魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

蛙の美人

2021年03月30日 | 日記・エッセイ・コラム

福岡のタレント達が、「福岡にはホントに美人が多い」と納得し合っていた。
いかにも九州・福岡らしいと思った。
昔から、九州男児などのキャッチフレーズが全国に浸透しているが、それに対し、どこの地方からも大きな異論は出てこない。これは、全国の人が認めているわけではなく、他人の言い分に反論して、わざわざことを荒立てないのが、謙虚と和を重んずる日本文化だからだ。秋田音頭が秋田美人を自慢しても、お国自慢に誰も文句を言わない。

ところが、この日本文化にあっても、西に行くほど、他人の意見や評判に噛み付く。
「誰かが勝れば、自分の存在が危うくなる」式の、大陸原理が色濃くなる。
大阪の「東京には負けへんで」はよく知られるところだが、福岡の「東京には行かん」や、江川がクラウンを蹴ったときの怒りようは際だっていた。江川が「馴染みのない土地に行きたくない」と言ったのに対し、田舎扱いしたと大反発が起きた。

福岡はアジアの首都になれる立地にあると思うが、現地の人は地方コンプレックスがあるらしい。それが、芸能界などにおける同じ九州人意識を高め、互いに結束し引き合う。
地方コンプレックスは、青森に新幹線が来ないと言われたとき、青森の人が、「新幹線なんか来て欲しくねえ」と答えていたニュースを思い出す。
東北の人は閉じこもってしまうが、西の人は大声で噛み付く。ここにも、日本と大陸の精神性の落差が、ひな形として表れているようだ。

最初に見たのはお母さん
ところで、福岡には本当にそんなに美人が多いのだろうか。
博多美人と言われる人は多く見かけるが、だからと言って、他地域に美人がいないわけではない。誰が言い出したか名古屋に美人がいないというのは、かなり悪質な風評だ。
そもそも、美人とは何なのか。原点に還って考えれば、その文化が最も好む理想像であり、これという型はない。

では、その理想像はどこから来るかと言えば、その民族の最大公約数だ。顔写真の集約画像処理によれば、職業や地域の顔が浮かび上がるが、大方が、なんとなく受け入れられる好ましい顔になる。つまり、クセのない顔が美形の基本となり、それに、その文化の好ましい表情が加われば、超美人になる。

昔、海外をうろついていたとき、どこに行っても、地元の男が先ず聞いてくるのは、「ここの女はどうだ?」だった。
これを、どういうつもりで聞いてくるのか良く解らなかったので、「素晴らしい。ここの男は幸せだ」程度に答えた。あまり素晴らしいと言えば、警戒されるかも知れないし、要らないと言えば、気を悪くするかも知れない。もっとも、たいていは互いに片言の英語で、とにかく誤解されないことだけを心がけた。

この経験から、たいていの地元の男は地元の女が好きであり、同時に、男女にかかわらず、異邦人に対する好奇心も同じぐらい強いということもわかった。

異邦人に対する興味は、多様な交配を求めるDNAの叫びだろうが、地元の異性を好むのは、文化的忠誠心だろう。
人は皆、無自覚のうちに文化によって規定されている。言葉も表情も文化的影響から逃れられず、それは、ものごころ付く前から自分を形作っている。
その地で生まれれば、その地の顔を見て育ち、無自覚のうちに画像処理と同じ集約をしている。しかも、生まれて最初に見るのは、その地の一人である母親だ。
たいていの男は母親に似た顔を好むと言われるが、女の好みは必ずしも父親ではない。
多様なDNA配合を求める女性の傾向が、この点でも、異邦人に向けられる。

男が地元の女を美人だと思うのは、ごく当然の事で、微笑ましいことだが、それと比較して他地域に美人がいないと言うのは偏狭だ。名古屋の悪評を立てたのは、そういう種類の男だろう。
どの地域の人であれ、お国自慢は微笑ましいが、それで他の地域をこき下ろすのは、井の中の蛙だ。外に出れば、やがてトラックに挽きつぶされる。
公共の電波で「福岡は美人揃いだ」と合唱すれば、他の地域は少ないと言っているのに等しい。この我田引水もまた、己の文化を他者に強要する中華文明の影響なのかも知れない。
本家の中国は今、ウイグルやモンゴルに中国語を強要し、断種までしようとしている。
かつて、アジアに進出した日本軍があちこちに神社を造り日本語を強要した愚もまた、政界、軍閥の系譜を見れば、理解できないことではないようだ。