中国足心道 足揉みぱくちゃん 「今日も元気だ!ご飯がうまい!」

「足揉みぱくちゃん」の療術師 市村良子の日々の出来事、暮らしを綴った日記です。

「絶対元気になるで!」

2015-04-24 02:07:23 | Weblog
某お宅のトイレ。



心臓の発作で、動作がしにくくなった80代の方のために付けられた補助具です。

トイレの手すりって壁に打ち付ける棒状のものかと思ってたら、こんな便利なものがあるのですね。
ぱくちゃんも立ち上がるとき、つい利用してしまいました。

便利、便利。

他に玄関の踏み台とてすりもついてます。
50代の娘さんが介護職で、80代のお母さんに介護が必要になると、すぐにあれこれ用意されました。

さすが、専門職。
在宅リハビリ、ヘルパーさん、ケアマネさんと、普段から目星を付けていた優秀なメンバーを揃えて、介護が始まりました。

おかげで、医療センターの入院を含めて発症から3か月。
退院当時は杖を使って歩くのもやっとでしたが、今では元通り。
畑仕事も家事も普通にこなせるまで回復されています。

足揉み歴は、月に1度を5年。

12人兄弟の4番目で、苦労の方だから病気になっても「絶対に元気になるで!」と言っておられました。
その通りで、昨日足揉みに行ったら、元通り。

さすがやね~。


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ふ~。

2015-04-24 02:04:19 | Weblog
キッチンマットで遊んでいたら、疲れた~。



戻しといてや。
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眠くない夜にあれこれと。

2015-04-16 02:07:26 | Weblog
「草木も眠る丑三つ時~」には、ちと早い夜中の1時半なり~。


久しぶりにゆっくりした夜。
夫が夜勤でいないのと、いないゆえに手抜きご飯(おっと、居ても大した違いはない!でしょ?)。

撮りだめたビデオのチェック。
新番組をいくつか撮っておりまして。

「アルジャーノンに花束を」。
これは、原作がダニエル=キイスの実話だったと思う。
映画化もされて、確か主演がトム=ハンクスだったっけ?
どれもこれも記憶が曖昧だけど、本も読んだし映画も観た(テレビでだけど)。
出てくる俳優さんは、どの子もこの子もほとんど知らない人たちばかりだけど、原作に惹かれて録画してみた。
うん、毎週予約に切り替えておこ。

次、「Dr.倫太郎」
主演は堺雅人さん。
大河ドラマ「篤姫」の徳川家定役以来のファン。
「リーガルハイ」は、絶品でした。3シリーズ目をひたすら待っておりまする。
今回の役柄は、精神科医。
昨今の病院は、患者さんの顔も見ずに、ひたすらパソコンと数値ばかり見ているという現状の中で、一人の患者さんに50分かけてムントテラピーを使った治療をする倫太郎。

姫路にも、一人の患者さんに1時間かけてお話してくれる心療内科もありますが、珍しい部類でしょう。
足揉みしている80歳の女性が、その先生にゆっくり話をしてもらって、満足して帰ってこられました。

「ムントテラピー」言葉を使っての治療。
常々、療術師も「相手を励まし、勇気づける足揉みを」と言われていますが、なかなか相手に合わせた言葉かけというのは難しく、
この倫太郎先生の言動は参考になりそうです。
倫太郎家に飼われている、モップ犬(正式名は不明、モップのようなわさわさの毛並犬)、これはかなりの癒し犬ですよ。
この子を見るのも、楽しみになりそうです。
ぜひ、療術師の皆さんもどうぞ~。
これも、毎週予約に切り替えまして、と。


ここまできたら、「丑三つ時~」になりました。
が、全く今夜は眠たくない!
いつも、眠れない方に、眠くない時は起きてましょう、そのうち眠くなります。と言うておりますが、さてさて、何をいたしましょうぞ。

