羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

明珍火箸

2008年11月12日 19時32分24秒 | Weblog
 本日(11月12日)日経新聞朝刊にこんな記事があった。
 連載30回目「200年企業 明珍本舗、チタン応用に道」である。

 明珍の名を初めて知ったのは、「音遊びの会」の高野昌昭さんが、野口三千三先生に「明珍火箸」をプレゼントされたことがきっかけだった。
 
 単に透明な音ではない。
 複雑な倍音を含んだ厚みのある透明性。
 
 単に涼やかではない。
 歴史の重さをのせた涼やかさだ。
 
 単に美しいだけではない。
 ものづくりへのこだわりが結晶となった響きだ。
  
 単に癒されるだけではない。
 これはバッハの無伴奏チェロ組曲第一番の崇高さに似ている。

 甲冑を作る一族で、十二世紀半ば、近衛天皇に献上。
「音響朗々光明白にして玉のごとく、類稀なる珍器」と称賛され、明珍姓を授かったと言う曰くがある。

 時代は下って明治維新。
 武家の世が終わって、明珍家は民芸品に転じたのだと言う。
 四十八代目宗之氏が、鍛冶技術で火箸製造を始めた。しかしその需要は時代と共に過ぎ去っていった一九六五年五十二代目宗理氏が「火箸風鈴」を考えついたのだとある。

 さて、その一族の末裔が刀剣以外で玉鋼使用を許可されたのには、ひとりの女性の力があったらしい。
 「たたら製鉄」から生まれるのは玉鋼。この生産は日本美術刀剣保存協会(日刀保)のみ。
 現当主・宗理(むねみち)氏が、火箸から風鈴をつくることを思い立った。
 この玉鋼を用いることで、明珍の清明で澄み切った音をつくり上げることが可能。
 許可願いを久実子夫人が明珍家の歴史を綴って日刀保に提出。
 彼女は、なかなか許しが得られないなか、あきらめず繰り返し通い続けたことで、一九九五年から特例措置として刀剣以外に玉鋼使用許可が出たのだ、と記事には書かれていた。

 他にも宗理氏は、チタンにも注目し、ぐい呑み・お鈴、ステッキ、打楽器等々新しい製品開発に挑んだのだ。伝統工芸の技術を新日本製鉄がバックアップし、相互に刺激を受けつつ協力関係を築いている。

 今では後継者や技の伝承に心配は無いとある。
「柔軟に他者の力もかりる」そこには次世代で開花する可能性が秘められていると記事は結ばれている。
 この記事から、‘日本のものづくり’の奥深さと大胆さと生き残りかける執念を読ませてもらった。
 
 野口先生は、明珍火箸の音の余韻のなかに‘まるごとのからだ’の動きの揺れの持続を象徴させていた。
 レッスンを受ける者たちは、空間を伝う音の揺れに溶け込むエクスタシーを味わわせてもらった。
 音の裏側に、これほどの物語が潜んでいたなんて、思いもよらなかった。
‘明珍火箸・風鈴’に限らず、野口体操は多くの方々の力を得て、世界に類を見ない‘文化としての身体活動’を展開することができた、という思いを重ねながらこの記事を読んだ。

 しかし、あの音の響きは、到底ことばでは言いあらわせない。
 録音ではダメです。生の音に浸ってみなければ!
 漂って、浮遊して、風に揺られて、そして満たされて……夢見心地……なり。 
コメント (1)
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