら広葉樹の並ぶ遊歩道を東進し、成島町の北側を進む。北成
島町の北で、以前からあった松林の間を抜ける多々良沼自然探勝路に入った。


    
 アカマツの下には野外彫刻が次々に並び、「彫刻の小径」とも呼ばれている。
        

 多々良沼の東端の駐車場付近には、人工の池が設けられていた。



 車道を横断した東側には芝生の盛土上に展望所があり、北側に広がる田園地帯の向こう
に、赤城山やスタート直後にそばを通過した、県立館林美術館↓などが望まれる。


 彫刻の並ぶ林の中を少し探したら、次の横断道路の傍らに田山花袋の歌碑があった。
        
 碑の文字もそばの説明を記した石板の文字も読みにくいが、どうやらこの松林のことを
読んだ歌のようだ。

 多々良沼を反時計回りにほぼ一周したので、南側の東武小泉線の成島駅に向かうことに
する。西高根町の住宅街に入り、高根中央公園の北側を通過して北成島町へ。

 駅まで700m付近まで進んだが、14時38分発上り電車には、わずかに間に合いそ
うになく、その後は約1時間後になる。皆さんの了解を得て、東側の館林駅に向かうこと
にした。

 小泉線の線路際に進み、線路の北側沿いの道を東進して国道122号の陸橋下を抜け、
小泉線と伊勢崎線との合流点付近で伊勢崎線の踏切を渡る。館林駅には15時06分に着
いた。

 電車時刻を勘案するのが遅れ、皆さんには2㎞ほど余計に歩いてもらうことになってし
まった。間もなくの15時14分発上り久喜行きで帰路についた。

(参加 6人、天気 晴一時曇、距離 11㎞、地図(1/2.5万) 足利南部、佐野、
 館林、歩行地 館林市、邑楽町、歩数 18,900)




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岩槻の市街地から南東側郊外をめぐる(埼玉・さいたま市)

2016-02-13 23:43:24 | カントリーウオーク
 2016年2月11日(祝・木)

 埼玉県内を中心に歩く、カントリーウオークグループがスタートしてから満23年目の
今日、第230回記念例会を開催した。集合地の東武アーバンパークライン(旧野田線)
岩槻駅では、駅舎の橋上化工事が進行中である。


 初参加の上尾市の2人を加えて参加者は21人。20人を超える参加は3年前の記念例
会以来だ。4組に分かれ、駅前に飾られた「ミミズク土偶」を見て、10時15分に駅を
出た。
        
 
 == 貝塚を回り久伊豆神社へ ==
 
 駅前通りを南東へ。人形店には、3月のひな祭りを控えてひな飾りが並ぶ。

 岩槻人形は江戸時代頃から起こり、現在の生産量は日本有数の位置を占めるという。


 駅入口交差点で右折して県道2号・日光街道に入る。拡幅された通りには、蔵造りなど
の古い商店が幾つか見られる。




 岩槻藩高札場跡に高札風の掲示板があり、江戸時代のことや「日光御成街道岩付宿絵図」
などが掲示されていた。


    


 古い洋風建築の岩槻郷土資料館や八雲神社↑前を通過して、すぐ先の交差点を南東へ。
突き当たりが「岩槻大師」と呼ぶ弥勒密寺で、山門には大きな提灯(ちょうちん)が下が
る。
       

 奈良時代開創の古寺で、関東三十六不動霊場第31番札所とか。本堂地下仏殿では、四
国八十八か所お砂踏み遍路が出来るという。



 鐘楼の周囲に小さな三十六童子像が並び、境内には人形大師なども祭られ、山門を囲む
塀の中には小さな十三仏が並ぶ。山門近くの枝垂れの白梅が見頃になっていた。
       

 南に下って国道16号を渡り、そばのニトリでトイレを借りる。原町の住宅街を東へ、
城南一丁目の岩槻高の南東端から左にカーブする道を進むと、左手の広い空き地が国史跡
の真福寺(しんぷくじ)貝塚である。

 縄文後期から晩期にかけての貝塚・集落跡で、台地には貝塚が直径100mの円形に分
布し、多数の住まいも予想されるとか。貝塚には貝や動物、魚の骨などが残され、駅前に
飾られたミミズク土偶も、この地から出土したものという。

 道路の西側、樹林帯と畑の間の地図に無い土の道を西進する。周辺には樹木畑や広葉樹
林が増え、穏やかな景観が広がる。


 西側の道路際に、小さな鶴姫神社の社殿があった。岩槻城主太田氏の娘、鶴姫が若くし
て亡くなり、生前彼女が好きだったこの場所に祭ったものらしい。
      


 古木の桃の並ぶ畑や、盆栽用の松を育てる樹木畑の横などを通過して柏崎小の南を回り、
サクラやケヤキなど豊富な木々に囲まれた、昼食地の久伊豆(ひさいず)神社に12時9
分に着いた。


 なんとここは、グループ発足の23年前の今日の昼食地。当日は雲ってうす寒い日だっ
た。「やまさん」こと山浦正昭さんのお声がけで集まった初対面の15人が昼食をして、
記念撮影もしたことを思い出す(下の写真は、当日やまさんが撮って会報準備号に掲載し
たもの)。