と、台所でごそごそ。。。

スーパーで、分厚い寿司揚げを買っておりましたので、明日はお稲荷さんでもつくりましょうと、煮ました。


火曜日に配達された生協のバターロール。これも使わねばならね~とホットドック用の茹で卵作り。


実家のお嫁ちゃんがくれた筍。昨日は天ぷらにしたから、次は煮物ですな。


2日ほど前から、ずーっと作業台の上に出しっぱなしの大豆の水煮。いつ五目豆になるんやろ?と思ってたら、今晩なりましたな~。


料理ってのは、ストレス解消になりまっせ。

では、そろそろ、「永遠の0」の続きを読むことにいたしましょう。
皆様、お休みなさいって、皆様夜中の夢の中でしょ。



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これがシベリア。

2015-04-13 01:48:13 | Weblog
「風立ちぬ」かぶれを起こしてたぱくちゃん。

主人公の二郎が仕事帰りに買って帰ってた「シベリア」なるお菓子?食べ物はどんなもんじゃろと思っていたら。

今月初め、いつものように婿殿の足揉みに大和市へ行って、娘と近くのスーパーで買い物してたら、あった!



へ~、昔の食べ物かと思っていたら、今でも出てるんやね。

これが、「シベリア」。

帰りの新幹線で食べよと思って一つ購入。
カステラの間に挟まってる茶色のものは、あんこ。
カステラ、あんこ、カステラ、あんこ、カステラのサンド。

古~い記憶をたどってみると、名前はシベリアかどうか忘れましたが、昔食べたことあるよ~な。。。

でも、こっちの方(関西)では、見たことないから、関東限定のお菓子かな?
味?
めっちゃ甘くて、もちゃもちゃしてます。


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頑張ってきたんだね。

2015-04-13 00:57:12 | Weblog
もう一つ、パラオでの天皇陛下のお言葉を。

「私どもは、先の戦争で亡くなったすべての人々を追悼し、その遺族の歩んできた苦難の道をしのびたいと思います」

ぱくちゃん父、86歳は、終戦のとし17歳でした。
父の父(ぱくちゃんの祖父)と父の兄(ぱくちゃんの叔父)は共に戦死。

家に残されたのは、父と父の3人の妹達、父の母(ぱくちゃんの祖母)、父の祖母(ひいばあちゃん)と父の叔父(知的障害者でした)。

父は学校の途中で予科練に志願したから、終戦後は学校に戻ったのか、いや一家の働き手が二人共戦死してるから、学校へは戻ってないかも。
農協に就職したのは聞いたけど、父の母も父が22歳の時に亡くなってる。

「わしは、ようさん葬式だしたで。農協でお金借りてな。」

数えてみたら、父の父、兄、母、祖母、叔父と5人の葬式を立て続けに出したらしい。
父の家は、水のみ百姓で、朝学校へ行く前と帰ってからは、牛の草刈が日課だったそうです。

貧しかったせいか、おば達に聞くと「兄ちゃんは優しくて、兄弟仲が良かったんよ」。
一番上の妹は、家で仕立物をしてて、二番目は近くの工場へ女工さんに行ってました。
三番目も中学卒業したら、働くのが当然だったようだけど、このおばは勉強が好きで、何とか高校へ行かせてもらえたらしい。
上の二人は、高等小学校卒かな。
私の母も、高等小学校を卒業して、村の役場に就職してましたから。

当時、旧制中学校や女学校へ行くのは、クラスで数人のお金持ちのお家だけだったようです。
三番目のおばの時は、新制中学校になっていて、それこそ高校へ行くなんてのは、貧乏人には無謀だったのかも。
おばは、よほど勉強が好きだったんやね。
旧制龍野中学が龍野高等学校に変わった初めてくらいやったんちゃうかな。

認知症になった父が、今日も足揉みの途中で
「3人を嫁にやるのも、えらいこっちゃった。田んぼも売ってな。
今みたいに、身一つで、なんてあらへん。それなりに支度したらなな。」

