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転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



「生まれたとき、私は『まだら』の意味を知らず、
自分を、ただ『馬』だとだけ思っていました」
と、老馬として語り始めたレーベジェフが、
ヴァイオリンの音楽のあと、ふとひざまづいて子馬時代に戻るのは、
本当に魔法のような瞬間だった。
なぜ、舞台の上の人間を私たちは「子馬」だと思うのか?
舞台にいるのは、70歳に近い男性で、簡素な上衣とズボンという服装、
厩を表すに足るほどのセットも無いというのに!

『ある馬の物語』を観ながら私が最も強く感じたことは、
演技というのは、視覚的なリアリティを追求するよりも、むしろ、
観る側の感覚を呼び覚ますことのほうが大切なのだ、ということだった。
「迫真の演技」というのが一般にあるけれども、
それは現実と寸分違わぬものをかたちで再現することではなくて、
観客の感覚を捉えて根底から揺さぶるようなものを、
場合によってはリアリティとは無縁の動きを通してさえ、
表現し得ることを指すのだ、と私は思った。

レーベジェフのホルストメールは、馬のメイクなどしていないし
(まだらを暗示する舞台化粧は、多少、施してあったが)、
見た目として馬を連想させるような、四つ足の動きもしないし、
衣装には、たてがみや蹄(ひづめ)に相当する部位もなかった。
御者頭のフェオファーンに手入れして貰う場面のパントマイムは、
ヒゲをそられたり靴を磨いて貰ったりする動きに近かった。
ホルストメールが馬橇を引いて街を颯爽と駆け抜ける場面は、
馬群を演じる役者たちのコーラスが、彼の軽やかな足取りを表現した。
競馬場での彼の競走は、見守る観衆たちの視線と興奮によって演じられた。

つまり、舞台上には、馬のカタチをしたものなど一切、登場しなかった。
例外は、馬役の俳優たちが片手に持っている尻尾の毛束だけだった。
にも関わらず、この舞台を難解だと感じた観客は、居なかった筈だ。
もともと、ソビエト時代、演劇は特別な階級のための教養ではなく、
ごく普通の、市民生活に密着したものだった。
なんらかの素養がなくては理解できないような、
抽象的で独り善がりの芝居など、支持を得られよう筈もなく、
庶民の素朴な視線に応えるために磨かれてきたのが、
この、ボリショイ・ドラマ劇場ならではの表現方法だったのだ。

パントマイムというもの自体、この舞台にあっては、
何かの動きをまざまざと見えるように描き出すから見事である、
という次元のものではなかった。
観客が、単にパントマイムとしての技巧に感心しているうちは、
それは芸ではあっても演技ではなかったのだ、と私は思った。
演技における本当のパントマイムとは、
ここでのホルストメールや公爵やフェオファーンがしてみせたように、
観客に何らかのパントマイムだということすら意識させないものなのだ。

ホルストメールの死もまた、パントマイムで演じられ、
彼の誕生の場面、競走の場面などが切れ切れに再現され、
死んでいく彼の上には、彼が生まれたときに飛んでいたのと同じ蝶が、
ひらひらと儚げに舞い降りてきた。
かつて、無垢なホルストメールはその蝶を見て恐れ、
「ママー!」と母親を呼んだものだった。
今、死に瀕したホルストメールは、その、元来た道を、
無言で、静かに、穏やかに、帰って行こうとしていた。

(続)

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83年9月の、レニングラード・ボリショイ・ドラマ劇場初来日で、
一番の人気を呼んだ演目は、桜井郁子氏によれば『ある馬の物語』だったそうだが、
私がこれを最初に観たのは、84年の確か3月頃、NHKの録画によってだった。
それがあまりにも素晴らしくて、私は芝居を観て打ちのめされるという
初めての経験をしてしまい、それからはこの作品と役者達の虜になった。
だから、88年に彼らが再来日したときには、もう矢も盾もたまらず、
東京グローブ座まで、この作品を見に行ったのだった。

原作はレフ・トルストイの短編小説だが、決して有名ではなく、
日本人でこの原作を読んだことのある人のほうが少数だろうと思う。
ロシア文学の知識など無いに等しかった私は、
こんな作品があったことすら、当時は全く知らなかった。