 当日のメンバーで、今日も参加は5人だけ。

 拝殿は修復工事をするのか、パイプの足場が組まれていた。その周辺と本殿付近で昼食
をする。

 
 == 目白大前から巻の上バス停へ ==


 ミーティングと記念撮影を終え、13時15分に午後のコースに向かう。柏崎小東側の
車道を少し南下して西へ、地図上の水田は休耕地に変わっていた。

 南に延びる細い水路沿いの土の道に入り、真っ直ぐに600mほど進む。この辺りは古
代は海の中で、東側に続く緩やかにカーブする台地が陸地の縁だったという。


 密生した竹林の横や、何種類かの樹木畑の横などを通過する。わずかに左カーブしたこ
ろの雑草地に枯れたガマの穂がたくさん残り、それを刈る人が来ていた。



 車道を横断して東側の台地に上がり、地図に無い土道を進む。


    

 北側の大きな白梅が満開である。



 目白大学↑の南側を通過し、わずかに残る旧武州鉄道(蓮田ー神根(川口市))の廃線
跡を確認する。
      
 武州鉄道は大正13年(1924)に開業したが、昭和13年(1938)に営業廃止
しており、わずか14年の営業だったという。

 畑や住宅の間の細道を抜けて、大規模な老人福祉センター、槻寿苑の公園で休憩する。


 東側に続く環境センターの北側を進み、県道214号を横断して笹久保集落へ。南側に、
Jリーグ一部、浦和レッズの本拠地「埼玉スタジアム2002」が望まれる。


 少し迂回してNTTの建物横を通過し北東へ。畑の隅に早春を彩るフクジュソウが咲い
ていた。
        


 自転車をたくさん積み重ねた集積地の横を進み、右カーブする辺りで東側の畑に入ると
貝殻らしい小さな白い破片が目に付く。この辺りは黒谷(くろや)貝塚だったようで、白
い破片は縄文時代の貝だろうか…。



 黒谷久伊豆神社↑と光善院前を通過し、その先の細道を入る。南北に長い田園地帯を前
にした台地の下り際は、昔はいわゆる姥捨ての地だったとか。言われてもその痕跡は何も
感じられぬ空き地だ。



 田園地帯の西側を走る黒谷落と呼ぶ流れ沿いに出た。桜並木の続く道を進んで、和戸住
宅公園の池の南側で小休止する。



 池のすぐ北にある今日の担当のAさん宅の横を過ぎ、田んぼの中を東に抜けて伊藤パン
の工場の南側を通過して、ゴールの巻の上バス停に15時34分に着いた。

 間もなく来た岩槻駅行き朝日バスに乗る。

(参加 21人、天気 快晴、距離 11㎞、地図(1/2.5万) 岩槻、歩行地
 さいたま市岩槻区、歩数 19,500)


 市街地に入った東町二丁目バス停でバスを下り、近くのスーパーで飲み物を調達して、
今日の担当のAさんが貸し切ってくれたカフェに入り、23周年の記念の集いを開く。




 2時間ほど歓談して外に出た頃にはすっかり暗くなり、西の空には上弦の月が望まれた。




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旅のスケッチ展を見て西区の寺社を巡る(埼玉・さいたま市)

2016-01-28 23:08:59 | カントリーウオーク
 2016年1月27日(水)

 1週間余り続いた寒波が緩んだので、カントリーウオークグループの新しいメンバー水
野さんの、「旅のスケッチ展」の観覧に出かけた。


 JR川越線の日進駅北口を、10時52分にスタートする。


 地形図上に記された、駅前通りと鴨川沿いの番場公園近くにあるはずの寺を探しながら
行くが、両方とも無かった。

 番場公園の横を北進して国道16号大宮バイパスを歩道橋で越え、西に延びるバス道路
へ。鴨川の共栄橋を渡り、内野本郷交差点を右折して北への住宅地を進む。


 旅のスケッチ展会場の「クラフト&ギャラリー風画(ふうが)」は、介護老人保護施設
「ケア大宮花の丘」の東側、すぐ近くにあった。
        


 ギャラリーには水野さんも居られ、水野さんが描いた各地のスケッチ画が30点余り展
示されていた。
    

         

 私がかなり以前に訪ねた乳頭温泉などの絵もあり、懐かしく拝見する。私の郷里が県内
・小川町ということを話すと、展示してない作品の中から小川町の造り酒屋と裏通りの風
景を描いた絵も見せていただく。特に、普通の人が見落としがちな裏通りに目をつけて描
かれた水野さんの画才に感心する。


 ギャラリーのオーナー井出さんは、現代美術作家とか。遺跡発掘調査をきっかけに縄文
式土器の魅力にひかれ、現在は復元土器の作家としても知られているようで、飲食コーナ
ーには井出さんの作品がたくさん展示されていた。


 作品の観覧と水野さんや井出さんとの歓談、コーヒーをいただき、ほぼ1時間を経過し
た12時30分に会場を後にした。

 すぐ北側には、「大宮花の丘農林公苑」がある。南北に長い約11haのエリアに、春は
チューリップ、夏はサルビア、秋にはコスモスなど、四季折々の花が咲き競うというが、
厳冬期の現在は花に乏しく、わずかに南側の小さいエリアにパンジーが花を見せていた。


         


