羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

88年『図書』養老先生のエッセー

2010年04月25日 09時29分56秒 | Weblog
 GWの5月1日土曜日は、朝日カルチャーレッスンはお休み。
 そこで連休前の昨日は、‘寝にょろ’もやることにしていた。
 そのイメージは『原初生命体としての人間』第二章@原初生命体の発想の冒頭をメッセージとした。比較文として1988年岩波書店『図書』1月号にある「骨と墓と生への意志と」と題した養老孟司先生のエッセーを取り上げた。
 内容についてはここに詳しくは書かないが、『バカの壁』がバカ売れする前、『唯脳論』が誕生する前に書かれたこのエッセーは、短いながら西洋への戸惑いを見事な筆で吐露されたものだ。

 レッスンが終わったとき、数名の方がコピーを希望された。
 なかでも演劇を志す若者は、映画の題名と曲名をわざわざ確かめにきた。
「マーラーの交響曲第五番よ。映画はベニスに死す」
「どこの映画ですか」
「イタリアだったか、フランスだったか????」
 そばに立っていた女性が
「イタリア映画ですよ」
 若者はしっかり手帳に書きとめていた。

 西洋の墓の話が何で映画に? 
 ドイツ・オーストリア・フランス・イタリアで12世紀から16世紀にかけてつくられた棺にには、死んだ本人の死体が彫刻されている(生きているときの姿もある)養老流謎解きが、西欧ルネサンスの根本を問うものである。
 死者を復活させる意義を『強い生への意志が生じたのは、還元主義の生まれた時代、すなわち西欧ルネサンスしかなかったであろう。自然科学が生命を人工的に作ろうとする。そんなことは死者から生者を生じさせようとする、この時代の人々の意志からすれば、何ほどのこともない』

 最後には、トルストイの「復活」の真意、マーラーは交響曲をどういうつもりで書いたのか『さまざまな意味で西欧を理解しようとする試みるごとに、私は相変わらず迷路をさまよう自分を感じる』とある。
 
 養老先生が謎は謎のまま筆を置くこのエッセーは、『1Q84』Book3と重ねるとモット面白い、と思った。
 さらに、野口の‘原初生命体’第二章冒頭、生死を自由に行ったり来たりできる動きのイメージとは、断絶があるのか、それとも繋がりがあるのか、GWの宿題を差し上げた。結構、皆さんに受け止めてもらえたと思う。たぶん。
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2 コメント

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ビヨルン・アンドレセン (かめいど)
2010-04-25 22:14:13
『ベニスに死す』ルキノ・ヴィスコンティ監督の作品ですよね。原作はトーマス・マン。
昔々、名画座(三番館)で見ました。
主人公の音楽家が恋する美少年を演じたのがビヨルン・アンドレセン。
彼のアップになるたびにカメラのシャッター音が多数響いていたのを思い出します。
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かめいどさん (羽鳥)
2010-04-27 07:40:17
昔々、記憶の中の映像と音が、ひょんなことから浮かび上がってくるとき得られる‘ときめき’も、映画の醍醐味ですね。
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