魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

君の名は

2016年10月24日 | 日記・エッセイ・コラム

新海誠の「君の名は。」が大ヒット。CMを見て、『なんだ、時を駆ける少女のリメークか?』と思ったので、大して興味はなかったものの、世相周期の観点から、菊田一夫の「君の名は」と、同じタイトルにした理由が気になって、映画館まで確かめに行った。

「。」を付けたことに、どれほどの意味があったのかは知らない。「風立ちぬ」も同じタイトルの大ヒットだが、これは、かなりハッキリした原作へのオマージュで、ストーリーの基本は原作だった。
新海誠の「君の名は。」は、菊田一夫の「君の名は」とは、全く別の筋立てになっている。
しかし、これもまさに「君の名は」の生まれ変わりとして、時代の傑作と言えるだろう。

戦後7年目の1952年のラジオドラマ。翌1953年の映画の大ヒットの背景には、戦争の傷に沈んだ日本人の心情を、揺さぶるものがあった。
親しい人、愛する人を失った多くの日本人、ことに待つ身の女性にとって、受け入れることのできない悔しさ、もどかしさを掻き立てられ、わが事のように没頭した。

今回の「君の名は。」の制作関係者が、何処までこれを意識していたのか分からない。評論や、制作関係者のコメントを読んでも、見落としかも知れないが、男女の心情に関する観点しか見当たらない。確かに表面上はそれがテーマになっているし、海外で評価されるにしても、その観点しか注目されないだろう。
しかし、この物語が大ヒットした背景には、新海誠のタッチもさることながら、東日本大震災と福島原発事故への、未だに受け入れることのできない日本人の悔しさがある。

なぜ、2万人も死んでしまったのか、なぜ、原発事故を起こしてしまったのか、失われた人や街を取り返したい。起こってしまったことは仕方がない。仕方がないから余計に悔しい。そんな漠然とした、「あれから」の日本人の心情を、この物語は掻きむしる。
戦後7年の日本。災後5年の今。日本人の心には同じやるせなさが漂っている。

敗戦の焼け野原から、新しい日本を造ろうとすることで、多くの人々が傷を癒やそうとした。その陰で、帝国の再起を誓って潜行した人達がいた。
そして、戦後日本は、帝国からの決別によって繁栄が成し遂げられていった。だが、その繁栄がエネルギーを失うと、徐々に帝国の影が甦り始めた。それどころか、あれだけの被害を出した、高度成長の陰である原発を利用して甦ろうとしているのだ。

新エネルギーなら、水素エンジンを始め、風、水、光、いくらでもある。にもかかわらず、そうした新しい道、新しい日本を追い求めることなく、失敗の道を再び歩こうとすることは、帝国復古と同根のベクトルであり、日本の闇の力が増していることの象徴でもある。

男女のすれ違いは、本来あるべき姿に出逢うことのできない、喪失感を再現する。
大震災の復興は遅々として進まず、さらには、再び、原発を稼働させようとする得体の知れない闇パワーの中で、漠然とした無力感とポッカリ空いた喪失感・・・
占領と敗戦の喪失感の中で、「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」で始まるラジオドラマが、日本人の心を揺さぶった。

済んだことだとは解っていても、悔しさをぬぐい去れない。しかも、今現在も、何も終わっていない。そんな無自覚な不条理感に訴える、「出逢えぬ」もどかしさ。
「君の名は。」は、まさに、60年後の「君の名は」なのだ。

♪ 君の名はと たずねし人あり
                            織井茂子