脚色はM.ロゾーフスキイ、演出はG.トフストノーゴフで、
ホルストメールを演じたE.レーベジェフは、
80年代には既に、60歳代後半にさしかかっていたベテラン俳優だった
(この人は『ワーニャ伯父さん』のほうでは、
ワーニャの妹の夫で俗物の、セレブリャーコフ教授を演じていた)。

馬を演じる俳優たちの衣装は、古びた薄い色のズボンと上衣、
それに馬勒(ばろく)をイメージさせる革製のバンドを、
額や上半身につけていた。
そして、彼らは片手に、馬の尻尾を表す毛束を持っていて、
これを始終振り上げたり、下肢に打ち付けたりすることで、
馬の雰囲気を演出すると同時に、感情表現もしていた。

全体は二幕構成で、まずジプシーの楽団による短い序曲から始まった。
最初の場では、舞台脇に粗末な身なりの馬丁が居眠りをしていて、
中央に馬群と、老いたホルストメールがいた。
物語は、この年寄りの、まだらの去勢馬が、自分の若き日を振り返り、
ほかの馬たちに話して聞かせるかたちで進行するのだが、
馬群の動きはしばしば郡舞になり、ホルストメールの独白には
彼らのコーラスが呼応し、楽団員の楽器のソロがそれに交じった。
レーベジェフ自身、オペラ歌手のような良い声で語り、歌った。

一幕目で語られるのは、ホルストメールの誕生から、子供時代、
初恋の不幸な結末、公爵との出会い、公爵家での晴れがましい生活、
二幕目では、競馬での優勝から、一転して公爵家での生活の破綻、
以降、各地を点々として最後にもといた将軍家に戻り、そこで死ぬまで、
それらが、息をもつかせぬほどの展開で一気に演じられた。

レーベジェフの演技は圧巻だった。
馬を表現する言い方として我々は、しばしば、「目が優しい」
ということを言うけれども、レーベジェフのホルストメールは、
まさにそのような、おとなしく優しい目をしていた。
ホルストメールは馬であったがゆえに、
常に運命を受容する生き方しか知らなかった。
目を掛けてくれた公爵には精一杯の愛情を持って応え、
彼を踏みにじった仲間の馬たちに抗議することもなく、
自分を害する人間たちに対してさえ、恨むという発想が全くなかった。
何を所有する欲望も持たず、去勢馬だったために肉欲とも無縁で、
病んだときも、人間なら自殺を考えるような状況下におかれたときも、
期待もせず絶望もせず、彼は、ただ、淡々と生きた。

このホルストメールと、彼の飼い主となったセルプホフスコーイ公爵
(演じたのはO.バシラシヴィリ。『ワーニャ伯父さん』の主演者)以外は、
ほぼ全員が複数の役柄を演じる構成になっていて、
そのすべてに、演出者の綿密な計算が貫かれていた。
例えば、ホルストメールの初恋の雌馬ビャゾプーリハを演じる女優が、
公爵の愛人マチエの役をも演じることになっていたし、
ホルストメールからそのビャゾプーリハを奪った白馬のミールイ役と、
公爵からマチエを寝取った情夫役は、やはり同じ俳優によって演じられた。
そのことによって、ホルストメールと公爵の、それぞれの生涯が、
一対の、パラレルなものであり、互いを映す鏡のようなものであることが
非常に明確に表現されていたわけだ。

これがどんな舞台だったかについて、どう描写するのが適切なのか、
私はここまで書いた今でも、正直言ってわからない。
それほどに、多重構造の、巨大で濃密な舞台だったと思う。

セットそのものは簡素で、役者のパントマイムが主体だった。
ほとんどの役者は変幻自在に馬の役も人間の役もやり、
更に歌も踊りも組み込まれていた。
また、音楽は、舞台上にジプシーの楽団員に扮した音楽家たちがいて、
話の登場人物としてもBGMとしても、全編、生演奏のかたちで参加していた。
それらのすべてが、実に見事に融合し調和を保っていて、
舞台は「ストレート・プレイ」とか「ミュージカル」とかいう分類とは、
完全な異次元にあったと思う。

(続)