 北側を横切る道路を横断して、「花の食品館」↑と呼ぶ地元農産物や季節の花の直売を
する建物の横を通過する。そばのシダレウメはまだつぼみのまま。
      


 その先、広い苑内を囲む広葉樹も枯れ枝で色彩に乏しい。池の横の低い丘陵に上がって
周辺を一望して引き返す。


 苑内には、植木鉢を重ねて人形のようにした飾り物が幾つも置かれていた。
    

 公園の西側に見える梅林の北側には、10日前の残雪が残る。道路の南側に戻り、パン
ジーの花畑を眺めながら東屋(あずまや)で昼食にした。


 風も無く暖かい日射しなので、午後は以前にカントリーウオークの例会などで歩いたこ
とのある、西側の寺社を幾つか巡ることにする。

 ケア大宮花の丘北側の道路を西へ、南行、北行が分離した幅広い国道17号・上尾道路
を西新井(南)交差点で横断する。

 次の十字路を南西に折れ、県道165号沿いの清河寺(せいがんじ)郵便局を挟んで北
東と南西にある地形図上の神社マークの場所を探したが、ここも両方の神社はない。

 郵便局前のV字路を北進し、この辺りの地名にもなっている清河寺の前に出た。まずは、
東側の小さい森に祭られた神明社のご神木になっている大ケヤキを見る。
      
 「清河寺の大ケヤキ」と呼び、樹高は32m、幹回り8.5m、根回り14.3mあり、
推定樹齢は約650年という巨木だ。

 4月から5月上旬には雌雄異花の淡い黄緑色の小花をつけるとか。県の天然記念物に指
定されていて、上部は枯れたのか途中で切られているが、根元の太さに圧倒される。

 東側の民家の前の畑では、紅梅がかなり花を見せていた。



 清河寺の参道には古木の梅が並ぶが、まだつぼみが堅い。山門を入った左手の紅梅だけ
が開花を始めていた。
    

 清河寺は、14世紀中頃に開かれた鎌倉円覚寺の末寺。古くは七堂伽藍を連ねた大きな
寺だったと伝えられているという。


 山門の正面に近年再建したらしい大本堂が堂々と立ち、山門の右手の鐘楼もりっぱな構
え。西側のお堂の前には、イチョウの高木が枯れ枝を不規則に広げていた。

 門前を西進して県道216号を横断し、高木集落へ。県道横の工場西側にある横道から
南に回り、樹木が少なく開放的な境内の阿弥陀寺に行く。

 寺は天正7年(1579)の開山、本堂内には大きな阿弥陀如来像が祭られ、江戸時代
は周辺を阿弥陀寺村と称していたほど大きな寺だったらしい。

 江戸中期の享保期(1716~36)には寺子屋教育が始まり、近隣の子らに住職が読
み書き、そろばんを教えていたと伝えられているという。

 境内のほこらに3体の石仏が並び、真ん中のお地蔵さんには元禄3年(1690)と刻
まれていた。


 北西に300m㍍ほどで法光寺がある。法光寺は江戸時代初期にこの地、指扇(さしお
うぎ)を治めた山内氏初代一唯(かずただ)の家臣、高村権之丞が創建したと伝えられて
いるとか。


 門前から境内の常緑高木が目に付き、山門を入った右手にスダジイが大きく枝を広げて
いる。
     
 さいたま市指定天然記念物で、指定時の高さ15m、目通り4.53m、根回り7.4
m、枝張りは東西、南北ともに20mを超え、豊富な枝振りを見せていた。

 さらに300mほど西進した中釘(なかくぎ)集落に、大きな樹木に囲まれた一角が望
まれる。

 永昌寺の境内林で、右手の屋根付きの鳥居を入ると秋葉三尺坊と呼ぶ社殿が祭られてい
た。

 永昌寺は、この後訪ねる予定の秋葉神社の別当をつとめており、秋葉神社と一体であっ
た秋葉三尺坊は、明治初年(1868)の神仏分離令によりここに移されたのだという。


 秋葉三尺坊の左手、土塀に囲まれた一帯が永昌寺の境内で、山門を入った正面に本堂を
構え、山門近くには2組の六地蔵を祭った地蔵堂が並んでいた。




 永昌寺前から南西に進むと、次の交差点際が「秋葉の森総合公園」の南東端で、公園は
北に向かって南北に長く延びている。

 管理棟であるセンターハウスに向かう導入路の、モクレンらしい街路樹の芽は固いつぼ
みのまま。陽の差し込まぬ道路際には残雪がかなり残っていた。
    


 センターハウス↑と天然芝サッカー場↓の間を西南方に回り込む。


 南側斜面や日影の園路は、やはり残雪に覆われている。


 公園の南西端から雑木林の間の土の道を抜けて東に回り込み、妙玖寺(みょうきゆうじ)
の前に出た。

 妙玖寺には、山内一豊(やまのうちかずとよ)の甥(おい)で指扇領主だった山内一唯
一族の墓があるのだが、以前来た時には関係者以外は入山禁止だった。


 恐る恐る山門前に進んだら、犬猫はお断りの標示だけだったので境内に入り、本堂に参
拝後、左手にある山内一唯一門の墓所にも一礼した。


 ここ指扇の地が旗本山内氏と関係をもつのは、元和9年(1623)に山内一唯が2代
将軍徳川秀忠から、指扇領18か村3,000石を拝領したことに始まるとのこと。

 以後、4代豊房が土佐山内氏の養子となるまで67年間、中釘に陣屋を構えて当地を治
め、初代一唯は、荒川の洪水を防ぐために堤防を築き、新田を開くなど多くの治績を今に
伝えているという。

