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日本政治

2021年03月09日 | 結婚コン

政治家が無報酬であるべきこと
選挙についてよく、「出たい人より出したい人を」と言われる(表現は多様)。
政治家になる動機に、利益や権力が含まれるようでは、政治がゆがみ、国民はいい迷惑だ。ただの欲で政治家になりたい人には、やってもらいたくない。
もし政治家が「うま味」のある職業でなくても、お金がなくても、ひたすら世の中をなんとかしなければと思う人が、政治をやろうとするなら、金銭的にそれを支える賛同者を募らなければならない。

主張と説得力が無ければ賛同者は現れない。賛同者がいるということは、既に、政治家としてのビジョンも能力もあることになる。
こういう人に政治をやってもらいたいと思う人が集まって、バックアップするなら、政治家に報酬は要らない。世の安寧を祈る宗教家にお布施をするようなもので、信者が生かし、信者が信者を集める。僧と同じで、政治家は本来、財には無縁だ。
政治は「政(まつりごと)」であり、皆の思いを集めるお祭りと同じで、賛同が集団をまとめる。神様を信じるように、ビジョンを信じるから人々が集まる。
人々の思いを代弁する人こそが「代議士」であり、思いのまとまらない人に、知名度で選ばせるのが選挙ではない。選挙の時だけ話す政見で、妥当な人を選べるわけがない。
こんな宣伝選挙だから、「選挙には金がかかる」のが当たり前になる。

金のかからない選挙とは、本来の民主主義のことで、皆が自腹を切り、市民一人一人の思いを結集していく草の根運動だ。
なんだかんだ言っても、アメリカはここから始まり、地域、地域の開拓村から政治家が現れてきた。戦争も自衛と独立から始まり、多くの古い国のように、当たり前のようにお上が駆り出す兵隊ではない。だからこそ、アメリカでは徴兵拒否が自然に起こる。
一人一人の意思が支える民主主義を、明治政府やアメリカという、お上から与えられた日本の民主主義は常に本末転倒だ。言葉は民主主義を論ずるが、心はお世継ぎや先生様に依存している。批判ばかりして、自分たちの手で、望ましい人を育て選ぶ意思がない。

また、批判や誹謗中傷するのが野党政治ではない。自分たちのビジョンを主張し広める布教活動こそが政治活動だ。古代からの権威主義思考で、権力だけが政治だと思っているから、ただ権力を中傷する。野党がだらしないのは、ただ一点、ビジョンが無いからだ。
この点で、共産党や公明党にはそれぞれのビジョンがあり、政党としての存在理由があるし、維新にも地域政党としての民主主義の根拠がある。

改めて、政治家は宗教家であること。政治家を食わせるのは信者である市民団体であること。この認識が無い限り、日本の選挙には金がかかる。そして、日本の民主主義は形だけで中身はぐちゃぐちゃだ。