魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

先見の明

2016年02月24日 | 占いばなし

昔、「これからはこうなる」と思って、次々と商売を始めた。
どれも、珍しい商売として、ニュースにはなったが、ことごとく当たらなかった。
結局、どの商売も2~30年経って、世の中で普通の商売になった。
先見の明はあっても商才がなかった。

発明が世の中で有効利用されるには、タイミングが必要だと言われている。どんなに良い発明でも、世の中のニーズが満ちていなければ、日の目を見ることはない。
それと同じように、ビジネスアイデアも、独りよがりでは意味がない。

それだけではない。芸術も学問も、世の中のニーズと一致して日の目を見る。
大したものでなくても、時流にマッチすれば驚くほどのヒットをするし、どんなに素晴らしい作品も、時代とズレていれば惨敗し、物笑いとなって消えていく。
そして時には何十年も経って、商才のある人間に発掘されて、商売に使われることさえある。

政治や思想も、どんなに素晴らしい考えでも、時代に合わなければ狂人か反逆者とされ、葬り去られる。
コペルニクスの地動説も、時代の動きを察知しながら、しかも周到な手配によって、死後に認められることになった。コペルニクスの業績は、実は、この見識だったのかも知れない。

こうしたことを逆説的に考えるなら、世の中で認められ、時流に乗っているものは、それが本当に素晴らしいからではなく、時代が求めるものに応えているだけに過ぎないのかも知れない。
歴史上の偉人も、たまたま、時代のニーズにマッチした人であって、本当は隠れた偉人が五万といるのかも知れない。
また、仮にヒトラーがいなくても、同じような人間が同じような役割を果たしていただろう。運命論ではそういうことになる。