 一門の墓の一部は、新しい墓石に取り替えられていた。

 門前から真っ直ぐ南に進み、中釘集落の中心にある秋葉神社に入る。社殿の西側には、
ミカンがたわわに実をつけていた。


 秋葉神社はもと駿州(静岡県東部)で飽波神社といわれ、遠州(静岡県西部)に移され
た後にここに遷座されたと伝えられ、天平年間(729~49)に創建という古社。

 その後徳川の世に山内一唯に守護神として篤く崇敬され、紀州徳川家の祈願所にもなり、
火災・盗難防護、延命長寿、家内安全の神として崇敬され、春秋の例大祭には関東各地か
ら多くの参拝客が訪れるという。

 この後は駅に向かうことにして、西側の車道を南南西に向かう。平方領々家集落を経て
西大宮バイパスの高架下を抜け、近代的駅舎になったJR川越線の指扇駅に15時45分
に着いた。


(天気 快晴、距離 10㎞、地図(1/2.5万) 上尾、歩行地 さいたま市西区、
 歩数 19,900)





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三浦大根の畑が広がる三浦市南部を歩く(神奈川)

2015-11-24 23:20:27 | カントリーウオーク
 2015年11月23日(月・祝)

 勤労感謝の日、山浦敬子さんの今年最後の「アートウオークセラピー」に参加した。集
合は京急久里浜線の三浦海岸駅。参加は敬子さんのほかは鶴見のIさんと私のみ。

 10時7分発のバスに乗ったが、下車予定の毘沙門天入口バス停は無く、終点の三崎港
バス停に着いた。ルートが違うと分かり、幸いすぐに来た剱崎経由三浦海岸駅行きバスに
乗り、毘沙門天入口バス停で10時55分に下りた。


 あたり一面にこの地特産の三浦大根の畑が広がり、近くの畑では家族3人が一心に大根
を収穫していた。


         
 「毘沙門尊天…」と「馬頭観世音菩薩」と刻まれた古い石像の並ぶ変則四差路を東に入
る。収穫期を迎えた一面大根畑の広がる農道を進むと、換気口のような円筒が並んでいる。

 近くで大根を収穫中の人に声をかけたが、少し離れていて聞くことは出来ない。

 別の畑には、珍しいピンクの大根が放置されていた。


 90度右カーブして南に下る途中に、三浦七福神の毘沙門天を祭る白浜毘沙門天のお堂
があった。

 慈雲寺の毘沙門堂で、本寺は応安元年(1368)の開山、毘沙門天は行基(ぎようき)
の作と伝えられるとか。

 正月3日の酉の刻(午後6時)には必ずありがたい神示があると信じられ、近郷から多
数の参拝者があり、知恵と勇武の守り神としてあがめられているという。

 堂内をのぞいてみたが、毘沙門天像を見ることはできない。無住で境内は手入れが行き
届かず、広葉樹などが乱雑に茂っていた。

 海辺まで下り、岩礁を西側の毘沙門湾に向かって回り込む「関東ふれあいの道」の「三
浦・岩礁のみち」を進むことにする。


 前回の9月27日に歩いた、凹凸の多かった東側の江奈湾付近を回る「岩礁のみち」よ
り、岩畳の凹凸は小さくてより歩きやすい。

    
 浜辺の砂地にたくさんのクコが実を付けていたので、つまんで口に入れたらほのかに甘
い。わずかなヤマブドウの実や、1輪だけ咲き残るハマユウも目に付いた。
        

    
 砂地には、たくさんの砕けた貝殻や、白っぽくて細かな海藻などが見られる。さらに進
むとタンポポに似た花が咲いていた。
         

 突端の尖った島との間を抜けると、毘沙門湾が見えてきた。そこで短時間のスケッチタ
イムとし、立ったまま毘沙門湾周辺を描く。


         

 毘沙門湾の向こうには、城ヶ島大橋と城ヶ島も望まれる。

   城    ヶ    島       城 ヶ 島 大 橋




 右手斜面が垂直の露岩になった辺りの下部に、ポッカリ大きな穴を見せる洞窟があった。



 「神奈川県指定史跡 毘沙門湾洞窟弥生時代住居阯群」の説明板があり、弥生時代から
平安時代に住居や墳墓として利用されたことなどが記されていた。


 その先は、ややゴツゴツした岩礁となり、コンクリート柱の上を渡ったりして通過する。
間もなく毘沙門湾の漁港に着き、岩礁の道と分かれた。



 エンジン付レジャーボートの保管所の横から、八浦集落の斜面を台地上のバス道路まで
上がる。北西に続く江奈集落に進み、12時13分に慈雲寺に入り、本堂左手横の濡れ縁
を借りて昼食にした。