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ホルストメールは、天性の俊足を持つ名馬だったが、
人間の嫌う「まだら模様」が体中にあったため、
幼少時から価値のない馬と見なされて、ろくな扱いを受けなかった。
将軍家の厩で生まれた彼は、初めのうちは「まだら」の意味を知らず、
ほかの子馬たちとたわむれて無邪気に成長したが、
年頃になって雌馬に恋をしたとき、馬主によって去勢されてしまった。

青春を一気に失ったホルストメールは、以来、いななくことをやめ、
考えることに多くの時間を費やすようになり、
生来が聡明な彼は、周囲の人間を観察することで、
人生というものに対して自分なりの洞察を得るようになる。

例えば、人間は自分がこの世で何をなしえたか、ということよりも、
自分が何をどれだけ持っているかで、幸せの度合いを計っている、と。
「私の」という所有格の代名詞を、
より多くの名詞に対してつけることのできる人物が、より幸福だ、
と人間は考える。
「私の家」、「私の土地」、「私の女」!
それでいて、その家に住んだこともなければ、
その土地を見に行ったこともなく、
自分のものだと思い込んでいた女が、ほかの男と通じていたりする!

そんなことを考えながら、日々、黙々と、
人間の作業に使われて暮らしていた若いホルストメールの前に、
ある日のこと、目の覚めるように美しく凛々しい公爵が現れる。
公爵は将軍のところに乗用馬を買いに来たのだったが、
将軍のすすめる血筋の良い処女馬や、見事な白馬の少年に目もくれず、
作業馬だったホルストメールの、素質の素晴らしさを一目で見抜き、
「私は、あの、きれいなまだらを買おう」
と言い放つ。馬主は呆れるが、公爵は意に介さず、それどころか、
「こんなきれいなまだらは誰も持っていない」
とホルストメールを賞賛する。そして公爵は言う、「私の馬!」と。

それからの二年が、ホルストメールの最も輝かしい日々だった。
公爵には美貌の愛人マチエと、美男の御者頭フェオファーンがいて、
ホルストメールは公爵邸の厩舎で馬として最高の扱いを受け、
その俊足を存分に発揮して、颯爽と真冬のモスクワを走るようになる。
つやつやした毛並み、見事に広い背中、矢のようにすらりとした脚!
公爵の乗った、籐作りの素晴らしい馬橇を引いて、
クズネーツキィ通りを行くホルストメールは、街中の注目を集め、
風のように駆け抜ける雄姿が、皆の羨望の的となる。

そんな二年目の冬の終わり、一行は公爵の趣味で競馬観戦に出かけ、
公爵の気まぐれから、ホルストメールが競馬に急遽出場することになる。
競走馬でないホルストメールと、騎手でないフェオファーンが組んで、
ホルストメールは居並ぶ名馬を鮮やかに抜き去り、見事な一等賞を獲得する。
人々は公爵を取り囲んで惜しみなくホルストメールを絶賛するが、公爵は
どれほど高値を申し出られても「私の友人ホルストメールは譲れない」
と皆の前で公言し、ホルストメールを抱きしめる。
これが、ホルストメールにとって、生涯最良の日だった。

最良の日は、続いて、最悪の日となった。
公爵の愛人マチエが、この競馬観戦の間に新しい男と逃げたのだった。
競馬のあとホルストメールは、すぐさま馬橇に繋がれ、
正気を失った公爵によって続けざまにむち打たれ、
愛人と情夫に27キロメートル先でようやく追いつくまで走りに走らされる。
そして、更に夜中までかかってどうにか公爵邸に彼らを乗せて帰ったあと、
ホルストメールは力尽き、病に倒れてしまう。

治療と称する行為で繰り返し痛めつけられ、
とうとう、もとのようには走れなくなったホルストメールは、
公爵家から出され、仲買人に売られ、まず、老婆によって買い取られた。
この家の御者が、老婆に折檻され打ち据えられては、厩に来て泣くので、
ホルストメールは、涙が塩辛くて良い味のものだと、このとき知った。
老婆が死ぬと、彼は呉服商人の家に、次いで百姓家へと売られ、
更に何かと交換でジプシーのもとへとやられ、
巡り巡って最後に、年老いて、もといた将軍家の土地に戻ってきた。
将軍家も代替わりして、既に若い伯爵が当主になっていた。

