9日午前、天皇陛下と皇后陛下がパラオのペリリュー島にある「西太平洋戦没者の碑」に向かって、深々と頭を下げられた。
全世界に向けて放送されたであろうそのお姿は、世界中の人の胸を打ったに違いないと思う。
戦後50年は、広島、長崎、沖縄に慰霊の旅をされ、60年はサイパン島。
そして、今回のペリリュー島は戦後70年目。
自分が年をとったせいなのか、陛下ご夫妻の慰霊の想いがより深くなったのか、サイパン島の時には感じなかった熱い思いがこみ上げてきた。
何が原因だったのか、誰が正しかったのか悪かったのか。。。
ただただ、戦争という愚かな行為のせいで、多くの方が苦しみの中で死んでいったのだということを決して忘れることのないように。
深く頭を下げられたその背中を見ていると、天皇と一緒にあなたの想いを共有したいと思った。
これは、究極の平和学習だな、世界に向けての。
その証拠に、今週はどの番組のコメンテーターも同じことを言ってました。
「学校で習わなかったから、というような問題ではない。あまりにも、自分が知らなさ過ぎることが分かって、自分で勉強しました」
「自分で知ったことを、若い生徒たちに伝えていかなければ、と痛感しました」(大学教授)
天皇陛下は、「満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切なこと」と訴えておられる。
全く恥ずかしいことながら、そして何故なのか、私は満州事変についても全く知らない。1945年に戦争が終結したことぐらい。
娘婿殿が貸してくれたこの本を読みながら、自分の無知に驚いている。
そして、何故知らないのか、考えてみた。
私は、昭和29年に生まれたのだが、まだ終戦から10年もたっていない。
今年が阪神淡路の地震から20年。
でも、地震を忘れたことはない。
終戦から10年ぐらいなら、日本中誰もがまだ戦争のことを昨日のことのように思っていただろう。
でも、その年に生まれた子供が、10歳になり、20歳になって、戦争のことなど知らないということに、気が付かなかった。。
現に、阪神淡路の地震から20年の今年、地震の年に生まれた20歳の消防士さんが地震のことを知らない!ってことに周りが驚いたそうな。
あんな大変なことを、自分は勿論知っているから、周りも当然知っていると思っていたのに、いつの間にか知らない世代が多数派になってきている。
「意識して伝えていかなければ、出来事は伝わっていかないのだ!」ということ。
戦後の日本は、復興と成長に大忙しで戦争のことを伝えるという重大な意味を考える暇もなかったのか。
それと、地震は誰もが「悲惨だった、悲しい出来事だった、大変だった」と思いが全員一緒。
ところが、戦争は見る角度によって、思いがそれぞれ違っていた。
戦争中、大活躍したと思われていた軍人さんが、終戦後戦犯として裁かれた。
お国のために死ぬことが立派だと言われ、生き残って帰ってきたら、責められたり、喜ばれたり。
戦争に突入した原因もよくわからない。本でなんとか回避しようと頑張った人もいたらしいと知った。
「侵略戦争」と言われながら、日本が統治した国々には、鉄道、通信などのインフラと共に、必ず学校教育も持っていってる。
今回のパラオでも、84歳の女性が日本語を上手に話ながら、「日本統治時代に、学校で覚えました。日本、大好きです」と言ってた。
西洋諸国の侵略と日本の侵略(と呼ばれている統治)は、中身が違う。
「侵略」された国の人が「日本大好き」なんて言うはずがない。
などなど、先の戦争は地震と違って、正しいことが何なのか、誰なのか、よくわからない。
今年86歳になる父に昔「日本はなんで戦争になったの?」と聞いたことがあるが、知らなかった。
終戦当時、17歳だったから、まだわからなかったんだろう。
分からないことは、伝えられない、伝えようがない。もっと言えば、伝えたくない、忘れたい、と思ったかもしれない。
というわけで、全く伝えられないままに戦後70年がきたわけだ。
ところが、天皇陛下は、「学んで、その中で日本がこれからとるべき道を決めなさい」とおっしゃってる。
国会議員の9割が戦争を知らない世代だと。
知らないままに決めるな、知ってから決めなさいってこと。
日本から持ってきた白菊を供えておられました。
「日本へ一緒に帰りましょう」と、おっしゃっていたのでしょうね、きっと。
慰霊の碑から西に向かっても、礼拝されていました。
西には、遠くフィリピン、ボルネオ島もあります。
私の祖父(父の父親)がボルネオ島で、自決したと父から聞きました。
西に向かって頭を下げておられるお姿を見て、祖父たちの霊も慰められたでしょう。
ありがとうございました。