 山門の外、道路際に古い地蔵尊などの石像が並び、境内にも石造の地蔵堂があり、青銅
の観音立像が色づくイチョウの下にあった。
         

 帰宅後に分かったのだが、ここ慈雲寺が最初に立ち寄った毘沙門堂の本寺で、正月に巡
る三浦七福神の毘沙門天の朱印などはここで押印するようだ。

 記念撮影をして12時38分に寺を後にした。

 近くの三差路を右折してバス道路の東に平行する旧道を進み、大根畑の中を回って再び
バス道へ。周辺の大根畑は収穫期を迎えたところが多く、よく太った大根は半分以上が地
上に姿を見せている。
    


 北側の斜面下から延びた広葉樹が色づき始め、その周辺に緑の大根畑が広がり、緩やか
な斜面上部まで続いている。


 道路の傍らに、首を補強したお地蔵さんが立っていた。台地上に吹く強風で折れたのだ
ろうか…。
     

 近くには、今を盛りと咲く皇帝ダリアが1本だけ、高く枝を伸ばして咲く。
          

 大根畑の真ん中にある大乗バス停の三差路まで進み、「海應寺入口」の石碑に従い、南
側の丸込集落に入る。海應寺は、変わった形の火の見やぐらの横を下ったところにあった。



 三浦地蔵尊37番と、三浦観世音第5番の札所で、どっしりした本堂の右手前に古い石
仏が並び、本堂左のモミジが淡い彩りを見せる。
     

 庫裡(くり)のそばのユズが、小さい実をたくさん付けていた。


 すぐ先の民家の納屋に、収穫して洗浄機で洗った大根がたくさん積んであった。

                      たいこん洗浄機↑      


 こんなに積んでは、下の大根はさぞかし重いだろうと気になるほど。ちょうど現在は収
穫期のようで、今日はあちこちで収穫中の畑を見ている。

 三差路の先辺りから大崎集落となり、集落を抜けると再び大根の畑になる。急斜面を、
西北に向かって毘沙門湾近くまで下る。



 りっぱな民家の横で家並みは途切れ、地図上の水田も大根畑に変わった低地を、狭い谷
間に回り込む。ここが三浦半島とは思えぬ静かなたたずまいである。



 谷間の奥まで進んでU字状に左に回り込み、ハゼ系らしい葉の色づく斜面を再び台地上
に上がる。

 大根畑の向こうに2基の発電用風車が近づき、1基は回転しているがもう1基は停止し
ている。

 よく見ると羽の方向が全く逆、季節により風向が変わるため、このように違う方向に向
いているのだろうか…。


 こちらも、一帯は緑一色の大根畑ばかり。わずかに違う色に見えたのはキャベツ畑だっ
た。



 その間を進んで宮川町の家並みに入り、今日のゴール、宮川町バス停に13時55分に
着いた。

 14時4分発、剱崎経由の三浦海岸駅行きバスに乗る。

(天気 曇、距離 6㎞、地図(1/2.5万) 三浦三崎、歩行地 三浦市、歩数
 11,800)


[追記]風車の風向について、横浜市のTさんからのアドバイスによると、風車は上部を
風向きに合わせて動かせるので、たまたま1台は止めてメンテナンスをしていたのではな
いかとのことでした。止まった風車も、180度回転させれば動いていた風車と同じにな
って稼働させられようです。




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雨の東松山市北部をカントリーウオーク(埼玉)

2015-11-09 17:59:57 | カントリーウオーク
 2015年11月8日(日)

 小雨の降り止まぬ1日だったが、埼玉県のカントリーウオークグループの第228回例
会に参加した。

 集合地は、先週も日本スリーデーマーチで3日間通った東武東上線の東松山駅。

 10時20分発熊谷駅行きバスに乗り、10時35分に水穴(みずあな)バス停で下り
た。

 == 和田吉野川近くの寺院と観音堂を巡る ==


 バスの走る国道407号から東側の五反林集落へ。雨でやや霞む田んぼ沿いを北東に進
んで、光福寺の山門を入る。


 本堂左手にあるコンクリート造りの収蔵庫に、宝篋印塔(ほうきよういんとう)と板石
塔婆(いたいしとうば)が保存されていた。


 宝篋印塔は高さ2.1m、元享3年(1323)の造立で、鎌倉時代の宝篋印塔の特徴
をよく伝えるものとして国の有形文化財である。

 板石塔婆は高さ1.52m、嘉元4年(1306)の造立で、阿弥陀三尊などが線刻さ
れていて、鎌倉時代の仏像彫刻のある板石塔婆として優秀なものとか。県の有形文化財で
ある。

 収蔵庫正面のガラス窓に盗難防止の金網があり、撮影はしにくかったので、ネットから
の「じゃらん」の画像を借りる。右が宝篋印塔で左が板石塔婆。
    

 一人で見ているうちに、皆さんは寺を出て見えなくなっていた。境内のマユミの実がた
くさん色づく。
    

 門前の道路を左に回り込むと、十字路際に赤布をまとったお地蔵堂さんが立っていた。
       

 田んぼに沿って進み、和田吉野川の右岸堤防を見ながら西北西に向きを変える。


      
 中岡集落沿いの斜面林と田んぼの間を進んで上岡集落に入り、国道に面して建つ馬頭観
音堂に行く。

 馬頭観音堂は妙安寺の境内にあって上岡観音と呼ばれは、馬頭観音としては関東地方随
一の霊場と言われており、毎年2月19日の例大祭には絵馬市が立つなど、馬の守り観音
として信仰を集めているとか。