病み、老いたホルストメールは、若い力強い馬たちから小突かれ、
たびたび打擲を受けるが、抗議もせずに過ごしていた。
そこにある晩、当主と厩頭に介抱されるようにしてやってきた客人、
それが、あの、かつてホルストメールを見いだした公爵だった。
彼に絶頂のような幸福を与え、同時に、彼の破滅の原因ともなった、
美しく残酷だった公爵は、今や、足下もおぼつかない老人に見えた。

ホルストメールが惨めな日々を送ってきたのと同様、
公爵もまた、あれから凋落の人生を歩んでいた。
酒浸りで、無一文どころか死んでも返せないほどの借金がかさみ、
それでも公爵としての自尊心と、昔の栄光にすがって、
ただ自慢話を繰り返すことしかできなくなった彼は、
老いさらばえたホルストメールを見ても、気づかなかった。

ホルストメールは、自分同様に痛ましい姿となった、かつての主人に、
心からの慈愛と敬愛を込めてゆっくりと頬を寄せるが、彼は酔眼をあげ、
「私も、昔、こんな、まだらを、持っていた」
「乗り心地も力も素晴らしさも、あれに勝るものは知らない」
というだけで、ついに最後まで、
目の前のやせこけた馬がホルストメールだとは理解しなかった。

ホルストメールは静かに、哀れな公爵の後ろ姿を見送った。

その晩、ホルストメールは、疥癬が悪化して体中が痒くなり、
その様子を見た若い当主は、厩頭に「もう処分しろ」と命じる。
「また治療するんだろう・・・・」
とおとなしく従うホルストメールにナイフの一撃が加えられた。


ホルストメールが死んだあと、そのむくろはオオカミや犬が食い尽くし、
一週間後には、納屋の外に、頭骨と大腿骨が転がっていただけだった。
やがて季節が変わり、骨を集めている一人の百姓がやって来て、
この、大きな頭骨と二本の大腿骨を拾って持って帰り、
それを、彼の農作業の道具にして役立てた。

長らく皆の厄介者でしかなかった公爵が亡くなったのは、
それよりずっとあとのことだった。
その身分に相応しく、ぶくぶくの遺体は上等の軍服で覆われ、
真新しい高価な棺に納められ、しかるべく埋葬された。
しかし、彼の皮も肉も骨も、決して、誰の役にも立たなかった。


(「ロシア演劇の話」・続)

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結局、この年、私は『ソビエト演劇』の授業については
ほぼ皆勤だったと思う。
年度末試験はなく、レポートだったので、
私は『ワーニャ伯父さん』について書いて書いて書きまくった。
特に、「冬が来る」の一言について感じたことを執拗に書いた。
そして、一年次が終わった春期休暇中に、NHKで、
レニングラード・ボリショイ・ドラマ劇場の録画が放映され、
そこで私は、『ある馬の物語』に出会ったのだった。

この演目については、レニングラード・ボリショイ・ドラマ劇場の、
88年の再来日における公演と、
90年(多分)に見た日本の若手劇団による上演との、
二度の生舞台の出会いを、このあと経験することになるので、
詳細はそちらに譲りたいと思うが、
とにかく、このときにテレビで観た『ある馬の物語』は、
夏に生観劇した『ワーニャ伯父さん』をも凌駕する物凄い衝撃だった。
このビデオは私の生涯の宝物だと今でも思っている。

さて、この出会いの感動と、もうひとつ、音楽面でのミーハー心とで、
次年度、私は第二外国語を正式にロシア語として登録しなおした。
フランス語はせっかく四単位取ったが、この時点で断念することにした。
ロシア語も、有り難いことにまた佐藤恭子先生の授業だった。

余談だが佐藤先生のロシア語の授業はとても怖かった。
私はもともと、甘くされると際限なくさぼる人間なので、
習い事は、ビシビシと厳しいタイプの指導者と相性がいいのだが、
佐藤先生はその最たるものだった(爆)。
ロシア語選択者の人数は少なくて、たった一クラスしかなく、
そのクラスも十数人しかいなかったのではないかと思うのだが、
毎回毎回、何巡でも当てられて、出来なかったら容赦なく叱られた。
泣きそうな一年生もよくいた。

