羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

‘一人前’を家業に読むと

2010年04月30日 19時20分52秒 | Weblog
 龍馬の実家である坂本家は、下士でありながら質屋を経営していて裕福であった、と最近になって知った。
 我が家の家業も質屋であった。慶応生まれの祖父の実家は、名字帯刀を許された農家で、そこの長男であったにもかかわらず上京し、明治二十年代には四谷・新宿で商売を始めた。父は六歳の時に父親を失った。そんな事情から、二代目の母親違いの姉夫婦に育てられたので三代目にあたる。複雑な家の事情があって、家督を相続していながら、実質は分家のような形になっていた。
 父が育った時代は、店自体が若者の職業訓練の場であったと聞く。信頼のおける奉公人には‘暖簾分け’をして、さまざまな援助を行うのが主じの役目であったという。

 実は、今回「新しい公共」の話を聞きながら、私が育った家の様子を思い起こした。
 日本全国をまとめる組合組織があり、その下に各地域ごとの支部がある。それぞれが一軒ずつ独立していながら、組合の連携や協力や結束はしっかりしていた。それは生業を支えることだった。
 一方で‘公共’の部分では、警察と防犯協会とは極めて密接な関係をもっていたようだ。 父が亡くなる一年前に、廃業届けを私が代役で出しに行った先は、警察と防犯協会と青色申告会だった。
 つまり、警察・防犯・税の申告との協力体制は細部にまで及び、公共の治安や検挙率をあげる一翼を担い、税金を納めるということを一般に拡げる末端組織の働きも担っていたことを知った。
 具体例を挙げれば、一日に何組かの刑事が訪ねてきて、何時間も滞在しさまざまな情報交換を行う場であったし、申告時期には町の方々の面倒も見ていたようだ。
 この職業は、妻帯者であること、蔵を有すること等、いくつかの条件をクリアして、警察による許可営業であるわけだから、そうしたつとめを果たすことも、当然といえば当然のことだったのだろう。
 つまり、「新しい公共」オープンフォーラムで話された江戸期の‘一人前’の考えにぴったりと当てはまる父の生き様だった。

 話はズレるが、野口体操に私がはまってしまった一つの理由がここにある。
 それは野口先生のことばによって救われたからだ。あるとき学生時代には家業を恥じていたことを先生に諌められたことがあった。確かこんな風な内容だったと記憶している。
「サラリーローンのように担保なしでお金を借りるのは、非常に危ない。その点、質屋と言うのは担保を持っていかなければならないことで、身の程の借金でおさめることが出来る。そして相対で信用をつくり上げ、そこには人間的なつながりの商売がなりたっているわけでしょ」
 その後、サラ金などの無担保融資による過剰な借金によって追い詰められる人が多くなり、さらに人を介さず借りられる安易さが自己破産を多く引き起こしていくことを先生は予感されておられた。

 亡くなってから気づいたことは、父は地域社会に溶け込んで、町に暮らす人々ときちんと関係を築いていたことだった。ご近所の信頼を得ていたことを知られされたのは、四十九日までの間に、連日お参りくださる方々が、親戚以外にも絶えなかったことからだった。

 話は変わるが、私が野口体操を若い方に背負ってもらいたくも、なかなか踏み切れない訳がある。それは職業としてプロフェッショナルに育てあげ(その道に必要な倫理観・道徳観も教え)、独立に必要な援助をすることが難しい、ということがいちばんの理由だ。
 これは江戸期の商家の在り方で、父が踏襲し、一人娘の私には継がせなかった理由でもある。今の時代には、個人でそれを行うのは非常に難しい。まして私には。
 
 一人前とは、‘かせぎ’で半人前、‘つとめ’で半人前。それが揃って一人前なのである、という話を父に当てはめると、とてもよく理解できる。ある組織に、折に触れて寄付し援助もしながら、仕事との関係も維持しつつ、地域のためにつとめを行う生き方だった。‘大人の生き方’を、静かに穏やかに、そして決してこれ見よがしでなく、しっかりつとめていた父だった、と今では思えるようになった。
 龍馬さんの育った環境と通じることがあるなんて‘何となく嬉しい’のは、かぶれたかなぁ~?! ふふふっ。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「感覚」についての野口三千... | トップ | 昨日に引き続き……生きる道は... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事