この本を読んでおりましたら。。。
「植物の世界にはアトポーシス(自然死)という概念があります。
植物におけるアトポーシスは晩秋に枝から落ち葉が散る、ことが象徴的な出来事です。
これは、葉の柄の部分の細胞のDNAの遺伝子情報に、ある一定の条件下ではアトポーシスするような「死のプログラム」が元々、組み込まれているからなのです。
・・・・・・・・
私達人間の細胞のDNAには30億もの遺伝子情報がインプットされていますが、その中には確実に「死のプログラム」も組み込まれているはずです。このように、「生」と「死」とは表裏一体の生命現象なのです。
私達が生きている限り、健康な人にも訪れる死は、必ずしも仏教でいう「生老病死」にあるような「衰弱の死」の概念でくくれるものではなく、むしろ「健康な死」と呼ぶべきものなのかもしれません。」
「健康な死」って、おかしな言い方ですが、遺伝子情報に組み込まれたその時まで、生を全うできた個体が迎える「完全死」と言うべきものでしょうか。
例えば、植物だって車にぶつけられて、へし折られた街路樹の死がアトポーシスとは言えないように。。。
人の場合も、交通事故や自殺、ストレスによる癌死、中毒死、そのたもろもろの遺伝子情報のその時までたどり着けなくて、早死にするような状態は「完全死」とは言えないでしょう。
では、「完全死」とはどんなものでしょう。
世界では、人々が150歳まで元気で働き、安らかに亡くなるという村もあると本で読んだことがあります。
その半分の命で世を去る人、苦しみながら寝たきりで数十年を生きながらえる人、どうしてそうなる?原因は何?
急速に超高齢化社会を迎えた日本は、その原因を見つける暇もないのか。
ただただ、人が苦しむ症状を刹那的に取り除くことしかできないのか。
そうなった原因を探る、そして、ならない方法を見つける。
医学の知識もない自分が、ただ毎日出会う方々から情報をいただいて、考える材料にしている。
「死のプログラム」は本当に設定されているのか。
あるとすれば、いくつ位?
とりあえず、自分の身体の嫌がることは止めておこう。
おや、3時になりました。
少し、休みましょうか~。
「植物の世界にはアトポーシス(自然死)という概念があります。
植物におけるアトポーシスは晩秋に枝から落ち葉が散る、ことが象徴的な出来事です。
これは、葉の柄の部分の細胞のDNAの遺伝子情報に、ある一定の条件下ではアトポーシスするような「死のプログラム」が元々、組み込まれているからなのです。
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私達人間の細胞のDNAには30億もの遺伝子情報がインプットされていますが、その中には確実に「死のプログラム」も組み込まれているはずです。このように、「生」と「死」とは表裏一体の生命現象なのです。
私達が生きている限り、健康な人にも訪れる死は、必ずしも仏教でいう「生老病死」にあるような「衰弱の死」の概念でくくれるものではなく、むしろ「健康な死」と呼ぶべきものなのかもしれません。」
「健康な死」って、おかしな言い方ですが、遺伝子情報に組み込まれたその時まで、生を全うできた個体が迎える「完全死」と言うべきものでしょうか。
例えば、植物だって車にぶつけられて、へし折られた街路樹の死がアトポーシスとは言えないように。。。
人の場合も、交通事故や自殺、ストレスによる癌死、中毒死、そのたもろもろの遺伝子情報のその時までたどり着けなくて、早死にするような状態は「完全死」とは言えないでしょう。
では、「完全死」とはどんなものでしょう。
世界では、人々が150歳まで元気で働き、安らかに亡くなるという村もあると本で読んだことがあります。
その半分の命で世を去る人、苦しみながら寝たきりで数十年を生きながらえる人、どうしてそうなる?原因は何?
急速に超高齢化社会を迎えた日本は、その原因を見つける暇もないのか。
ただただ、人が苦しむ症状を刹那的に取り除くことしかできないのか。
そうなった原因を探る、そして、ならない方法を見つける。
医学の知識もない自分が、ただ毎日出会う方々から情報をいただいて、考える材料にしている。
「死のプログラム」は本当に設定されているのか。
あるとすれば、いくつ位?
とりあえず、自分の身体の嫌がることは止めておこう。
おや、3時になりました。
少し、休みましょうか~。