何年前の話やねん!と思うけど、認知症の父の話で、今も一番よく出てくるのが、終戦直後、自分がどれほど大変な思いをしてきたか、です。
「兄貴が生きて帰ってきてくれてたら、全然違っとったやろな~。わしより、勉強もできたしな」と今日の会話。

またある日には、
「兄貴はほんとに可哀そうや、たった19で死んでもて。わしはこんなに長生きしてな~」てなことを言います。

戦争やったんやから、しょうないやん。他にも、よ~さん死んではるし。
父の無念さ、悲しさを思いやるということもなく、「長生きできて良かったな~」くらいにしか思わなかったのですが、
冒頭の天皇陛下のお言葉を聞いて、この方は残された父のような遺族のその後の生活にまで思いを馳せておられたのか、と驚きました。

天皇家という不自由のない生活にありながら、苦難の日々を生きている国民のことを思い寄り添える人なのだ、だから被災地に行って、あれだけ人々を感動させるのだと。

思いのこもった言葉、行動、姿はどれも周りの人々に響き、結果周りを変えてしまう力があるのだと。

だから、今日は父に
「17歳で終戦になって、大変やったな~。よ~頑張って生きてきたやん!」と言うてきましたで、ぱくちゃん。


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なぜか感動。

2015-04-13 00:21:53 | Weblog
宮崎駿さん、最後の作品。



なぜか感動して、2月にテレビ放映されたものを録画して夜な夜な見ていたのですが、とうとう買っちゃいました。

百田さんの「永遠の0」にも出てくる堀越二郎さんのお話です。
戦争当時、世界一と言われた飛行機「零戦」を作った若いエンジニア。

ナウシカのように壮大な話でもなく、トトロのような面白さもなく、もののけ姫や千と千尋のような意味深さもないような。。。
でも、なぜか夜な夜な。。。

二郎のあまりに真っ直ぐな生き方に感動していたのかもしれません。
子供の時から、ずーっと飛行機が好きで、飛行機を作る人になりたくて、生き方も自分の心に真っ直ぐ。

あまりに感動して、30代の息子に「ええで~」と見せたけど「どこが?」と言われてしまった。
同じく30代のママにも聞いてみたら、「よくわかりませんでした」と。

「永遠の0」を貸してくれた婿殿ならきっと分かると、今月ダビングしたDVDを押し付けてきたけど、さてさて。。

私は、昭和30年代に小学生だったが、当時男の子たちが漫画の本で「零戦」の飛行機乗りのお話に夢中になっていたのを覚えている。
私達子供にとって、戦争の悲惨さなど微塵も感じず、むしろカッコいいことだと思っていた。
学校の教科書で、今のように戦争の悲しさや辛さを書いたお話を読んだ記憶もない。

昭和39年に新幹線が開通し、東京オリンピックが開催され、「もはや戦後ではない!」と経済白書に謳われた。
やっぱり、復興と成長しか見ていなかったんだ。。

「衣食足りて礼節を知る」
今の日本人だから、やっと霊的なことに目が向くようになったんだな~。

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究極の平和学習。

2015-04-12 23:03:46 | Weblog
9日午前、天皇陛下と皇后陛下がパラオのペリリュー島にある「西太平洋戦没者の碑」に向かって、深々と頭を下げられた。
全世界に向けて放送されたであろうそのお姿は、世界中の人の胸を打ったに違いないと思う。

戦後50年は、広島、長崎、沖縄に慰霊の旅をされ、60年はサイパン島。
そして、今回のペリリュー島は戦後70年目。

自分が年をとったせいなのか、陛下ご夫妻の慰霊の想いがより深くなったのか、サイパン島の時には感じなかった熱い思いがこみ上げてきた。

何が原因だったのか、誰が正しかったのか悪かったのか。。。
ただただ、戦争という愚かな行為のせいで、多くの方が苦しみの中で死んでいったのだということを決して忘れることのないように。

