魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

日本人工場

2006年11月28日 | 日記・エッセイ・コラム

システム生産されるのは先生だけではない。学校や会社の金型で日本人が造られる。型にはまらないやつは無理矢理押しつぶすかはじき出す。そうこうしているうちに、金型製品が役に立たないバブル崩壊がやって来た。金型製品が役に立たなくなり、歴史文化が育てた手作りの日本人もすでに途絶えていた。
そこで、これではいかんと、「美しい日本人」をつくる新しい金型を造らなければならないと騒がしい。しかし、手工芸モデルがここまで崩壊してしまっていると、明治日本が江戸人をそのまま加工したようには成形できない。皆そのことは解っているから「なにか根本的にやりなおさなければ」と言うが、結局はルール改正しかできない。
もはや、金型の問題ではなく、材質の問題なのだ。素材を造るということは気長な一次産業だ。太陽を仰ぎ、雨に濡れ、風に吹かれる皮膚感から育てるしかない。数年前、童謡を聞いた学生が「怖い」と言った。多分に恐怖映画の過去世のようなイメージがあるのだと思うが、50代以上が懐かしがる感性も、恐怖をあおる素材でしかない。そいう現実を踏まえるべきだ。
唱歌も童謡もない今。情報社会が日本人の素材を造っている。いまさら砂のような心を金型にはめても崩れ去る。テレビやネットという無制限の大道りで、無理に取り締まろうとすれば、人は去るだけだ。
無秩序な大道りに秩序を生むものはイベントだ。珍しい大道芸の周りには人が集まりそれなりの秩序が生まれる。規制や命令よりも、多くの人を引きつけるビジョンと、皆が賛同して復唱したくなるような言葉が大切なのだ。昔の童謡や童話の主人公は必ず「気は優しくて力持ち」「弱きを助け強きをくじく」だったが、今なら槇原の歌などそういう役割を果たしているのかも知れない。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