        
 拝殿には奉納されたたくさんの馬の像が並び、鬼瓦にも馬の像が見られる。
   

      
 境内に馬の姿の馬頭観世音銅像が立ち、大正3年(1914)に建立された現在の観音
堂の東棟を支えていたという大きな鬼瓦が、平成19年(2007)に葺(ふ)き替えら
れて安置されていた。


 そばの上岡交差点で国道を横断し、新屋敷集落南部を西南へ。民家の前の畑に、たくさ
んのキクが色とりどりに咲き競う。



 集落を抜けて、田んぼの間や数羽のカモの泳ぐ潅漑用のため池のほとりを進む。



 りっぱな桜並木に沿ってV字状に折り返し、昼食地の農林公園コミュニティセンターに
11時50分に入った。


 濡れた雨具を玄関回りに干して、広い畳敷きの部屋を借りて昼食をする。雨の日の昼食
場所としては申し分の無い場所で、食後もゆっくりとくつろぐことができた。
 

 == 川越ゴルフ場東側の山里を回る ==

 雨は本降りではないがまだ止まない。13時に出発し、東に少しでV字状に折り返して
谷地田に沿って進む。

      
 最奥まで行かずに南に回り、川越ゴルフ場の東側の側道に入り、色づき始めた林間の緩
やかな斜面を上がる。


 ゴルフ場入口に通じる車道に出た。すぐ先の土の道への入口際に、お地蔵さんなど4基
の古い石像がお堂に祭られていた。
    


 たわわに実るミカンの木の横や雨に霞むため池のほとりを進み、再びゴルフ場沿いの道
路に上がる。


 大きく伸びたゴルフ場のヒマラヤスギ沿いから左折し、長中集落最奥の民家の間の緩斜
面を東側の谷地田沿いへと下る。民家の庭には、いっぱい実を付けたピラカンサが無造作
に延びていた。
    


 咲き残るエンゼルトランペットの先に穏やかな山里の展望が広がり、田んぼの北側には
民家の大きな母屋や土蔵、豊富な屋敷林などが望まれる。





 この辺りに多い潅漑用のため池の中で、今日一番大きな八反沼の横から南側を回り込み、
オランダ風建物とオランダ風の風車のある大岡市民活動センターに入る。


      

 東松山市は、先週開催されたウオーキング「日本スリーデーマーチ」の開催地として、
オランダの「インターナショナルフォーデーズマーチ」の開催地ナイメーヘンと姉妹都市
提携を結んでいることから、オランダの古いレンガ造りの街並みをイメージした建物と、
オランダ風風車を建てたとか。

      
 建物の前の皇帝ダリアが咲き出し、グミのような木がたくさんの実をつけている。館内
はきれいで天井が高く、幾つかの飾り付けもあり、ゆっくりと休める。


 安価な自動販売機のコーヒーでのどを潤し、ロビー壁面の写真や近隣の催し物のリーフ
レットコーナーを見たりしてくつろぐ。東松山市出身で、今年のノーベル物理学賞を受賞
される梶田隆章さんを祝う張り紙もあった。



 20分余りの休憩後に入口で記念撮影をして、14時10分にセンターを後にした。



 大岡小南側の谷地田沿いを東へ、車道を少しで亀の甲団地の標識のある三差路から林間
を抜ける。


 越塚集落に出て、南側の県道391号をコの字状に迂回して2つの給水塔の横を進む。
堅木岡西集落の北側から東に回ると、埼玉県史跡の冑山(かぶとやま)古墳がある。

 6世紀頃の築造と考えられ、古墳の南北径約90m、高さ約11.25mの円墳で、円
墳としては県内第2の大きさという。 

 墳頂には八幡神社本殿が、墳丘東側には宝暦2年(1752)の創立と推定され、熊谷
市指定文化財の冑山神社本殿↓が祭られていた。


 バス通りの国道407号を横断して、1本東の旧道を南に少しで、広い敷地の根岸家の
長屋門がある。

 根岸家長屋門は、天保11年(1840)の屋敷絵図には描かれていたことから、江戸
後期の建築と考えられ、正面左側は剣術道場の「振武所」として使われたという。

 根岸家は熊谷次郎直実(なおざね)の末裔(まつえい)とされ、江戸時代中期に甲山村
(かぶとやまむら)と箕輪村の名主を務め、約80町歩以上を所有する豪農だったとか。

 江戸時代の名主友山(ゆうざん)は、近郷の子弟を教育する寺子屋三餘堂をつくり、北
辰一刀流の門人だった友山・友香(ともか)父子は振武所という剣術道場を開いて、近郷
の子弟に剣術を教えたという。

 また、友山の2男武香(たけか)は明治新政府のもとで地方行政に関わり、初期学制の
確立に尽力し、第2代県会議長や貴族院の多額納税議員に選出されたとか。文化活動とし
ても「新編武藏風土記稿」の刊行や古文書、古美術の収集に努め、吉見町の黒岩横穴古墳
群や吉見百穴の発掘調査に多大な貢献を果たしている。