深く頭を下げられたその背中を見ていると、天皇と一緒にあなたの想いを共有したいと思った。
これは、究極の平和学習だな、世界に向けての。

その証拠に、今週はどの番組のコメンテーターも同じことを言ってました。

「学校で習わなかったから、というような問題ではない。あまりにも、自分が知らなさ過ぎることが分かって、自分で勉強しました」
「自分で知ったことを、若い生徒たちに伝えていかなければ、と痛感しました」(大学教授)

天皇陛下は、「満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切なこと」と訴えておられる。

全く恥ずかしいことながら、そして何故なのか、私は満州事変についても全く知らない。1945年に戦争が終結したことぐらい。



娘婿殿が貸してくれたこの本を読みながら、自分の無知に驚いている。

そして、何故知らないのか、考えてみた。

私は、昭和29年に生まれたのだが、まだ終戦から10年もたっていない。
今年が阪神淡路の地震から20年。
でも、地震を忘れたことはない。

終戦から10年ぐらいなら、日本中誰もがまだ戦争のことを昨日のことのように思っていただろう。
でも、その年に生まれた子供が、10歳になり、20歳になって、戦争のことなど知らないということに、気が付かなかった。。

現に、阪神淡路の地震から20年の今年、地震の年に生まれた20歳の消防士さんが地震のことを知らない!ってことに周りが驚いたそうな。
あんな大変なことを、自分は勿論知っているから、周りも当然知っていると思っていたのに、いつの間にか知らない世代が多数派になってきている。

「意識して伝えていかなければ、出来事は伝わっていかないのだ!」ということ。

戦後の日本は、復興と成長に大忙しで戦争のことを伝えるという重大な意味を考える暇もなかったのか。

それと、地震は誰もが「悲惨だった、悲しい出来事だった、大変だった」と思いが全員一緒。
ところが、戦争は見る角度によって、思いがそれぞれ違っていた。

戦争中、大活躍したと思われていた軍人さんが、終戦後戦犯として裁かれた。
お国のために死ぬことが立派だと言われ、生き残って帰ってきたら、責められたり、喜ばれたり。

戦争に突入した原因もよくわからない。本でなんとか回避しようと頑張った人もいたらしいと知った。
「侵略戦争」と言われながら、日本が統治した国々には、鉄道、通信などのインフラと共に、必ず学校教育も持っていってる。
今回のパラオでも、84歳の女性が日本語を上手に話ながら、「日本統治時代に、学校で覚えました。日本、大好きです」と言ってた。

西洋諸国の侵略と日本の侵略(と呼ばれている統治)は、中身が違う。
「侵略」された国の人が「日本大好き」なんて言うはずがない。

などなど、先の戦争は地震と違って、正しいことが何なのか、誰なのか、よくわからない。
今年86歳になる父に昔「日本はなんで戦争になったの?」と聞いたことがあるが、知らなかった。
終戦当時、17歳だったから、まだわからなかったんだろう。

分からないことは、伝えられない、伝えようがない。もっと言えば、伝えたくない、忘れたい、と思ったかもしれない。
というわけで、全く伝えられないままに戦後70年がきたわけだ。

ところが、天皇陛下は、「学んで、その中で日本がこれからとるべき道を決めなさい」とおっしゃってる。
国会議員の9割が戦争を知らない世代だと。
知らないままに決めるな、知ってから決めなさいってこと。

日本から持ってきた白菊を供えておられました。
「日本へ一緒に帰りましょう」と、おっしゃっていたのでしょうね、きっと。

慰霊の碑から西に向かっても、礼拝されていました。
西には、遠くフィリピン、ボルネオ島もあります。
私の祖父(父の父親)がボルネオ島で、自決したと父から聞きました。

西に向かって頭を下げておられるお姿を見て、祖父たちの霊も慰められたでしょう。
ありがとうございました。









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