グローバル化・IT化の時代の中で、お互い(ご近所)が支えあう身近な公共が全てとは言わないが失われている。そこで政府や地方自治体を肥大化させるのではなく、自分たちで出来ることは自分たちで‘自立’して行うコミュニティーを作るにはどうしたらよいのか。それを担うのが特定非営利活動法人(NPO)の独占物とするだけでなく、企業・個人・政府(行政)が一体となって実現していきたい。目指すところは、IT上の仮想空間に集うコミュニティーではなく、顔が見える血の通った人間がじかにかかわっていくコミュニティーを作っていきたい、というのが今回のフォーラムのテーマであった。
第一部、鳩山総理のスピーチを受けて松岡正剛さんは、日本には古代・中世・近世、そして近代に「結・座・講・社(中)・組・結社」といった一つひとつの文脈でまとまっているコミュニティーが存在した歴史をひも解いた。それらは‘官’と‘民’の中間的(管理)組織として、各時代の政治形態に寄り添う形で機能していた。そうしたなかで‘一人前’についての考えを次のように語った。
『江戸期においては、一人前とは‘かせぎ’と‘つとめ’を両立させることができる人のこと』。一家を養うことで半人前、もう半人前は無償で公共(ご近所)に役立つことを行う。つまり‘かせぎ’と‘つとめ’の二つが相まって実現できる人を一人前の人間とみなしていた、と言う。
しかし、この考えは西欧的なボランティアの思想とは全くことなる。富める者も貧しき者も老若男女にかかわず許される範囲で、世の為人の為に出来ることを無償で(時には身銭を切っても)行う行為がボランティアを支えることなのだ。たとえば親掛かりの学生であっても、極端なことを言えばホームレスの人であっても出来る、と考える。
今回はそういったボランティア論はなく、とりあえず日本の歴史を踏まえて、現代に新しく‘公共’を根付かせるにはどうしたらよいのかの論議であった。
平たい言葉で言えば、「困ったことがあったとき、家族に相談する次が役所ではなく、もうすこし身近な中間共同体に属する人々がいること」(仙石大臣)
その中身は、‘教育、防犯、防災、福祉、介護、健康(たとえば:産後の女性のケア)’で、ある企業から提供されるサービスを「お金を出して買う」ということではない相互扶助の在り方を模索したいという政府の考えが示された。
そこで政府として出来ることは、① 個々人が自由意志でNPO・協会・あるいは身近な組織に寄付をしやすくするために‘寄付金に対する税制’を考えること。② 政府がでしゃばり過ぎない程度で組織化を促すこと。
しかし、いちばんの問題は、公共を支える‘ボランタリー経済’と‘貨幣経済’の融合に必要な手だてを講じることをあげていたが、その点が極めて難しい。日本人の意識改革を促す教育の在り方を見直す必要があるからだ。それは簡単なことではないことが際立ってしまった。
本日(4/28)朝日新聞朝刊、「日本人の幸せ6.5点 欧州平均より低く」の最後に、鳩山総理の言葉として『「幸福度とお金、経済の部分が結びついており、ボランタリー経済が多くの国民の意識にないことがわかった」と認めざるをえなかった』とある。
「新しい公共」を考えるに当たって、ボランタリー経済が幸福度を高めることであって欲しい、と言う総理の思いと裏腹の結果となったわけだ。
理想は現実と程遠い、ということで寂しいが、日本はブータンではない。そもそも国民の「幸福度」を調査するのは、ブータンの‘GNH’(Hはハピネス)に習ったこと。いまやブータンも近代化の波に晒されて前国王の時代とは違ってきている、と聞く。
しかし、何を幸福と感じるのか。それを数値で表すこと自体に問題がある。幸福を‘度’の数にしたとき、幸福感は逃げていくような気がする。
つまり、緊迫財政の中で、出来るだけ歳出を少なくする方策として、‘公共’を言うところには無理がある。
そして非営利活動といえども、‘ほどほどの営利’だけでは活動は儘ならないのが現実だ。社会貢献活動には潤沢な慈善活動が一体となったところで西欧のボランティアはなりたっている、と私は認識している。
むしろ、今の日本の現状では、当たり前で何気ない善意が通らなくなった暮らしを見直すことから始まるはずだから。
最後に、大番頭の仙石大臣、田坂広志さん、福原資生堂名誉会長、他にもすごい登壇者のなかにあって、第二部・取り組み例紹介で登壇された大阪天神橋筋商店連合会会長で35年商店会長を続けおられる70代後半と思しき土居年樹さん、第三部パネルディスカッションの登壇者ローソン社長の51歳・若々しい新浪剛史さん、お二人の話は非常に説得力があったことを書き加えておきたい。