 振武所跡は「友山友香ミュージアム」として無料公開され、根岸家の活動状況などの資
料や写真、大洪水に見舞われた時に使われた木造船などが展示されていた。
    

 長屋門の右手にある建物は、旧建物焼失後の大正2年(1913)頃から建て始めたが、
建築途中に関東大震災に見舞われたために、完成は昭和初期になったという。



 国道に戻り、こんもりとした冑山古墳↑を眺めながら近くにある今日のゴール冑山バス
停に15時21分に着いた。10分後のバスで東松山駅に向かう。。

(参加 12人、天気 雨、距離 10㎞、地図(1/2.5万) 東松山、熊谷、
 歩行地 東松山市、熊谷市、歩数 17,000)





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甲府市街北郊、古湯坊から武田神社を経て甲府駅へ(山梨)

2015-10-29 16:06:03 | カントリーウオーク
 2015年10月25日(日)

 宿泊した、甲府駅北口のビジネスホテルを8時30分に出た。駅北口のファミリーマー
トで昼食を調達後、駅前から4台のタクシーに分乗する。

 武田神社横を経て、標高約700mの積翠寺(せきすいじ)温泉・古湯坊(こゆぼう)
の駐車場で下りる。

 積翠寺温泉は信玄の隠し湯のひとつと伝えられ、要害山の北側山間にあり、泉温は15
~20℃度と低温だが、リュウマチや神経痛などに効果があるという。
 
 ここには、やまさんの国際ウオーキングトレイル実踏で2008年11月12日、西側
の千代田湖畔のYHを出発して興因寺山(こういんじやま)を越えて下り、太良峠(たら
とうげ)を越えて東の山梨市牧丘町に向かった時以来で、約7年ぶりである。

 今日は、武田神社を経て甲府駅まで、南南西へ向かうほとんどが下り道。今朝は快晴だ
が冷え込み、まだ陽の差さない駐車場はヒンヤリとして涼しい。記念撮影後、9時21分
に出発する。


 舗装路に滑り止めの横筋の入った結構急な斜面を下って行くと杉林が途切れ、眼下の甲
府市街や南アルプスなどの展望が開ける。




 車道が広がったところで東側に回り込み、要害温泉に接する積翠寺に入る。


 積翠寺の標高は約530m、行基(ぎょうき)の開祖といわれ、古くは石水寺と呼ばれ
たとか。南北朝時代に夢窓(むそう)国師の高弟、竺峰(じくほう)が中興開山し、戦国
時代に武田信虎がそばの要害山に築城し、嫡男の晴信(信玄)が要害山城にて誕生した際、
この寺の境内にある井戸から産湯(うぶゆ)をくんだという。寺は、甲斐百八霊場の61
番札所でもある。


 その産湯の井戸は、本堂背後にある日本庭園の東側に残されていた。
    

 本堂左手には武田不動尊が祭られ、境内には、付近の道路拡張で移設したという「蠶神」
碑や石造のほこらなどが並んでいた。正面の参道入口でもう一度、記念撮影をした。


 積翠寺の南東、すぐ近くに瑞岩禅寺がある。

 天平18年(746)、聖武天皇が全国に国分寺・国分尼寺を発願に際して行基菩薩を
伴い各地を巡幸の途次、当地の風景が殊に勝れていることを賞賛してここに一宇を創建、
随行の行基が十一面観音菩薩を作り、本尊として安置したとか。現在の本堂は、平成22
年の再建である。

 さらに進んで、集落東端にある日吉神社に行く。祭神は大山咋神、近江国日吉神社の分
霊を勧請したもので、旧上積翠寺村の氏神として篤く崇敬されているという。

 秋祭りが近いのか拝殿には紅白の幕が張られ、開放的な境内の一隅にモミの大木がそび
える。
       

         
 その下には大きな「蠶神」碑があり、この地がやはり養蚕の盛んだったことがうかがえ
る。そばに大きな柿の木もあり、たくさんの実が色づき始めていた。
       

 神社の背後からさらに東へ、東沢川右岸沿いの車道に出ようとしたが見つからない。畑
の人に聞いたら、廃道になっていてもう少し下からしか無いとのこと。集落内を南に下り、
車道の終端に入る。

 集落の西側から、生活道路になっている広い車道があるので、この旧道は車の通行を気
にすることなく安心して歩ける。


 少し下ると甲府市街や南アルプスの展望が開け、さらに下ると西側の尾根の上に、わず
かに冠雪した北岳(3,193m)の上部が姿を見せた。



 それらの展望を楽しみながら、高度はどんどん下がる。


 1.5㎞前後下った辺りで休憩した。


   
            
 カリンが実り、ツタが色づく道、正面から暖かな日射しを受けて気持ちよく下る。


 標高450m付近で右カーブし始め、左手の森に若宮八幡神社が祭られていた。

 創建年代は不明だが、鳥居には寛文9年(1669)と記され、貞享元年(1684)、
代官に差し出した書に若宮八幡の名があるとか。かやぶきらしい屋根にはトタンが被され
ているが、スギなどの木々に覆われた古びた社殿が、その歴史を感じさせてくれる。

       
 西に回り込んだ車道は古府中町の家並みへ。十字路を左折して南に向かい、石積みの龍
華池の下を通過し、国史跡・武田氏館跡(やかたあと)の東側、大手門周辺ゾーンに入る。