しかしお陰でこれが、全員とても仲良くなったのだから不思議だった。
過年度生は私だけでなく、第三外国語として履修していた三年生や、
中国史研究との関連で聴講しに来た大学院博士課程の上級生などもいて、
専攻も、語学に国際関係学に数学にと、入り乱れていて面白かった。
一年目の後期に入る頃にはロシア語のクラスでコンパまでやった。
勿論、佐藤先生もお招きしてのことだ。

私はその後、ロシア語の1年生に「経済学」の代返をして貰ったり、
後期試験前には「キリスト教史」のノートを貸して貰ったりしたし、
また、時事英語のクラスでマルコス政権の記事が課題になったときには、
ロシア語仲間の3年生の先輩でフィリピン政治が専門の人がいたので、
頼って全部和訳して貰い、ついでに背景の解説までして貰った。
それで私から何か返せるものがあったのかというと、全然なかった。
N子ちゃんのときもそうだったが、私のやっていることは結局、
「助け合い」よりも「助けられ」のみだった(^_^;)。

私の、ロシア語に関する唯一にして最大の後悔は、佐藤先生に、
自分のロシア語受講の動機を、お話する機会が、ついぞ得られなかったことだ。
私は、前年の佐藤先生の『ソビエト演劇』の授業を取り、そのお陰で、
レニングラード・ボリショイ・ドラマ劇場の公演を観ることができ、
ロシア文化の片鱗に触れ、それだけで虜になり、
とうとうロシア語をちゃんと勉強したいと思うようにまでなったのだ。
私は、この世界に誘(いざな)って下さった先生に、
どれほどお礼を申し上げても足りない筈だった。
だのに、結局最後まで、そのことをお話せずに終わってしまった。
1年次「ソビエト演劇」、2年次「ロシア語1」、3年次「ロシア語2」、
と在学中に専攻科目でもないのに3年間連続でお世話になり、
大学内ではいつでもお目にかかれると思っていて、
そんな状況に甘えているうちに、卒業の日が来てしまったのだ。

(続)

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痛む足をひきずりながら、着いた国立劇場は、
山出しのワタクシの目にはあまりにもきらびやかに映った。
桜井郁子氏の『わが愛のロシア演劇』によると、この公演は、
空席の目立つものだった、ということだが、
そのようなことは全く私の記憶には残っていない。
劇場のすべてが華やかで圧倒的で、
そこで上演された上質の演劇に19歳の私はただただ打たれた。

当時のチラシを今でも私は持っているのだが、
初来日でレニングラード・ボリショイ・ドラマ劇場が持ってきた演目は、
『ある馬の物語』『検察官』『ワーニャ伯父さん』『小市民』の四つで、
出演者それぞれが何役もこなし、日替わりでこれらが上演される、
本国でのレパートリーシステムさながらの公演内容だった。
ソ連では、一定のレパートリーの中から、毎日違う演目が上演されて、
俳優たちは、自分の出演するものについては、
きょう、どの演目をやると言われても即座に務められる状態で、
常に複数の役を日々同時進行で研究しているのだ、
ということを、私は既に、佐藤先生の講義で習って聴いていた。

このとき学生で貧乏だった私は『ワーニャ伯父さん』だけを観た。
正確には、これを選んだというよりは、むしろ、
二度も三度も見る経済的な余裕がなかったことに加えて、
日程の関係か何か、差し支えがあって、他の日が駄目で、
選択の余地もなく見ることになった演目だった。
チェーホフなんてそれまでマトモに読んだことなどなかったし、
大学の課題でなかったら、選んでまでは観なかっただろう、
と思われる、細やかな心理描写がハイライトとなる芝居だった。

が、レニングラード・ボリショイ・ドラマ劇場は、
これを私に、最後まで見せてしまったのだった。
イヤホンの同時通訳という悪条件下だったにも関わらず
(さすがチェーホフなので、日ソ学院でちょっと習ったくらいでは、
ほとんど一言も聞き取れませんでした・爆)、
私は、ワーニャやアーストロフ、ソーニャの語る絶望と、
そこからの出発、矛盾、そして運命の受容、みたいなものを、
あまりにも辛気くさいテーマであるにも関わらず、
とうとう、信じられないことにおしまいまで聞かされてしまった。