*今日は、長いだけでなく、硬い言葉で書いてしまったこと、ちょっと反省してます。最後まで読んでいただいて、ありがとうございます。
平成22年4月25日(日)内閣府講堂於 オープンフォーラム報告
平成22年4月28日(水)朝日新聞朝刊 14版「政治」記事
第一部、鳩山総理のスピーチを受けて松岡正剛さんは、日本には古代・中世・近世、そして近代に「結・座・講・社(中)・組・結社」といった一つひとつの文脈でまとまっているコミュニティーが存在した歴史をひも解いた。それらは‘官’と‘民’の中間的(管理)組織として、各時代の政治形態に寄り添う形で機能していた。そうしたなかで‘一人前’についての考えを次のように語った。
『江戸期においては、一人前とは‘かせぎ’と‘つとめ’を両立させることができる人のこと』。一家を養うことで半人前、もう半人前は無償で公共(ご近所)に役立つことを行う。つまり‘かせぎ’と‘つとめ’の二つが相まって実現できる人を一人前の人間とみなしていた、と言う。
しかし、この考えは西欧的なボランティアの思想とは全くことなる。富める者も貧しき者も老若男女にかかわず許される範囲で、世の為人の為に出来ることを無償で(時には身銭を切っても)行う行為がボランティアを支えることなのだ。たとえば親掛かりの学生であっても、極端なことを言えばホームレスの人であっても出来る、と考える。
今回はそういったボランティア論はなく、とりあえず日本の歴史を踏まえて、現代に新しく‘公共’を根付かせるにはどうしたらよいのかの論議であった。
平たい言葉で言えば、「困ったことがあったとき、家族に相談する次が役所ではなく、もうすこし身近な中間共同体に属する人々がいること」(仙石大臣)
その中身は、‘教育、防犯、防災、福祉、介護、健康(たとえば:産後の女性のケア)’で、ある企業から提供されるサービスを「お金を出して買う」ということではない相互扶助の在り方を模索したいという政府の考えが示された。
そこで政府として出来ることは、① 個々人が自由意志でNPO・協会・あるいは身近な組織に寄付をしやすくするために‘寄付金に対する税制’を考えること。② 政府がでしゃばり過ぎない程度で組織化を促すこと。
しかし、いちばんの問題は、公共を支える‘ボランタリー経済’と‘貨幣経済’の融合に必要な手だてを講じることをあげていたが、その点が極めて難しい。日本人の意識改革を促す教育の在り方を見直す必要があるからだ。それは簡単なことではないことが際立ってしまった。
本日(4/28)朝日新聞朝刊、「日本人の幸せ6.5点 欧州平均より低く」の最後に、鳩山総理の言葉として『「幸福度とお金、経済の部分が結びついており、ボランタリー経済が多くの国民の意識にないことがわかった」と認めざるをえなかった』とある。
「新しい公共」を考えるに当たって、ボランタリー経済が幸福度を高めることであって欲しい、と言う総理の思いと裏腹の結果となったわけだ。
理想は現実と程遠い、ということで寂しいが、日本はブータンではない。そもそも国民の「幸福度」を調査するのは、ブータンの‘GNH’(Hはハピネス)に習ったこと。いまやブータンも近代化の波に晒されて前国王の時代とは違ってきている、と聞く。
しかし、何を幸福と感じるのか。それを数値で表すこと自体に問題がある。幸福を‘度’の数にしたとき、幸福感は逃げていくような気がする。
つまり、緊迫財政の中で、出来るだけ歳出を少なくする方策として、‘公共’を言うところには無理がある。
そして非営利活動といえども、‘ほどほどの営利’だけでは活動は儘ならないのが現実だ。社会貢献活動には潤沢な慈善活動が一体となったところで西欧のボランティアはなりたっている、と私は認識している。
むしろ、今の日本の現状では、当たり前で何気ない善意が通らなくなった暮らしを見直すことから始まるはずだから。
最後に、大番頭の仙石大臣、田坂広志さん、福原資生堂名誉会長、他にもすごい登壇者のなかにあって、第二部・取り組み例紹介で登壇された大阪天神橋筋商店連合会会長で35年商店会長を続けおられる70代後半と思しき土居年樹さん、第三部パネルディスカッションの登壇者ローソン社長の51歳・若々しい新浪剛史さん、お二人の話は非常に説得力があったことを書き加えておきたい。
*今日は、長いだけでなく、硬い言葉で書いてしまったこと、ちょっと反省してます。最後まで読んでいただいて、ありがとうございます。
平成22年4月25日(日)内閣府講堂於 オープンフォーラム報告
平成22年4月28日(水)朝日新聞朝刊 14版「政治」記事