 武田氏館跡は、武田氏3代(信虎、信玄、勝頼)の本拠として築かれ、一辺約200m
の正方形の居館。東に位置する躑躅ヶ崎(つつじがさき)と呼ばれる尾根のふもとにある
ので、一般には「躑躅ヶ崎館」で親しまれているという。


 大手門周辺ゾーンは戦国時代の正面玄関にあたり、広い草地の一角に↑厩(うまや)跡
が復元されていた。

 堀割に囲まれた館跡に大手門から入ると、豊富な木々が伸び伸びと枝を広げ、その中心
に武田神社が祭られている。

 神社の祭神は武田信玄、大正4年(1915)、大正天皇即位に際して信玄公に従三位
追贈が報告されたのを機に、県民に武田神社創建の機運が沸き上がり、大正8年に社殿が
竣工し、以来、甲斐国の総鎮守として崇敬を集めているという。

 拝殿には早めの七五三詣での家族など次々に参拝者が訪れ、柏手を打っていた。


 神楽殿の横を抜けて11時50分頃、西側の広い草地に回り、芝生にシートを広げて昼
食をする。



 食事を済ませ、南側から西へと巡らす水堀の内側の土塁に上がって見たら、東南方向に
冠雪した富士山の上部が望まれた。


 12時35分に出発し、堀の西南端近くから東へ。



 正面の朱塗りの橋の前を通過し、堀の東南端まで行くと、永禄4年(1563)の川中
島の戦いなどで活躍した、高坂弾正忠昌信(こうさかだんじようのじようまさのぶ)の説
明板があった。


 大手町三丁目の北部を進み、護国神社境内に入る。護国神社は、明治12年(1879)
に招魂社(しようこんしゃ)として創建、昭和19年(1944)に護国神社としてこの
地に遷座された。戦争で尊い命を捧げた山梨県出身の約2万5千余人を、神様として祭っ
ているという。



 大鳥居を出た南側の参道では、骨董品などの市がそろそろ店じまいをはじめたところ。


 県道119号を東へ、県道が90度左折するところを右折し、すぐ先で折り返すように
右折した岩窪町に、武田信玄の墓があった。
       
 天正元年(1573)4月、信州伊奈で53歳の生涯を閉じた信玄は、臨終に際して3
年間の秘密を命じ、嫡子勝頼はこれに従い3年後、武田二十四将の一人、土屋右衛門邸で
荼毘(だび)に付したとのこと。この場所がその土屋邸跡、思いのほか簡素な墓地である。

 墓地のそばに「岩窪のヤツブサウメ」と呼ぶ、山梨県天然記念物で樹高約7m、根回り
約0.8m、3個結実するものが多いという梅の古木が立っている。
       

 岩窪町の住宅街を南西に進み、寺の西側、垣根の切れ目から大泉寺に入る。大本堂では
法事が執り行われていた。

 本堂の左手奥には、信玄の父、武田信虎の墓である五輪塔を祭る小さい建物があり、墓
は山梨県指定史跡となっていた。


 信虎は、永正4年(1507)武田氏の家督を継ぎ、武力で甲斐国内の統一に成功した
が、嫡子晴信(信玄)と対立して駿河に追われ、流浪の末に天正2年(1574)信濃国
高遠(たかとう)で病没し、ここ大泉寺に葬られたという。

 寺には国の重要文化財の「絹本著色武田信虎像」も所蔵され、境内の大イチョウが色づ
き始めていた。


 境内を南に抜け、黄檗宗(おうばくしゆう)様式の門として甲府市指定文化財になって
いる惣門を出て休憩する。


 愛宕山山麓を走る旧道を南進し、元紺屋町を抜ける。県道6号が愛宕トンネルに入る辺
りは寺院が多く、広大な墓地が眼下に見下ろせ、街並みの西方には、甲斐駒ヶ岳や鳳凰三
山などの稜線が望まれる。


 トンネルの先の台地の縁にある八雲神社境内を抜けて、下の道に下りる。



 堂々たる本堂の妙遠寺前を通過して小さい流れを渡り、北口二丁目を南下、甲府駅北口
の歴史公園に山手渡櫓門(やまてわたりやぐらもん)から入る。


 山手渡櫓門は、甲府城にあった3つの出入口のひとつで、武器庫としての役割も果たし
ていたといわれているとか。1700年頃の絵図をもとに、柳沢吉保が城主だった時代の
姿に復元したのだという。

 公園内には、国重要文化財の旧睦沢(むつざわ)学校校舎が移築復元されていた。

 旧睦沢校舎は、明治8年(1875)に巨摩郡睦沢村(現甲斐市)に建設された学校の
校舎。当時の県令、藤村紫郎にちなんで藤村(ふじむら)記念館ともいわれている。


 公園の南側の線路沿いには、木造の大きな火の見櫓(やぐら)や明治か大正期のものら
しい建物が幾つか並ぶが、観覧する時間は無い。



 今日のゴール、JR中央線甲府駅に14時33分に入る。土産物など購入する時間も少
なく、14時48分発の高尾行き上り電車で帰途についた。

(天気 快晴、距離 9㎞、地図(1/2.5万) 甲府北部、歩行地 甲府市、歩数
 17,700、累積標高差 上り約90m、下り約500m)




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