ワーニャが(アーストロフだったかな?・殴)、
『冬が来る』という台詞を言ったときに、
私は深いところで何かに打たれたような衝撃を感じた。
単に季節が秋から冬になるという意味ではなくて、
ロシアの農村の冬は一年の半分を閉ざすほど長く、命を脅かす厳しさで、
それに耐えることは心身ともに多大な忍耐を要求されるということや、
これまでの五十年近いワーニャの人生はほとんど無駄なことに費やされ、
以後の彼の余生は長い長い冬に向かうほかないのだ、ということなどが、
『冬』の一言から一瞬で連想させられた。

それは友人のアーストロフも、ワーニャの姪のソーニャも同様だった。
客観的に見たら、彼らには絶望しかなかった。
今で言う「リセットする」方法を探し求めていたのに、
そんなものはどこにもないことが、最後にわかっただけだったのだ。
皆、なんの希望も持てなくても、死ぬことさえも許されず、
その長い『冬』を、命の果てる日まで、生き通して行くしかない、
というのが結末だった。なんという現実直視!なんという不条理!

幕が降りたとき、客席がどういう反応だったか、私は覚えていない。
恐らく大歓声の中でカーテンコールが繰り返されたのではないかと思うが、
私はそんなことより、かつて一度も経験したことのない感覚のほうに、
すっかり捕らわれてしまっていた。
私はゾっとするような、とてつもない深淵を覗いてしまった気がした。
台詞を聴く、ということの奥深さと重さを、初めて体感した一夜だった。
ああ、とんでもないものを観てしまった!こんな世界があったのか!
と私は頭に血がのぼったような気分のまま、
その夜遅くまでかかって、慣れぬ電車をいくつも乗り継いで、
ほとんど立ち通しで、武蔵野の奥の、小平の下宿まで帰った。

だが、その夜の衝撃はこれだけでは終わらなかった。
自分の部屋に帰り着いて、どうも痛いと思ってよく見たら、
私の右足小指が、赤紫色に腫れ上がっていた(爆)。

(続)

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一度には語りきれないので、まずは私の、
ロシア演劇との出会いの話から書いてみたいと思う。

ことの起こりは大学1年のときだった。
必修科目以外は、自分で便覧を見て受講科目を決める形式だったので、
私は、最初は実に軽い気持ちで『ソビエト演劇』を取った。
西欧と違い、ソ連は、日本人にとってメジャーな国とは言い難かったので、
かえって面白そうだと思って選んだのは間違いなかったが、
実のところ、当時の私にとっては、ソ連と言えば、
ブレジネフとかグロムイコ、クレムリンとかマトリョーシカ(爆)。
そして、パルナス、パルナス、モスクワの味♪(爆×2)。
・・・そんな程度だった。

担当の佐藤恭子先生は、東京外語ロシア科ご出身で、
モスクワのルナチャールスキー演劇大学を卒業なさった方で、
漆黒のボブヘアに濃い眼鏡、薔薇色のマニキュアにスカラベの指輪、
そして常に黒を基調とした装い、という大変に洗練されて美しい方だった。
しかも佐藤先生の、低い、まろやかな声は素晴らしかった。
さすがにソビエト仕込みの演劇人は、発声の基礎からして違ったのだ。

さて、私は履修届を出すときに友人がいるかどうかは考えていなかったが、
このクラスには、行ってみたら、偶然、あのN子ちゃんが、いた。
フランス語に引き続き、こんなところでも出会ってしまったのだ。
ほかに1年生の知り合いは見当たらなかったし、
我々は当然のように協力しあうことになった。

確か、あれはスタニスラフスキー・システムがどのように
確立されて行ったか、の話題のときだったと思うのだが、
佐藤先生が、その社会的背景の概要を説明なさったことがあった。

私「今、先生が四月ナントカって仰ったのは、何?」
N子「レーニンの演説みたいやね」
私「四月、・・・なに?」
N子「四月ていぜ、って聞こえた」
私「ていぜ、って何?」
N子「わからん(^_^;)」

