昼過ぎに、母からおよそ一ヶ月半ぶりに電話があった。
先月は二度、昼御飯を差し入れたが全く反応がなく、
私から母の携帯にかけてみても応答がなく、
職員さんに様子を尋ねたところ、
「お体のほうはお二人ともお変わりなくお過ごしですが、
やはり外出等、ご不自由な生活ですので、精神的なストレスがあり、
お話になることも減って来られたと感じます」
とのことで、いよいよショゲているのだろうか、
ついに携帯電話の使い方も思い出せなくなったか、
と私なりに案じてはいた。
それがきょう、そんなに久しぶりだとは全然感じてもいない調子で、
母から、受話器が壊れそうな音量で、電話がかかって来た。
ちなみにそのとき私は仕事の途中で、路上に居た。
「もしもし?聞こえとぉ?お父さんがね!」
一瞬、『倒れたのか?』とも思ったが、ホームから連絡がない以上、
そういう事態はあり得ないし、母の声自体がとても元気そうだったので
事件でないことは、その時点で想像がついた。
「この雨でね、お父さんが、家がどないなっとぉか心配やから、
いっぺん行って見て来るて、言うてはんのやけど!」
行かんでええ(--#)。
大雨で増水した川の様子を見に行って、流れてった、じーさん、
というのが梅雨時には毎年、全国で散見される訳だが、まんまやんか(--#)。
そうでなくても家のガレージの前は苔むしていて、濡れると滑る。
あの場所では私も、変な踊りを踊ってしまったことが、一度ならずあるのだ。
90過ぎの人が、杖や歩行器がないと歩くのもヨタヨタなのに、
あんなところで転倒したら、そのまま救急車だ。
ヘタするとあの世まで まっしぐら。
だいたい、「家が心配だから見て来る」とは、具体的にどうすることか。
大雨の中、家が無事であることを自分の目で見て納得したいのだろう、
と一応の想像はできるが、それとともに、
今、父は心のどこかで非常事態を想像(≒期待)している筈で、
仮に、雨漏りがし、屋根が飛びそうになっている自宅を目の当たりしたら、
そのときはどうするつもりなのか。
「家は、いよいよオシマイだな」とうなずいて、ホームに帰るのか。
それとも、屋根に上がって自分で直せるのか。
ただちに馴染みの○○建工に自分で電話して修理を手配できるのか。
結論として、家に帰っても、「目で見る」以外のことは何ひとつできない。
目視の範囲で無事でも、一時的な安堵で、またすぐ見に行きたくなるし、
家が壊れそうだとわかったところで、即座に修理などできよう筈もない。
ただただ危険なだけで、建設的なことなど全くひとつもないのである。
「行かんでよろしい。大変危険」
「家は三日にあげず私が行っているから、これまで無事であることは確認済み」
「昨年も玄関の屋根と洗面所の雨漏りは修理した」
等々と母を通じて父に告げて貰い、
「雨が落ち着いたら、私が一緒に行くから、確認しましょう」
と言って、どうにか終わった。
本当は、雨が終わってもコロナが続いていたら、私が一緒に、というのは無理だし、
ホームのほうでも目下、感染防止のため、不要不急の外出をすべて禁止している。
まったく、両親がホームに入っていてくれて、本当に良かった。
もし今でも自宅にいたら、父は家の周囲や、近くを流れる大川、
それに道を隔てた神社まで行って、あちこち点検しようとしたに違いない。
十分前の記憶もないから、それこそ一日中、何度でも。
しかし今は、父が異常なほどの行動力を発揮して自室を出発したとしても、
ホームにはフロア事務所と階下の受付と、二カ所に「関所」があって、
入居者は外出届を書かないと勝手に出て行くことはできないし、
父の今の身体状況では、介護タクシーさんにお願いしないと、
ホームの敷地外に自分で出かけることもほぼ不可能だ。
介護タクシーさんへの依頼は、母に才覚が残っているなら携帯から電話でできるが、
運転手さんが来られたら、どのみち、ホームの職員さんの知るところとなり、
「どこにお出かけになるのですか?」
と止められることになる。
父がそれでもと言い張れば、職員さんから私に電話がかかって来る筈だ。
既に90過ぎなので、何があっても寿命だと私は納得してはいるが、
危険なことをわざわざ進んで体験しようとしているとなれば、一応、止める(^_^;。
とりあえず今月半ばには両親とも、ワクチン2回目が終わるし、
私も来月末には同様の状態になるから、
まあ、秋になって季節もよくなった頃、家に帰ってみるのはアリだろうよ。
それまでに私もせいぜい、頑張って実家を片付けおくからよ(^_^;。
Trackback ( 0 )
|