館林ロストシティーランブラーズ・フォークソングシングアウト

フォークを歌って43年の坂を今登坂中。世間に一言あってこそフォーク。軟弱アコースティックミュージックにシングアウトだ!

岡山まで行っただよ・岡山と田中正造・旅日記その1。

2024-06-11 03:49:48 | 旅は続く




 「岡山」とは岡山城が築かれた微高地で,北の「天神山(天満 山)」・西の「石山」となんで城下町にあった場所が名の由来らしい。
ホテル辺りが石山か?
禁酒会館の隣の駐車場から、国の重要文化財の櫓が鎮座する。戦争で破壊から残ったお城の遺構を生かしながら、街が作られているようだ。

城の天然の要害であった(荒れ川で、川を鎮めるのは城主の大きな仕事だったか?)一級河川「旭川」も見事な存在だった。



足尾鉱毒という、群馬から栃木を中心に、渡良瀬川周辺の村々を襲った近代日本最大にして、最初の公害が起こった。上流の銅山から垂れ流された汚染水が稲や農作物を襲い、それを食べた人たちが死の淵をさまよった。谷中村という村は、住めなくなって消失する。この公害を止めるために、すべてをなげうって、死ぬまで戦った男が、田中正造だ。僕らは郷土の偉人として、学校でも習った。村々に、正造の逸話が残り、誇りであった。今、僕らは福島原発の爆発と、まき散らされた放射能という、21世紀最大の公害の只中に生きている。

このCDは、田中正造没後100年(2013年)に、足尾鉱毒と福島原発爆発をテーマに、笠木透と雑花塾が作ったものだ。ロストも1曲、歌わせてもらった。前日の岡山ライブでも歌えて、幸せだった。

コンサートはねての翌早朝、田中正造と岡山市をテーマに、散策を行った。

ホテルの朝食や皆との待ち合わせ時間を考慮し、6時にタクシーをと、フロントにお願いして、タクシーで回った。





日本有数のナンバースクールかっ?「岡山県立岡山朝日高等学校」。実はそこにモニュメントなどあるわけでは無い。
岡山では、有数の有名校と見た。





田中正造が天皇さんに直訴、その直訴状に参画した石川半山(安次郎)と幸徳秋水。田中正造を幸徳秋水につないだ人物が、石川半山。その石川の出身高校に行ったのさ。
ただ、校門を眺めるだけの怪しさで、散策は始まった。
半山は東京毎日新聞主筆・報知新聞主筆、そして「万朝報」の主筆として、論陣を張り護憲運動を行う。衆議院議員も務めた。
直訴状は天皇に出すのだから、格調を求め、石川の取次で同じ万朝報の記者だった、秋水に至ったようだ。

その秋水の直訴状は「足尾銅山を止めろ」と書いていない。そこに納得しなかった正造は、35か所に訂正印を押した、正造の直訴状をふところに入れ、直訴に及んだようである。

石川の母校に行ったわけである。タクシーの運転手氏は、およそ観光コースでない場所に行ってという客に興味を持ったらしく、色々質問されたり、「こうだったようです」などと、案内をしてくれて楽しかった。







次にやって来たのは野田屋町。ここでも、運転手氏が「なんでこちらへ?」なんて、およそ観光客が行くはずもない公園への案内で、やり取りが素敵だった。
福田英子。
明治の婦人解放運動の先駆け・「世界婦人」を創刊し、「東洋のジャンヌ・ダルク」とは彼女だ。
英子は実は谷中村強制破壊後の田中正造の戦いを支えた1人だ。谷中村への物資支援、正造臨終にも駆けつけ、死後も裁判闘争を戦い続けたのだった。
天晴!



正造は最後の正月は、東京の福田英子宅を訪ね、穏やかに過ごしたという。
野田屋町は、英子の生誕地だ。



野田屋町の公園の傍には、用水が流れている。かなりの水量だから、今田植え時期の農業用水だろう・・・





タクシー氏は、このような人物は、これを見たいに違いないと思ったか?そばに「朝鮮人慰霊碑」があると案内してくれた。



この一帯は、コリアンタウンなのだとか、色々教えてもらった。

思いもかけない、碑の見学だった。得した気分だったな。

岡山人は親切だ。そういえば駅地下で、「この階段で外に出られるのかな?」とささくれと会話していたら、初老の女性が、「ここを上れば出られます」なんて声をかけてくれたな。
コメント (2)
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