テーゼもアンチテーゼも知らなかった私たちであった(爆)。

(1917年4月の、レーニンによる四月テーゼについて
概要をお知りになりたいかたは、こちら→ロシア革命

また、ロシア革命について佐藤先生は、
アメリカ人ジョン・リードの書いたルポルタージュは最低限読むべきだ、
と仰って、そのタイトルを『世界をシンカンさせた十日間』
と、口頭で紹介をなさった。
私はシンカンという言葉が最初、何なのかわからず、
下宿に帰って辞書を引いてこれが『震撼』であることをつきとめ、
世界を震撼・・・世界を震撼・・・、と大学図書館でさんざん探し、
挙げ句の果てに正式な邦題は『世界を揺るがした十日間』だと知った、
という出来事もあった。佐藤先生のお陰で日本語の語彙までひとつ増えた(爆)。

だがそれは、私なりの次元で、向学心に燃えていた日々でもあった。
私は、今までの自分に全く接点の無かった、この「ソビエト演劇」が、
次第次第に、当初の予想よりずっと面白くなり始めていた。
そういう、なにか高尚そうな分野にハマった自分、というものに
酔いしれていた面があったのも確かだが、とにもかくにも、
凝り性の私は、やがて季節が初夏に近づく頃には、
日ソ学院(当時)に申し込んでロシア語初級講座を受講することになり、
併せて、在日ソ連大使館広報部(当時)に問い合わせ、
グラフ誌『今日のソ連邦』を定期購読するようになった
(この雑誌には、当時まだ日本では無名だったブーニンが、
ロン=ティボー音楽コンクールで優勝した、などという記事が、
写真入りで載っていたりしたものだった)。

そしていよいよ前期が終わりにさしかかった、ある日。
佐藤先生は、この講義の前期課題として、
レニングラード・ボリショイ・ドラマ劇場の来日公演を観ること、
と我々受講生に対して申し渡された。
これは素晴らしい、最高の舞台芸術だから、何をおいても観るように、
ということで、チケットも佐藤先生が手配して下さり、
我々は、なおいっそう、猫にコンバンワ状態だったが、とにかく、
先生が全身全霊を捧げるようにして研究していらっしゃる、
ホンモノのロシア演劇が観られる、ということで、
わけもわからず興奮した。

場所は、国立劇場。私の選んだ演目は『ワーニャ伯父さん』。
私「国立劇場、ってどこにあんの?」
N子「知らんけど、劇場に電話したら、わかるやろと思う」
私「そうか。そうやね」
N子「Nちゃんが調べとくわ。わかったら、あとで電話したげる」
私「ありがとう!」

東京に出てきて数ヶ月、まだ、東京の地下鉄には
一度も乗ったことがなかった頃だった。
私は、小平の奥のほうで下宿と大学だけを往復する生活で、
せいぜい、吉祥寺くらいまでしか出たことがなかったのだ。

結局、N子ちゃんが調べてくれたルートを頼りに、
ぴあmapを携帯して、私は9月のある夜、初めての国立劇場に向かった。
出かける前に、N子ちゃんからの電話に出ようとして、
下宿のドアに右足を思い切りぶつけてキュウとうずくまる事件があり、、
足の小指が内出血してヨタヨタしながらの、国立劇場観劇だった。

(続)

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レニングラード・ボリショイ・ドラマ劇場の、
83年の初来日と、88年の再来日とを私は観ているのだが、
演目として二度とも含まれていた、トルストイの『ある馬の物語』は、
私が観たすべての舞台芸術の中でも文句なしの最高峰だった。

という話について、いつかは書いておきたいとずっと思いながら、
私にとっての、この舞台の意義があまりにも大きすぎて、
なかなかカタチにできないでいる。

だが先日、その『ある馬の物語』の訳者でいらっしゃる桜井郁子氏の、
わが愛のロシア演劇』を、書店で偶然に見かけて買ったことで、
なんとか、自分の観たものを、たとえ断片だけでもいいから、
ここに記録しておきたいという気持ちに、改めて、なった。

さて、どこから書こう。と悩みつつ、とりあえず、写真だけUP。

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