魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

鬼ヶ島

2010年12月25日 | 日記・エッセイ・コラム

動物写真家の岩合光昭氏が、動物との折り合いを付ける心得は、
「動物の気持ちになって、どうしたいのか理解すれば、受け入れてくれる。ここは絶対ダメという時には踏み入らない」と言っていた。
まさに異文化交流のコツだ。

常に、相手のことを知ろうとする。自分の勝手な思い込みや決めつけではなく、虚心坦懐、相手の気持ちになって、よく観察をする。
何時、噛みついてくるか分からない相手なら、どういう時に噛みつきそうなのか、よくよく見ている。

動物の気持ちになって寄り添えば、シロクマやライオンでさえ、むやみに襲ってはこない。
にもかかわらず、人間はむやみに争いを始める。
これは、見た目が似ているだけに、相手に対する思い込みを確信してしまうからだ。同じ人間だから、自分と同じように考えるはずだと。
あんな態度は、(自分なら)バカにした時しかしない・・・とか。

身近な家族同士でさえ争うのだから、会ったこともない他国の人間同士、それも、国家や民族などと言う、イメージだけの「実在しない概念」となれば、なおさら、思い込みが無制限にエスカレートする。

自分のことすらよく解ってない集団概念なのに、互いを勝手に決めつけてしまう。そこに何か、少しでもそれに絡む事態が発生すると、一気に感情が燃え上がる。これは、恋や憎しみと同じ、独り相撲であり、その独り相撲が、土俵も審判もなく、いきなりぶつかる。

恋や憎しみは、相手の言動を勝手に解釈して、自分の中だけにわき起こるものだ。
例え、相手がこちらを憎んだからと言って、こちらも憎む必要はない。にもかかわらず、相手の憎しみの言動を見れば、「何でやねん!」と腹が立つ。自分を害する態度に、防御本能が働くからだ。

相手が動物なら、怒っている時は「ここは絶対ダメ」と察知して、踏み入らなければ、襲われることはないだろう。
ところが、人間と動物が違うところは、人間は不必要な殺戮をし、不必要に相手を従わせようとする。

必要が無くても毎日、実力誇示をして回る猿と同じ種族だ。さらにたちが悪いのは、猿とは比べものにならない、力を手に入れたことだ。
自分では当然の実力誇示が、相手の防衛本能を刺激し、それを見て一段と興奮する。

人間はゲームとして魚釣りをするように、戦争や殺戮をする。相手に踏み入らなくても、勝手な思い込みで襲ってくる。
動物より、遙かにたちが悪い。

尖閣事件の後。日中共に相手国感情が悪化したが、中国は100%に近いほどの反日感情になっている。これに対し、日本は餃子事件ほどまで行っていない。もう、中国に「慣れた」のかも知れない。

しかし、もっと大きな要因は、日本の方が、中国より、多少、相手のことを多角的に知っている。と言うことではなかろうか。
中国人の置かれた状況より、互いを見る目に余裕があると言うことだろう。

それにしても、中国人は日本人を鬼(日本鬼子)と思っているのだから、そう思う心の中には、鬼が住んでいるのだろう。
何時、鬼退治を始められるか鬼ヶ島の鬼としては、近頃、安心して眠れない。